1870〜1871年の普仏戦争におけるドライゼシステム、シャスポーシステムの比較
http://www.schmids-zuendnadelseite.de/deutschfranz.html
フランスは後装システムの採用を長く躊躇した。すでに1852年にテストが行われていたにもかかわらず、システム変換の必要性は理解されなかった。当初においてはバヨネット刺突が王道の戦術だったのである。ケーニッヒグラッツ近郊の戦闘におけるプロシア陸軍の圧倒的成功に大いに驚かされたフランス陸軍は、1866年にはドライゼ点火針小銃を参考にしてシャスポー点火針システムを「Fusilmodele
1866」の名の下に採用した。ケーニッヒグラッツでは命中精度よく射撃される前装銃と古いバヨネット刺突戦術が後装銃の速射(その上遮蔽物からの射撃)に劣ることが示された(頑住吉注:ドイツ語版Wikipediaによれば、1866年7月3日にプロシア軍とオーストリアおよびザクセン軍が激突した戦いをケーニッヒグラッツの戦いと呼ぶそうです。ちなみにドイツ語では普墺戦争を「ドイツ戦争」と言っています)。このフランスのモデルはプロシアのモデルをベースとしたもので、いくつかの改良を導入していた。このため(何と言っても30年もより古い)ドライゼシステムは本来技術的に時代遅れだった。かつて300挺の点火針小銃は900挺のミニエーライフルに匹敵するとされたが、今度は300挺のシャスポーライフルは500挺のドライゼライフルに匹敵するとされた。高い損失により1870〜71年の戦争中にシャスポーライフルのテストが承認され、多大な犠牲を出したGravelotteおよびSt.Privatにおける攻撃後、ウィルヘルム1世王によって無思慮な突撃戦術は禁止された。だがドイツ陸軍はたいていの場合戦場で主導権を握り続けた。この時彼らも、激しい、そして射程の長いフランス歩兵の銃火に対しほとんど同じ重さをもたらすために攻撃時の火力戦闘をすでに遠距離から始めねばならなかった(頑住吉注:この最後の1文はいまいち意味が不明確です。有効射程外であると分かっていても射撃を開始せざるを得なかった、というような意味でしょうか)。
両システムの技術的比較
シャスポーライフル | ドライゼ ZN M/41 | |
全長 | 1310mm | 1424mm |
重量 | 4.1kg | 4.57kg |
銃身長 | 797mm | 865mm |
口径 | 11mm | 15.54mm |
弾薬重量 | 25g | 38.5g |
そのうち火薬の重量 | 5.68g | 4.85g |
ライフリングの数 | 4条 | 4条 |
ライフリングの方向 | 左 | 右 |
ライフリング谷部幅 | 4.5mm | 6mm |
ライフリングの深さ | 0.3mm | 0.78mm |
ライフリングのピッチ | 550mmで一回転 | 732mmで一回転 |
ライフリングの角度 | 3度36分 | 3度47分 |
初速 | 436m/s | 296m/s |
(頑住吉注:紙製のピストンをライフリングにかませて誘導するドライゼ銃には通常よりはるかに深いライフリングが必要だったことが分かります。ピッチと角度の数値が合わない感じですが、たぶん原ページが間違っているんだと思います)
(頑住吉注:原ページにはここに両者の機関部の比較画像があります。上がシャスポー銃、下がドライゼ銃です。やはりシャスポー銃の方が洗練されていると言うかスマートな印象ですね)
両システムの戦術的比較
数値は「〜歩」から換算 | シャスポーライフル | ドライゼ ZN M/41 |
射撃距離301mにおいて弾道の頂点が サイトラインからどれだけ高いところにあるか |
958mm | 1496mm |
射撃距離301mにおける歩兵のターゲットの場合のUberstrichener Raum | 135.5m | 86.6m |
射撃距離301mにおける騎兵のターゲットの場合のUberstrichener Raum | 353m | 338m |
射撃距離602mにおける歩兵のターゲットの場合のUberstrichener Raum | 44.4m | 36m |
射撃距離602mにおける歩兵のターゲットの場合のUberstrichener Raum | 67.7m | 55.7m |
(頑住吉注:「Uberstrichener Raum」は無理に訳そうとすると「塗られた空間」あたりになりそうですが意味不明です。数値等を手がかりに推測できたという方は教えてください)
装填操作の比較
シャスポーライフル | ドライゼ ZN M/41 |
ストライカーを引く | ストライカーを引く |
ボルトを開き、引く | ボルトを開き、引く |
紙弾薬を入れる、または押し込む | 紙弾薬を押し込む |
ボルトを前進させ、閉鎖する | ボルトを前進させ、閉鎖し、ボルトハンドル先端を打撃する |
ストライカーを前進させる |
(頑住吉注:原ページにはここに当時のプロシア軍のの操作説明書があり、クリックするとその解説ページが表示されます。さらにその下には弾薬に関する別サイトのページへのリンクがあります)
シャスポーシステムのメリット
●より小さい弾薬重量により、同じ重量上の負担で射手がより多い弾薬を持てる。
●装填操作の単純化
●コッキングのためストライカーを前進させる必要がない
●ボルトハンドル先端を打撃する必要がない。ガス気密性が回転シリンダー閉鎖機構(頑住吉注:ボルト)とバレルケース(頑住吉注:レシーバー)の間のバッファー設備によって最初から与えられているからである。この状況はBecksche
Aptierungによっても達成され得る。だが全プロシア軍がこれを装備することはできなかった(頑住吉注:「Becksche
Aptierung」は意味不明ですが、一部のドライゼ銃に装備された、気密性を高めるための何らかの装備らしいです)。
●点火針のより短いストロークによるより短い点火遅延時間(頑住吉注:ロックタイム)。これによる潜在的なより良い命中精度(劣化のための時間がより短い 頑住吉注:ドライゼ銃は長い点火針が火薬全部を貫通してからプライマーを突き、発火させるのでロックタイムが長いだけでなく長い針が火薬の燃焼にさらされて折れやすかったわけですが、シャスポー銃はプライマーが弾薬底部にあったのでこうした欠点はなかったということです)
だがフランスのシステムはいくつかの重大な欠点も持っていた。
●理想的な場合には閉鎖機構の前進によって弾薬がチャンバーに押し込まれるが、汚れがひどくなってくるとこれはもはやたいていうまくいかなかった(これによりこの長所はむしろ理論的なものと言うべきである)。射手は「空手チョップ」によって閉鎖することを試みたが、これはしばしば過早点火、そして傷害を引き起こした。
●「小口径化されたシステム」はバレル内およびチャンバー内の黒色火薬のひどい燃えかすを固いかさぶた状にし、これはその後の装填の困難をもたらした。だが多くのケースでは銃を再び使用可能な状態にするために、このかさぶた状のかすは水の助けのみで取り除けた。
●ゴム製バッファーは後方への完全なガス気密性を保証したが、射撃によって痛み、ふやけたり、いくらかほつれたりもした。これにより閉鎖時のボルトの動きが重くなることもあった。ドライゼのボルトは多数の射撃後も軽く動いた。
●例えば問題を取り除いたりクリーニングするためにボルトを分解しなければならない場合、シャスポーライフルは工具を使わないと行えなかった。ドライゼシステムのボルトは工具なしで分解できた。
●シャスポーの紙弾薬はドライゼのそれより長細かった。このため射手の弾薬バッグ内での運搬の際に壊れるおそれがあった。
ドイツ軍指導部はシャスポーシステムをテストし、知識を持っていたにもかかわらず、極度に高い損失に驚かされた。フランス部隊はドライゼシステムを持った射手がまだ戦闘に入れない距離から射撃を開始することができた。このためそのような距離では銃火の下をかいくぐることを試みるか、砲兵が歩兵を援護しなくてはならなかった。
ドイツ部隊は特にこのため鹵獲したシャスポーライフルを好んで使用するようになった。特にまだパーカッションピストルM1823/UMおよびM/50で武装していた槍騎兵や重騎兵はそうだった。このため戦争直後、竜騎兵や軽騎兵はカービンの長さに短縮したシャスポーライフルを、そして槍騎兵はフランス製のシャスポーカービンM1886を装備した。戦後ドイツ陸軍は855,000挺の鹵獲した手で持って撃つ銃を使用可能な状態で保持していた。
まとめ
プロシア部隊とオーストリア部隊のケーニッヒスグラッツでの激突は、適切な戦術を伴う近代的な軍事技術は旧式化した軍事技術および戦術に対して常勝であり、敵に高い損失をもたらす、ということを示した。1870〜1871年の普仏戦争のケースでは、技術的な進歩はフランス陸軍側にあり、プロシアサイドに高い損失を要求したが、戦争は(特に勝った戦術的指揮と犠牲を恐れない態度によって)ドイツの勝利に終わった。しかし紙弾薬の時代は過ぎ、金属弾薬の採用が遅すぎたことも示された。だがこのことはこのウェブサイトのテーマではない。第一次大戦時、西部戦線で頂点に達したことだが、火力の強化は同時に機動性の向上を伴わない場合、防衛側に有利となる、という事実はその後も何度か示された。このことは特に何年にもわたる、そして損失の多い陣地戦をもたらした。装甲された機動部隊の開発が初めてこの状況を変えた(第二次大戦を見よ)。
後装システムへの転換は銃器史上最大の変革であると評価する人もいます。軍用として本格的に使用できる史上初の後装ライフルであるドライゼ銃を装備し、一時は絶対的に優位に立ったドイツでしたが、フランスがより進歩したシャスポー銃を装備したことによって逆転されてしまったわけです。「かつて300挺の点火針小銃は900挺のミニエーライフルに匹敵するとされたが、今度は300挺のシャスポーライフルは500挺のドライゼライフルに匹敵するとされた。」というのは非常に分かりやすい比較です。特に初速の差は9mmパラをサブコンパクトピストルから撃った場合とカービンから撃った場合くらい差があり、広い場所では相当のハンデになったことがよく分かります。またここでは明記されていませんが、現代でもサボ付きの弾薬の命中精度が低いことを考えれば命中精度もドライゼ銃が大きく劣ったことは間違いないはずです。
なお、「フランツ フォン ドライゼの知られざる業績」の項目によれば、プライマーの弾薬底部への配置、ボルトの前進による弾薬のチャンバーへの送り込みといった改良はニコラウスの息子フランツの発明の模倣であるとされています。しかもフランツはモーゼルの50年近く前にセルフコッキングシステムも開発していました。しかしこうしたフランツの発明は天才にありがちな偏屈な性格のせいか充分に認められませんでした。