オーストリア・ハンガリー帝国で使用されたVillar Perosa

 「DWJ」公式サイトに興味深い内容のページがあったので内容を紹介します。

http://www.dwj.de/Artikel/Artikel.php?id=712X%3%7A883405TDX84821XRTLE96404%X


第一次大戦における「ストゥルムピストーレ」18とVillar Perosa

第一次大戦の塹壕内では、重機関銃はしばしばかさばりすぎ、またこの重機関銃という銃器カテゴリーはわずかな例外はあるものの、この戦争に参加した国々の陸軍に、まだ決して大々的に導入されてはいなかった。この結果として起こった諸問題は、いろいろな方法で解決された。近距離戦闘のための、簡単な操作、機動性、そして高い火力は、いわゆるストゥルムピストーレ18が、そしてイタリアにおいてはVillar Perosaが解決することになる。

1914年の戦争勃発直後にはすぐに、まだ多くのヨーロッパ諸国の陸軍において支配的だった平時のイメージとは違って、歩兵の火力戦闘の主役は、もはや最前線にいる個々の射手が連発ライフルによって演じるのではなく、機関銃が演じるようになったのだ、ということが示された。直接の戦争経験(1904〜05年の日露戦争および第一次、第二次バルカン戦争)により機関銃の価値をすでに完全に認識していたロシアとセルビアの陸軍は例外だったが、当時戦争に突入した諸陸軍は、まだ適した機関銃を大量に持ってはいなかった。オーストリア・ハンガリー帝国はこの観点からすると開戦時においては特に遅れた存在に該当した。彼らは平均約1,000人(歩兵大隊)にたった2挺の機関銃という割合でしかなかったのである。機関銃の不足が明らかになったことの結果は、生産数の猛烈な引き上げであり、このため戦争の最初の2年の経過の中で、この割合は継続的に改善することができた。かつての機関銃部門の位置には機関銃中隊がついたが、彼らはすでに8挺の機関銃を持ち、これら5中隊が歩兵大隊に所属した。だが機関銃の最大の欠点が、その非ハンディさにあることは、はっきりとあらわれた。銃、銃架、そして防循はあの通り重く作られ、このため兵士たちが運搬できるのは短い距離だけだった。ノーマルな機関銃のために運搬用動物やトラックを必要とした。戦闘においてもかなりの欠点が分かった。陣地戦において初期、機関銃は最前線のいわゆる「Flankierungskoffern」(張り出した塹壕の部分)に固定して据え付けられる傾向にあった。こうした陣地が「遮蔽」されていた場合でも、それは単に 榴散弾や破片に対して防御されているにすぎず、榴弾の命中はたいてい、機関銃の喪失という結果につながった。このことは、機関銃は塹壕の守備兵と似て、敵砲兵隊による準備射撃(頑住吉注:試射ではなく攻撃の前に敵の戦力をそぐための砲撃)の間は避難所にいなければならず、砲撃が止んだ後になって初めて再び陣地に持ちこまれ得る、ということを意味した。しかし攻撃においても制式機関銃群はあまりにも重すぎることが分かった。攻撃の経過の中で必要な機関銃中隊の移動のためにも、やはり運搬用動物の助けを借りなければならず、これは攻撃を行う土地(たいてい榴弾による漏斗状の穴のある破壊された陣地)ではなかなかはかどらなかった。

こうした事情はドイツサイドではすでに比較的早くから経験されていた。このためより軽量な銃架および防循の取り外しという構造によって全体重量が軽減された。このアイデアはオーストリア・ハンガリー帝国陸軍にも、使用されていた制式機関銃M.7およびM.7/12システムシュワルツローゼ(頑住吉注: http://en.wikipedia.org/wiki/Schwarzlose_MG_M.07/12 )用に軽量なトライポッドを設計することによって引き継がれた。後者のバリエーションはショルダーストックと共にバイポッドを備えていた。両タイプは「ハントマシーネンゲベール」、すなわち歩兵中隊内の隊列に配備された。こうした軽量なタイプの運搬は、いわゆる「Tragekraxen」(頑住吉注:「キャリングフレーム」、「背負子」)によって行われた。これは1人の兵士で背負うことができ、同時に応急の「お助け銃架」としても役立つものだった。これにより取り扱いのかなりな改善が達成されたにもかかわらず、最も重要な機関銃に関する用兵思想は変わらぬままだった。

防御においても攻撃(奪取した攻撃目標の確保のため)においても、それに応じた射界が必要とされた。塹壕システムの中ではこれが存在するのは稀であり、このためハントマシーネンゲベールは塹壕戦においてほとんど使えなかった。

イタリア陸軍でも似たような問題が起きていた。使用されていた制式機関銃、Revelli M.14(頑住吉注: http://upload.wikimedia.org/wikipedia/it/2/2a/Fiat-Revelli.jpg )はその特別に重く作られた銃架が原因で、たいていの他のシステムよりもなおハンディさに欠けることが明らかになった。そういうわけで軽量型の必要性は特に大きかった。しかし新しく作られる銃器の構造的基準に関しては、イタリアにはかなりの有利さがあると判明した。山岳戦においては機動性と長い射程の相互関係で常に前者が優先されたからである。

オーストリア・ハンガリー帝国およびドイツ陸軍にとっては、いろいろな戦場があったため、特に東部戦線では命中精度と射程は少なくとも同じ重要性を持っていた。このためイタリアではすでに比較的早くから軽量な機関銃に向けた構造上の作業が始まっており、これが最終的に「Pistola Mitragliatrice」の採用に行き着いた。この新しい銃器システムはいろいろな名称を得たが、ドイツではたいていM.15、あるいは製造会社から「Officine di Villar Perosa 」(O.V.P.)、あるいは単純に「Villar Perosa」と呼ばれた(戦争の経過の中で、最終的にはFIATでも、またカナダでも製造された)。

この「Pistola Mitragliatrice」(Abiel Revelli設計)は1916年に大量にイタリア部隊のもとに届いた。(頑住吉注:次の文は辞書に載っていない言い回しが多用されていて逐語訳できませんが、大筋「しかし斬新な兵器が前線に届いた時はほとんどいつもそうであるように、このモダンな銃は当初真価を発揮しなかった」といった意味のようです) 「Villar Perosa」は通常型の機関銃の代替として使えると考えられたが、その後で命中精度の不足によって失望させられた。この銃の長所、特に取り扱いの簡単さと近距離での大きな火力(毎分1200から1500発)が知られるようになるには時間を要した。部隊はこのマシーネンピストーレとその効果を評価し始めた。

M.15「Villar Perosa」は効果的な兵器だった。オーストリア・ハンガリー帝国部隊は「Villar Perosa」の威力を、たいてい自身の体験によって知った。特に1916年7月の南チロル攻勢の間にこのマシーネンピストーレは、その柔軟で機動的な実戦使用可能性によりオーストリア軍攻撃部隊を苦しめた。それにもかかわらず戦闘の間にいくつかの銃を鹵獲することができた。特別に恐るべきものと描写されたこの銃の効果は、オーストリア・ハンガリー帝国国防省に、自軍の部隊向けに似た兵器を設計するというアイデアを思いつかせた。制式小火器の生産で完全フル操業状態の大規模ライフル工場に追加の負担をさせないため、Ferlacher銃器工組合および陸軍直属の砲兵作業場に、「Villar Perosa」の初めての鑑定を行い、大量のコピー生産の可能性を探ることが委託された。彼らの評価によれば、生産は何カ月もしないうちに可能だと見られた。だが生産の前に軍中央本部の広汎な準備作業が行われた。オーストリア・ハンガリー帝国陸軍内部の技術革新を担当する役所だった軍技術委員会は、国防省サイドから「Pistolen-MGs」と名付けられた銃の基本設計に取り組むことを命じられ、万一「Villar Perosa」をコピーする際にも独自デザインが望まれた。ただし最重要の条件は、すでにシステム化されていたオーストリアのピストル弾薬(9mm「ステアー」)の使用だった。

軍技術委員会は同時並行の進め方を取ることを決定した。これはイタリアの鹵獲兵器をコピーする(ただしオーストリアの弾薬に適応させる)ことも、すでに量産されている「リピーターピストル」(セルフローディングピストル)であるステアーM.7とM.12、およびハンガリーのピストルである「フロンマー・ストップ」をフルオートに改造することも視野に入れるということだった(頑住吉注: http://dailygunpictures.blogspot.com/2009/11/steyr-m1912-full-auto-handgun.html 実際にステアーM12のフルオートモデルはかなりの数で生産されています。しかしフロンマーストップのフルオートモデルは聞いたことがなく、少なくとも量産はされなかったのではないでしょうか。ロングリコイルのフルオートピストルが作られていれば世紀の珍銃となったはずで、ちょっと惜しい気もします)。

1916年秋にはすでに上述のベースを使ったフルオートピストルの最初のデザインが提示され、「Villar Perosaのコピー」は予想よりはるかに困難な状況となった。ステアー所在の「オーストリア銃器工場組合」は歩兵武装全般および機関銃の生産のために生産キャパシティが完全にいっぱいの状態だったのでその状態にはなく、まださらなる大量生産を引き受けてもいなかった。このためステアーではバレルだけが生産されることになり、残りの生産は本来火砲の生産のために設備がなされていたPilsenのスコダ工場で行うべきものとされた。実際に同工場は1917年1月までにコピー品の最初の50挺を供給した。この銃は最終的には他のフルオート試作銃とともに、Bruck an der Leitha(頑住吉注:こういう名前のオーストリアの都市)所在の陸軍防衛学校によってテストされた。だがすでに受領の際にかなりの問題があることが判明した。「Villar Perosa」はイタリアの制式弾薬である9mm「グリセンティ」を発射するが、この弾薬の変更により、またマテリアルを理由とする構造変更により、フルオート設備に関する問題が生じたと分かった。このためこれらの銃はスコダ工場に手直しのため送り返さざるを得なかった。同工場がいくつかのモデファイを行った結果、最終的に「ストゥルムピストーレ M.18」と命名されたこの「Villar Perosa」のオーストリアバージョンは、1917年秋から1918年初頭の間になって初めて部隊使用できる状態になったらしい。しかしその数は非常に多かったとは言えないようだ。このストゥルムピストーレの生産はきわめて複雑と分かり、またどっちみち1917年10月における第12次Isonzo会戦の経過の中で大量のオリジナル「Villar Perosa」が適応する弾薬と共に鹵獲できたのである。

構造上の差異。このストゥルムピストーレ18は、そのイタリアのオリジナルと、特にオーストリアの9mm M.12弾薬を使用する点が異なる。外観的に両モデルは、特にマガジン(ストゥルムピストーレM.18の場合ストレート)、そしてグリップ(「Villar Perosa」ではブロンズ製、スコダ製品ではスチール製)によって区別される。ストゥルムピストーレM.18の使用のための最初の「取説」は1918年になって初めて支給され、その特徴の描写に該当するのは1枚の設計図だけだった。この中にはこの銃の実戦使用可能性も技術的使用法も記述されていた。

組織上このストゥルムピストーレは歩兵のハントマシーネンゲベール隊に配属され、各2挺ずつというはずだった。しかしたいていはこの「ストゥルムピストーレ シュヴァルム」(頑住吉注:この語はルフトバッフェの4機編隊も指し、「群れ」というような意味です)は特に師団の突撃大隊において使用された。機関銃射手はこの銃を長い後進の間、他のハントマシーネンゲベール隊によってすでに知られていた「Tragekraxe」(頑住吉注:単数形)を使って運搬しなければならず、これは銃架にも使用できるものだった。戦闘中このストゥルムピストーレは手に持ってさえ運搬された。約8.5kgという重量により、これはあまりにも大きな困難というわけでもなかった。2本のマガジンはそれぞれ25発の弾薬を収容したが、弾薬供給の際の問題を避けるため、22発しか装填しないべきであるとされた。2本のバレルのそれぞれはセパレートのトリガーレバー(親指で前方に押す必要があった)によって、個々に射撃できた。2つのトリガーレバーの同時操作は、おそらく弾薬節約という理由から予定されていなかった。ストゥルムピストーレ射手は約1.5秒(バレルごとに)、射撃距離25から300歩のバーストの間に25歩の幅のゾーンに均等に弾をまき散らすべきであるとされた。弾薬はこの射手のために2つの弾薬バッグの中の12本のマガジンが予定された。これにそれぞれ16本のマガジンを入れた2つの弾薬バッグを持つ追加的な弾薬運搬手が加えられた。


 ちょっと難しい言い回しが多くて読みにくい文章でした。

 この銃に関しては「ピストル弾薬をフルオートで発射する世界初の銃であり、定義上最初のサブマシンガンではあるが、コンセプトがまずくてあまり役に立たなかった」という評価が下されることが多いです。しかしこの文章では山岳戦が多いイタリアでは射程より機動性が優先されるので有用だった、そして南チロルのおそらく山岳戦においてこの銃の威力を身にしみて知ったオーストリア・ハンガリー帝国陸軍がコピーした、という積極的評価になっています。基本的にはそれ以後この銃の流れをくむモデルと見られるものは出現していないわけで、銃器発展史という視点であまり高い評価を下すことはできないはずですが、まあこれも一面の真実であるのかもしれません。

 ストゥルムピストーレというと第二次大戦時のカンプピストルの強化版の名称と思いますが、オーストリア・ハンガリー帝国版「Villar Perosa」がこう呼ばれていたというのは全く知りませんでした。

 何故か説明がありませんが、原ページには2タイプの画像があり、上はマガジンがストレートでグリップ部が黒く、背負子状の簡易銃架に据えられているのでオーストリアバージョン、下はマガジンが湾曲し、グリップ部が明らかに非鉄金属製なのでイタリアバージョンということのはずです。

 この銃を主に生産したスコダ工場は第二次大戦初期にドイツ軍で35(t)として使用された軽戦車を生産した有名なチェコのメーカーです。第一次大戦時、チェコはオーストリア・ハンガリー帝国の一部であり、一方イタリアは連合国側だったわけですね。この銃はカナダでも生産されたとありますが、検索してもめぼしい情報は出てきませんでした。











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