ゲラート 3008

 「DWJ」、2006年10月号に、ナチ・ドイツが戦争末期に作った、イギリス製ステンサブマシンガンのコピー品、ゲラート(器具)3008に関する記事が掲載されていました。


Volles Rohr:ゲラート 3008(頑住吉注:「Volles 」はに英語のフルにあたり、「Rohr」はバレルやパイプを意味します。この銃が単なる筒を組み合わせたものに近かったことを指しているようです)

第二次大戦末期、ドイツのマシーネンピストーレ製造は、すでに第一次大戦末期に立っていたところまで後退した。単純なパイプで単純なMPが作られ、これは銃器不足を軽減する意図だった。すなわち、イギリスのマシーネンピストーレ、ステンの発展開発品としてゲラート 1-3-3008「ニューミュンスター」(頑住吉注:シュレスウィヒ・ホルスタイン州の都市名。何故この都市名が名称になったのかに関しては説明がなく不明です)が誕生したのである。

 1944年7月20日における、「総統」、帝国大統領、帝国宰相、国防軍最高司令官であるアドルフ ヒトラーに対する暗殺の試みは、ドイツ軍の組織に重大な変更をもたらし、これは武装にもあてはまった。陸軍武装の長であり予備陸軍の司令官だったFriedrich Fromm中将は、この暗殺計画に巻き込まれた。彼は逮捕された。彼のポストにはSS上位グループリーダーHans Juttner(頑住吉注:「u」はウムラウト)大将がついた。この時SS指導主要局の長は、帝国SSリーダーでありドイツ警察の長であったHeinrich Himmlerの代理でもあった。彼は今や兵器局をも支配下に置いた。

 戦争はもはや勝っておらず、(頑住吉注:辞書にない単語が頻出してこの文は以後意味不明です)。連合軍はすでに、ドイツ国防軍の無条件降伏しか受け入れないカサブランカ協定を結んでいた。合意による平和は排除された。つまり戦争は悲惨な終末に導かれざるを得なかったのである。

銃器の不足

 1943および1944年の戦闘は、国防軍に途方もない人的、マテリアル的損失をもたらした。ドイツの軍需産業は1944年には、既存のモデル群によって国防軍、武装SS、警察部隊の切迫した需要をカバーすることなく、その生産のピークに達した。この時さらに、国民突撃隊さえもがさらなる需要の担い手として加わった。

 陸軍武装のプランニングは、帝国武装および弾薬相Albert Speerにとって1つの委員会内では複雑すぎるものになった。このため5つの特別委員会に切り離された。1944年7月、初めて歩兵銃器特別委員会が開かれた。委員長ははモーゼル工場株式会社理事で国防経済リーダーのv. Lossnitzerだった。1944年10月31日および11月1日における彼らの3回目の会議で、同委員会は第2、第3にランク付けされるプロジェクト全ての抹消を決定した。この代わりに新しい、簡単に製造できる銃器が協議事項に登場した。これにはイギリスのマシーネンピストーレであるステンのコピーも属した。この模造品によって帝国領域内の部隊を武装する意図だった。引き換えに戦闘を行っていた部隊に銃器を渡すためである(頑住吉注:前線の部隊により良い銃器を支給する代わりに後方部隊は粗雑なステンコピーで間に合わせることが計画された、ということのようです)。

MPステンは警察武装に適合

 イギリスのマシーネンピストーレ「Sten」は設計者ShepperdおよびTurpinによって開発され、Enfieldで初めて作られた。S、T、およびEnが名前のために合わせられた。このMPは原理上、1920年代末の技術的状態の、荒く、単純化された発展開発品であった。すなわちサイドからのマガジン供給、単純なパイプ内のロックされない重量閉鎖機構である。ドイツ帝国ではこの銃器構成がMP18/I、MP28/II、MP35の形で正確に知られていたし、使用されていた(頑住吉注:確かにドイツはステンをコピーしたのだが、そのステンはドイツ製マシーネンピストーレの亜流なのだ、という負け惜しみみたいです)。これらマシーネンピストーレは主に警察あるいは武装SSで使用された。

 MPステンは大量に生産され、イギリスによってドイツ帝国に占領された地域上空から投下された。ヒムラーの代理人Heydrichの暗殺の際にはこの銃が主要な役割を演じる計画だった。しかし、エージェントやパルチザンのために投下されたマテリアルのより多い部分はドイツの手に落ち(頑住吉注:だからリバレーターはそうなっても敵の戦力を強化しない程度のものとされたわけですね)、ノルマンディー上陸後は再三にわたってイギリスのマテリアルが鹵獲された。フランスでは帝国主要安全保障局がパリにステンを集めた。ステンマークIは鹵獲兵器名称Mpi 748(e)を持った。このMPは当初懐疑的に見られた後にドイツ武装の歓迎される補完物となった。この銃はピストル弾薬08を発射したのでなおさらだった。MPステンは特にハインリッヒ ヒムラーの任務領域内の警察やSSで使用された。MPステンは警察から、彼らの武装の歓迎される補完物として見られた。すでに1943年11月、安全保障警察とSD(頑住吉注:SSの安全保障機関)の長は、鹵獲されたMPが「安全保障警察の部隊規模での装備」に適するかテストすることを提案していた。1944年4月、3,000挺以上の鹵獲MPステンがLothringenにおいてナチ大管区長官により、特に工場守備戦力および「非武装のドイツ帝国民間人」に支給された。1944年8月、東プロシアからも帝国主要安全保証局にMPステンの要求があった。1944年、高い損失は鹵獲在庫をはるかに上回り、一方MPステンに対する需要は高まった。こうした背景があったため、ゲラート ポツダムは警察あるいは他のヒムラー管理下の部隊の武装の隙間を埋めることに役立てることができたのである。

ゲラート ポツダム

 ゲラート ポツダムはセミオートでもフルオートでも射撃できるイギリスのMPステンマークIIの正確なコピーである。参考文献には時々、この銃が(頑住吉注:敵前線後方での)特殊作戦を託されたブランデンブルグ師団のために作られたとの推測が見られる。これはありそうにないことである。この師団は1944年9月15日に、通常の装甲擲弾兵師団に改組された。彼らの特殊任務はヒムラーが引き受けた。特殊作戦用には鹵獲兵器を使うことができた。

 モーゼル工場はゲラート ポツダムとニューミュンスターのためのプランを提出した。兵器局からこのための注文が来た。1944年10月のうちに2つの図面セットが新たに作成された。「1つは銃器工場によるこの器具の生産用、そして他は手作業による小規模企業での製造用だった。前者のセットは10,000挺の大量生産を試みる製造企業に渡された。」(モーゼルの書類ナンバー3779、1944年10月月報)。これはゲラート ポツダム用(銃器工場)とニューミュンスター(小規模企業)用図面のことだった。テスト施設でのゲラート ポツダムに関する作業は11月に終了した。
 
 モーゼルは1944年11月に5,300挺、そして12月には5,100挺のゲラート ポツダムを製造した。供給されたのは328挺と9,672挺、つまりちょうど10,000挺である。残りの400挺がどうなったかは知られていない。モーゼル製だと証明できる1挺がオベルンドルフ博物館に存在する。これはMPステンと同一のものである。ひょっとするとこれは400挺の超過分のうちの1挺かもしれない。

単純な銃が必要

 国防軍においても、先だってMP44(ストゥルムゲベール44)を優先して後方部隊に追いやられていたマシーネンピストーレは、1944年末には再び前線に登場していた。グデーリアン将軍は1944年10月7日、充分なMP44が存在するようになるまで、後方部隊の全てのカラビナー43をカラビナー98kと交換し、歩兵部隊に渡すよう命令した(頑住吉注:MP44の生産が間に合わなかったこと、前線ではK98kが力不足となる一方火力の強い銃器が切望され、「後方に自動小銃を置いておく余裕はない、1挺でも多く前線に送れ」と求められた、ということです)。MP40は戦術的予備大隊および予備連隊用に取っておくことが意図された。

ゲラート ニューミュンスター

 ゲラート ニューミュンスターは1944年11月2日付の銃器および器具リスト内では1-3-3008として記載されている。歩兵銃器特別委員会はゲラート ニューミュンスターの図面作成を、急ぎで1944年11月15日までに終えることを決定した。

 1944年10月、モーゼル銃器研究施設による小規模企業用の第二の図面セットが検査局に回された。この時、図面を確認するために複数のモデルの製造が意図された。モーゼルの実験施設は当時広大だったので、そのような銃はまず計算しつくされ、その後になって製造された。この手法は「ストゥルムゲベール45」にも、単純なゲラート ニューミュンスターにも全く同様に当てはまった。11月中にモーゼル工場では図面と2挺のモデルが完成された。図面はその後、銃器技術事務所(IBW)によって改変された。この改変は、さらなる2挺のモーゼル製モデルにも引き継がれた。この改変は機能障害をもたらす可能性があったと言われる。

 1944年11月中に、すでに小規模企業によるゲラート ニューミュンスターの製造が開始された。まだ初期トラブルと共にであったにしても。11月30日、軍需および戦時生産省のヘッド業務リーダーSauerは、陸軍武装の長に月産50,000挺の「ステンMpi」(頑住吉注:マシーネンピストーレ)の製造を約束した。歩兵銃器特別委員会は1944年12月12、13日にSuhlで最後の会合を開いた。議事日程にはゲラート1-3-3008の開発状況に関する報告もある。開発作業は終了した。しかしプロジェクトは(計画リストからは)抹消された。

 12月21日、ドイツ国民突撃隊の武装および装備のための委員らは、陸軍総司令部に100,000挺の「Sten-Pistolen」(頑住吉注:何故かマシーネンピストーレではなくピストーレの複数形)を発注する記録を残している。11月15日にはFeldzeuginspektion(頑住吉注:兵器の検査をする機関のようです)から1945年3月までに1,000,000挺の「ゲラート ニューミュンスター」が発注されさえした。どの企業がこの器具を、この混乱した戦争最後の複数月の間に製造したのかは明らかでない。この銃のメーカーのリストは伝えられていない。Weissenborn博士(軍需相シュペーアの代理人)によれば、14のメーカーが30の下請け企業の部品を組み立てていたという。モーゼルは10,000挺だけゲラート ポツダムを製造したが、ゲラート 1-3-3008は製造していない。例えばエルマ、C.G. Haenel、J.P. ザウエル&ゾーンのような有名なメーカーとならんで、(後にソ連によって連れ去られた)Gustav Appel、ゾーリンゲンのCarl Eickhorn、Amberg冷蔵庫工場、ブローム&フォス(頑住吉注:左右非対称の偵察機や巨大な飛行艇などを作っていたユニークなメーカーで、現存しています。現在の主力商品は艦艇のようです http://www.blohmvoss.com/ )もメーカー群の中に存在した。彼らは彼らの銃にマーキングしなかった。兵器局の刻印を持つものも比較的少数である。特にマーキングのない銃の由来は闇の中に留まっている。

 1945年3月までの生産数が明らかになっているマシーネンピストーレはMP38a(ベレッタ)とMP40だけである。しかし(1945年1月まで入手可能な)モーゼル銃器研究施設の月報からは、モーゼル工場が1945年に入ってもゲラート ニューミュンスターの製造企業からの絶え間ない問い合わせに対処していたことが判明する。国防軍は1945年3月までに、計画された50,000挺のゲラート 1-3-3008のうち1挺たりとも手にすることはなかった。生産数もまた闇の中に留まっている。シリアルナンバー領域を見ることは無意味である。多くの銃にはメーカーマークもシリアルナンバーもないからである。他の銃器モデルの場合同様、この場合も小規模企業が連合軍部隊によって占領されるまでに供給された挺数は要求された量のほんの一部分であると思われる。

 ゲラート 1-3-3008には3つのバリエーションが知られている。ここに見せている銃(タイプ1)は一貫した本体ケースパイプと、ステンのようなプリミティブなパイプストックを持っている。タイプ2はマガジン収納部前にくびれを持ち、木製リアストックを持つ。タイプ3はタイプ1に近いが、より荒い加工がなされ、レシーバーの形状が異なっている。ブローム&フォスはバレルジャケットとピストルグリップを持つステンコピーを製造した。

 そして国民突撃隊? ゲラート ポツダムとニューミュンスターはたいてい国民突撃隊兵器と関係付けられる。帝国領域の防衛に際し、国防軍は1944年9月25日の総統命令により大急ぎで構想され、編成されたこの民兵隊によって支援される予定だった。少なくとも西側連合軍は区民突撃隊メンバーを、国際法上の戦闘員と認めていた。国民突撃隊もマシーネンピストーレを実戦使用したことは明らかである。だが彼らがマシーネンピストーレについて教えられたことは少なく、これの訓練を受けたこともなかった。歩兵銃器特別委員会は国民突撃隊用に多くの単純なゲベールを設計した。ゲラート ポツダムはモーゼルの月報の中で(まだ)こうした銃器の中に含まれていなかったが、12月8日にWeissenborn博士によりこうした銃器に数え上げられた(フォルクスマシーネンピストーレ)。「フォルクスゲベール」は最終的に、完全にイタリア製モデル91「カルカノ」になった。これは、離反した同盟国の武装解除に際し、大量にドイツの手に落ちたものだった。

銃器の説明

 手元にある銃にはメーカーマークもナンバーもない。このゲラート1-3-3008はロックされない重量閉鎖機構を持つセルフローダーであり、ピストル弾薬08を射撃する。この弾薬はモダンな9mmx19と等しい寸法を持つが、より弱いロードがなされていた。このゲラートはセミおよびフルオートで射撃できる。この銃は閉鎖機構、組み込み部品を伴うバレル、ショルダーストックからなっている。閉鎖機構、コック・セーフティボルト(頑住吉注:セーフティ機能を兼ねるコッキングハンドル)、バレルのみがフライス加工部品である。閉鎖機構はファイアリングピンを持たず、包底面内に立つノーズが点火を行う。閉鎖機構は単純なコイルスプリングによって前方に押されている。下面にはハーフなトラップレストが設けられている。閉鎖機構にはコッキングハンドルが取り付けられているが、その形状はいくらかステンと異なっている。このハンドルはMKb42 (H)の場合のようにセーフティとして使用できる。レシーバーは溶接されたパイプからなっている。バレルは溶接された横方向のボルトで固定されている。レシーバーにはコックキングハンドル用のセーフティレストとセーフティ孔がある。バレルはレシーバーと固定して結合されている(頑住吉注:着脱不能)。レシーバーは前方が1枚の金属薄板で閉鎖され、この板は同時にフロントサイトとして役立っている(頑住吉注:パイプ状レシーバーの前端が前から見て水滴状の鉄板で閉じられており、頂点がフロントサイトを兼ねている、ということです)。この銃は溶接された距離調節サイトを持つ。トリガーメカニズムは2本のネジで固定されたカバーによって汚れから保護されている。メカニズムは押しボタンによってセミおよびフルオートに調節される。マガジンを受け入れるマガジン収納部はMP38やMP40のように銃の下側にある。銃のショルダーストックはパイプ形状に作られている。バレルはつや消しで、つまりこの銃は充分に射撃されている。

 この銃は内部はきれいに、しかし外部は荒く加工されている。この銃は最初のステンを思い出させる。目立つのは極度に荒い溶接継ぎ目である。閉鎖機構にあるサークルの中の「S」を例外として、ナンバーやメーカーのマーキングは欠けている。表面は燐酸塩処理されている。ただし緑がかってはおらず、カーキ色方向に行っている。このやり方は最後のCZ38製造品(同様に燐酸塩処理され、ナンバーを持たない)でも同時に見られる。

銃の分解

 安全点検。ショルダーストックは後部にフック結合されている。レシーバー後部部品(頑住吉注:リコイルスプリングを後方で受けている部品)を前方に押すと、ショルダーストックは下方に取り去ることができる。後部部品をその後さらに前方に押し、軽くひねる。すると後方に取り去ることが出来る。閉鎖機構をその後セーフティレストまで後退させる。この位置でのみコッキングハンドルを引き抜くことができる。閉鎖機構はその後取り去れる。単なるドライバーを使ってトリガーカバーを取り去ることができる。

射撃場にて

 射撃された銃は(ここには写真掲載されていない)セミオートバージョンである。この場合の閉鎖機構およびトリガーメカニズムへの変更は、フルオート射撃を不可能にする。レットオフ前に一旦トリガーが重くなるポイントのないトリガーは、セミオート時にソフトな印象にしていた。グルーピングはMP38およびMP40よりいい。「フロントサイト」が半分でなく1/4だけを覆い隠すからである(頑住吉注:よく分からん表現ですが、フロントサイト先端が角型でなく尖っていることを指しているようです)。距離調節サイトはMPステンの場合のように年長の射手の目にはよりよく適している。国民突撃隊の、たいていは年長の構成員への支給が計画されていたとするなら、これは意味深い解決策だった。この器具はフレーム様ショルダーストックを持つ。このストックを使った手での保持は我慢できる程度のもので、邪魔になったり疲れたりはしなかった。この銃はマガジン半分を発射後にはすでにバレルの根元が加熱し、この結果手袋なしでは支える手を火傷する。この銃はGeco、Fiocchi、Sellier & Bellotの8gフルメタルジャケット弾を使って射撃された。これら3つは全て完璧に供給され、必ず点火した。いくつかの薬莢は投げ出し後に再び銃内に落下した。これはたぶん今日の9mmx19と、それ用にこの器具が開発されたピストル弾薬08との間の成績上の差に原因が求められる。この薬莢はその後閉鎖機構の下に入り込んだ。

 射撃結果は比較を恐れる必要のないものだった。すなわち、25m、シッティング、依託射撃で、Sellier & Bellotのグルーピングは7.2cmとなった(穴の中央から中央で計測して)。これによりこの銃は、B.D.38(頑住吉注:MP38のセミオートレプリカ)のような匹敵するピストルカービンと同列に位置する。その上この器具を使えば疲労フリーの射撃が可能だった。決定的により軽いからである。これでもリコイルショックは邪魔に感じられなかった。

編集部の結論

 ゲラート 1-3-3008は重量閉鎖機構原理の最も経済的な実現である。銃が単純であるのと同様、操作も簡単である。距離調節サイトは単純で実戦向きである。セミオートの可能性により、MP38やMP40と比較してさらに1つの追加的特徴さえ加わっている。これがゲラート ニューミュンスターに課せられた弾薬倹約上の理由から来たものであるのかどうかは不明のままである。同様に、どのくらい頻繁にこの銃が実際作られたのかも不明のままである。今日、手付かずのオリジナル状態のゲラート1-3-3008は極度の珍品である。この銃は銃器法の下に置かれ、連邦刑事局の例外許可によって購入可能である。



(頑住吉注:リコイルスプリングの後ろにあるのが「後部部品」です。「距離調節サイト」とされていますが、写真では固定のように見えます。)


 ナチ・ドイツ末期のステンコピーにはゲラート ポツダムとニューミュンスターの2種があり、前者はほとんどステンそのままのコピー、後者はマガジンが真下に配置されるなどドイツ向けにアレンジされたものだった、ということは比較的よく知られていると思います。前者は潜入工作用、後者は国民突撃兵器、という説明は日本でも一般的ですが、ここでは異なる説明がなされています。前者は設備の整った銃器工場で短時間に量産するためのもの、後者は零細の製造所用、ということです。「潜入工作に使う程度なら鹵獲品で間に合うのでは」というのは前々から持っていた疑問で、私はこの方が正しいのではないかと思います。ただし、この説明では何故後者はドイツ兵が慣れているマガジン配置にアレンジされているのに前者はそのままなのか、といった疑問には答えられません。まあ前者は元々銃器工場で作られたもので、それを国内のメーカーが生産するなら手っ取り早くフルコピーすればよく、後者にはどうせアレンジが必要なのだから少しだけ時間をかけてレイアウトも変えた、というだけかも知れませんが。

 外観は粗雑ながら内部はきれいに加工されていた、という事実や、使用感に関する情報も目新しいものでした。現在こんなものが一般に手に入る、というのも意外です。

 ついでにちょっと関連するWikipediaのページの内容も紹介しておきます。


エルマEMP44

( http://de.wikipedia.org/wiki/Erma_EMP_44 )

 エルマEMP44は1943年にエルマ工場社によって、非常に急速に、そして簡単に多数生産できることを目的に開発された、非常に単純なマシーネンピストーレである。

 第二次大戦における当時のドイツ軍によるマシーネンピストーレの広範な使用は、生産の大きな拡張、および既存モデル群の単純化と廉価化の進行をもたらした。単純化と廉価化に向けた努力は1943年、EMP44の開発によって最初の高みに達した。この単純化に向けた開発品は終戦頃さらに、自暴自棄から生まれた最後の開発品(例えばマシーネンピストーレ Gerat Neumunster MP3008)によって凌駕された。

 1943年初め、マシーネンピストーレの新世代開発が始まった。この際主要な注目点は、まだ充分な量使用できるマテリアルの使用と、すでに使用可能な状態にあるか、もしくは特別に生産に適合されていない工作機械での生産に置かれた(頑住吉注:生産中の銃用の工作機械が流用できたり、銃の生産用ではない工作機械が使える、という意味でしょう)。その上MP38とMP40の生産および実戦の長年にわたる経験が注ぎ込まれた。その結果は大量生産と強度のコスト削減を目指して設計され、簡単に、非常に多数生産できるマシーネンピストーレEMP44だった。

 レシーバーとストックは溶接されたスチールパイプ製で、肩当てとピストルグリップは軽合金で生産された。非常に単純なマズル抑制器はロシア製マシーネンピストーレPPS43に似た形状とされた。閉鎖機構とリコイルスプリングはMP40に依拠した。この銃はフルオート用のみに作られ、2種類のマガジン供給可能性を持っていた。すなわち32連スタンダードマガジンか、MP40/Iのような64連ダブルマガジンかである。ストックとレシーバーが一直線状に存在していたため、サイト設備は人間工学的理由から高い位置に設けられた(例えば後のアメリカ製ストゥルムゲベールM16の場合のように)。このサイト設備は100、200、300mの距離に調節できた。この銃は長さ250mmのバレルを持ち、全長は720mm、重量は3.6kgだった。

 EMP40は全ての制式テストに合格した。だがその安っぽく奇異な外観ゆえに当時の国防軍によって却下された。この銃が極度に安価で生産容易な銃の典型だったにもかかわらずである。1944年末(この時ドイツの軍事的状況は見る見るうちに悪化していた)になって初めて、EMP44は国民突撃隊用の銃として想起された。だがこの生産のためにはMP40の生産を抑制しなければならないはずであり、この時もこの銃の生産は行われなかった。

Erma EMP 44
全般的情報
軍での名称 マシーネンピストーレ Erma EMP 44
使用国 ドイツ
開発者/生産者 エルマ工場
ハーネル工場
ステアー工場
開発年 1943年
寸法
全長 720mm
重量(空マガジン付き) 3.6kg
銃身長 250mm
テクニカルデータ
口径 9mmパラベラム
可能なマガジン充填 1x32または2x32発
発射速度 500〜600発/分
発射方式 フルオート
銃口初速度 381m/s

 この銃はMP40等よりもはるかに生産性が高く、しかし戦争末期のステンコピーほど粗雑ではないという中間的な存在です。あまりにカッコ悪いステンコピーとは異なり、見ようによってはSF的でスマートなデザインです。説明文は量産はされなかったと読めますが、データ表には「使用国」(この語は「実戦使用」というニュアンスが強いようです)とあり、またメーカーが3社も挙げられています。「全ての制式テストに合格した」とあるので、量産を前提に一定数が複数メーカーで生産され、いわゆる「部隊テスト」形式で実戦使用されたのかも知れません。その割にはこの銃に関する情報はきわめて限られており、写真(イラスト?)も原ページと同じもの以外見つかりませんでしたが。「全ての制式テストに合格した」のに安っぽい、見た目が変などという理由で却下するなら最初からテストするなよと言いたくなりますね。












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