「銃器史」

http://www.hassel-online.net/Schutzenverein/waffen/Waffengeschichte/waffengeschichte.htm

 こんなページを見つけました。前史時代から1884年までの銃器の発達史を表にしたもので、興味深い内容をたくさん含んでいるので内容を紹介します。なお、特別に注目すべき、あるいは面白い内容がある項目の年号は黄色の太字にしてあります。



630年 焼夷危険球 すでに古典古代において軍人は火器を使用していた。すなわち彼らは焼夷物質を矢と弓を使って発射し、吹き矢の筒を使って吹き付け、あるいは投射マシーン類を使って敵の人々の下にもたらした。ビザンチン帝国海軍の乗組員は火の役割を最高度に心得ていた。彼らは7世紀最初の1/3のうちに敵に「ギリシャの火」を使って火をかけた。すなわち圧縮した松材の細片と、石油と硫黄を染み込ませたWerkからなるKneulである(頑住吉注:前者は英語のワークにあたる単語ですがこの場合の意味は不明、後者は辞書に載っていません)。この水の中でさえ燃える球体が矢とともに発射され、また投射された。
712年 最初の弾丸 アラブ人はスペインの都市Aloraの包囲攻撃の際に臼砲様の手で持って撃つ兵器を投入した。その弾丸は一種の発射薬で駆動された。このアラビアの臼砲は非常に印象的ではあり得なかったにちがいない。すなわち次の500年内にそのような戦争器具はヨーロッパのどこにも現れなかった(頑住吉注:凄い効果を発揮していれば他のヨーロッパ諸国も真似したはずだ、ということのようです。ちなみに712年にスペインはイスラム勢力に占領され、いわゆるレコンキスタが完了する1492年までキリスト教徒の再占領が試みられることになります)。
900年 チャイニーズロケット 中国人は新年を、黒色火薬に似た混合剤によって駆動される花火で祝った。
1044年 中国に自然科学に関する書物(Wu Ching Tsung Yao)が現れ、この中では火薬がレポートされている(頑住吉注:検索したところ「武經總要」という本らしいです)。
1139年 教皇、軍備縮小を命じる 教皇インノセント3世は第2回ラテラノ公会議においてクロスボウを「殺人的で非キリスト教的武器」であり、もはや異教徒との戦いにしか使うことが許されないとの判定を下した。
1249年 それは大きな音をたてる イギリス人のフランシスコ会修道士Roger Baconは発射薬の処方を書き留めていた。それは硝石7、若いヘーゼルナッツで作った木炭5、硫黄5と理解される。彼の記述によれば、このミックス剤は「大きな雷鳴と稲妻」を引き起こした。発射薬としての使用に関する指摘はない。1267年、彼はこの処方を暗号化された形で彼の著作「De Secretis Operibus Artis」(「秘密技術の本」)の中で明らかにした。
1275年 改良提案 ギリシャの自然科学者Marcus Graecus(Markus der Grieche)はこのフランシスコ会修道士ロジャー ベーコンの発射薬処方を改良した。すなわち、Graecusは彼の本、「Liber Ignium」(「ファイアーアートの本」)の中で硫黄1、柳の木で作った木炭2、硝石6という処方を推奨した。ドミニク会修道士、大学における学者であり、1260年から1262年までRegensburgの司教だったAlbertus Magnusの自然科学に関する写本内にはほとんど同じ内容の処方がある(頑住吉注:英語に直訳すると「ファイアーアート」になる単語は辞書に載っていませんが、語感から花火のことかと思いました。しかし検索してみると焚き火などでの火起こしのことらしく、これらはそうした用途のために開発されたもののようです)。
1326年 最初の火薬武器 イギリス人の教会人Walter de Milimete(Cornwall伯領における一種の地方自治体主任司祭)は、矢を火薬の力で発射するカノン砲を提示した。このカノンは、イギリスのEduard2世のための写本、「De Nobilitatibus, Sapientis, et Prudentia Regum」(「王の名声、英知、教養について」)の中に描かれている。このMilimete砲は、カノンよりも高さ1m弱の寝かせた花瓶に似ていた。しかしその装填および点火技術はすでに18世紀までの全ての後継モデルの場合と同じように機能した。操作者は底部が閉鎖された筒内に火薬を流し込み、適合する弾丸を発射薬の上に置き、赤く燃えたいわゆるLoseisenを点火口に差し込むことによって点火した。
1340年 矢の代わりに弾丸 それまで砲から発射されていた矢が石製の球に換えられた。Milimete砲の基本原理にならって射撃される巨人カノンが現れ、50kgの石の球を投射した。そのようなモンスター(例えばJohanniter-Ordensritter von Rhodosのブロンズ製石筒、あるいは「Pumhart von Steyr」巨人臼砲のような 頑住吉注: http://www.geocities.com/npilgaard/mili/artil_mil.html )は重量複数ダーストン、80cmまでの口径を持った。
1346年 ブロンズ製の手で持って撃つ銃 都市Aachenおよびフランクフルトは不詳のハンドワーク名工にブロンズ製の手で持って撃つ銃を注文した。このための請求書は最初の手で持って撃つ銃を証明する。
1380年 Berthold der Schwarze(頑住吉注:黒のBerthold) フライブルグのフランシスコ派修道士Berthold der Schwarze、またの名を「nyger pertoldes」(黒のBerthold)は彼の修道院内の小部屋の中で発射薬の実験を行い、硝石、硫黄、木炭からなるミックス剤の効果を発見した。発射薬および火薬を使った武器の発明者はKonstantin Aucklitzenであるとか、市民の名を持つフランシスコ派修道士(頑住吉注:意味不明です)であるとか言われるが、誤りである。発射薬も火薬を使った武器もすでに発明されていた。例えば本来金を製造すること(頑住吉注:錬金術)を望んだ実験好きの市民がそれを成し遂げていた。1380年頃、「 nyger pertoldes」(黒のBerthold)が「chunst aus pchsen zu schyssen」(「 筒から発射する技術」)を改良した。彼は彼の実験ゆえに1388年に死刑判決を受けたとされる。
1399年 タンネンベルグの銃 Wenzel王、Mainz、Trier、帝国都市フランクフルトの大司教の部隊はCronenbergのHartmud山岳道路上にあるタンネンベルグ城を包囲攻撃した。恐れられた盗賊騎士や貴族の盗賊を殺すためである。この包囲攻撃に対するフランクフルトの貢献は、重い石の球を発射する大きな石砲だった。これはコストの安い軍事行動ではなかった。40発の発射のため7Zentner(頑住吉注:1Zentnerは50kg)と33ポンドの火薬が使われたが、これは引き合うものだった。すなわち盗賊騎士のねぐらは台座まで破壊されたのである。

1849年、考古学者が発掘調査の際に地下の天水溜めの残骸の中から1挺の銃、鉄製の装填棒、第2の銃の残骸の一部を発見した。このタンネンベルグの銃は非常に単純な構造だったが、すでにモダンなゲベールと同じ基本要素を持っていた。すなわちバレルとストックである。バレルは後方が閉鎖された、単純な点火口を持つ長さ27cmのブロンズ製パイプからなっていた。ストックは木製の棒からなり、バレル端部のテーパー付きの穴内に固定されていた。そのような原始的な保持可能性は狙いをつけるために必要だった。というのはこうした原始的な火器の場合、射手はそもそもバレルから1発の発射を行うために両手をフルに働かせたからである。すなわち片手は銃を保持してターゲットに向け、一方他の手は赤く燃える点火鉄や火縄、あるいは燃える炭を用意した。射手はストック端部を脇に挟み、あるいはクロスボウのように胸の筋肉や上腕に当てた。

細部まで模造され、固定された銃と当時の処方で調合された火薬を使った射撃実験は驚くべき結果をもたらした。すなわち25mの距離において全ての射撃が直径14cmの円内に着弾した。直径約17mmの球状弾は厚さ2mmのブリキに深さ1cmの凹みを残した。 ※注1
1420年 発射薬パン屋 ドイツの銃器名工が発射薬を改良した。1400年まではいわゆる粉火薬だけが知られていた。これは非常に細かい混合物で、細かい粉と粉の間に充分な空気がなかったため非常にゆっくり燃焼するだけだった。この火薬は長い運搬の間に絶え間ない振動によって再び混合が解除され、この結果目的地では重い硫黄が下、硝石が真ん中、軽い木炭が上に位置した。このため使用者にはこうした構成要素を分け、使用場所で初めて混合することが求められた。

1420年頃、火薬を粒状にすることに成功した。銃器工はすりつぶした火薬の粉を酢または蒸留酒で濡らし、これをかたまり状になるようパン生地のようにこねた。この際硝石と硫黄は溶け、これにより構成要素は互いに固着した。それが乾いた「火薬ケーキ」は細かく砕かれ、多数の不規則な粒が生まれた。今や粒の間に、より効果的な燃焼のための充分な酸素を付加できるようになった。表面積は何倍にもなった。

その上この新しい粒状火薬はもはや混合解除されなかった。全ての粒が全ての火薬構成要素を同じ混合比率で含んでいたからである。つまり同じ量の場合、この粒状火薬は粉状火薬より決定的に激しく燃焼した。 ※注2
1439年 手作業に代わるメカニック ドイツの銃器工が15世紀前半に、面倒で時間のかかる手で持って撃つ銃の点火経過をかなり単純化するメカニズムを発明した。1439年の都市Preburgの会計予算には、火器に点火するためのレバー状装置が掲載されている。この最初の機械的トリガーは射撃と命中を非常に容易にした。かつて射手は火縄を手で点火口にもたらさねばならなかった。これは当然銃のフリーハンドな使用を困難にした。今やS字型のメタルアームが点火を引き受けるようになった。この蛇の形をしたレバーは銃の木製ストックに固定された中央の軸をめぐって回転した。燃える火縄や点火海綿がレバーの二股になった上部に挟まれた。下部はトリガーとして役立った。非常に単純なZ字型の蛇発火機構あるいは蛇行発火機構(頑住吉注:サーペンタインロック)の図は1411年のCodex Vindobanaに初めて登場した(頑住吉注:こういう名前の書物だという以上のことは不明です)。
1450年 点火された薄板アイデア 蛇発火機構あるいは蛇行発火機構は改良された。着想に富む銃器製作者は点火口をバレル上面から右に移し、この開口の下に小さな皿を溶接した。この火薬皿は細かい点火用火薬(点火草とも言う)を受け入れた。彼らはS字型のレバーアームのうちくすぶる火縄を保持する上のアームを短縮した。トリガーバーが火縄ホルダーをトリガーレバーと結合した。追加的に板バネがトリガーバーに作用し、この結果火縄ホルダーにテンションをかけることができた(頑住吉注:文章だけではよく分かりませんが、この図1−2のような感じでしょう)。全ての可動部品は銃器サイドの鉄の薄板(頑住吉注:「発火機構金属薄板」としてこの後にも出てきます)上で互いに結合された。錠前に似た構造と燃える火縄がこの新しいメカニックに名を与えた。すなわちLuntenschloss(頑住吉注:火縄錠前=マッチロック)と。
1460年 フックが問題に マッチロックは普及した。射手は今や銃を両手で保持し、同時に狙い、発射することができた。マッチロックゲベールはその重量と面倒な取り扱いゆえに当初は防御のためだけに使用され、銃器工は鉄のフックをバレルに取り付けた。これにより火器は狙いをつけるために石壁、銃眼、射撃架台、銃器運搬車に固定またはひっかけることができた。Hackenbuchse(頑住吉注:「a」はウムラウト。「フック銃」)という名前はこの設備に関係しており、これはリコイルショックも受け止めた。
1470年 洋梨、モードに 射撃はより快適になり続けた。当初射手はフリーハンドで狙いをつける際に、火筒の細長いストック端部を脇に挟み、バレルをターゲットのおよその方向に向けて保持した。後にはストック作りの職人はより短いクロスボウのストックを手本にした。クロスボウのストックは射手が胸の筋肉あるいは上腕に当て、一方目を使って矢の上からターゲットを狙うものだった。この際彼は頬をストックに当てた。ここから洋梨型の銃床を持ついわゆるジャーマンストックが発達した。歴史家は「Arkebuse」という概念(イタリア語ではarca bouza=穴のある弓)がクロスボウに似たジャーマンストックから派生したものであるのか、あるいはドイツ語の「Hakenbuchse」が誤って伝わっただけなのか論争している。
1473年 Au Backe=頬付けの射撃姿勢 火器を使った頬付けの射撃姿勢がモードになった。これが初めて描かれたのは1473年に誕生したJean de Wavrinによる「Chronique d'Angleterre」(頑住吉注:これもこういう書物という以上のことは不明です)の中でである。すなわち甲冑を身に付けた銃の射手が戦場で弓の射手と決闘している絵である。銃の射手はストックを右頬の高さで保持し、バレルの上から狙いをつけている。この射撃姿勢の種類が進歩的な感じをも与えたならば、永続的により長いストックの中に点在する形のみで生き残ることができただろう。というのは、射手は銃を肩に引き付けた時に最も良くリコイルショックを克服するからである。ドイツストックのずんぐりした洋梨形銃床はこのためには短すぎた。これに対しより長い、いわゆるスパニッシュストックはもはや滑らず、あるいは射手に不快なビンタをくらわせることがなかった。今や体はリコイルショックを肩で緩衝したからである。スパニッシュストックはドイツのストック形状と同じ時代に誕生した。その明らかなメリットにもかかわらずスパニッシュストックはゲベールの場合16世紀半ば頃になって初めて普及し、今日のストック形状の先駆者となった(頑住吉注:図等が一切ないので細部に不明な点がありますが、ドイツストックというのは日本の多くの火縄銃のように肩当てを持たないもので、スパニッシュストックは現在のストックに近いものだったようです)。
1493年 繊細なライフリング Ausburgとニュールンベルグの着想に富む銃器工がうまいやり方を理解した。彼らはスムーズなバレル内にライフリングを加工し、銃の命中精度を向上させた。これは偶然鋳造あるいは鍛造後にバレル内に残ったミゾによってひらめいたに過ぎないらしい。平行に、直線状にマズルまで伸びるライフリングを持つ最初のバレルプロフィールは1498年にライプチヒで初めて出現した。この平行ライフリングは押し込まれた球状弾にライフリング回転を与えなかったが、バレルを正確にターゲット方向に向ける作用をした。 ※注3

らせん状の施条がなされたバレルを持つ最初の銃は皇帝マクシミリアン1世(1459〜1519年)の時代にさかのぼり、この銃は直径24mm、重量292グレイン(18.9g)の球状弾を発射した。たいていの同時代人は回転する球の向上された射撃精度を、さらに上回ることはほとんどできないセンセーションと見なした。それにもかかわらず銃器工たちは500年以上の長きにわたって常に新しいバレルプロフィールの形を実験してきた。星型、ノコ刃状のバレル横断面は命中精度を向上させたがエッジを丸めたライフリングや楕円形断面のバレル同様わずかにだった。20世紀の設計者が初めてらせん状ライフリングの成功した原理に改良を加えた。すなわち彼らはいわゆるポリゴンバレルを開発したのである(頑住吉注: http://wiki.waffen-online.de/index.php/Polygonlauf ここの説明によればポリゴナルライフリングの前身は17世紀、真のポリゴナルライフリングも19世紀半ばには登場していたことになっています)。
1500年 クラス分け作業 新しい鋳造技術は砲兵砲およびこれと関係ある全ての飛躍を助けた。いわゆる向上されたブロンズ鋳造はバレルのクオリティをかなり改善した。しかしさらに決定的だったのは鉄の鋳造における技術的進歩だった。これにより砲の球状弾を安価に、そして大量に製造できた。ハンブルグの皇帝マクシミリアン1世が命令したようにである。民衆に最後の騎士と呼ばれるマクシミリアンは、彼の部隊の組織に際し、ベネチア共和国およびチロルの大公Sigmundの砲術部門にインスパイアすることができた。すなわち砲兵砲を砲弾重量および口径に従って統一的なクラスに分類した最初の軍司令官としてである。
1502年 歩兵隊のための銃 マクシミリアンは軍事史に革命を続けた。彼は自分の歩兵部隊の大部分をゲベールで武装した。彼は戦術的にはこうした銃射手を長槍兵や矛槍兵と組み合わせて実戦投入することを求めた。こうした熟練した指し手は成功しないままではいなかった。それまで開けた戦場での戦いでは副次的役割しか演じていなかった火器はますます戦場の主役となっていった。ドイツの傭兵は1525年のPaviaの戦いの勝利を、フック銃と砲からの規律ある射撃によって決定づけた。
1505年 皿の中をひっぱたく ニュールンベルグのMartin Loffelholz(頑住吉注:前の「o」はウムラウト)は1505年頃新種の点火機構を作った。彼はその機能原理を実際的な日常から引き継いだ。すなわち火打石を鉄のかたまりに打ちつけると火花が生じるという手法である。イタリアのオールラウンド天才、レオナルド ダ ビンチも彼のCodex Atlanticusの中でそのような銃の点火機構について記述している。Loffelholzロックは効果的であるのと同様単純にも設計されていた。射手がトリガーを引くと、あらかじめ軸上で巻かれたスプリングで駆動する鋼鉄の輪が回った。さらなるスプリングがハンマー(今や火縄の代わりに1片の火打石を保持する)を硬化処理された車輪の歯に押し付けた。これによりまさに火の雨が生じた。これが直接点火火皿の中に落ちた。この構造の場合点火失敗は排除されたも同然だった。
1508年 火縄が匂う このホイールロックは改良された。点火経過の間自動的にスライドする追加的火皿カバーが湿気に敏感な点火薬を保護した。ハンターはほとんど振動フリーで推移し、素早く、確実に点火し、ムービングターゲットの場合フリーに追随したスイングを可能にするメカニズムを尊重することを学んだ。その上自ずと露見するような燃える灯心がなくなり、獣が過早に火縄の匂いをかぐことはもはやなくなった。
1510年
ピストル

多数の個別部品を持つホイールロックの複雑な構造は高価だった。このためこの理由だけですでに財政的に弱い軍隊は、多数の欠点にもかかわらずずっと安価で単純な火縄ゲベールに留まった。騎兵隊だけはコストを恐れなかった。負担の大きい火縄は騎兵の完全な注意力の集中を要求した。その上騎兵は馬を確実に誘導するため片手を必要とした。これに対しホイールロック銃はギャロップする馬からの素早い射撃さえ可能にした。この理由から新しい銃器種類が開発された。すなわちFaustrohr(頑住吉注:拳筒)またはピストルである(頑住吉注: http://www.engerisser.de/Bewaffnung/Radschlosspistole.html )。
1517年 全てのホイールロック銃器の禁止 1517年、よりにもよって(頑住吉注:軍事、銃器に関し多数の進歩的な業績を残した)皇帝マクシミリアンが全ての「自己打撃手銃」(頑住吉注:流れから言ってホイールロック銃のことでしょう)を禁止した。熱心なハンターはそれでなくともこの火器の形式を狩りのためには断固拒否していた(頑住吉注:さっきの記述と矛盾するようですがこう読めます)。彼の後継皇帝カール5世(1519〜1556年)は再びホイールロック銃器を好意的に見た。これによりさらなる改良への道が開かれた。
1543年 ミュンヘンのセットトリガー イタリアの努力家たちがドイツのホイールロックを作り直した。すなわち彼らはより軽量な部品でできたホイールロックを発火機構金属薄板の外側にオープンにマウントした。フランスの銃器工らはハンディな銃を求めるハンターの希望を取り上げた。彼らはハンマースプリングのようないろいろな発火機構部品をストック内の空間に収納した。1543年頃、ミュンヘンの職人が最初のセットトリガーを作った。すなわちこれは針状のピンを前のトリガーとして発火機構に繊細にかみ合わせ、この結果スプリングメカニズムをレットオフさせるためには後ろのトリガーへの非常に軽い圧力ですでに足りるというものだった。
1547年 悪魔的実験 Mainzの大司教は施条された銃はその命中精度ゆえに悪魔の道具であり、そのことを実験で証明すると宣言した。この不信心な大司教は2人の銃射手に互いに対戦させた。片方からは角を生やした銀の弾丸が発射され、他からはシンプルな鉛製の弾丸が発射された。銀の弾丸にチャンスがないことは明らかだった。堅く、しかしより軽い銀はバレル内のライフリングでハードに圧縮された。しかしこの結果誰も大司教が施条された銃を即座に禁止することを理解できなかった。 ※注4
1550年 カチンとかかる オランダの銃器工たちが新しい点火メカニズムを開発した。これはマッチロックより信頼性をもって機能し、ホイールロックより製造上安価なものだった。彼らはホイールロックのハンマーを引き継ぎ、火薬皿の後方に車輪の代わりに垂直なスチールプレートをセットした。射手がトリガーを操作するとスプリングのテンションがかかったハンマーが下方にパチンと倒れ、黄鉄鉱がスチールに沿ってこすり、細かい点火草内に火花を落とした。スペイン人はこの最初のフリントロックをMiqueletschloと呼び、これはスペイン語の「miquilites」(=Straenruber 頑住吉注:辞書に載っていません)に由来している。ドイツの武装強盗も16および17世紀に俗語で単に「Schnapphahne」(頑住吉注:後の「a」はウムラウト。「パチンと倒れるハンマー」)と呼ばれた。
1560年 最初のパッチの助け ハンターや銃器射手は彼らの球状弾を獣の脂を塗った小さな革または布切れに包んだ。彼らは同時にややバレル内径より小さい弾丸を装填したので、パッチにくるんだ装填棒を使ってバレルのライフリングを通して押し込むためにより小さい力しか必要としなかった。柔らかい射撃パッチはぴっちりフィットした弾丸にライフリング回転を良好に伝達したので、パッチ銃射手はたいていの射撃競技に参加が許されなかった。 ※注3
1567年 人の背丈ほどのマスケット スペインのMusketiereは新しいゲベールを人々にもたらした。すなわちほぼ人の背丈ほどの長さで重量6から8kgの間の銃である。この銃には射手の手のためのくびれ部と頬当てを持つ長いストックが付属していた。射撃時にはフォアストックを二股の支持具に置いた。このことは照準とターゲットに追随したスイングを容易にした。このマスケットの口径は約2cmと大きかったので、1ポンドの鉛で10発の球状弾にしか足りなかった。このマスケットは50から60歩の距離までしか正確に射撃できなかったが、その重い弾丸は全ての甲冑および装甲された馬を凹ませた。
1607年 風銃 ニュールンベルグの発火機構製造者Peter Dombler(頑住吉注:「o」はウムラウト)はいわゆる風銃を作った。これは圧縮空気を使って大口径の球状弾を発射音なしに射撃するものだった。都市の議会はDomblerにこの銃器の製造を禁じた。「それが手に入る所では人はそのような殺人的な銃を使って気付かれずに人を射殺できる」からだった。250年後イタリアのBartholomus Girandoniはこの構造を改良した。この風銃は施条されたバレルを持ち、20連チューブラーマガジンから供給される直径13mmの球状弾を発射した。このマガジンは素早い装填のため単純な押し込み設備を持っていた(頑住吉注:エアソフトガンのローダーのようなものでしょうか)。射手は空気ポンプを使ってネジによって着脱可能な銃床内に充分な空気を送り込んだが、これは最初の射撃以後急速に弱まった。最初の3から4発までは150mの距離で正確にターゲットに命中したが、18、19、20発目でも80mの距離においてなお致死的な作用をした。デリケートなレザーと真鍮でできたパッキングゆえにこの風銃は再び廃品処分となった。 ※注5
1630年 フランス、改良に成功 ノルマンディーのLisieux出身の銃器工一家Le Bougeoysはバッテリーロックを設計した。これはスナップハンスロックの発展開発品だった。彼らはもろくて簡単に壊れる黄鉄鉱をより耐久性のある火打石(フリント)によって換えた。彼らはスチール製打撃面と火皿カバーをバッテリーに作り変えた。打撃面をハンマーに対し正確に計算された角度に傾けることによってである。火薬皿のカバーにはスプリングが取り付けられた。ハンマーが打撃面にパチンと振り下されると火打石がバッテリーに沿って摩擦し、点火のための火花を発生させた。同時にバッテリーは火皿から飛び起き、火薬を露出させた。このフランス人たちはデリケートなスプリングおよびトリガーメカニズムを点火機構金属薄板の保護された内側に移した。
1631年 スウェーデンのパッケージ スウェーデンのグスタフ アドルフ王(1594〜1632年 頑住吉注:プロテスタント)は1631年9月17日にBreitenfeldにおいてカトリック同盟軍を打ち破った。この勝利は特に彼のマスケット兵たちのおかげだった。彼らはゲベールを軍司令官Johann Tserclaes Tillyの射手たちよりも素早く装填した。仕事の早いスウェーデン兵は発射薬、中間手段、弾丸をもはや苦労して瓶、袋類から探す必要がなかった。彼らは初めて彼らのマスケットを小さな紙袋の形の弾薬によって装填した。発射前スウェーデンのマスケット兵はまず親指で古い火薬の残りかすを点火皿からぬぐい取り、点火薬瓶から細かい点火草を火皿にあけた。その後歯で紙火薬を噛み切り、これを傾けて中身、すなわち火薬、中間手段、弾丸を順にバレル内に入れた(頑住吉注:「中間手段」というのはワッズのようなパッキング材のことだと思われます。なお、まず火薬を入れ、弾薬の紙の外装を丸めて入れ、最後に弾丸を入れる、という手法の初期紙弾薬もあったようです)。
1665年 王対フリントロック 太陽王ルイ14世(1638〜1715年)は彼の部隊に全ての種類のフリントロック銃を禁止した。彼の国防大臣Le Tellierは全てのフリントロックマスケットを破壊させ、マッチロックライフルに換えさせた。Le Tellierの息子であり後継者のMarquis de Louvois(1639〜1691年)は再び正確に逆戻りした。王の小銃隊は初の完全にフリントロック銃、「fusils」(ドイツ語ではFlinten、ゲベール)で武装された部隊に該当する。これにより彼は攻撃してくる騎兵隊を自軍の砲兵隊に近づけないことを意図した。
1671年 確かな論拠 同様に初めての軍部隊としてこの王の小銃隊はバヨネットを手にした。この最初の着剣された突き刺し武器は口径と同じ径の細い栓のようなグリップを持ち、これが近接戦闘の際マズルに差し込まれた。この栓バヨネットは面倒な装填経過の間そのPiken(頑住吉注:槍の一種)によってマスケット兵を守ることを意図したPiken兵を失業させた。1690年頃バレルリング付きバヨネット(いわゆる差し込み口バヨネット)が登場した(頑住吉注: http://www.schlossmuseum.de/blankwaffen/Tuellenbajonette.html )。これは古い突き刺し武器と交代した。10年後、差し込み口と刀身の間に水平に折れ曲がったアームが取り付けられた。これにより今や射手は彼らの銃を着剣時にも装填できるようになった(頑住吉注:何故アームがないと着剣時の装填ができなかったのかは不明です)。
1698年 鉄製装填棒 アンハルト・デッサウのLeopold Furst(1676〜1747年 頑住吉注:「u」はウムラウト)は書物にもあるように勇猛な戦士だった。彼はプロシアの擲弾兵に歩調をとった行進を教えただけではなかった。有名な話だがこの老いたデッサウ市民は彼の連隊に幅広い鋳鉄製ヘッドが付属した鋼鉄製の装填棒を導入した。しかも自費でである。漂白された木製の装填棒は戦闘のヒートの中でしばしば破損し、装填補助具なしではベストの銃の役には立たなかった。鉄製装填棒は他の模範となり、またこの出資は引き合うものだった。TurinおよびHochstadt(頑住吉注:「o」と「a」はウムラウト)によるフランスおよびバイエルンに対するスペイン王位継承戦争(1701〜1714)の戦闘の中で、1人の兵で1分に3発というプロシア歩兵より速く発射を行う他のヨーロッパ部隊はなかった。
1717年 信念の行為者 フランス人はこの時最終的にフリントロックの長所を証明し、最初のヨーロッパの国として彼らの全部隊をフリントロック銃で装備した。ルイ15世はどのように弾薬を作るかという命令を発した。1720年、イギリスはこの世紀のベストセラーであるBrown Bessフリントロック銃でこれに続いた(頑住吉注: http://www.militaryheritage.com/musket1.htm )。1777年、パリでは小口径0.69インチ(17.5mm)のモデルが大人気となった。多数のバリエーションにもかかわらず、ヨーロッパのフリントロック銃にはわずかな外的および技術的差異しかなかった。
1776年 後装銃の試み 6月1日、Patrick Fergusonはイギリスの委員会に新しい施条されたゲベールを提示した。これは1分に6発発射するものだった。このような信じられない発射速度に向上させたエキスパートはほとんど存在していなかった。Fergusonはバレル内に水を注ぎ、そして30秒後には元通り射撃を続行した。この謎の解答。このゲベールは閉鎖ネジを伴う後装システムを持っていたのである。トリガーガードの半回転によりこのネジは下方に沈下し、後部の装填開口を露出させた。そして操作者はもはや球状弾と発射薬を入れるだけでよかった。FergsonはIsaac de la Chaumetteの発明を改良し、さらに1770年にオーストリア部隊に導入されたCrespiゲベールの閉鎖機構原理をabkupfern(頑住吉注:辞書に載っていません。文脈からして「参考にした」というような意味でしょうか)していた。Fergusonの死後彼のゲベールは急速に世間から姿を消した。
1781年 円錐形の点火口 Herzbergの銃器工Frankeは円錐形の点火口を開発した。これはわざわざ細かい点火草を火皿内にあけることを不必要にした。円錐形の点火穴と尾ネジ内の傾斜によってバレル内に流し込まれた火薬の一部が今や自動的に外部に対して閉じられた点火皿内に流れ込んだ。 ※注6
1805年 パーカッションロック スコットランドの牧師John Forsythは新しい、センセーショナルな点火システムを作った。これは火打石、火縄、車輪、火皿もなしに機能し、決定的により高い点火確実性を約束するものだった。この教会人にひらめきを与えたのは、フランスのClaude Louis de BertholletおよびイタリアのEnrico Bugnatelliが雷汞を使って行っていた実験のレポートだった。Forsythは爆発性の物質を小さな金属瓶内に満たし、これを中空の、点火口内に導入される軸の上に水平にマウントした。操作者がこの瓶をひねるとすぐ、点火ドロップが軸内に流れ込んだ。ハンマーの打撃によりボルトがこの雷汞に点火した。この「Flacon」または点火瓶から1805年中に点火小パイプ、すなわちピストンを持つパーカッションロックが生まれた。雷汞キャリアとして点火錠剤、紙製点火小プレート、そして雷管が試みられた。雷管が競争をものにし、1825年、プラハの工場Sellier & Bellotが世界初の企業として点火雷管の大量生産を始めた(頑住吉注:現存するこの会社、そんなに歴史があるとは知りませんでした。 http://www.sellier-bellot.cz/index.php )。しかしすぐに圧力に敏感だが毒性のある雷汞の代わりに塩化カリウムが充填されるようになった。
1811年
ポケットライフル
さらに1つのワールドプレミア。アメリカの銃器工John Hancock Hallは新しい後装モデルのパテントを得た。これが銃器の歴史中最初に大量生産された軍用後装ライフルとされている。Hallはフリントロックを伴った、紙弾薬を受け入れる4角形のチャンバーを設計した。トリガーガード前方のレバーを使ってチャンバーのロックを解除することができ、上に跳ね上げ、必要な場合わずかな操作で完全に取り出すことができた。多くの兵がこのHallのチャンバーをポケットピストルとしてさえ使用した。銃の製造も世界的新基軸に該当した。すなわちバージニア州Harpers Ferry所在の州立銃器工場はこの新しい後装銃をその後の模範となるやり方で製造した。これは公差が狭いため個別部品を任意に交換できることを言っている。 ※注7
1828年 長い弾丸 射手はチャンスを嗅ぎつけた。フランスの大尉Gustave Delvigneは鉛製の長い弾丸を開発した。これはこれを使えば施条された前装銃にパッチにくるんだ弾丸よりも簡単に、そして特に素早く装填できるというものだった。Delvigneの弾丸は多くの深いミゾ、バレル内径より小さい外径を持ち、このため簡単にライフリングの凹凸を通して火薬チャンバーまで押し込むことができた。トリックはこうだった。装填棒による何回もの突きが、柔らかい鉛がバレル内面にフィットするまで鉛弾を潰して広げた。Louis Thouvenin大佐は金床のような作用をする火薬チャンバー内のスパイクによってこのシステムを改良した。この新発明はヨーロッパの国々を目の中のトゲのように刺した(頑住吉注:「強烈な刺激を与えてあわてて対応させた」ということのようです)。すなわち、たいていの国が彼らのゲベールをすぐさま改造したのである。
1835年 シリンダーの回転 アメリカ人のサミュエル コルトはうまい手を思いつき、すでに16世紀から知られていたシリンダー原理を真に活気付かせた。彼は1本の短いバレルの後方に、発射薬と弾丸のための軸に平行な6つの穴ぐりを持つ回転可能なスチール製シリンダーを配置した。彼はシリンダーとハンマーを互いに同調させたので、射手がトリガーを引くとすぐシリンダーは1つのチャンバーをめぐってさらに回転させられ、ハンマーが自動的にコックされた(頑住吉注:この説明は明らかに変ですけど説明は不要ですよね)。彼の最初のリボルバーモデルは「パターソン」と言い、銃器技術をすっかり変えた。
1836年 針の突き刺し 19歳の機械工の徒弟制度の職人ヨハン ニコラウス フォン ドライゼは1806年に銃器工になって前装銃の点火技術を改良する決心をした。だが当初は実験段階に留まった。パーカッションロック、そして牧師Forsythの新しい雷汞点火方式に触れて初めて、彼にも飛躍に向けたひらめきが生じた。彼はもはや噛みちぎる必要がなく、わざわざセットする雷管ももはや必要としない弾薬を設計した。ドライゼは単純に弾丸と発射薬の間に点火錠剤を置いた。長いスチール製の針が紙と発射薬を突き通し、錠剤に点火した。この弾薬は前から装填する必要があったが、この針の突き刺し技術はドライゼを新しい後装方式のパテントに駆り立てた。1835年頃、彼はプロシア国防省にいわゆるボルト閉鎖機構を提示した。本来的にこれはモダンなシリンダー閉鎖機構の原理だった。このボルト閉鎖機構は3つの互いに重なり合った中空のシリンダー、1本のコイルスプリング、点火針からなっていた。レバー状のボルトハンドルを使ってチャンバーを開放し、シリンダーを装填のために後退させることができた。この際点火針はスプリング上でコックされた。今や射手は閉鎖機構を前に押し、ボルトハンドルの右方向への回転によってロックを行う必要があるだけだった(頑住吉注:普及したドライゼ銃はセルフコッキングではありませんでした)。1860年までプロシアはドライゼのこの革命的構造を秘密のうちに手にした。
1840年 純綿火薬 大きな音と共に黒色火薬の時代は終わった。Christian Friedrich Schonbein教授(「o」はウムラウト)はニトロセルロースという発明でBasler Naturfreunde社を驚かせた。このニトロセルロースは全てのモダンなニトロ火薬の原料である。Schonenbeinは綿火薬を硝酸と硫酸でニトリル化した。
1848年 浅いカップ内に出てくる Claude Etienne Mini(頑住吉注:こういう表記は見たことないですがミニエーのことです)大尉は、軍の先輩DelvigneおよびThouveninのバレル内径より小さい前装銃用の長い弾丸を新たに改良した。彼は弾丸の底部をくりぬき、鉄製の浅いカップを挿入した。これが「キュロット」である。発射の際ガス圧はキュロットを柔らかい鉛弾内にくさびのように押し込み、鉛弾をバレルのライフリング内に押し付けた。Miniの膨張弾はこの発射体をバレル内でほとんどガス気密状態とした。したがってこれはより良い弾道学的数値をもたらした。その上射手はこのバレル内径より小さいMini弾を、かつてスムーズバレルの銃に球状弾を装填したのと全く同様に素早く施条された銃内に装填できた。
1848年 爆発力ナンバー1 イタリアの化学者Ascano Sobero(1812〜1888年)は1847年に爆発力の強いSprengelニトログリセリンを発明した。
1848年 リムファイア弾薬 パリの銃器工Gustav Flobertは金属薬莢を持つ初めてのリムファイア弾薬を作り出した。彼は黒色火薬を放棄した。弾薬底部の空洞の張り出し部内に流し込んで固められた雷汞が同時に点火手段と発射薬の役目を果たした。Flobertの室内用弾丸から.22小口径弾薬が発達した。アメリカのRollin Whiteは1854年に最初の大口径リムファイア弾薬を設計した。スミス&ウェッソンは1857年にこの弾薬用の最初のリボルバーを登場させた。
1854年 潰された弾丸 オーストリアの少尉Josef LorenzはMiniのキュロット弾をさらに複雑化させた。これは圧縮弾または潰し弾として機能するものだった。すなわちガス圧は弾丸首部にある2本の深いリング状の刻み目を通じて押し潰し、そしてこれによりバレル内面に押し付けた。Lorenz弾により施条された前装銃の最後の成績向上が達成された。 ※注8
1855年 量産品 イギリスのHenry Bessemer(1813〜1898年)は新しいスチール製造のための方法(Bessemer Birne)を発明した。このスチールは今や大量生産できた。手で持って撃つ銃および火砲のバレルは今や鋳造されたスチール製となり、より薄い肉厚を持ち、それにもかかわらず鋳鉄製のそのようなものより丈夫で軽く、そしてかなり安価だった。
1860年 フードの下 金属弾薬は普及した。発射時火薬ガスは銅または真鍮製の薬莢をチャンバー壁面に押し付け、もはやガスが使われずに後方に漏れることはなくなった。さらには敏感な火薬を他の全ての素材より良好に保護し、より小さい公差で製造できる金属薬莢は、機械による大量生産のための最高の条件であった。1860年頃、センターファイア点火方式の勝利の行進が始まった。雷管は薬莢底部中央のテーパー付き削り加工部である点火釣鐘内に位置した。
1860年 バレル内を覗く ヨーロッパでは紙弾薬仕様の単発ドライゼゲベールがまだ最高のものに該当していた一方、アメリカ人はすでに金属弾薬用多装填銃を丹念な仕事によって作り出していた。Cristopher Spencer(1833〜1922年 頑住吉注:意外にも第一次大戦後まで生きていたんですね)とBenjamin Henry(1821〜1898年)は1860年頃に弾薬を順次上に押し上げる、コイルスプリングが付属したチューブラーマガジンを開発した(頑住吉注:最終的に弾薬が上に押し上げられるのは確かですがこれはマガジンの機能ではありません)。スペンサーは9連マガジンをストック内に、ヘンリーの15連チューブはバレル直下に位置した。射手はトリガーガード(スペンサー)あるいはストックくびれ部の下にある輪状アンダーレバーを使って連発を行った。ヘンリーライフルのバリエーションはウィンチェスターレバーアクションリピーターとして世界的名声を得た。スイスは1869年にヨーロッパの国として初めて、そのVetterliゲベールによってチューブラーマガジン付きの銃を採用した(頑住吉注: http://www.militaryrifles.com/Switzerland/SwissVet.htm )。
1866年 ベルダンとボクサー アメリカの将軍Hiram Berdanは1866年にセンターファイア点火方式に改良を加えた。弾薬底部の点火釣鐘内に小さな隆起を組み込むことによってである。ファイアリングピンは圧力に敏感な点火剤を金床に向かって打ちつける。そして点火炎が2つの点火小孔を通って発射薬内に突入する。イギリス人Edward Boxerは同様に雷管内に金床を組み込み、点火穴を1つだけとした。
1866年 ノーベル、ノーベル スウェーデンの化学者Alfred Nobel(1833〜1896年)は1865年にエルベ河畔のKrummel(頑住吉注:「u」はウムラウト)にニトログリセリン工場を建設し、そこでニトログリセリンと醸造した珪藻土からなる混合物であるダイナマイトを調合した。
このノーベルの製品は、燃焼速度と効果に関してそれまで爆薬に含まれていた全てのものを影の中に立たせた(頑住吉注:「日陰者」、「影の薄い」に似た慣用句のようです)
1866年 シャスポー ドイツのドライゼ点火針小銃およびアメリカのGreen後装銃の成功に刺激され、Alphonse Shassepotはボルト閉鎖機構を持つ新しい後装銃を試作した。1866年、シャスポーはフランス砲兵武器庫の長に彼の口径11mm点火針小銃を提示した。これはドライゼ銃さえあわてさせるものだった。このモデルはまだ紙と紐の弾薬を射撃したが、点火錠剤はずっと後方に位置し、この結果デリケートな点火針は決定的に短いものになった。
1871年 シュヴァーベンの努力家 ネッカー河畔のオベルンドルフ所在の王立ビュルテンベルグゲベール工場の専門教育を受けた銃器工Peter Paul(1838〜1914年)とWilhelm Mauser(1834〜1892年)兄弟は、新方式の回転ウィングセーフティが付属した扱いが簡単なセルフコッキング閉鎖機構を開発した(頑住吉注:モーゼルライフルも当初はセルフコッキングではなかったはずです)。彼らのモデル1871はシャスポーライフルの成績を上回った。
1884年 火薬からなるペースト フランスの化学者Murice Vieilleはニトロセルロースをいろいろな溶剤と混合し、パン生地のような塊を作ることに成功した。Vieilleはこれをローラーで板状にし、さらにいろいろな形と大きさの火薬の粒に細かくした。今やいろいろなガス圧上昇度を持つ無煙火薬が製造できるようになり、特別な弾薬用発射薬となった。ニトロセルロース火薬と金属薬莢はモダンなセルフローディングシステムの前提条件となった。
1884年 Hiram Stevens Maxim ハイラム スティーブンス マキシムは1884年に最初のオートマチックセルフローディングゲベールを発表した。これは発射時に生じるリコイルショックとガス圧のエネルギーを改めての装填経過に使うものだった。弾薬供給方法も新しかった。このマシーネンゲベールはガトリングのようなケースまたはドラムマガジンを必要とせず、弾薬をベルトから得た。この銃がマシンガンの時代を連れて来た。

※注1 「驚くべき結果」と書いてありますが本当にそうですね。当時の原始的な火器がこれほどの性能とは思いませんでした。同様に威力も予想以上です。ただしこのグルーピングは固定した状態での結果であり、実際のサイトも何もないフリーハンドの射撃で命中させるのは困難だったでしょう。

※注2 黒色火薬が硝石、硫黄、木炭からなっているというのは何度も目にしましたが、粉末を混合しただけのものは長時間振動を加えると分離してしまうというのは知りませんでした。コーヒーカップの中にインスタントコーヒー、砂糖を順に入れ、ゆさぶると軽いインスタントコーヒーが下から上がってきます。また喫茶店で塩の中に米粒等が入っていることがありますけど、必ず上にありますよね。火薬でもそれに似た現象が起きるというわけです。また粉の状態では粒子間に充分に空気がないため燃焼速度が速くならないというのも知りませんでした。この問題を解決するため酢や蒸留酒を加えてこね、乾燥させて細かくしたというわけですが、この経過でずいぶん事故も起きたでしょう。

※注3 最初のライフリング(と呼んでいいのか疑問ですが)が、アサヒファイアーアームズが一部の製品で使ったようなストレートライフリングだったというのは知りませんでした。「バレルを正確にターゲット方向に向ける作用をした」というこの効果の説明は全く意味不明ですが、アサヒ同様弾丸をボア中心に保つ効果によって多少命中精度が向上したのかも知れません。ちなみにひねりを加えたライフリングの場合、あらゆる方向に対称形である球状弾でも命中精度が向上した、しかも柔らかいパッチにくるむという、弾丸がバレル中心から微妙にずれ(球を柔らかいパッチで包む場合、どうしても一重と二重の部分ができるはずです)、マズルを出た後の分離時にも不規則な抵抗がかかると思われる方法でも明確に向上したとされていますが、これがどういう理屈によるのか私にはどうも分かりません。

注4 銃器発達の歴史という観点からはあまり意味がありませんが、実は私はこの項目がいちばん面白いと思いました。この大司教は「ライフリングがある銃の命中精度が高いのは悪魔の仕業だ」と、球状弾がライフリングによって何故命中精度が向上するのか分からん私が言うのも何ですが馬鹿げたことを言いました。しかも人道的に望ましくない武器を止めさせるための方便とかではなくて本気でそう信じていたわけです。まあ螺旋状のミゾを刻んだバレルを覗き、それを使って極端に命中精度が上がる事実を見れば、当時の人間が超自然的な力の仕業と考えたのも何となく分かるような気もしますが。で、これを民衆に対しデモンストレーションするにあたって銀製で角をつけた、恐ろしげでいかにも悪魔的な弾丸を使えば悪魔の強大な力によってさらに高い異常な命中精度になり、アピール度が増すに違いない、と考えました。事前に試してみることもせず、ぶっつけ本番で民衆の前でやって見せたんですからよほど確信があったんでしょう。「でもそれって一種の悪魔崇拝じゃないの?」というのは誰でも思いつく疑問で、「悪魔的実験」、「不信心な大司教」というのはそこを皮肉った表現でしょう。当然そんなおかしな弾があたるはずはなく、誰もが「何でこれで禁止なの?」と思ったという珍エピソードでした。

※注5 これについてはちょっと長くなるので別の項目を設けます。

※注6 図等がないのでよく分からないんですが、



 こんな風にマズルから火薬を流し込むと蓋された火皿内に火薬が自然に流れ込み、わざわざ火皿に点火薬を盛る必要がなくなった、ということだと思われます。しかし発射薬は燃焼速度を上げるための粒状、点火薬は着火しやすい細かい粉末、と使い分けられていたはずで、その点がどう解決されていたのかは不明です。

※注7 史上初めての本格軍用後装ライフルは通常ドライゼのそれであるとされていますが、ドライゼ銃採用から30年も前のフリントロック時代に「最初に大量生産された軍用後装ライフル」が存在したというのは知りませんでした。ただ、この銃はフリントロックである以上ドライゼ銃ほど画期的に発射速度を向上させたとは思えず、また後述の理由も勘案して前史時代のものとして一応除外してもかまわんのではないかと思います。ちなみに1700年代初期のプロシアにおける前装銃の発射速度、毎分3発というのは驚くほど速いですね。なお、この銃に関しては「新版 図解古銃事典」(所荘吉氏著 雄山閣刊)に少し記述がありました。「アメリカ人ホール John H. Hallの発明した銃で、軍用に採用された後装銃としては世界最初のものである。日本では嘉年六年ペルリが幕府に献じたのに始まる(頑住吉注:1853年で、パーカッション銃がすでに普及していたこの当時のアメリカでは決して最新式ではなかったはずです)。佐久間象山や片山京助はこれをモデルにして“迅発撃銃”を考案したとされる〜」とされています。 http://page.freett.com/sukechika/ishin/wepon/ishin08-02.html ここにも簡単な説明があります。チャンバー後方にヒンジがあり、トリガー前方のレバーを押すとチャンバー前部が持ち上がって装填が可能になるという仕組みで、フリントロック式としては珍しく側面の「発火機構金属薄板」にセットされたサイドハンマーではなく真上に位置するトップハンマーを持っていました。また1833年にはHenry S. Northによってパーカッション式に改造され、「外国の文献では、本式の拳銃が見られるが、日本では未発見である」ともされています。なお、この銃はチャンバーの前から装填するもので、これが後装銃ならばパーカッションリボルバーも後装銃となるはずです。私はパーカッションリボルバー同様この銃を真の後装銃と言っていいものかやや疑問に思います。「準後装銃」といったところがふさわしいのではないでしょうか。

 アメリカにおいて任意に部品が交換できるシステム(インターチェンジブルパーツプリンシプル)が銃器生産から発達したことは有名ですが、私はコルトがパイオニアであるかのようなイメージを持っていました。しかしコルトより20年以上前のこの銃の生産において始まっていたんですね。

※注8 これも図等がないのでよく分かりませんが、



 こんな感じでしょうか。底部だけが膨張してバレル内に密着するミニエー弾の場合バレル内で誘導される前後長が短くなりますが、それをより長くすることによって安定させ、命中精度を向上させたということではないかと思います。





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