中国人から見た十一年式軽機関銃

 旧日本軍の十一年式軽機関銃について論評した中国語のページの内容を紹介します。十四年式同様画像は表示されません。

日本十一年式6.5mm軽机槍


「歪把子」を詳しく語る 日本の十一年式6.5mm軽機関銃

抗日戦争時期に日本軍が使用した軽火器論評その2

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「井穽炭鉱での戦闘で八路軍が使用する「歪把子」(1940年8月20日)。わが河北の井穽炭鉱を侵略占領した日本鬼子に向かって射撃している。「歪把子」装弾器の中の弾薬クリップに注意。」 「井穽炭鉱」は日本軍の重要な燃料基地だったということです。なお、これから後の画像のキャプションは、画像が表示されないのではあまり意味がないので省略します)

あだ名の由来(頑住吉注:「歪把子」の発音は「ワイバーズ」に近いです)

日本の十一年式6.5mm軽機関銃は、日本が大正十一年(すなわち1922年)に採用、生産、部隊に装備した分隊用軽機関銃である。日本軍が中国侵略戦争中最も多く使用した分隊用自動火器でもある。中国の一般民衆は当時、日本鬼子の武器の機種名、年式をはっきり言えることは多くなかったが、「歪把子」と言えばほとんど知らない人はいなかった。ある場合には「歪把子」は旧式な軽機関銃の代名詞にさえなっていた。

「歪把子」は中国の広大な抗日軍民が日本の十一年式6.5mm軽機関銃につけた俗称である。中華民族は語彙が豊富なことで世界に有名であるし、中華民族は同様に愛憎がはっきりした性格でも世界に有名である(頑住吉注:意外ですが、嫌いな奴はとことん嫌う、というメンタリティが世界標準から大きくかけ離れているという自覚は一応あるんですね)。「歪把子」というこの俗称は日本の十一年式6.5mm軽機関銃の造形上の本質的特徴を描写しているし、また中国人民の侵略者に対する憎悪と恨みも含んでいる。日本の十一年式6.5mm軽機関銃は、伝統的な小銃のストックに似た「槍頚」(頑住吉注:文脈からしてストックの、手で握るくびれた部分を指すようです。以下「ストック基部」とします)を採用している。同時にその照準線は銃の右側にオフセットされているので、使用者が照準時に首を右に曲げすぎることを避けるため、本来非常に細長いストック基部が右に湾曲し、ストックの位置が肩付け銃を構えて照準する際の人間工学性を満足させるようにしている。これがまさに「歪把子」の由来である(頑住吉注:つまり客観的に見て「把子」つまり取っ手が曲がっている、という意味と、「ねじ曲がった奴」という悪意を込めた意味を兼ねている、ということでしょう)。

(頑住吉注:これより2ページ目)

誕生の背景

「歪把子」は何故このように「怪異」で、他の多くのものと違うのか? まず当時の日本軍の第一線の歩兵分隊、班支援火器の戦術的使命と戦術技術要求から語り始める必要がある。

第一次大戦終結後、世界各国、特にいくつかの軍事大国には新たな軍備競争と軍事思想を変革する風潮が生まれた。日本軍国主義も当然落伍に甘んじることはなく、それどころかトップ争いする勢いだった。第一線の歩兵の火力を増強するため、欧米列強の軍隊のやり方を真似て、日本は歩兵分隊、班のために1〜2人で操作使用する自動火器、すなわち軽機関銃の設計を開始した。日本陸軍はこの軽機関銃の全体的戦術技術要求に対し、少なくとも以下のような考慮をした。

まず、自動火器を分隊、班に編入することは第一線の歩兵の弾薬消耗量を増大させることが必定だった。このため、これによってもたらされる弾薬の保障問題を考慮することが必須だった。これ以前、日本陸軍第一線歩兵分隊、班は自動火器を装備したことがなく、全て非自動の三十年式あるいは三八式小銃だった。弾薬の保障問題は2つの方面を含む。1つは弾薬の数量の問題で、すなわち使用するのに充分な量を確保する必要がある。もう1つは弾薬のタイプの問題で、すなわち汎用性を確保する必要がある。「汎用」は「弾薬保障」確保の根本要求でもあった。小銃と機関銃が同一種類の弾薬を使用すれば、最大限に戦闘中の弾薬保障の便利さを向上させることができるのだった。

第2に、日本陸軍はさらに一歩踏み込んで第一線の歩兵が戦闘中に使用する弾薬の利便性問題を考慮した。この銃は第一線の歩兵分隊、班に編入される自動火器であり、歩兵と同じ給弾具を使用すべきであると要求したのである! つまり、この機関銃は小銃のような5発が一列になった弾薬クリップを使用して給弾する必要があった。このようにすれば第一線の歩兵は給弾具の共用を実現することになる。こうして弾薬保障の利便性をさらに一歩高めただけでなく、工場での生産、特に弾薬の包装方面の工程が簡略化された。道理で我々が戦争時代に鹵獲された箱ごとの日本の6.5mm小銃弾薬を見ると、全て弾薬がクリップに装備されて(クリップ1つに5発)まとめて収納されている。弾薬がバラで包装されていたことはいまだかつてほとんどない。このようにして戦場では、箱を開ければすぐに直接小銃および機関銃に同時に供して使用できた。

小銃、機関銃の弾薬の共用が強調されるのと同時に、小銃、機関銃の給弾具の共用も強調された。七十年余り前、これは相当に進んだ思想だったと言うべきであり、当然相当に理想的な思想でもあった。小銃、機関銃が同じ弾薬を使用し、同じ給弾具を使用し、一箱の弾薬を開封すれば、小銃手も直接使用でき、機関銃手も直接使用できる。戦闘中、小銃手の弾薬を集めてきて機関銃の使用に供することもできる。機関銃が故障したら、あるいは弾薬節約のため、余った弾薬を小銃手に分け与えて使用することもできる。このような戦闘使用、また服務戦闘使用に基づく、「使用に便利、保障に便利、生産に便利」な思想は、間違いなく望ましいものである。しかし、第二次大戦期間全体を通じ、参戦した各国は実際上小銃、機関銃弾薬の共用を実現しただけに過ぎず、給弾具の共用化は1950年代中期になって、ソ連のカラシニコフの設計によるAKM歩兵用銃器ファミリーでやっと実現された(頑住吉注:RPKのことを言っているんでしょうか。英語版「Wikipedia」では1950年代の遅い時期に開発、配備されたのは1961年とされてますが)。

機関銃が自動火器として、小銃という非自動火器の5発弾薬クリップを共用できる必要があるということは、この軽機関銃は2つの最も基本的な要求を実現することが必須であるということを意味している。1つ目に、小銃の5発弾薬クリップを収納保管する場所を持つことが必須である。2つ目に、機関銃の自動射撃という要求を満足させ、小銃弾薬のクリップ式給弾具上の弾薬を絶え間なく連続で給弾位置に送り込めることが必須である。そこで、軍部の戦術技術要求をめぐり、日本の第1号の制式軽機関銃は、設計上および製造上、当時の日本の工業科学技術の全てを出しつくした状況下で作り出されたのである。

(頑住吉注:これより3ページ目)

構造は奇怪

これは世界で類例のない軽機関銃である! あなたが自身の目でこれを見れば、特にこんな風に一度いじれば、あなたがきっと筆者と同じ感慨を持ち、この機関銃は当時の日本工業科学技術の最高水準を体現していると言うと信じる。これは全くオーバーではない。今日の目で見ると、我々は現在例えばプレス、リベット止め、溶接、精密鋳造等の、とっくに相当成熟している一連の製造技術、そしてCNCマシンという近代的機械加工手段すら運用できるけれども、これと同じような「歪把子」を作り出すのは絶対に簡単なことではない。当時、純粋な機械加工手段を用い、鋼鉄の塊からこのように複雑な形状をまるまる削り出すのはなおさら本当に容易でなかったことは推して知るべしである。作り出した者たちの頑固さと執着を見るに足り、当然まずい部分も少なくない。

「歪把子」の構造設計を見ると、2つの非常に顕著な特徴がある。1つは軍部の戦術技術性能に関する要求に対し、最大限遵守しようととし、かつ創造性をもって実現している。2つ目は当時の世界の先進的銃器原理を最大限に吸収しようとし、かつ創造性をもって運用している。

自動方式上、「歪把子」はガスオペレーション式作動原理を採用しており、その自動機構ユニットの全体構造および作動原理は、基本的に当時ないし現在世界各国の機関銃に普遍的に採用されている方式であり、筆者はここでもはや詳述しない。

我々が「歪把子」は世界でも類例を見ない軽機関銃だというのは、主にこの銃が給弾方式の上で独自の一派を成しているからである。当然これは「歪把子」の最大の特色がある部分でもある。記述の便のために、ひとまず先に非自動小銃の給弾方式を理解しておこう。5発弾薬クリップを使用する非自動小銃に関して言えば、その装弾、排莢の過程は完全に手動の状況で完成される。

−ボルトを後方に引いて止める

−5発の弾薬をセットしたクリップをクリップガイドミゾに挿入する

−右手の親指でまっすぐ下に向けクリップ上の弾薬を小銃の弾倉に押し込む

−クリップガイドミゾから空になったクリップを抜き去る

−ボルトを前に押し、1発目の弾薬をチャンバーに進入させる

弾薬クリップを使用して装填発射を自動的に完成させる手順のためには、自動的に弾薬を銃内に押し込む、そして自動的に空になった弾薬クリップを排出するという、この2つのカギとなる技術の解決が必須である。しかも、この過程は絶え間なく繰り返し、機関銃の連続発射という要求に適応することも必須である。同時に、一定の火力持続性を確保するため、給弾装置には一度に数個の、5発の弾薬をフル装備したクリップを入れられることが必須である。しかも、個々の弾薬クリップごとに弾薬を押し出し、1発1発チャンバーに進めることも必須である。これらの過程のそれぞれの段階は、相互に制約し合い、また相互に補完し合って成り立ち、各自が機能し、また密接不可分でもあって、どれか1つの段階で問題が起きれば、必ず給弾システム全体の故障発生を招く。戦術技術要求を達成するため、「歪把子」は上から6つの弾薬クリップ(合計弾薬30発)を入れられる、形状が「漏斗」に酷似した装弾器を採用した。この「漏斗」の前面にはスプリングが付属した圧弾蓋板があり、「漏斗」の中に弾薬を入れる時、まずこの圧弾蓋板を前上方に開き、続いて「漏斗」の中に6つの弾薬クリップを入れ、その後圧弾蓋板を再び閉めて、「漏斗」の中の弾薬が蓋板に圧迫されるようにした。このようにして、弾薬が「漏斗」内から落ちないことも確保され、また弾薬を安定してチャンバーに進むための位置に保持することもできた。次に、連続的に銃内に弾薬を押し込む問題を解決すべきである。この段階では、「歪把子」は成功し、かつ創造性をもってベルト給弾機関銃の給弾原理を応用したと言うべきである。「歪把子」のボルトキャリアには斜め向きのガイドミゾが加工され、「漏斗」底部の弾薬を動かすためのアーム状部品の突起がこのボルトキャリアの斜め向きのガイドミゾ内に位置している。ボルトを引く(ボルトが射撃中に前後に往復運動する場合も含む)時、アームの突起はボルトキャリアの斜め向きのガイドミゾの作用下で、これに連動し横向きの往復運動をする。弾薬を動かすためのアーム状部品にある弾薬を動かす歯状部分が弾薬クリップ上の弾薬を絶えず弾薬を進めるルートの開始部に押し出し、ボルトの前進時、弾薬を押してチャンバーに入れ、撃発する。クリップは「漏斗」の両側の壁に制限されて左右に移動できないので、アーム状部品が銃内部に向かって弾薬を抜き出す時、空になったクリップは「漏斗」の中に留められ、一番上のクリップの弾薬が自身の重量と圧弾蓋の圧迫下で弾薬を進める位置に進入した時、一番下の空クリップは「漏斗」下面の開口から脱落する。ここまで語って、我々は「歪把子」の給弾過程に対し初歩的な理解が得られたと言える。実際には「歪把子」の給弾機構の「上に圧迫」、「横に進む」、「前に押す」、「下に落ちる」の協調と以心伝心のマッチングは、1つの相当に複雑な循環機械運動であって、行うことは容易ではなく、用いることも簡単ではない。

(頑住吉注:これより4ページ目)

事倍功半 (頑住吉注:「倍の労力をかけ半分の成果しか得られない」という慣用句だそうです)

「歪把子」の姿から、我々はさながら当時の日本軍で優位を占めていた「大陸軍主義」、はなはだしきに至っては「大歩兵主義」を目の当たりにすることができる。この種の極めて煩瑣、複雑な給弾方式は、1つの方面から日本軍国主義の教条主義、紋切り型なところを体現してもいる。「歪把子」は日本陸軍の戦闘に基づく弾薬保障の思想を実現しているが、1挺の軽機関銃として戦闘使用方面における全体的性能を犠牲にしてしまっている。「胡麻を拾ってスイカを失う」という中国の民間のことわざを使って形容してもまさにぴったりであり、言い過ぎではない(頑住吉注:「胡麻を拾ってスイカを失う」というのは、取るに足りない1粒のゴマを拾うことによって大事なスイカ1個を失ってしまう、つまりどっちが大切なのか適切に判断できないことの例えだそうで、多少ニュアンスが違う感じもしますが「角を矯めて牛を殺す」に近いと思われます)。

実戦は、銃器の構造が簡単になればなるほど、これに応じ信頼性も高くなり、逆にすれば信頼性はどんどん悪くなることを証明している。「歪把子」が採用したこの種の給弾方式は、構造と作動が複雑すぎる。またこの種の機構、作動の高度な複雑性は、同時に故障率が高いという潜在的な問題を隠していた。まず、「歪把子」は気象環境の変化に非常に敏感で、元々我が国の東北地区の厳しい低温の条件下で使用した場合の信頼性が劣り、そこで油壺を装弾器の脇に装備し、随時機械部品と弾薬に油を塗るという方法で信頼性を保持する方法を取った。これは世界のその他の国の機関銃に見られることの少ないものである(頑住吉注:シュワルツローゼ機関銃にも似た機構があったとの記述が以前ありましたね)。後に東南アジア地区の高温多湿の条件下で使用した場合の信頼性がさらに劣り、はなはだしきに至っては油壺さえ何の役にも立たなくなった。実際上、「歪把子」は寒くも暑くもなく、乾燥しても湿ってもいない季節で、しかも念入りにクリーニング、メンテナンスし、そして戦闘の烈度が柔和な理想条件下でのみ、故障率がやっと相対的にやや低くなる可能性があったあ。しかし、どこに行けばこのような理想的作戦条件が探せるのか? 言うまでもなく、凍りつくような寒空と雪に覆われた大地、曇って雨が降り地面がぬかるむ、風と日差しが強い気象条件の下で戦闘し、土にさらされ塵が舞い上がる状況も普通のことで、至る所で免れがたい。ごくきれいにクリーニングして少し油を塗ってもいいが、もし土にまみれ塵が舞い上がっている時に油を塗れば、機械部品と弾薬はすぐさま「油泥」がたまった状態になり得る。次に、この種の給弾方式の採用は、「歪把子」を人間工学的に極めて悪化させた。スムーズに弾薬をクリップから1発1発抜き取ってチャンバーに進めることができるように、チャンバーそばの給弾ルートには5発の6.5mm小銃弾薬のリムの直径の合計より小さくない一定の距離があることが必須である。このため、6つのクリップの弾薬を満たせる装弾器は、銃の軸線の片側にオフセットして配置するしかなかった(「歪把子」の装弾器の外側の縁から銃の軸線までは幅100mm以上ある)。軽機関銃は第一線の歩兵分隊、班において最も使用が頻繁で、使用の烈度も最高の武器である。機関銃の人間工学的な良し悪し、優劣はその戦闘機能の発揮および戦場における生存能力の強弱に直接影響する。「歪把子」は人間工学方面の問題が比較的多い。筆者は一部のみ選んで記述する。

(1)「歪把子」は戦闘使用中の装弾手順が複雑で、操作がスムーズでなく、弾薬手への依存度が高い。日本陸軍が小銃弾薬のクリップで給弾する理念の採用を堅持したのは、元々戦闘使用に便利という初志から出たものだった。例えば、射撃の合間を利用して適時に「漏斗」に補給してフル装填にする、ということである。この点はちょっと聞くとかなり道理があるようだが、全体的に見ればすこぶる牽強付会である。日本軍の教範の操作規定によれば、弾薬装填時、射手は右手でストック基部を握り、左手で装弾器の圧弾蓋板を開き、弾薬手は機関銃の左側に位置し、右手の親指を下、人差し指と中指を上にして、弾薬箱から2〜3つのクリップを取り(弾頭を前、クリップを後ろに向ける)、クリップの底部を後ろにして揃え、装弾器(「漏斗」)内に入れ、しかもクリップと装弾器の後面が揃うようにし、5〜6つのクリップを入れた後、圧弾蓋板を戻す。読者が上述の操作要領の中から「歪把子」装弾操作の煩雑さを感じ取るのはきっと難しくないはずだ。もしも夜間あるいは緊急状況下で補充装弾するとしたら、困難でどうしてよいか分からなくなる。もし突撃あるいは砲火の下で行動だと、弾薬手がついて来ないかあるいは死傷したら、本当にもっと手に余ることになる。

(2)「歪把子」のバイポッドは長すぎ、火線が高すぎ、しかも位置が非常に前寄りで、火力を発揮するのに不便である。また射手、弾薬手の位置が緊密すぎ、戦場での生存能力が弱い。機関銃の火線の高さとは、機関銃のバイポッドを地面に立て、バレル軸線から垂直に地面までの距離を測った数値を指す。「歪把子」のバイポッドの脚部は比較的長く、このためその火線の高さは400mmに達する。このため一般の機関銃の火線と比べて高い(通常機関銃の火線の高さは300mmを超えず、しかも大多数はできる限り火線の高さを低くしている)。装弾器の位置はすでに確定しているので、バイポッドを前寄りの配置にして装弾器との相互干渉を避けるしかなかった。その上脚が長くて火線が高く、これは一方で大仰角射撃に有利ではあるが、水平射撃、また特に俯角をつけての射撃にはきわめて不利になる。射手は往々にして上半身を高く晒してやっと照準できる。当時の日本の兵士の平均身長は160cm前後で、理論上遮蔽には有利だったが、かくのごとくバイポッドが長く、火線がかくのごとく高い「歪把子」を使用すると、非常に難儀に感じることを免れず、死傷する確率も高くなり、体形矮小のメリットもとっくに消え果てていた。戦闘中、射手と弾薬手が固まって銃をいじくり回して弾薬を装填するが長時間かかっても終わらない、これは戦場で最も忌み嫌われる事である。第一線の戦場で、歩兵の主要武器として、機関銃は往々にして敵の集中攻撃を受ける、まず排除すべき目標である。特に非自動武器が主導的地位を占めていた昔の戦場では、機関銃の敵に対する脅威度は高く、このため敵から撃滅される危険も大きかった。抗日戦争の時期、わが抗日軍民の「歪把子」に対処する1つの有効な方法は、もっぱら「漏斗」の弾薬を撃ち終わるのを待ち、鬼子が装填を終え再度発砲するのを待たず、ただちに銃ないし手榴弾の一斉攻撃で反撃することに他ならなかった。通常人間が死ぬのではなく銃が壊れた。この時日本鬼子の機関銃手の死傷率は高く、鹵獲された「歪把子」もかなり多かった。多くは撃たれて壊れたものだけだったが、数挺の壊れた「歪把子」から1挺のまともな「歪把子」を組み立てるのもしばしばある楽しくてたまらないことだった。余談だが、「歪把子」と「三八大蓋」(頑住吉注:三八式歩兵銃の俗称。大きな防塵カバーがついていることによるそうです)は同じ弾薬を使用するが、撃ってみると銃声は「三八大蓋」よりずっと大きく(頑住吉注:銃身長が三八式の797mmに比べ443mmしかなかったためだと思われます)、加えてその発射速度は速くなく、多くの銃砲声の中で特別に人の注意を引き、独特の「風景」を構成した。このためしょっちゅう抗日軍民が戦場の状況を判断し、また兵力を巧みに用いるための1つの要素となった。「歪把子」が抗日武装戦力によってマークされて撃滅され、鹵獲が心がけられたのは理の当然である。

(4)「歪把子」銃全体の構造レイアウトは全て小銃弾薬クリップ給弾を使用するという陸軍の要求から出発している。このためその他一切のレイアウト問題は全て装弾器、はなはだしきに至っては装弾器をどこに配置するかをめぐって決められている。装弾器が銃の軸線より左にオフセットされているため、以下の欠陥が生じている。1つ目は銃全体の重心が左に偏っていること。連続射撃時、射手は終始銃を右に修正する力を加え続ける必要があり、もしこの点に注意しないと弾丸はどんどん左に偏っていく。2つ目は照準具を右に置かせることを強いたこと。一般の銃器の照準具は通常銃の軸線の中心あるいは銃の軸線の左側に配置されている。このようにすれば人の頭、首、目、頬という人体構造に比較的マッチする。照準具を右に偏らせて配置すると、人の頭や首を曲げて目を斜めに傾けてやっと照準できることになり、照準できるかできないかの問題ではないが、首を曲げ目を斜めに傾ける、これだけでも人を耐え難くさせる。そこで間に合わせ的にストック基部を右にちょっと曲げる、「歪把子」の名はこうしてできたのである。「歪把子」のあだ名がついただけでなく、射手にとってもややましになった3つ目は銃の操作がひねくれて面倒なものになる結果がもたらされている。これは主に以下の数方面に表れている。1、銃をかついだ時、「歪把子」の装弾器が右肩を圧迫し、銃が右に回転する傾向になり、左向きに手に力を入れ続けなければならない。もし「歪把子」を左肩にかつげば、装弾器が顔の左にぶつかり、しかも銃を完全に肩にかけることができず、かつぐことが難しくなる。徒歩の行軍では肩を順番に換えながらかつぐが、どちらでも快適ではない。2、「歪把子」にはキャリングハンドルがなく、素早く銃を下げて行進するのに不便である。また機関銃は小銃に比べずっと太く、銃本体を直接握ることはできず、ゆえに銃をかつぐ、あるいは体の前で持つような姿勢を取るしかなかった。十kg余りの機関銃を長時間後者の姿勢で持つ、しかもその重心は装弾器の前にある、腕、肩、首、腰の疲れは推して知るべしである。3、装弾器が腹や腰に当たらないように、「歪把子」の前後のスリングリングはいずれも銃の右側に設けられており、しかも銃を背負うあるいは銃を下げて持つ時、装弾器が回転して上を向く、あるいは逆に下を向き、非常にやっかいである。4、銃を手で持って射撃する時、弾薬手が射手によって左方を邪魔され、補充装弾が困難である。往々にして手に持った銃が弾薬を撃ち終わった後、銃を手から離して弾薬を装填する必要があった。5、「歪把子」の「魚の尾」型のストックは、銃全体の造形と合わせればマッチしているが、肩当てで銃を構えての射撃時、バットプレートの突出部がちょうど射手の右鎖骨に当たり、耐え難く痛い。6、「歪把子」のバレル上の放熱リブは外径が太すぎ、銃の重量をとんでもなく増加させている。キャリングハンドルあるいはハンドガードのたぐいの部品が設置されていないので、バレルが射撃により加熱すると直ちに掴める所がなくなる。このため「歪把子」は出荷時、間に合わせ的にこの銃のバレルの放熱リブ上を火傷防止の帆布ジャケットで包み、これでちょっとましになった。7、「歪把子」のバイポッドは銃全体で最も不合理な部分の1つである。その脚の上端はボルトバーを使って固定リングに連結されているが、たたんだ時も伸ばした時もロックがない。銃の操作過程で、バイポッドの2本の脚は慣性によってじゃらじゃらと振り回され、銃を構えた時、片方の足が傾いて銃を支えきれなくなり、銃が地面に倒れることがしょっちゅうだった。射撃時、銃がしょっちゅう前傾した。緊迫の中銃がひとたび傾けば弾丸が手前を撃って自分が傷つく可能性があった。「歪把子」の不合理なところは多すぎて、本当に1つ1つ挙げていくのは難しい。

(頑住吉注:これより5ページ目)

教学用銃

軍国主義侵略戦争の必要に合わせるため、日本は大量の兵員でこれを支えることが必須であり、このため昭和元年が始まると、日本は学校で広範な青少年に対し軍事訓練を開始した。そこで訓練に使用する教練銃の需要も激増した。軽機関銃は日本軍の主要な自動火器であり、同時にその訓練方法と操作上の要求は小銃とは異なるため、日本の多くの軍需工場と民間の武道用具工場は競って「歪把子」機関銃の訓練に用いる教練機関銃を生産、製造した。これらの教練機関銃は民間の軍事訓練に提供された以外にも、一部分が日本海軍や陸軍部隊にも射撃訓練および戦術訓練時の使用のために提供された。「歪把子」教練機関銃の外観造形は、本物の「歪把子」と非常に似ていたが、構造上は大きく違っていた。「歪把子」教練機関銃の自動方式には、日本の「一百」(頑住吉注:中国語では100をこう表記します)式サブマシンガンと似たストレートブローバック式原理が採用され、構造は非常に簡単で、加工製造も簡単なら価格も低廉だった。給弾方式は容量15発のシングルカアラム弧型マガジンが採用され(頑住吉注:それではあまり訓練にならんのでは)、マガジンは銃本体の左側に横置きにされた。使用する弾薬は、6.5mm木製弾頭の小銃・機関銃用空砲弾薬が主で、実弾を発射できる教練銃もあった。「歪把子」教練機関銃にはもう1つ典型的特徴があり、それは通常体積の上で本物の「歪把子」よりもやや縮小されていたことで、本物の「歪把子」の7/8だった。これは訓練対象の大多数が青少年、学生だったという状況に合わせたのかもしれない。

全体的に言って、「歪把子」はまたとない特色を持つ機関銃であるが、性能良好な機関銃ではないことも確かである。初期には日本軍歩兵に宝物(頑住吉注:どうでもいいですが原文では珍宝)として見られ、非常に大切にされたこともあるが、最終的にはやはりやむを得ずマガジン給弾の九六式6.5mm軽機関銃に取って代わられた。抗日戦初期、中国抗日軍民も「歪把子」を重視し、戦闘のたびに鹵獲を欲したが、後には正規部隊での使用はさほど多くなくなった。だがチェコのZB-26軽機関銃を普通に使用できる部隊は決して「歪把子」を使うことはなかった。ただ地方部隊、民兵、遊撃隊が「歪把子」を使うことはやや多かった。後には鹵獲された九六式6.5mm軽機関銃が抗日武装戦力の中で徐々に「歪把子」の地位に取って代わっていった。建国以後、1960年代前半になっても我が国の一部の民兵分隊がまだ「歪把子」を使用していた。現在、これら日本の侵略軍の手中から鹵獲された「歪把子」は当然に、しかも全く疑問の余地なく日本ファシズムの中国侵略の動かぬ証拠となっている! 「歪把子」は日本の比較的早い時期の銃器技術方面のすこぶる風変わりで奇妙な特徴を充分に明示しているだけでなく、日本軍国主義の人文心理方面のすこぶる「専断武蛮」な特徴も充分に明示している。今日思えば味わいが深い‥‥。


 「発想は進んでいたし理想的なものだったが、結果的に出来たものは複雑すぎて信頼性が劣り、人間工学的に使いにくいものとなった。確かにメリットはあるが、信頼性や使いやすさを犠牲にするほどではなく、明らかに引き合わない。」といった評価で、これは現代日本人の評価とほとんど変わらないのではないかと思われます。

http://v.youku.com/v_show/id_XMjg2NTkxMzUy.html

 この銃の実射シーンの動画です。一応快調に作動しているようですが、やはり射撃持続性が低すぎる気がします。

http://bbs.tiexue.net/post_1960229_1.html

 いくつか画像があるページです。








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