中国人から見た十四年式拳銃

 「昔のマイナーなサブマシンガンシリーズ」として紹介したページの大部分は「南京軍物志」というサイトからのものでしたが、このサイトでは最近、旧日本軍の兵器をいくつか取り上げています。今回は十四年式拳銃に関するページの内容を紹介します。なお、画像が表示されませんが、十四年式の画像は他でいくらでも見られるのでどうでもいいでしょう。興味深いのは中国人がこの銃をどう見ているかです。

日本十四年式8mm半自動手槍


「王八盒子」を詳しく語る 日本の十四年式8mm半自動拳銃(「王八」とはカメ、「盒子」は箱です。何故そう呼ばれたのかは文中に出てきます。発音は「ワンバーハーズ」といった感じです)

特別テーマ・反ファッショ戦争勝利60周年

抗日戦争時期に日本軍が使用した軽火器論評その1

筆者の言葉 今年は中国人民の抗日戦争勝利60周年であり、世界人民の反ファッショ戦争勝利60周年でもある。今のことから昔を偲び、中国人民は永遠に日本帝国主義が中国で犯した極めて大きな罪を忘れることはない。今という歴史の中の時にあって、抗戦時期の日本の侵略者が使用した軽火器という1つの角度から、侵略と反侵略との闘争という過去の出来事を見てみると、感慨がなくもない。ここで、我々はまず日本の侵略者が使用した拳銃から語り起こそう。

俗称の由来

抗日戦争の時期、中国を侵略した日本の軍、警、憲(頑住吉注:兵?)、特(頑住吉注:高警察?)およびその他の中国侵略機構が使用した拳銃は、日本本国で製造されたものを除くと、多くの欧米やその他のいくつかの国および地域から来たもので、機種は多く、タイプは雑多だった。しかし、日本軍に最も多く配備、使用された拳銃は南部十四年式8mm半自動拳銃である。ただし、当時の中国の一般民衆、および現在の中国の一般民衆に、南部「十四年式8mm半自動拳銃」という名前を言っても、知る人は少ないようだ。だが、もし日本軍が使用した「王八盒子」と言えば、ほとんど知らない人はいない! 本当に場所がどこでも、老いも若きも、「王八盒子」がどんなものか本当に知っているかどうかを問わず、この名は心に刻まれているようだ。日本軍国主義の侵略者が中国人民の心中に残した歴史の烙印の深さの一端をここに見ることができる。

「王八盒子」は中国人民が日本の南部「十四年式8mm半自動拳銃」に与えた、イメージをわかせるぴったりな俗称である。この、習わしとして次第に一般化した「俗称」は、いったいどこにルーツがあるのか、今ではすでに考証することはできない。当時の歴史および中国の民俗的特徴を根拠に推理すると、「王八盒子」の名は我が国の東北地区から最初に発した可能性がきわめて高い。

「王八盒子」の名はどうしてつけられたのか? 当然まず中国人民の日本の侵略者に対する恨みと憎悪から語り起こす必要がある。皆周知のように中国の民間の言葉で「王八」は絶対的なけなしの意味合いを帯びている(頑住吉注:「ドジでノロマなカメ」よりきつい意味みたいですね)。中国の抗日を行う軍、人民が「王八」というけなしの言葉を使って日本の侵略者に対する憎悪の情を表現したのはありそうなことである。それでは何故南部十四年式8mm半自動拳銃だけに「王八盒子の名を冠したのか? 主な原因は2つある。その1、昔の中国の一般民衆は通常、比較的軽く革製ホルスターで直接腰に吊っている拳銃を「〜子」と呼び(頑住吉注:日本語にない漢字なので原ページで確認してください)、一方比較的重く木製あるいは革製のホルスターでベルトを使って肩に斜めにかけて携帯する拳銃を「盒子槍」と呼ぶ。例えばモーゼルミリタリーピストルは「盒子槍」、「盒子砲」等々と呼ばれた。抗日戦争中、日本軍が普遍的に装備した南部十四年式8mm半自動拳銃は、絶対的多数が革製のホルスターを肩から斜めにかけて携帯された。このため中国の一般民衆も自然にこれを「日本盒子槍」と呼んだのである。その2、南部十四年式8mm半自動拳銃の革製ホルスターは設計上、予備の弾薬や弾倉を携帯できるように、ホルスターの蓋に円形の凸面の固い造形様式を採用し、遠くから見るとこの蓋が「王八盒子」にそっくりだった(頑住吉注:捕獲したカメを入れる容器か何か、あるいは亀の甲羅のことでしょうか)。このようにその形から考えて人々が「王八盒子」と呼び、それがぴったりはまり、「固有名詞」としてお約束になったのである。

そこで、中国抗日軍民の習慣を尊重し、以下の南部十四年式8mm拳銃が登場する部分は全て一律に「王八盒子」と呼ぶ。

装備使用

「王八盒子」は第二次大戦期に日本軍が装備した制式拳銃であり、日本軍の正規部隊が普遍的に装備した標準的拳銃でもあった。軍制学的角度から言うと、「王八盒子」は当時の日本軍の一つの象徴的装備だった。まず、「王八盒子」の日本軍内における装備範囲は広く、将軍から士官まで、陸軍の一般歩兵部隊から砲兵、工兵、装甲兵等各種特殊部隊、および海軍や空軍の各部隊、各階層が普遍的に装備した。まさに日本軍のどこにも「王八盒子」があって、どこの中国軍民も「王八盒子」を知っていた。当然中国抗日軍民が鹵獲した「王八盒子」の数量も相当なものだった。次に、日本軍の制式武器として、「王八盒子」は一般に傀儡軍、売国奴、イヌの使用のためには装備されず、中国を侵略した日本の特務隊、警察およびその他のいくつかの準軍事機構あるいは非軍事機構等々さえ、いくつかの欧米等の国や地域の拳銃を除き日本国産の拳銃では通常「杉浦式」、「九四式」等々のみに限られ、「王八盒子」が使われることはきわめて少なかった。

中国抗日軍民に関して言うと、「王八盒子」使用の状況はちょうど反対だった。中国共産党が指導する八路軍、新四軍、および国民党が対日作戦に直接参加した正規部隊の中で、鹵獲した「王八盒子」は比較的多かったものの、直接使用されたものは非常に少なかった。偵察人員に少数提供され、便衣偵察中に使用されたし、部隊内でも使用はされたものの、その「王八」ホルスターと一緒に使用することは決してなかった。当時、裾野の広い抗日遊撃隊および各種の地方抗日武装勢力の中で、「王八盒子」を使用したものは決して少なくなかったが、やはりかの「王八」ホルスターと一緒に使用することは決してなかった。ほとんどあらゆる抗日戦争に参加したことのある老軍人は戦闘に関する話に及ぶと、特に銃砲に関する話になると、皆詳しく話して尽きず、感慨も尽きないが、「王八盒子」に言及する人は少しだけしかいない。好奇心をもって質問するたびに、往々にしてさげすんだ表情になる(頑住吉注:質問者をではなく銃をです)。これでこの拳銃に対する複雑な心情を見て取るに足りる! 日本の侵略者が製造した武器の本意は、殺戮を通じて中華民族を征服することであり、これが逆に中国人民に奪われて殺戮への反抗、征服への反抗に使われたのである。この意味から言うと、武器それ自体には階級性はなく、国境すらないのである。しかし、人々が日本軍国主義およびその悲惨な暴行に対する憎悪と恨みが、「王八盒子」という拳銃を通じて体現されているという状況は、他の鹵獲兵器にはあまり見られないものである。

構造分析

「王八盒子」は日本が、当時日本軍が統一された制式軍用拳銃を持たないという問題の解決のため、大正十四年(1925年)に日本陸軍大将南部麒次郎が設計した南部陸式8mm半自動拳銃を基礎に改良してできたものである。これ以前、日本軍にあった国産拳銃は主に南部の設計による各種拳銃および九四式拳銃であり、これらの拳銃の口径はいずれも8mmだった(頑住吉注:日本人には説明不要でしょうが十四年式の数字は大正、九四式の数字は皇紀であり、前者は西暦1925年、後者は西暦1934年ですから九四式の方がずっと後です)。このため日本軍部は新制式拳銃の口径も8mmとし、かつ弾薬は以前の各式8mm拳銃と共通にするよう要求した。この他、この新式拳銃の戦術技術性能には間違いなく腕が振るわれた。主要な特徴は以下のようなものである。

(1)「王八盒子」はショートリコイル自動方式を採用し、閉鎖ブロック後端が下落して開鎖を行い、閉鎖は非常に確実である。その特徴はドイツのモーゼルM1896半自動拳銃(いわゆるモーゼルミリタリーピストル)およびワルサーP38半自動拳銃の閉鎖構造のようである。

(2)「王八盒子」はブローニング拳銃に似たマガジンセーフティを採用している。マガジンを取り外すと、もしチャンバー内に弾薬があるままでも、しかもマニュアルセーフティをかけていなくても、暴発事故が発生する可能性はない。当時の日本軍において拳銃が暴発事故を起こす主要な原因は、マガジンを取り出せば銃はただちに安全になるという錯覚のせいだったとされる。「王八盒子」のマガジンセーフティ機構は、日本軍人に上述の錯覚が多く、しょっちゅう誤操作により暴発が起きる事に対応して設置された。マガジンセーフティの特徴は、マガジンを下に向け少し(約3〜4mm)引き出すと、トリガーを引いても撃発できなくなることである。

(3)「王八盒子」の造形レイアウトは、拳銃射撃時の指向性という重要な人間工学上の問題を充分考慮してある。この銃のグリップとバレル軸線の間の角度は120度に設計され、このため緊迫した局面においてあわただしく銃を取り出して射撃する時、銃を握った手の人差し指が物を指差す習慣通りに発砲でき、有効に拳銃の戦闘反応時間が短縮され、また射撃精度が高められる。この種の、ドイツのルガーP08拳銃に似た造形レイアウトは、「王八盒子」の重心を基本的に手のひらの中心位置に置かせることになる。しかも使用される南部8mm拳銃弾薬の各種性能指標は欧米各国および世界各地で多用される9mmx17自衛用拳銃ショート弾薬相当であるが、サイトラインは200mmに達し、威力は大きくないが精度は比較的高かった。特にその細長いバレルは、照準における方向誘導に良好に作用した。このため「王八盒子」の射撃精度は当時の世界各国の拳銃の中で、比較的優秀なものと評価される。

(4)「王八盒子」は全体構造設計上、過去の日本の拳銃と比較して大いに簡略化されており、拳銃をよりコンパクト、シンプルにしている。その目的は、一方では簡略化された加工技術に適するようにさせ、大量生産の必要性に合わせるためだった。他方では後の戦闘使用において、構造が複雑なために起こる故障、および兵器技術勤務と保障にもたらされる面倒を減らすことだった。例えば設計上、「王八盒子」は南部陸式拳銃が復帰機構を左に置き、調節可能なリアサイトを持っていた習慣的構造とは異なり、ボルト両側面に沿って配置されたリコイルスプリングというコンパクトな構造と固定式リアサイトを採用し、比較的大幅に銃の全体構造を簡略化し、全体重量を軽減し、銃の全幅を小さくした。特に重要なのは銃全体の左右対称性で、復帰機構が左に置かれていることによって生み出されるモーメントを避けたことだ。この点も同様に銃の射撃精度を高める助けになっている。

大正十五年(1926年)11月、日本の名古屋兵器工場は「王八盒子」の大量生産を開始した。同年12月25日、大正天皇が世を去り昭和天皇が跡を継ぎ、12月31日に昭和元年が始まった(頑住吉注:25日には昭和が始まっているようですが本題と関係ないので無視しましょう)。だが「王八盒子」の左面の刻印には「十四年式」が使われ続けた(頑住吉注:年式は変わらないに決まってるでしょう)。ここに至り、「王八盒子」は急速に、続々と日本軍の使用のために投入されていった。特に説明を要するのは、我が国の東北地方に侵入し、いわゆる満州国を建設しコントロールした日本軍が、「王八盒子」を初めて装備した日本侵略軍だったことである。初期の「王八盒子」には問題が多く、その中で最も突出した問題は、ファイアリングピンの設計に重大な欠陥があったことだった。日常の使用においてしょっちゅう不発およびファイアリングピン破断等の致命的問題が発生した。特に東北部のように非常に寒い気候の中では、ファイアリングピンに塗られた潤滑油の粘性が増し、問題はさらに深刻になった。当時、拳銃ごとに全て1本の予備ファイアリングピンが添えられ、ホルスター下面の予備弾薬箱に入れられ、交換に備えられた。昭和7年(1932年)になって、南部武器社は新たに改良設計したファイアリングピンをやっと初期のファイアリングピンと全て取り換えた。当然もはや銃ごとに添えられていた予備ファイアリングピンも装備されなくなった。

ファイアリングピンの問題が解決すると、他の問題がまた発生した。この時の最も典型的な不具合は、やはり中国東北地区冬季の非常に寒い気候がもたらした。非常に寒い地域では、人員は大きく厚い防寒手袋をして武器を使用することがよくあった。この点にかんがみると、初期の「王八盒子」は防寒手袋をしていても操作しやすいマニュアルセーフティを採用している他、さらに機械加工で三層の円形で滑り止めのギザギザが設けられたボルト尾部を採用し、射手が防寒手袋をしてボルトを引く時に滑らないようになっていた。しかしトリガーガードの穴の径は、射手が防寒手袋をしていない状況下での使用上の要求しか考慮しておらず、もし防寒手袋をした人差し指が無理にトリガーガードに入れられたら、トリガーに触れないことは難しく、暴発が起こる、ということを考慮していなかった。そこで、昭和10年9月、特にトリガーガードが大型化された。このようにすると、射手がもし大きく厚い防寒手袋をしていても、その人差し指をトリガーガード内に入れることができ、しかも誤って動かすことによる暴発には至らないようになった。使用中、「王八盒子」はさらに、誤ってマガジンキャッチボタンを押してマガジンをしょっちゅう落とすという不具合を露呈した。本来「王八盒子」が採用したマガジンおよびマガジンキャッチの構造は、ルガーP08拳銃の成熟した設計だった。この構造を採用した初志は、西洋の拳銃と同じように片手でマガジンを排出できる長所を獲得するためだった。しかし「王八盒子」とルガーを比較してすぐ気付くのは、前者のマガジンキャッチボタンとグリップパネルは1つの平面上にあるが、後者のマガジンキャッチボタンはやや低くされ、グリップパネルの表面よりちょっと低くなっていた。コツというものは往々にしてこのような小さなポイントにあるのである! まさに「見かけが似ている」は「瓜二つ」ではないのである。マガジン脱落の問題に対し、トリガーガードの穴の径を大きくするのと同時に、「王八盒子」のグリップの前下部にマガジン脱落防止スプリングが追加され、マガジン前下部の対応する位置に切り欠きが追加された。この切り欠きにマガジン脱落防止スプリングがはまることによってマガジン脱落が防止された。マガジンキャッチボタンが押された時、マガジンは下に向け3〜4mm抜けるとすぐマガジン脱落防止スプリングによって阻止され、それ以上外に向かって抜け続けることはない。もしマガジン交換が必要なら、別の手でマガジンを抜き出さねばならない。このように、片手でマガジンを排出するという長所は完全になくなった。これとマガジンセーフティの組み合わせがあればこそやりすぎではない(頑住吉注:最後の部分何が言いたいのか分かりません)。

「王八盒子」にはさらにもう1カ所(頑住吉注:四文字熟語らしき語が意味不明)な部分がある。それはいわゆる「スライドストップ」機構である。マガジン内の最後の1発の弾薬が発射された後、ボルトは後退して後方位置で停止する。知らない人はきっと、これは通常言うところの「スライドストップ」だと思うだろう。しかし実際にはこれはニセの「スライドストップ」なのだ。なぜならこの時ボルトはマガジンフォーロワ後部の突起でさえぎられて後方位置にあるだけで、弾薬が尽きたことを提示する作用をし、射手に「マガジン交換すべきです」と知らせているにすぎない。しかしこの時のマガジン交換はそんなに簡単、気軽ではない。ボルトが非常にきつくマガジンフォーロワを押さえつけているので、マガジンキャッチボタンを押した時、一般のコンバットピストルのマガジンのように自動的にははじけ出ず、もう片方の手で力を入れてマガジンを抜き取るしかない。ボルトはマガジンフォーロワによってさえぎられているだけなので、マガジンが抜かれればボルトはただちにリコイルスプリングのテンションの作用下で定位置まで前進する。ただしフル装弾したマガジンに交換した後、さらにもう一度ボルトを引いて弾薬を押してチャンバーに入れる必要があり、これでやっと射撃が継続できるのである(頑住吉注:これはモーゼルミリタリーもルガーも同じですよね)。

歴史の証拠

ここまで語って、「王八盒子」はすでに人々に、ひねくれた、奇怪な印象を与えただろうか? もしひとたび手に取っていじくれば、さらに何発か撃ってみれば、あなたは「王八盒子」に対しひねくれた、奇怪な印象をさらに深くするだろう。あなたが握る「王八盒子」のグリップは、ただちに違和感を生まないにしても、すぐに日本の軍刀を想起させるかもしれない。もし本当に鹵獲した日本の軍刀を手にして2、3度高く振るえば、力がみなぎるように感じるだろう。それではこの時「王八盒子」のようなひどく細長いグリップを手にしていたら、全体的な感覚は心中ガックリである。「王八盒子」の長さは現代のコンバットピストルの中でも一流「バスケットボール選手」と評価される。しかし撃ってみたらその音は、ほとんど我々が現在使用している64式、77式小型自衛拳銃よりさらに弱いようである。全体的評価は「鈍臭過ぎ」! これだけでなく「王八盒子」のエジェクションポートはバレルエクステンションの真上に設けられており、エジェクトの瞬間、薬莢はエジェクションポートの後部にぶつかって、ほとんど垂直方向に銃の真上に飛び出す。その高さは2mにさえ達する可能性がある。この非常に熱い薬莢は続いてほとんど垂直に落下し、往々にして射手の邪魔になる。もし室内あるいは軒下で射撃したら、この状況はさらにまずいことになる。跳ね返ってきた薬莢は射手の頭の上、手の上、あるいは耳の上や襟の中に落ちてきて、痛く熱い苦しみを味わうことになることは避け難い。老軍人の「王八盒子」に対するさげすみ、そして鹵獲された大量の「王八盒子」が終始中国の抗日正規部隊の中で大量に使用されなかったのは、ただ単に60年前のあの歴史的状況に対する憤懣からだけではないようである。「王八盒子」は、本当に人をして道理を説いても受け付けなくさせる、これもその理由である。

太平洋戦争勃発後、日本軍の戦線はどんどん長くなり、武器や軍備の供給を全て本土に頼るのはもう日ごとに無理になっていった。このため、当時の日本支那派遣軍(頑住吉注:原文ママ)は1946年までに武器や軍備を占領地で自給自足する計画を提出した。この計画に基づき、1945年4月から、北京、天津、上海の兵器工場で「王八盒子」の生産が開始され、これは「北支十九年式」と称された。しかし、このいわゆる「自給自足」計画が始まってすぐ、日本帝国主義の敗戦と共に水泡に帰した。

歴史において、ソ連赤軍は1939年ノモンハンにおける対日作戦中、および1945年の中国東北における対日作戦中、多くの「王八盒子」を鹵獲した。そのうちの一部は第二次大戦の期間および戦後初期、「チェカー」(原注:全ロシア反革命分子粛清委員会、略称チェカー。ジェルジンスキーによって組織され、自らトップを務めた)に支給されて使用された。連合軍もアジア・太平洋の戦場で日本軍の手中から多くの「王八盒子」を鹵獲した。その中の多くは最終的にアメリカの兵隊たちによって「アジア版ルガー」と称され、人気の記念コレクション品となった。ヨーロッパの戦場でも、鹵獲したドイツ軍の「ルガー」拳銃をコレクションする風潮が起こったことがあり、アジアの戦争でも「王八盒子」が争ってコレクションされたのも怪しむに足りない。ただし「王八盒子」と「ルガー」は構造上間違いなく全く無関係である。(頑住吉注:この後パーツ展開図、データ、分解手順が続いていますが、画像が表示されませんし周知の内容なので省略します)


 明らかに間違った記述もありましたが、「中国人の視点から見た十四年式拳銃」、非常に興味深かったです。筆者が、旧日本軍の銃器を趣味(中国語で愛好)の対象として記述することを非難されるのではないかと恐れ、名称をすべて蔑称で統一するなど非常に慎重な書き方になっているように感じましたが、それはまさに中国人の間に旧日本軍の兵器に対する悪感情が根強く残っていることの表れでしょう。

 「北支十九年式」に関しては不明な部分が多いですが、日本軍が持ち帰ったものより現地に残った資料が多いと思われるので、この記述が正確である可能性が高いのではないでしょうか。

 ソ連でも使用されたというのは知りませんでしたが、恐怖の対象であるチェカーに日本的デザインの十四年式拳銃はミスマッチですね。










戻るボタン