戦争の年代に中国に流入したサブマシンガン

 ソ連はもちろんですがそれ以外にもさまざまな国のサブマシンガンがあったようです。

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武器「万国ブランド」! 中国の歴史上に出現した著名な外国のサブマシンガン

本文は「軽兵器」2004年第1期より抜粋 作者は孫成智 原題:「中国の歴史上出現した外国のサブマシンガン傑作選」

サブマシンガンは小火器ファミリーの中の非常に若いメンバーで、20世紀の10、20年代に始まる。中国の歴史上に外国のサブマシンガンが大量に出現したのは主に中華民国の建立から中華人民共和国成立までのこの時期においてである。この期間、中国は内戦が絶えない状態にあり、他民族が侵入する塗炭の苦しみの中にあった。当時中国の各種勢力は自らを壮大化するため、不断に軍事的実力を強化し、国外武器を大量購入しあるいは設備を導入しコピー生産した。加えて中国は第二次大戦の期間には世界反ファッショの主戦場で、戦後アメリカ帝国主義が支持する国民党はまた内戦を引き起こし、サブマシンガンは当時の優秀な兵個人武器一族として、このように大量、迅速に中国に流入した。このように言うことができる。当時中国の工業は非常に立ち後れていたが、中国に出現した外国のサブマシンガンはかの時期の世界を範囲とする優秀なサブマシンガンを代表していた。

この時期には十何カ国の何十種のサブマシンガンが中国に出現した。

ドイツのサブマシンガン

傑出すること半世紀のMP18I


MP18Iはドイツの著名な小火器設計師シュマイザーによって設計され、ベルグマン兵器工場が製造した。初期に製造されたMP18Iは「スネイル」式マガジンを使用し、後には我々がよく見るストレートマガジンを使用した。1918年夏、MP18Iは前線のドイツ軍に大量供給され、1918年11月になると、すでに35000挺あまり生産されていた。だが、ドイツの軍事報道の中には、1918年の夏秋の際にドイツ軍がMP18Iを装備したことに関する内容はほとんどない。かの時期に余りにも多くの事件が発生し、MP18I装備の件がこれにより希薄化したことが原因かもしれない。しかし、ドイツ軍とは逆に、連合国軍はこのサブマシンガンに対し充分な重視を与え、その性能に対する評価は非常に高く、第一次大戦後締結された「ベルサイユ条約」の中に10万のドイツ軍がこの銃の使用を全部禁止されることが規定され、少ない部分の警察に使用が許される結果がもたらされた。

MP18Iは優秀なサブマシンガンで、それは歴史の舞台に半世紀近い伝説的経歴を残した。

歴史の物証:

中国工農紅軍はかつてドイツのMP18Iのコピーを使用した。

八路軍はかつて「中華民国十七年大沽造船所」がコピー生産したドイツのMP18Iを鹵獲した。

性能超然たるMP40

MP38は第二次世界大戦の時期に使用されること最も広かった武器の1つで、それは当時のサブマシンガンの中で先んじた水準にあった。

MP40サブマシンガンはMP38に対する改造の産物で、両者は外形上非常に似ているが、主にグリップ、マガジン結合部分などに改良が行われた。MP40サブマシンガンはプレス部品とリベット結合技術を大量に採用し、生産効率を高め、コストを節約し、大量生産に便利とした。MP40サブマシンガンはその優秀な特質ゆえに、第二次世界大戦の期間広く歓迎を受け、一度は世界を風靡した。1940〜1944年、MP40サブマシンガンの生産数量は104.74万挺に達した。

歴史の物証:

解放戦争の時期、我が軍はかつてMP40サブマシンガンを鹵獲した。

アメリカのサブマシンガン

軍の中では初のトンプソンサブマシンガン


トンプソンサブマシンガンは米軍が採用した初のサブマシンガンである。それは加工が精緻だが、外形はそれにも関わらず相当にかさばって重いことが目立ち、製造コストも極めて高かった。軍事装備発展の視点から見れば、重すぎることは戦闘力の減少を意味し、現代の軍隊の取るところではないが、第二次世界大戦の期間とその後の非常に長い一定の時間内、この銃はそれにもかかわらず大量に使用され、これは当時の歴史的背景と不可分である。

トンプソン系列サブマシンガンの発展の変化は比較的複雑だが、外形上の変化は非常に大きいものではなく、その特徴はすこぶる突出しており、容易に人に記憶させる。

最初のトンプソンサブマシンガンはM1918だが、これは試験タイプでしかなかった。初の真に生産に投入されたトンプソンサブマシンガンはM1921で、最も早いM1921サブマシンガンの販売記録は1922年にあるが、販売量は極めて少なく、いかなる軍隊もそれを制式武器とはせず、それは多くは警察に配備されて使用された。後に登場したM1923、M1927、M1928は、その大多数の部品はM1921にルーツがあった。M1928は出現したばかりの時には海軍型サブマシンガンと呼ばれ、海軍の使用に供された。陸軍に装備された後はM1928A1と呼ばれた。M1928のM1921との主要な差異はフルオートの発射速度が低下したことで、毎分800発から毎分700発まで低下した。発射速度低下の主要な原因はボルトの重量が増加したことで、同時にボルト復帰スプリングのテンションが減少した。1942年、改良後のM1928はM1 0.45インチトンプソンサブマシンガン(1インチは25.4mm)と命名された。さらに一歩M1を改良し、今度はM1A1が出現した。M1系列サブマシンガンの外観上のM1928トンプソンサブマシンガンとの最も顕著な差異は、M1のコッキングハンドルはレシーバー右側だが、M1928のコッキングハンドルはレシーバー頂部にあることである。

トンプソンサブマシンガンの大量な対外販売は第二次世界大戦初期に始まり、ある記載は1939年秋、フランスが3750挺のM1928と3億発の弾薬を発注したことをはっきり示している。1941年初め、スウェーデンとイギリスも発注した。第二次世界大戦の期間、オートオーディナンス一社でもう20万挺のトンプソンサブマシンガンを生産した。解放戦争の時期、国民党軍はかつてM1928A1とM1A1トンプソンサブマシンガンを大量装備した。四川兵器工場はトンプソンサブマシンガンを大量にコピー生産し、銃には「中華民国十九年四川兵器工場造」の銘文が刻まれていた。

歴史の物証:

解放戦争の時期、元山東鉅野県程県長と商政委の2人が柳林、劉荘など4ヶ村の32名の民兵を率いて竜国保以西の敵を包囲殲滅した時、かつてアメリカ製M1A1トンプソンサブマシンガンを鹵獲した。

淮海戦役で、我が解放軍はかつてM1928A1トンプソンサブマシンガンを大量に鹵獲した。

1952年、福建省浦霞県閭峡郷の民兵航路護衛隊が我が軍とコンビネーションして浮鷹西洋島を解放した時、アメリカ製M1A1トンプソンサブマシンガン多数を鹵獲した。

1960年、西蔵の反乱平定の戦闘中、我が軍はアメリカ製M1928A1トンプソンサブマシンガン多数を鹵獲した。

はかない花たるUDM42

この銃は最初UDM41として設計定型されたが、1942年の生産投入時にはUDM42として定型された。銃には「UDM.′42」の銘文が刻まれている。UDM42サブマシンガンはCarl G. Swebiliusによって設計され、1940年10月15日にパテントが獲得された。この銃の生産量は非常に少なく、およそ15000挺のみ生産され、全部マーリンファイアアームズ社がUnitedDefenseSupplyCompanyのために生産したもので、UDM42の「UD」とは後者の名前の最初の2文字から取ったものである。生産された銃の中の一部分はヨーロッパや極東に売られ、ある記載は、オランダがかつてこの銃を購入したことがあることをはっきり示している。

UDM42サブマシンガンは改良を経て、フォアグリップを設け、2つのマガジンが背中合わせに一体に溶接された。改造後のUDM42は本来トンプソンサブマシンガンに取って代わらせるつもりだったが、M3サブマシンガンの出現により、この計画は破綻し、UDM42は流れ星のようにはかなく消えた。物は稀をもって貴しとするもので、現存するこのサブマシンガンも貴重なものと評価される。

UDM42サブマシンガンの最も特徴あるところは、1つ目にはその外形、2つ目にはそのコッキングハンドルの設置である、UDM42は分離式コッキングハンドルを採用し、すなわちコッキングハンドルとボルトキャリアが固定されず、銃の発射後、コッキングハンドルは静止状態にある。

歴史の物証:

解放戦争の時期、我が軍はかつてこの銃を鹵獲した。

理念の産物たるM3系列

M3 .45インチサブマシンガンは現代の理念の下での産物である。サブマシンガンの発展と共に、構造が簡単、分解組立が容易、性能の信頼性が高いことが新たな要求となった。M3 .45インチサブマシンガンはまさにこの理念の下で生まれたものである。この銃の当初の設計時はイギリスのステンサブマシンガンを参考にした。設計されたばかりのこのサブマシンガンはT15と命名され、改良後はT20と命名された。この銃にはセレクターがなく、発射速度は毎分400発だった。全面的な試験を経た後、1942年12月24日に米軍はこの銃をM3サブマシンガンと定め、部隊に装備して使用した。M3サブマシンガンは設計理念は一流で、性能が優良だったが、それにはまだいくつかの顕著な欠点が存在した。例えばマガジンの設計が充分に理想的ではなく、コッキングハンドルの設置が不合理で、複雑な戦場環境の中で容易に折断した。こうした欠点を改良した後、1944年12月、M3A1サブマシンガンが時運に乗じて生まれ、制式サブマシンガンとなった。M3A1の実用性は非常によく、第二次世界大戦後大量にアルゼンチン、中国、日本などの国によって購入、コピー生産された。山西兵器工場はかつて大量にM3系列サブマシンガンをコピー生産し、36式および37式サブマシンガンと称した。

歴史の物証:

解放戦争の時期、我が民兵はアメリカの物をコピーしたM3サブマシンガンを鹵獲した。この銃はかつて当時の総後方勤務兵器部によって収蔵されていた。

1953年福建省霞浦県閭峡郷民兵航路護衛隊は我が軍とコンビネーションして浮鷹西洋島を解放する時にアメリカ製M3サブマシンガンを鹵獲した。

イギリスのサブマシンガン

危に臨んで命を受けたステン系列


1941年、ステンサブマシンガンがイギリスのエンフィールドロイヤルオーディナンスで研究開発された。ステン(STEN)の名は2人の設計社の姓(SheppherdおよびTurpin)の最初の文字と兵器工場(Enfield)の前の2つの文字の組み合わせである。ステンサブマシンガンの生産のピークは1943年で、当時は平均毎週47000挺が生産されていた。

ステンサブマシンガンは極度の緊急と危難の中で誕生した。1940年にフランスが陥落した後、イギリスは侵入される非常に大きな脅威に直面しており、軍隊は切迫してサブマシンガンを必要とした。この状況下で、費用の消費が少なく、技術的要求が高くなく、いかなる小型兵器工場でも生産できるサブマシンガンが切迫して必要とされ、ステンサブマシンガンは当時の需要に適応して歴史の舞台に上がり、戦争の洗礼を経歴したのである。ステンサブマシンガンは多くの人によって「粗作りすぎ」と考えられているが、事実としてはそれは非常に高価なトンプソンサブマシンガンと同様の威力があり、しかも第二次世界大戦の時期の大多数のサブマシンガンに比べより信頼性が高かった。

ステンサブマシンガン系列にはMKT、MKU、MKV、MKW、MKX、MKYおよび各種改良型が含まれる。MKTはかつてイングランド、カナダ、ニュージーランドなどの国によって生産されたことがある。MKUは生産量が最多で、世界各地に販売され、1942〜1944年の間に200万挺あまり生産された。MKXはイギリス軍の1944〜1953年の制式武器で、カナダが中国のために製造したコピーステンMKUサブマシンガンには、「加拏大造」(頑住吉注:カナダ製)の漢文の文字があった。

歴史の物証:

九股の国民党武装スパイを全滅させた時、かつてステンMKUサブマシンガンが鹵獲された。

中印国境自衛反撃戦の中で、インド軍が使用するMKXステンサブマシンガンが鹵獲された。

ソ連のサブマシンガン

性能に信頼がおけるPPSh-41


PPSh-41サブマシンガンはソ連のシュパーギンによって設計され、第二次世界大戦中、この武器はデクチャレフが設計したサブマシンガン系列に完全に取って代わった。

この銃は1941年にソ連軍によって正式採用されたが、1942年中期になってやっと大量のPPSh-41サブマシンガンがやっと部隊に出現した。1940年代末になると、全部で500万挺のPPSh-41が生産されていた。早い時期のデクチャレフPPD系列サブマシンガンに比べ、PPSh-41は構造が簡単で、発射速度が向上し、射撃がより正確で、価格がより安かった。この銃は社会主義国家によって大量に使用およびコピー生産された。中国の50式サブマシンガンはPPSh-41をコピーして研究開発されたものにほかならない。

歴史の物証:

解放戦争の時期、我が軍はかつてPPSh-41サブマシンガンを使用した。

戦火の中で誕生したPPS-43

1942年、ソ連の技術者スダイェフはレニングラードでPPS-42サブマシンガンを設計した。当時ソ連は非常に重大な危機に直面しており、ドイツ軍はレニングラードを包囲し、内外は分断され、供給は困難だった。極度の困難の下で、PPS-42サブマシンガンが生産され、まだ試験を経ることが間に合わずに、もう直接戦場に投入されて戦火の検証を受けた。後に戦場で報告された状況を根拠にいくつかの改良がなされ、これこそ著名なPPS-43式サブマシンガンである。それは第二次世界大戦勝利のために輝かしい戦功を立て、抗日戦争後期および解放戦争の時期、我が軍はこの銃を使用したことがある。我が国の54式7.62mmサブマシンガンとはすなわちPPS-43を根拠にコピー生産されてできたものである。

歴史の物証:

1962年11月18日、中印国境自衛反撃戦の西山口を攻撃占領する戦闘の中で、某中隊の副分隊長であるパングオシンは第二突撃チームのリーダーを担当し、部隊との連絡が失われた状況下で、戦士を率い連続して敵の2つの砲兵陣地を奪取し、7門の88mmカノン 榴弾砲と2台の自動車を鹵獲し、敵を6名殺し、1名を捕虜にした。パングオシンが当時使用したサブマシンガンはPPS-43サブマシンガンをコピー生産したものだった。

デンマークのサブマシンガン

出費が最小の「ちょうつがい」式M1946

M1946マドセンサブマシンガンはデンマークのマドセン社によって生産された。その独特なところは、銃全体が2ブロックのプレス鋼板からなり、後部はピンによって連結され、前面はネジによって固定され、まるでちょうつがいのようだというところにあった。その左側の1ブロックの鋼板は蓋に相当し、あらゆる部品が右側にあった。この銃の構造は簡単で、生産コストを非常に大きく下げた。しかも維持保護するのも相対的に容易だった。資料によると、エルサルバドル、パラグアイ、中国の台湾がかつてこのサブマシンガンを購入したことがある。

歴史の物証:

解放戦争の時期、我が軍はかつて大量にこの銃を鹵獲した。

スウェーデンのサブマシンガン

申し分のないM45


M45サブマシンガンはスウェーデンが1944〜1945年の間に研究開発したもので、直ちに数十万挺のこのサブマシンガンが製造され、本国の部隊に装備されかつ輸出された。M45サブマシンガンは1945年の誕生以来基本的にあまり大きな変化はない。この銃はプレス部品およびリベット接合技術を大量に採用し、大量生産に適した。その折りたたみストックは非常に頑丈に設計され、同時期のサブマシンガンの中で「上等の傑作」と言える。

歴史の物証:

四川省北部の民兵が国民党スパイ陳滌、劉昌富の武器を鹵獲したが、それがすなわちM45サブマシンガンだった。

オーストラリアのサブマシンガン

大いに好評を博したMKI/42オーウェン


オーウェンサブマシンガンはオーストラリア陸軍中尉オーウェンによって設計され、1941年6月22日にパテントが獲得され、1941年10月20日に軍隊によって正式に採用された。1944年9月になると、オーウェンサブマシンガンは全部で45000挺生産されていた。1960年代初期まで、オーストラリア軍はまだずっとこの銃を普遍的に使用していた。オーウェンサブマシンガンの重量は重すぎだったが、それは依然優秀なサブマシンガンたることを失わなかった。戦場の実践は、その性能がトンプソン、ステンなどのサブマシンガンに比べより優秀であることを示した。この銃を使用したことのある部隊は、この銃のマガジンは上から着脱するが、使用してみて非常に便利であり、特に行進間や夜間の作戦に適すると考えた。オーウェンサブマシンガンの設計は非常に正確で、その重心はちょうど後ろのグリップ上にあり、バレルも特別に取り外しやすかった。

また中国に出現したサブマシンガンにはさらにアメリカのM50 .45インチサブマシンガン、フランスのM1949MAT、チェコスロバキアのM25、ルーマニアのM1941オリータ、スウェーデンのM37-39、スイスのソロサンーンサブマシンガンなどがあった。

以上紹介した世界各国の著名なサブマシンガンは我が国の関連の博物館の中で基本的に全て見ることができる。興味ある読者は博物館に行って見てみて、こうした銃を詳しく考慮してみてもよい。


 中国人の立場からの評価がもうちょっと詳しく書かれているとよかったですが、ストレートなコピーだけでなくたぶんこうした銃はその後の中国独自デザインのサブマシンガンにも影響やアイデアのヒントを与えているんでしょう。


















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