中国、日本の装甲車を評する

 普段戦車ほどは話題にならないジャンルですが。

http://military.china.com/important/11132797/20160420/22476737.html


完璧な逆襲:中国に比べはるかに慢半拍な日本の装甲車工業 (頑住吉注:「慢半拍」は鈍感、反応が鈍いみたいな意味らしいです。)

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「解放軍の装輪式歩兵戦闘車の隊列」)

日本の軍事装備というと、国の人に残す第1の感覚は技術が先進的なことである。ひとたび日本の自動車工業を挙げれば、いつもクラウンは紅旗に比べ良い、トヨタは抜群だと思う。しかし自動車工業の軍事装備の上での最も良い体現は装甲車であり、特に装輪式装甲車である。あなたはこの文章をまだ読み終わらずに気づくだろう。日本の装甲車研究開発はずっと中国に比べ慢半拍だと。我々はここで日本の車が使いやすいか否か、安全か否かは討論せず、単に日本の装甲車研究開発の歴史の簡単な紹介をし、結果としてあなた自身によって判断してもらう。

第二次世界大戦終結後、陸上自衛隊建設初期、アメリカのM-8(頑住吉注:グレイハウンド)およびM-20(頑住吉注:M-8の派生型)という2種の装輪式装甲車だけを受領した。しかしこの2種の車は日本でのパフォーマンスが決して理想的ではなかった。これは主に当時の日本の交通網が基本的に麻痺し、装輪式装甲車のオフロード性能が並だったからで、このため日本の地面の上では基本的に走れず、そこで日本は単に象徴的性質で4輪式装甲車を受領したのである。発達した道路網を持つ前、日本の戦車や装甲車は基本的に装軌式車両をメインとし、甚だしきに至っては冷戦の時期に至り、日本の交通幹線がすでに初歩的に規模を持っても、大範囲で装軌式車両を使用する習慣は依然留保されていった。冷戦に入った後、日本の主力部隊および装甲兵の建設方針は、いかにしてソ連が随時北部から本土方面に上陸してくるのを防止するかに全部集中した。兵力配備方面では、日本のいくつかの最精鋭師団は全部北部地域に配備され、このうち第7師団は後に陸上自衛隊の中で唯一の装甲師団に成長した。

(頑住吉注:これより2ページ目)

1960年代以後、米ソの冷戦は日増しにヒートアップしたが、世界大戦はついに起こることはなく、このためヨーロッパでは率先して「低コスト機械化陸軍」の概念が流行した。その主要な体現は、生産、維持保護のコストが比較的低い装輪式装甲車両を使用して装軌式装甲車両に取って代わらせることだった。すでに比較的強い工業的基礎を持つ日本も、装輪式装甲車を研究開発する考え方を起こした。陸上自衛隊は1968年に関連の情報の捜索収集を開始し、装輪式車両に関する事前研究作業の展開に着手した。この時、装輪式装甲車は依然日本軍によって装軌式車両の配属品と考えられ、装輪式装甲車開発の主要な原因は単に装軌式車両の製造コストが非常に高く、一方装輪式装甲車は相対的に低廉だからに過ぎなかった。

1974年、日本の軍事工業企業はまず装輪式車両に対する探索研究開発を開始し、三菱社は6x6装輪式戦闘車方案を提出した。これと同時に、日本の小松社は4x4装輪式戦闘車方案を提出した。使用部門の比較を経て、6x6装輪式戦闘車方案には4x4装輪式戦闘車方案と比較できない先天的優勢があり、これは主に装備の搭載、人員輸送、機動オフロード能力の上に体現された。あるいは日本人の骨子の中に一種の挫折するほど勇み立つ精神があるのか、競争入札に負けたのを見た小松社はすぐに三菱社より優れた全く新しい6x6装輪式戦闘車方案を持ち出した。そこで、最終的競争入札に勝った後、小松社はたった5年の時間しか用いずにもう装輪式戦闘車のサンプル車を研究開発し、かつ試験を完了させた。この車は1979年年末に正式に使用単位に引き渡され、これこそ後の82式通信指揮車である。

よちよち歩きの学習は必然的に順風満帆ではなく、日本初の装輪式戦闘車は使用中非常に多くの問題を暴露した。その中で最も主要な問題は車内空間不足で、使用する時止むを得ず車両の上に臨時のバラックを建てる結果をもたらし、このようなオープントップ構造は明らかに使用部門の要求に符合せず、さらに加えて改造の余地が小さく、装備製造と維持修理の互換性が比較的劣り、82式通信指揮車に代表される日本の装輪式装甲車両研究開発作業は歩みを始めたばかりでもう竜頭蛇尾の結果をもって終わりを告げた。

(頑住吉注:これより3ページ目)

小松社は82式通信指揮車の研究開発を通じて資金を獲得し、隊伍を鍛錬し、経験を累積し、そこですぐ新型装輪式装甲車研究開発作業に入った。1983年、彼らが提出した新型装甲車は82式通信指揮車に使われたパフォーマンスが成熟したエンジン、懸架伝動系などの主要部品を継続してそのまま用い、車両全体では全く新しい設計を採用し、元々の82式のエンジン中置き左側レイアウトをエンジン後部右側レイアウトに改め、元々エンジンとルートを装備していた場所は砲塔の取り付けに用いた。2年に満たない時間しか用いず、もう新たなサンプル車が提出された。使用部門は今回急いで定型せず、何度かの厳格な試験を経て、1987年になってやっと非常に遅れて定型とし、これを87式装甲偵察車と命名した。名前からは、この時の日本の装輪式装甲車料が依然比較的強い防御能力および火力を持たなかったことが難なく見いだせる。連続して研究開発された2機種の装甲車はいずれも単に走れるだけの6x6装輪式装甲車だった。一方ほとんど同時期に研究開発された中国初の装輪式装甲車であるWZ551装輪式歩兵戦闘車は同様に6x6装輪式レイアウトだが、多種の口径の火砲を搭載できるだけでなく、さらに車両ファミリー化、汎用化の設計理念をも同時に具備していた。一方87式装輪装甲車は過度に車体の小型化を追求したため、大口径火砲が搭載できない結果をもたらした。WZ551が水上性能試験を完成させた時、87式装輪装甲車はまだ水陸両用能力を具備していなかった。サーモグラフィー装置、地上レーダー、位置決定システム、中央ガス充填・放出など当時の先進設備は増してや話にならなかった。中国の装輪装甲車が一歩でもう行き終わった道を、日本は連続2機種いずれでも追いつかず、逆に中国のWZ551によってまる何ストリートも置き去りにされた。

(頑住吉注:これより4ページ目)

中国のWZ551がスムーズに定型に至ったあの年、小松社は8x8レイアウトの装輪式戦闘車の研究開発を開始した。エンジン前置きレイアウトで、左側はエンジンと変速ボックス、右側は操縦室だった。エンジンは1台の三菱直列6気筒増圧エンジンで、最大出力は360馬力だった。この装輪式装甲車は強大な火力を決して具備せず、主要な武器は単一のM2型重機関銃あるいはグレネードランチャーで、後に火力強化のため(頑住吉注:ここで内容が一部脱落している模様です)。防御性能について言えば、第2世代対戦車ミサイルや中国の105mm火砲の面前では基本的に「無遮大会」(頑住吉注:元々は仏教用語らしいですがここでは防御がないも同然くらいの意味でしょう)の水準に属す。96式装甲車は過度にシャーシが地面から離れる高さを追求し、懸架装置が全部外に暴露し、対戦車火力に命中されなかったとしても、高速行進時に石にぶつかっても擱座するだろう。しかも一般に装甲車の車体の底はできる限りV字型の地雷防御構造に設計するが、96式装甲車の車体の底はそれにもかかわらずA字型構造を呈し、逆に車両が不注意で地雷に接触した時、車内の乗員により容易に命を失わせる。

96式装甲車は歩兵戦闘車として使用すると火力と防御能力が弱すぎ、装甲輸送車として使用するにはまたスペースが大きくないが、日本軍はそれにもかかわらずそれに対し高い期待を寄せ、かつ96式装甲車に日本の装輪式装甲車車両ファミリーの先鞭をつけさせる提案をしたが、最終的に12.7mm機関銃1挺を換装したことを除き、96装輪式戦闘車ファミリーにはもはや新しいメンバーはなかった。

(頑住吉注:これより5ページ目)

96式装甲車は研究開発の初めに国内の作戦に使用することを標榜したが、空虚重量12.5トン、全備重量14.5トンの車種は海外用兵の野心を隠せない。航空輸送、海上輸送などの形式を通じ、脈々と絶えることなく出国させ、陸上自衛隊の威風を打ち出し得ることに期待するが、結局のところ名声を高めるのと醜態を晒すのには紙一重の差しかなく、国外の日々の中で、96式装甲車はほとんど何らの成功した戦例もない。収穫は基本的に全て教訓で、現地の武装勢力が分かっていない時はこのしろものに対しまだいささかの畏敬があったが、後にはRPGをかついだ小兵士さえも膏薬旗(頑住吉注:日章旗の蔑称)をはためかせた日本の戦闘車を見ても逃げず、得物を取り上げてすぐ撃ち、しかも往々にして一撃で敵を制すことができた。人を叩きたければまず殴られることを体得することが必須である以上、(頑住吉注:意味不明な悪口)な96式装甲車は身体に障害が残っても意志堅固というべきで、最終的に豊富な実戦経験を得て、13式装甲車の誕生のために条件を固めた。

96式の海外就役の悲痛な経験があり、日本の防衛省は2006年に新型水陸両用戦闘車を研究開発しようとする計画を提出した。全体的な要求は重量が25トンを超えないこと、比較的強い水陸両用能力を持つこと、路上最高速度が100km/hに達し得ること、主砲の口径が90〜105mmに達し得ることだった。作戦用途の上では航空降下装甲車両が撃破できることだけが要求されたが、性能の上からはこの装甲車が充足した海外派遣能力を持つことに難なく気づく。こうした要求を対照し、三菱社は2007年に新型装輪装甲車の設計方案を始動させ、プロジェクトチームは179億円の研究開発経費も得た。日本の防衛省の要求に照らし、新たな戦闘車は2013年にサンプル車を研究開発し、2016年までに続々と自衛隊に引き渡され戦闘力を形成することが必須である。

(頑住吉注:これより6ページ目)

13式装甲車は地上で走るのが遅くないが、水陸両用能力は決して具備せず、このことはそれがひとたび生まれてすぐ中国の新型装輪式突撃砲と比べ機動能力の上で一段劣るようにさせる。これは日本の技術が達成できないのではなく、13式装甲車の使用地域では使えないのである。13式装甲車の設計と改良理念は全部96式装甲車の海外でのパフォーマンスから来ており、その腕の振るい場所は主に中央アジアと西アジア地域にあり、しかも三菱社は非常に先を考え、13式装甲車を輸出タイプとして中央アジアおよび西アジア地域に販売する計画である。この点はトヨタ自動車が中東に販売した「丐版酷路沢」(頑住吉注:検索しても本来の名が分かりません)が、砂地ならどのように走ってもOKだったが、水には行ってはならないのと似ている。13式装甲車は良好な陸上性能を持ち、本土防御の重点はまた北海道地域であり、このため使用部隊は第七師団をメインとする専業の守備部隊に集中させるべきである。だが海外に運びたいなら、おそらくまだいささか手を加える必要がある、まず13式装甲車は重量が25トンを超え、C-130輸送機では積めず、C-2輸送機を用いてのみ輸送でき、しかも毎回の輸送力には非常に限りがある。次に、C-2輸送機は滑走路に対する要求が非常に高い。さらに加えて販売価格があれで、もし中国北方社のST1型8x8装輪式突撃砲をその兵器輸出の競争相手とするなら、13式装甲車は適用性と価格の上で完全に劣勢に置かれる。機動配備が不便で、輸出もまた優勢を占めない。13式装甲車には周辺地域に対し決して突然の襲撃を発起する脅威は存在せず、その海外派兵時に96式装甲車の代替品とするしかない。


 知識不足でどこまで当たっているのか全然分かりませんけど、仮に当たっていたとしてそれは中国が軍事や兵器に非常に重点を置く性質の国で、日本はさして重点を置いていないというだけのことでは。

















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