ドイツ語版WikipediaにおけるA7V戦車の説明

 ドイツ語版Wikipediaに第一次大戦でドイツが使用したA7V戦車に関する詳細な説明があるのでその内容を紹介します。

http://de.wikipedia.org/wiki/A7V


A7V

 突撃戦車A7Vは第一次大戦期間内にドイツサイドによって作られた唯一の戦車である。しかしこの車両は戦争の遅い時期になって初めて開発され、少ない生産数を理由に戦争に非常に小さい影響しか与えなかった(頑住吉注:「目次」は省略します。なお一番上の画像はオーストラリアのクイーンズランド博物館に展示されている現存する唯一のA7Vです)。

主要な特徴

全長 7.35m
全幅 3.06m
全高 3.35m
重量 30トン
走行装置 全キャタピラ
速度 路上16km/h
不整地4〜8km/h
航続距離 30〜70km
主武装 ベルギー製マキシム・ノルデンフェルド5.7cm海軍用速射砲
副武装 MG08が6挺、lMG08/15が1挺
装甲 0〜30mm
動力 ダイムラー165 204 200馬力(147キロワット)4気筒量産エンジン2基
搭乗員 16(車長1人、下士官5人、兵員10人)

歴史

開発と製造

 1916年11月13日、プロシア国防省内の全般戦争局第7部門交通担当部局は陸軍最高司令部から戦車の開発と設計を委託された。6週間の開発局面の後、初のドイツ戦車の最初のプランが提出された。

 A7V(第7部門交通担当部局の略)Vollmer構造方式の最初のプロトタイプは1917年1月にベルリン、Marienfeldeのダイムラーで完成され、披露された。国防省は1917年1月末に全部で100輌のA7Vの製造を指示した。このうち10輌は装甲されたもの、そして90輌は装甲されていない同じシャーシをベースとする不整地走行能力を持つ「郊外車両」でありこれは補給目的だった。木製上部構造物による2回のテスト走行の後、陸軍最高司令部(OHL)はさらに10輌を装甲されたA7Vとして作らせることを決定した。この20輌の戦車によってそれぞれ戦車5輌の2個戦車部隊を編成し、10輌は故障時の予備として役立てることが意図された。

 1917年6月から9月の間に戦車および郊外車両の最初の実物がダイムラー、Bussing(頑住吉注:「u」はウムラウト)、Lanz、Loeb(頑住吉注:いずれも自動車メーカーのようです)で作られた。最初の突撃戦車A7Vは1917年10月末にMarienfeldeのダイムラーで完成され、これによりこの車輌はドイツ国内で作られた最初の装軌車輌だった。

問題点

 A7Vの走行特性は全面的に良好だったが、この戦車は砲弾によるすり鉢状の穴が多数開いた戦場やぬかるんだ地面など極度に悪い地面の状態の際に問題があり、時折「鼻」を突っ込んだ状態で止まったままになった。最も頻繁な問題は始動上の問題、オーバーヒート、トランスミッションの破損、キャタピラの外れという形でエンジン関係に起こった。

 その上A7Vの運動能力はシャーシの劣った自己クリーニング性、キャタピラへの有刺鉄線はさみこみによる頻繁な損傷により制限された。

 重心が高いため幅2mまでの塹壕しか渡ることができなかった。

 こうした欠点にもかかわらず、全てのA7Vは戦闘において真価を示した。

編成、訓練、前線での実戦使用

 Cambraiの戦いで得た経験に基づき(頑住吉注:378輌の戦車の奇襲攻撃によってドイツ軍の前線が突破され、大きな損害を受けたことから戦車の有効性を認めざるを得なくなったことを指しています)、A7Vの完成がOHLによって加速されただけでなく、鹵獲戦車(マークI〜マークIV)によって装備された「鹵獲戦車部隊」も編成された。加えてCharleroi所在のバイエルン陸軍第20車庫(BAKP20)に戦車作業所が備えられた。

 1918年初め、第1部隊の最初のA7V、5輌の訓練がSedanにおいて開始された。特に歩兵および突撃部隊との共同戦闘がトレーニングされた。1918年3月22日、第1部隊がSt.Quentinにおけるドイツ春季攻勢Michaelの枠内で初めて実戦投入された1日後、第2部隊の訓練も終了した。

 終戦までにこれら20輌のA7Vのみが作られた。ドイツ指導部がU-ボートと航空機に重点を置き、そしてこのため戦車用の充分な原材料がなかったためである。

 第1および第2部隊にとっての二回目の前線における実戦投入は、3月末に編成された第3部隊と共同で(それぞれ5輌のA7V、残りの5輌は予備車両)1918年4月24日にSommeのVillers-Bretonneuxにおいて行われた。そこで初めてドイツ製戦車がイギリス製戦車に遭遇した。

 この戦いでメフィスト(506番)とエルフリーデ(542番)が操縦不能となり放棄せざるを得なかった。3カ月後、メフィストはオーストラリア部隊に回収され、戦時鹵獲品としてオーストラリアに持ち去られた。メフィストは今日維持された唯一のA7Vとしてオーストラリア、ブリスベンのクイーンズランド博物館にある(原ページにはミュンスター戦車博物館に展示されているA7Vの画像がありますが、これは実物大模型であって当時のものではありません)。

 1918年11月までに3つのA7V部隊は鹵獲戦車部隊と共にReimsとIwuyにおける実戦投入を終え、9輌のA7Vしか残らなかった。

 最終的にドイツ戦車はたった50日しか実戦の場にいなかった。だがそれでもわずかな車輌(これらの多くは独自のあだ名を持っていた)の生産は、例えばCambraiの戦いにおけるほとんど500輌に及ぶイギリス戦車群の投入のように非常に大きくは戦争に影響しないことが理解された。このためには車輛数が少なすぎたのである。一方連合軍指導部は6000輌を越える戦車を投入することができた。

戦後

 1918年11月11日における終戦の3週間弱前の10月21日、3つの全戦車部隊および鹵獲戦車部隊はCharleroiからErbenheimに移され、11月17日に解散した。

ポーランドで

 何輌かの戦車は追撃するフランス軍に鹵獲された。現時点でその行方は不明である。いくつかの情報源は、これらの戦車はフランスからポーランドに引き渡され、そしてそこでポーランド-ソ連戦争に投入されたとしている。1920年の停戦の際、ポーランド陸軍はまだ5輌の機能良好なA7Vを持ち、この一部は1926年まで現役に留まり、その後スクラップ化されたと言う。こうした情報源を信じるならば、A7Vはドイツ陸軍よりポーランド陸軍内でより長く実戦の場にいたことになる。

ドイツで

 まだドイツの手にあった装甲車両の一部は、1918年12月から1919年1月にかけてのベルリン-Lankwitz義勇軍内の義勇兵と共同での(頑住吉注:ドイツ共産党の前身であるスパルタクス団による)政治的蜂起の鎮圧のために使われた。何台かの装甲車とならんでもはや2台だけのマークIV鹵獲タンクと1台のA7Vが存在した。それらはMaercker義勇軍の戦車部隊を形成した。ただしHediと命名されたこの残存したA7Vは戦争に参加していた20輌の中には見られなかった。このためこの車両は両サイドに2つのドア、変更されたタワー、そして角部と尾部にマシンガン銃架を持っていた。この車両には政権に忠実な部隊の戦車部隊という表示と54という数字、そしてドクロが描かれていた。

 Hediはプロトタイプのうちの1輌、もしくはドライバー訓練学校の戦車に上から装甲を取り付けたもの、または無線戦車だったらしい。この戦車は1919年1月15日におけるベルリン制圧(そしてこれによるスパルタクス団の蜂起の終了)の際、4月17日以後Braunschweigにおいて、そして5月11日以後ライプチヒに投入された。この義勇軍は2月6日以後のワイマールにおけるワイマール共和国建国集会も警備した。

 1919年6月28日以後、ドイツはベルサイユ条約171条に基づきもはや特に戦車を持つことは許されなくなった。このため最後のA7Vが連合国に引き渡された。そのさらなる行方ははっきり解明されていない。

 最後に言及されるドイツ国内のA7Vは戦車記念バッジにある。これはかつての帝国防衛大臣Otto Gesslerが1921年6月13日に贈ったものである。このバッジには戦闘中のA7Vがデザインされ、少なくとも3回の前線における実戦に参加した、あるいは1回の実戦の間に負傷した、かつての戦車部隊構成員99人に授与された(このバッジの画像は原ページにあります)。さらに言えばベルリンの兵器庫に実物大の模型が展示されていた。しかしこれは第二次大戦中に破壊された。

フランスで

 連合軍の手に落ちた最初の戦車はエルフリーデ(542番)だった。この車両はVilleurs-Bretonneux近くのイギリス前線司令部通過の際にここに侵入し、転覆した。搭乗員がタンクを去ってしまった後、エルフリーデは無人地帯に横たわり、敵に鹵獲されることを避けるためドイツの突撃部隊によって爆破されることが意図された。これは失敗した。エルフリーデはMarokakanisch師団の事前の何回もの試みが失敗した後で2輌のマークVの協力の下ほとんど無傷でフランス軍によって回収され、運び去られた。すでに回収の約2週間前にはもうA7Vの脆弱さに関する情報がフランス語および英語で協商側部隊にまんべんなく配られていた。エルフリーデは再び走行可能にされ、いろいろな射撃(頑住吉注:する、ではなくされる)テスト、走行テストを受けた。このテストに関しては報告書も16mmフィルムも存在している。戦後この戦車は他の戦時鹵獲品とともにパリのコンコルド広場に展示され、1920年にスクラップ化されたらしい。

 エルフリーデ以外にさらに6輌のA7Vがフランスに引き渡された。すなわち502番/503番、526番、Alter Fritz(560番)、Nixe(561番)、ヘラクレス(562番)、Lotti(527番)である。ヘラクレスがイギリスに持ち出されたと見られる一方Alter Fritzは爆破された。残りの車輌はたいてい解体して使える部品を取り外され、その後フランスによってスクラップ化された。Lottiは最後で、1922年になって初めてこのように処理された。

オーストラリアで

 メフィスト(506番)は特別な例である。すなわちこのこの車輌は今日なお維持されている唯一のA7V戦車である。メフィストはSommeの戦いで故障を起こした。キャブレターノズルとガソリン配管が詰まり、4月24日にこの故障の修理後、砲弾による漏斗型の穴内に横転、停止した。この戦車を回収する、またはそれが成功しないなら爆破する多くの成果のない試みが行われた。6月、メフィストが2回にわたりドイツの前線の後方にさえ位置したにもかかわらず、さらなる回収の試みは行われなかった。メフィストの周囲が無人になった時になって初めて、1918年7月22日にオーストラリアの部隊によって回収され、Amiensに運ばれた。

 広範囲にわたる調査の後、この戦車はこの場所でレッテル貼りされ、絵が描かれた。すなわちその側壁の、王冠をかぶったライオン(イギリスの紋章の図柄の動物)の絵である。

 1918年10月から12月の間の展示後、メフィストは1919年1月25日になって初めてロンドンに、そして1919年4月2日に最終的にシドニーに向け船便で送り出された。メフィストは本来はオーストラリア戦争記念博物館で展示されるはずだった。しかしクイーンズランド州政府はブリスベンの代わりにクイーンズランド博物館に持ってくることに成功した。その理由付けはメフィストが最終的にクイーンズランド州の人間によって鹵獲されたことだった。1919年8月22日から1979年6月まで、このA7Vは平和に博物館の前に立っていた。その後になって初めて、今後もなお野ざらしにした場合この戦車は破壊されると分かった。サンドブラストと修理の後、メフィストは新たに絵を描かれ、それ以来建物の中に立っている(原ページ最初の画像がこれです)。

イギリスで

 2輌のA7V、Schnuck(504番)、Hagen(528番)は1918年8月31日にFremicourtにおいて共に攻撃を行っていた歩兵よりも急速に前進した。歩兵との接触は途絶えた。それに続いて起こったイギリス製タンクの反対攻勢の際、ドイツ砲兵隊はこれらだけでなく2輌の味方戦車も射撃した。Hagenがわずかに損傷しただけだった一方(それでも擱坐した)、Schnuckはひどく命中弾を受けたため、両戦車は放棄せざるを得なかった。

 両車輌はニュージーランド遠征軍の兵によって収容され、イギリス陸軍に引き渡された。ロイヤル タンク コープスの車庫内で調査された後、これらは11月末にロンドンに運ばれた。これらはそこで1919年に近衛騎馬隊のパレードで(Hagenはその前にRegent's Parkでも)展示された。

 1919年末、Schnuckはインペリアル ウォー ミュージアムにやってきた。戦車のために充分なスペースがなかったこの地から1922年初めに移転し、その後すぐスクラップ化された。砲架と砲の一部だけがまだDuxfordの博物館の屋外にある。

 Hagenは当初ニュージーランドに持ち出される予定だった。しかしこの車両は利用できる部品を取り外すためほとんど完全に解体されていたため、やはりスクラップ化された。

 走行能力が断念された後、最終的な第3の戦車として終戦時ヘラクレス(562番)がイギリス部隊に鹵獲された。この車輌のより正確な行方は不明のままであるが、やはりイギリスへ輸送され、そこでスクラップ化されたらしい。

アメリカで

 NixeII(529番)はフランス砲兵隊の砲弾命中後、1918年5月31日にReims付近で放棄せざるをえなかった。終戦頃この戦車はアメリカ軍に譲られ、さらなる使用への興味が持たれてテストされ、1919年にさらなる調査研究のためアメリカに輸送された。これが終わった後にこの車輌はメリーランド州アバディーンのU.S.Army Ordnance Museumに渡された。この車輌はそこで特に試射標的として使われた。NixeIIはこの博物館の他の多くの展示物同様屋外に展示されたため、1940年代初めまで孤独に錆びてゆき、1942年にとうとうスクラップ化された。

特徴

 1918年1〜3月の間に供給された初期のA7Vは灰色(灰緑色)に塗装され、白く縁どられた黒色の鉄十字を前後に描かれていただけだった(頑住吉注:「鉄十字」とは黒色の十字のそれぞれの端部がラッパ状に広がったマークです)。

 第1部隊の戦車は遅くとも3月21日のSt.Quentinにおける実戦投入以後は前部の鉄十字の代わりに交差された骨が付属したドクロ(頑住吉注:海賊マーク)が描かれていた。徐々に、しかし遅くとも1918年6月以後は全ての車両が迷彩塗装を得た。この迷彩は砂黄色、錆び茶、灰緑色からなっていた。

 鉄十字はほぼ同じ時期、前後に加えて両サイドにも描かれた。各サイドに十字が横に並んで2つずつ描かれ、その中央にそれぞれの部隊(1〜5)内での戦車ナンバーが円内にあった。しかしこの円形マーキングは非常に短時間で廃止され、数字は白で縁どられた赤いローマ数字に変更された(頑住吉注:原ページ上から4つ目の画像参照)。これと異なるものも十分有り得る。すなわちヘラクレスには前部に2つの鉄十字に囲まれたドクロが描かれていた。

 追加的に、おそらく友軍航空機からのより良い認識のため、鉄十字1つが換気格子の上に描かれたものが見られる。

 1918年7月7日、参謀本部チーフが迷彩の描き方に関する勧告を発した。この結果迷彩斑は黄土色、緑、茶色で、指の太さの黒い縁取り付きで描かれることになった。この塗装はたいていのA7Vに引き継がれた。短時間の後には鉄十字に関する変更が行われた。すなわちこの代わりに角型の十字(頑住吉注:「バルケンクロイツ」。末端が広がっておらず白い縁取りのあるもの)が使われた。この背景には命令とならんで角型の十字は湾曲した鉄十字より決定的に(新しく)描くのが容易だという事実があった可能性がある。

 ほとんど全てのA7Vには鉄十字および角型の十字、数字、ドクロとならんで前上部に(一部は後部にも)車輌の名前が、そしてシャーシナンバーがドアの内側に書かれていた。

武装

 次に示す武装はGretchen(501番)を除く全てのA7Vにあてはまった。Gretchenはイギリス戦車の場合メスと呼ばれた型の唯一の戦車だった。すなわち砲1門がない代わりに6挺のマシンガンが8挺に増設されていた。本来501号車には2基の火炎放射器と4挺のマシンガンの組み込みが予定されていた。

主武装

 A7Vの主武装はベルギー製のマキシム・ノルデンフェルド海軍用5.7cm速射砲だった。この砲は多数鹵獲されており、そしてこのため戦車の充分な数の組み込みを計画に入れることができた。この選択の理由は15cmと比較的短い後座距離を優先したことだった。この砲を使ってすでに対戦車戦闘の際に良い経験が得られていた。

副武装

 この速射砲とならんでA7VにはタイプMG08の6挺のマシンガンが装備された。このマシンガンは銃架に据えられていた。つまり固定して組み込まれていた。マシンガンの運動の際にはマシンガンだけでなくそこに固定して取り付けられた射手の座席、そしてこの中にマシンガンが取り付けられている、「間隙」を隠す装甲された円筒フランジも動いた。

 この比較的「固定した」組み込みの欠点は死角だった(頑住吉注:「tote Winkel」。そのまんまです)。特に前部領域においてサイドにある両前部マシンガンと砲の間、戦車から4、5mより近い領域が死角となった(頑住吉注:主砲用には対歩兵用の榴散弾も搭載されていました)。それ以上の距離のターゲットの場合、前部サイドになおも問題があったがジグザグ走行によって解決可能だった。

 追加的に各A7Vには弾薬300発が付属したライトマシンガン08/15、6挺のカラビナー98、ハンドグレネード、そして各搭乗員ごとに1挺のピストーレ08があった。こうした兵器を積み込んでいた意味は、搭乗員が戦車を放棄した際に突撃部隊として継続戦闘できることだった。

装甲

 A7Vはシャーシと装甲された外装ケースからなっていた。外装ケースはシャーシに16箇所でネジ止めされていた。外装ケースはスケルトン構造方式でいろいろなプレートから組み合わせてネジ止めまたはリベット止めされていた。サイド部分と屋根部の軽く傾斜した取り付けにより、装甲は垂直な取り付けと比べて改良された(ごく初歩の避弾経始 ということでしょう)。

 撃たれるリスクが最大なのはフロント部であるため、この位置の装甲は30mmと他より厚かった。後部とサイドの装甲は15mmしかなかった。屋根部は5mmと薄い装甲板から作られ、タワーだけは20mm(前部)および15mm(後部とサイド)の装甲板に囲まれていた。

 比較的サイド部が低いことにより、そしてシャーシも装甲のサイドで、地面に至るまで実に良好に守られていた。前後面はこうではなかったため、そこには事後的に振り子運動する20mm板が吊り下げられた(頑住吉注: http://www.waffenhq.de/panzer/a7v.html このページの写真でよく分かります。また前部サイドの死角についても分かりやすいです)。

 底部は(頑住吉注:燃料?)タンク下側の10mm破片防御プレートを除けば完全に無装甲だった。このためエンジン下部は全く装甲されておらず、これは冷却器の空気を問題なく引き込ませられるためでもあった。

 装甲のメーカーの1つであるクルップは大きな装甲板の製造に問題を抱えていた。このためフロント部とサイド部の装甲が1枚のプレートではなくより小さい複数を組み合わせてリベット止めしたものからなった外装ケースが登場した。Dillinger HutteおよびVolkinger HutteのRochling(頑住吉注:「u」、「o」はウムラウト)社の外装ケースはこれに該当しなかった(頑住吉注:巨大軍需産業のクルップともあろうものが比較的大きいとはいえ戦車の装甲板が一体で作れなかったというのは妙な話です。軍艦も作っていたはずなんですが)。

テクニカルデータ

メーカー:Bussig(頑住吉注:「u」はウムラウト)のダイムラー自動車会社
搭乗員:16〜26人
エンジン:ダイムラー165 204 4気筒量産エンジン(水冷)2基
エンジンの性能:毎分800〜900回転において各100馬力
シリンダー容積:各17,000立方cm
キャブレター:Pallasキャブレター、回転数制限器
点火:マグネット・高圧点火方式(アーク放電)
燃料:ガソリン・ベンゾール混合液
燃料消費量:約7.5l/km(路上)、16l/km(不整地)
合計燃料ストック:2x250l
後続距離:60〜70km(路上)、30〜35km(不整地)
速度:16km/h(路上)、4〜8km/h(不整地)
操縦:エンジン回転数の変更による。追加的にギアをニュートラルに入れること、個別のキャタピラにブレーキをかけることが可能。
トランスミッション:機械的3段トランスミッション
クラッチ:レザー張りの、負担が軽減されたダブル円錐クラッチ
走行装置:ホルトシステムのキャタピラにならった完全キャタピラ式走行装置
全長/全幅/全高:7.35m/3.06m/3.35m
シュプール幅:2.115m
超壕能力:2m
走行可能なぬかるみの深さ:80cm
よじのぼり能力:40cm
坂を上る能:25度
最低地上高:20cm
全体重量:30トン
燃料を含むシャーシの重量:16トン
装甲の重量:8.5トン
弾薬を含む兵器設備の重量:3.5トン
搭乗員と装備の重量:2トン
装甲:前面30mm、側面15mm、上部6mm、底前部10mm、その他は無装甲
武装:ベルギー製マキシム・ノルデンフェルド海軍用5.7cm速射砲(砲身長L/26.3)1門、MG08が6挺、lMG08/15が1挺。
弾薬:5.7cmグレネード180発、後には300発。マシンガン弾薬18,000発。
製造コスト:250,000ゴールドマルク
(頑住吉注:ドイツ帝国で1871〜1918年まで使われた貨幣単位)
その他:伝書鳩(情報伝達用)、光信号装置(銃砲撃命令伝達用)

実戦使用および行方

シャーシナンバー 名前 部隊 行方
なし プロトタイプ 走行学校
なし プロトタイプ 走行学校
なし 無線戦車 ドライバー
501 Gretchen 第1、第2、第3部隊 雌型仕様の唯一のA7V(砲なし、MG8挺)。終戦時部隊に。
502/503 第1、第3部隊 シャーシ502の故障後、1918年3月にこの上部構造がシャーシ503上に設置された。1918年10月に放棄され、イギリスに鹵獲され、その場でスクラップ化される。
504/544 Schnuck 第2部隊 シャーシ544の故障後、この上部構造はシャーシ504上に設置された。1918年8月31日にFremicourtで放棄され(ドイツ砲兵隊の前面への2発の命中弾後)、その後イギリスに鹵獲され、1919年にスクラップ化される。
505 Baden I 第1、第3部隊 終戦時部隊に。
506 メフィスト 第1、第3部隊 1918年4月24日にVillers-Bretonneuxで放棄され、その後オーストラリアに鹵獲され、今日ブリスベンのクィーンズランド博物館に。
507 サイクロプス 第1、第3部隊 終戦時部隊に。
525 ジークフリード 第2部隊 終戦時部隊に。
526 第1部隊 解体して使える部品を取り外される。
527 Lotti 第1部隊 1918年6月1日、Reimsで擱坐し、後さらにタワーに砲兵隊の砲による命中弾1発を受ける。1922年にスクラップ化される。
528 Hagen 第2部隊 1918年8月31日にFremicourtで擱坐し、放棄される。その後イギリスに鹵獲され、1919年にスクラップ化される。
529 Nixe II 第2部隊 1918年5月31日にReimsで喪失。その後アメリカに鹵獲される。1942年アバディーン実験場博物館(メリーランド州)でスクラップ化される。
540 Heiland 第3、第1部隊 終戦時部隊に。
541 第1部隊 終戦時部隊に。
542 Elfriede 第2部隊 1918年4月24日にVillers-Bretonneuxで喪失。その後フランスに鹵獲され、1919年にスクラップ化される。
543 Hagen、 Adalbert、
ウィルヘルム王
第2、第3部隊 (頑住吉注:前半の説明意味不明です)終戦時部隊に。
560 Alter Fritz 第1部隊 榴弾の命中を受け放棄せざるを得なくなり、1918年10月11日にIwuyで爆破される。
561 Nixe 第2部隊 1918年4月24日に損傷と交換部品の欠如により放棄される。
562 ヘラクレス 第2部隊 解体して使える部品を取り外される。後にイギリスに鹵獲される。
563 Wotan 第2部隊 終戦時部隊に。
564 第2部隊 終戦時部隊に。

搭乗員、制服、装備

搭乗員

 搭乗員は車長としての少尉、5人の下士官、10人の兵員からなっていた。しかし実戦投入においてはこの数はしばしば26人まで増加した。理想的ケースでは次のような搭乗員で間に合った。すなわち車長1人、戦闘指揮者1人、機械工もしくは技師2人(このうち1人は操縦手としての訓練も受けていた)、砲術長1人、砲照準手1人、砲装填手1人、マシンガン射手12人、伝令2人、明滅信号手1人、伝書鳩の世話係1人である(頑住吉注:計23人)。これにより各マシンガンには2人割り振られた。その上およそ搭乗員の1/3が弾薬のためと「降車」後の連絡に気を配ることだけに従事していたことが目に付く(頑住吉注:1マシンガンに2人割り振られたうちの1人は弾薬手で、これに砲装填手1人を加えて7人が弾薬に従事する人員だった、ということのようです)。

制服と装備

(頑住吉注:この項目の右にある中世の騎士のマスクのようなものは、「操縦手と車長を破片から守ることを意図したタンクマスク」です)

 当時まだ戦車戦力のための独自の部隊カテゴリーがなかったため、将校は特に自動車部隊や砲兵部隊から「借用」された。兵員は砲兵部隊および歩兵部隊(砲操作要員、マシンガン操作要員)、そして自動車部隊(操縦手)からやってきた。この理由からまだ特別な戦車兵の制服もなく、各兵士は自分の本来の兵科の制服を身につけていた。

 搭乗員は一般にM1915フィールドジャケット、M1916スチールヘルメット、戦闘帽、ズボン、ブーツまたは軍靴、将校たちはM1910軍上着をを身につけていた。前線において高まったガスの危険に基づき、これらにM1915ガスマスクが加わった。バヨネットの付属した革ベルト、野戦水筒、そしてその他のアクセサリー類は戦車内の狭さゆえにしばしば伝令の場合、あるいは搭乗員が戦車を去らざるを得なくなった際のみ身につけられた。

 一部(たいていは将校)はアマ製戦車コンビネーション(アスベストコーティングされていたらしい)を制服の上に、そしてモデファイされた航空兵用防護帽をかぶっていた。この場合イヤープロテクターは分離されていた。防空帽は戦車内部のシャープなエッジからの防護のためだけに役立った。

 車長および操縦手(より稀な場合は兵員)は時々タンクマスクを身につけていた。これはイギリスの戦車搭乗員から鹵獲したものだった。これはいわゆる破片からの防御を想定したもので、つまり敵弾を受けた際に壁面からはがれ、目の損傷をもたらす破片である。このマスクはレザーでカバーされた鉄板から作られていた。目はレザーラミネートで、鼻と顎領域は一種の鎖帷子で守られていた。

 このマスクは特に兵員用としては非実用的と判明した。視野が制限され、そしてこのマスクは暑さの中で装着が非常に不快だったからである。

戦車内での生活

 A7Vが外からは非常に大きく見えたにせよ、内部空間の状況は非常に狭かった。このためエンジン横のサイドの通り抜け通路はちょうど1.60mの高さしかなく、この結果搭乗員は身をかがめてしか動けなかった。車長と操縦手だけは充分なスペースとクッション入りの座席さえ持っていた。砲手が砲とともにスイング可能な座席を持っていた一方で、マシンガン射手は弾薬ケースの上に坐らなくてはならなかった。機械工、伝令、伝書鳩の世話係は立っていなければならなかった。最低限なにがしかのよりどころを得るため、デッキ上には全部で12本の保持ロープ(戦闘室ごとに6本)が取り付けられていた(頑住吉注:電車の吊り革のようなものだったようです)。床は後部の緊急脱出口およびエンジンの上を例外としてセレーション付き金属板で覆われていた。

 戦車内での勤務は耐えがたいものだったに違いない。すなわちほとんど完全な闇、暑さおよび騒音。内部照明はないも同然で、いくつかの銃眼、視察スリット、間隙から日光が射し込み得るだけだった。エンジン冷却用空気が内部スペースから吸い込まれたため内部気温は85度までになった。外部からのフレッシュな空気は屋根部領域の換気格子を通じてA7V内部に来た。このため搭乗員がガスまたは煙幕から無防備に空気の供給を受けるという結果になった。戦車内の音の大きさは120dB(A)となり、これはジェット機に相当した。

敵の戦車モデルとの比較

 A7Vはしばしば誤った設計と呼ばれるが、決してパーフェクトではなかったにしてもこれは不当である。20輌供給されたモデルは例えばイギリスのマーク戦車群とは違って構造が等しくすらなかった。このためほとんど量産とは言えない。

 原材料不足に基づく鉄での生産に際しての問題同様のこうした欠点にもかかわらず、A7Vは敵のモデル群を「紙の上で」(頑住吉注:カタログデータ上)明らかに上回った。第一次大戦の車輛のうち、これより大きい火力を持つものはなかった。

モデル 武装 エンジン性能 最高速度 搭乗員 最大装甲厚
イギリス マークIV(雄型) 5.7cm砲2門、マシンガン4挺 105馬力 6km/h 8人 12mm
フランス サン・シャモン 7.5cm砲1門、マシンガン4挺 90馬力 8km/h 8人 17mm
ドイツ 突撃戦車A7V 5.7cm砲1門、マシンガン6挺 200馬力 16km/h 16人 30mm

A7Vファミリーのさらなる車輛

A7V-U

 1918年9月、20輌のA7V-U(循環走行シャーシ)が発注された。これは1輌の試作品だけが完成された。このバージョンは40トンの重量を持ち、搭乗員が26人から7人に減らされることが決定していた。

A7V装軌貨車

 100のシャーシのうち22のシャーシ(これは2輌の試作品と20の量産車輛に使われた)とならんで1つのシャーシがA7V-Uの試作品、3つのシャーシがA7V対空戦車、2つのシャーシが無線戦車、1つのシャーシが砲兵砲牽引マシンのために使われた。残りの71輌は装軌貨車に費やされる予定だった。

テクニカルデータA7V装軌貨車

 装軌貨車の自動車技術的データは次の相違を除いて「ノーマルな」A7Vと同じである。

全体重量 26トン
上部構造の重量 1トン
シャーシの重量 16トン
実用搭載量 9トン
製造コスト 160.000マルク

バリエーション

A7V無線車輌

A7V対空戦車

A7V砲兵砲牽引マシン

A7V塹壕パワーショベル


 A7Vに関してはこんなページがあります。

http://commons.wikimedia.org/wiki/A7V?uselang=de

http://www2.beareyes.com.cn/bbs/u/207.htm

 上のページは今回紹介したページの画像コーナーといったものです。文中に「ドクロ」が出てきましたが、本当に最初の画像に見られるにっこり笑ったかわいい絵だったんでしょうか。下のページは中国語なので何が書いてあるのかほとんど分かりませんが、書籍からスキャンしたと見られる多数の画像が貴重です。

 非常に詳細な記述から、ドイツ人の「初のドイツ戦車」に対する愛着が感じられます。「伝書鳩が積まれていた」というのは結構有名な話だと思いますが、専門の世話係が同乗していたことは知りませんでした。また一部の搭乗員には座席がなく立っていなければならなかったこと、車内に証明設備がなかったことなども意外に感じました。

 A7Vの火力が第一次大戦に参加した戦車の中で最強、という記述にはちょっと首を傾げたくなります。何故57mm砲2門を搭載したイギリス戦車や75mm砲を搭載したフランス戦車より火力が強いと評価されているんでしょうか。ただ、車体横の張り出しに砲を装備するイギリス戦車の方法は正面戦闘ではA7Vより不利だったとする説もあります。また発射速度の低い砲よりも機関銃の数が重視されているのかも知れず、搭乗員の多いA7Vは機関銃の継続射撃に関しても有利だったということもあるのかも知れません。

 画像もこれ以上の詳しい記述もないので詳細は一切不明ですが、バリエーションとして対空戦車が構想されていたことは当時のドイツ軍の先見性を示していると言えそうです。











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