ドイツ語版「Wikipedia」によるMP40の説明
http://de.wikipedia.org/wiki/MP40
マシーネンピストーレ40
1938年以来のMP38の発展開発品であるMP40は1940年初め以後生産され、第二次大戦における当時のドイツ軍の制式マシーネンピストーレだった。ドイツ人銃器製造者Hugo
Schmeisserはその設計に参加していないにもかかわらず、MP40は誤って「シュマイザー」として話に出てくる。
MP38とMP40はHeinrich VollmerによってエルフルトのGeipel機械工場(ERMA)で開発された。両タイプは構造上、シュマイザーによって開発され、製造されたMP36をベースとしている。MP38とMP40はエルマ工場、SuhlのC.G.ハーネル社(その支配人はヒューゴ シュマイザーだった)、オーストリアのステアー工場で生産された。最後までMP40を生産していたのはステアーで(1944年10月に生産中止)、MP40の最多数を製造したのもステアーだった。全てのメーカーの全生産数は746,000〜1,100,000挺と見積もられている。
全般的情報 | |
名称 | マシーネンピストーレ40 |
他の名称 | MP 40、MPi40 |
国 | ドイツ帝国 |
開発者 | Heinrich Vollmer |
メーカー | エルマ工場 ハーネル社 ステアー工場 |
生産時期 | 1940〜1944年 |
生産数 | 746,000〜1,100,000挺 |
カテゴリー | マシーネンピストーレ |
寸法 | |
MP38の全長 (ショルダーストックをたたんで) |
856mm 630mm |
MP40の全長 (ショルダーストックをたたんで) |
832mm 629mm |
全高 | |
全幅 | |
MP38の銃身長 | 250mm |
MP40の銃身長 | 251mm |
MP38の重量 | 未装填時4.2kg 装填時4.9kg |
MP40の重量 | 未装填時3.97kg 装填時4.7kg |
テクニカルデータ | |
口径 | 9mm |
弾薬 | 9mmパラベラム |
マガジンキャパシティ | 32発 |
発射種類 | フルオート |
効果的戦闘距離 | 200mまで |
最大射程 | 1200m以上 |
発射速度 | 600発/分 |
銃口初速度 | 380m/s |
マズルエネルギー | 約580ジュール |
(頑住吉注:目次省略します)
構造
マシーネンピストーレのメリットがスペイン内乱で明瞭に示された後、1930年代の終わりにMP38は当時のドイツ軍を目標にして開発された。
MP38の構造は最初からコスト上好都合な大量生産のために設計された。設計者フォルマーは邪魔になり、重い木製ストックを放棄し、その代わりにMP38に初めての銃として折りたたみ可能な金属ショルダーストックを装備させた。これによりこの銃は当時のドイツ軍の、計画されていた電撃戦のための要求に適合した。
生産は主として切削工法を必要としたが、高いマテリアル使用度と労働コストも要求した。このことは、本来成功していた構造に手を加えるという結果をもたらした。金属薄板プレス技術とスポット溶接の使用により生産の経過は極度に加速され、単純化された。だが「MP40」と名付けられたこの銃のコストは、単純化にもかかわらずMP38よりもわずかに高かった。マテリアルの節約もわずかのみだった。だが生産高は大きく引き上げることができた。
MP38/40の造形は、それまでに設計されたマシーネンピストーレと比較してアンコンベンショナルであり、革新的だった。折りたたみ可能なショルダーストックはこの銃を非常にハンディにした。フォアストックとグリップパネル用には木の代わりにベークライトが使用された。これは安価に、素早く生産された。構造的には発射速度低下のための重いスプリング・重量閉鎖機構が良好な取り扱いのために有利だった。この銃はフルオートしか持たなかったので、低い発射速度は訓練されていない射手でさえ短い練習の後では狙った単発射撃が行えるための重要な前提条件だった。MP38/40のさらなる構造的特殊性はバレル下の「ノーズ」だった。本来この銃は装甲車両搭乗員のために構想された。このノーズは張り出し部の角(たとえば銃眼)にひっかけることができ、これにより発射し続ける銃がリコイルショックによって車両内に引っ込むことが妨げられた。
この銃の弱点は32連マガジンだった。この中には弾薬が2列で収納され、上部は1列で閉鎖機構に供給を行った。2列から1列への移行部では、汚れている際に平均以上の頻繁さで弾薬がつっかえ、この結果装填障害が起こった。戦争の経過の中で、障害を取り除くためのいろいろな試みがなされた。当初スムーズだったマガジン本体には1941年以後リブがプレスされた。これは一方ではマガジンの堅固さを向上させ、他方では内部における弾薬の接触面を減らすことを意図していた。このため汚れは供給によりわずかに影響するはずだった。その上特殊なマガジンクリーニングブラシが採用された。
当初における安全上の隙間は固定できない閉鎖機構だった。閉鎖機構は銃への衝撃によってその最前部位置から後方に動かされ、閉鎖スプリングによる再びの前進時に弾薬を供給し、点火する可能性があった。この欠陥は閉鎖機構の固定設備によって取り除かれた。これは1941年以後量産に導入された。古いMP38および40はたいていこの設備付きに改造された。
ロシア戦役の間に敵のPPSch-41およびその71連ドラムマガジンによって積まれた実戦経験は、MP40/Iの開発を導いた(頑住吉注:MP40/IIが正しいようです)。これはダブルにされたマガジン受け入れ部を持つものだった。最初のマガジンを撃ち尽くした後、第2のマガジンを閉鎖機構前方にスライドさせることができた。これにより合計64発が使用可能だった。だがこのモデルは複雑な構造ゆえに大量生産に至らなかった。これは戦闘価値向上ももたらさなかった。最初に保持レバーをオープンし、マガジンをスライドさせ、保持レバーをふたたび閉めなければならなかったからである(頑住吉注:これでは普通にマガジン交換するのと同程度の時間がかかる、というわけでしょう)。
ヒューゴ シュマイザーは戦争中、追加的にMP41を設計した。これは技術的にはMP40と同一だった。しかし折りたたみ可能なショルダーストックの代わりに木製ストックを持っていた。その上バレル下のノーズはなくなっていた。この銃はセミおよびフルオート用に作られていた。MP41は輸出および警察部隊用のみに製造された。
付属品
各銃には6本のマガジンが属した。これ用には体の左右に装着するマガジンポーチが作られた。これはそれぞれ3本のマガジンを収容した。マガジンローダー(装填補助具)のため、追加的に左のポーチに小さなサイドポケットが取り付けられた。
この銃は革製のキャリングベルトと共に供給された。これはカラビナー98kのものとは異なっていた。「Frosches」(頑住吉注:英語のフロッグ、つまり「カエル」。98k用ベルトの一部分の俗称だろうというのは文脈上分かりますが、このあたり詳しくないのでこれ以上のことは不明です)の代わりにダブルヘッドの金属製ボタンが取り付けられた。これはベルトを2カ所の開口部で結合し、そしてこれによりベルトリングを囲った。
マズルの保護のためには当初金属製のマズルカバーがあった。これはマズルおよびフロントサイトガードのレストノーズ(MP38の早い時期のバージョン)に取り付けられた。このカバーは、クリーニングのためや発射前にはオープンしなければならない留め金を持っていた。この構造は浸透しなかった。このためこの種のカバーは今日それに応じてレアである。このためフロントサイトガードの保持ノーズは後になくなり、より単純なゴム製マズル用カバーが使用された。これは緊急時単純にこれを通して射撃できた。
さらにマガジンの完全なロードのため装填器具が付属品として入手可能だった。これはマガジンにかぶせられ、素早い、そして完全なロードを可能にした。さらに付属品として演習弾薬器具が使用できた。これは空砲弾薬の射撃を可能にした。
稀なケースでは銃器携帯者にMP38あるいはMP40用の減音器も支給された。この減音器はレア品目である。
使用領域
MP38は当初装甲車両の搭乗員のために開発された。しかしその携帯性により、直ちに全ての兵科カテゴリーで使用されるようになった。U-ボート搭乗員でさえMP38/40を携帯した。この当時においてはコンパクトな銃器を使って、小規模な部隊が比較的高い火力を発揮することができた。効果的射程は最大200mだった。
普及
MP38/40はドイツ歩兵武装の典型に該当する。このため多くのハリウッド映画の中で、ドイツ兵は歴史的事実に対し不釣り合いにこの銃で武装されている。MP38/40は通常小隊および分隊指揮官に支給された。一方ドイツ兵の主な部分はモーゼル98kカラビナーゲベールで戦った。1939年秋におけるポーランド奇襲当初、当時のドイツ軍は8,773挺のMP38を支給していた。MP40採用までに約40,000挺のMP38が存在した。終戦までに100万挺以上のMP40が製造されたと見積もられる。
連合軍部隊によって、MP38/40が彼らの兵科によって時折引っ張り出され、彼らの上官に許容される限りにおいて鹵獲兵器として運用されたことが知られている。これはMP38/40のハンディさゆえである。
コピー
MP38あるいはMP40は、いくつかの他のマシーネンピストーレもしくはセルフローダーの構造上の手本としても役立った。その中には次のようなものがある。
●ユーゴスラビアのZastava M56(1956年以後) (頑住吉注: http://gunsite.narod.ru/type_56.htm 後半部はMP40にきわめて似ていますが、前半部を見るとPPS43の影響もありそうです)
●ドイツ製セルフローディング銃BD38(2005年以後) (頑住吉注:外観はそのまんまなセミオートレプリカです)
同様にMP40のディテールが複数のマシーネンピストーレ(他の部分では技術的に明らかに異なる)に引き継がれた。
アメリカのM3「グリースガン」(1942年以後)の設計のため、鹵獲されたMP40と譲渡されたステンガンマシーネンピストーレが流用可能な構造上のディテールを求めて研究された。この際、連合軍は一部そのマシーネンピストーレ武装を、鹵獲されたドイツ製弾薬の使用という観点で選んだ(だから例えばフランスのレジスタンスはイギリスのステンガンを優先的に使用した)、またアメリカのマシーネンピストーレはヨーロッパの抵抗グループへの供給のため、特別に9mmパラ弾薬仕様で製造された(例えばUD-42)ということが確認される(頑住吉注: http://www.securityarms.com/20010315/galleryfiles/1300/1356.htm )。折りたたみ可能なショルダーストックは、これに続く多くのマシーネンピストーレの手本となった。まだ第二次大戦中にソ連のPPS43(1943年以後)が開発されたが、その折りたたみショルダーストックはMP40のショルダーストックにならって作られた。
戦後の時代
第二次大戦後、MP40はパレスチナにおいて実戦使用された。そこでは大量のドイツ製鹵獲兵器が、後のイスラエル軍によって武器庫の在庫品として収納されていた。1956年までMP40はイスラエル落下傘猟兵の制式マシーネンピストーレだった(頑住吉注:UZIが本格登場した頃です)。
バルカン半島でも1990年代におけるユーゴスラビア紛争の間、驚くほど多数の、この本来はアンティーク化した銃が実戦使用された。
第二次大戦では非常に多くのドイツ兵がMP40を持ち、非常に多くのロシア兵がPPSh-41を持っていたようなイメージがあります。先に紹介したPPSh-41の項目には「PPSch-41はこのように膨大な数で製造され、部隊に支給されたので、しばしば単純に全大隊がこの銃で武装された。」とありました。後者は正しいわけです。以前サイト、「Lexikon der Wehrmacht」の項目で、「映画では非常に多くのドイツ兵がMP40を持っているイメージがあるんで個人的には意外な感じがしますが、「ライフル」の項目で示されている生産数と比較すると、この銃の生産数がピーク時でもKar98kの1/8以下でしかなかったのが分かります。」と書きました。今回の項目でも明確に指摘されていたように前者は正しくなく、MP40は米軍におけるM1カービンのような補助兵器に過ぎなかったわけです。
最も多数のMP40を作り、最後まで生産を続けたのがステアー、というのもそうですが、金属製折りたたみストックはMP38が最初、という指摘も意外でした。ピストルの着脱式ストックならパーカッションリボルバー時代からありましたが、確かにこれより古い折りたたみ式というのは思いつきません。