朝鮮戦争でのある戦車戦

 近い将来これに近いことが再演されるかもしれませんが。

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戦友が敵に変わる 朝鮮戦争の中でM26戦車、T-34戦車と戦闘

M26戦車がT-34戦車とベルリンで勝利の合流をした時、数年後にこの2種のかつて肩を並べて強大なドイツ装甲部隊に対抗した古典的戦車が相譲れない敵に変わると予想した人はあるいはいなかったかもしれない。

Obong-Niの戦いは朝鮮戦争の中の著名な戦車戦の一つである。北朝鮮軍のT-34とアメリカ海兵隊のM26がObong-Niで激烈な戦闘を発生させ、これはアメリカ海兵隊戦車の初陣でもあった。

朝鮮人民軍(NKPA)は朝鮮戦争初期の戦闘の中でほとんど破竹の勢いで、相手の韓国とアメリカの軍隊はそれにもかかわらず軟弱かつ全く準備がないことが目立った。北側の猛烈な攻勢に迫られて、米韓連合軍はやむを得ず沿海の都市釜山付近まで撤退し、かつ著名な釜山防衛線を建立した。その後、連合軍は着実にこの防衛線を強化し、かつこの防衛線を突破して北朝鮮軍に対して反攻を発起することに着眼した。この時、後方からの援軍の一つであったアメリカ海兵隊第一臨時旅団が釜山に派遣されて駐屯した。これは臨時の属性の部隊で、その目的は素早く戦闘に投入し得ることだった。小規模なM26部隊がこの旅団の中に配備され、支援作戦に用いられた。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「アメリカ海兵隊第1戦車大隊B中隊のM26A1。1950年9月27日。ソウル。」)

無名峠の戦い

朝鮮人民軍の釜山周辺地域に対する圧力は、米韓連合軍の実力の増強とともに弱まり、同年8月になると、連合軍はすでに全韓国に対する支配権を奪回する準備を整えた。第5海兵陸戦連隊(5th Marines)は命令を受けて海兵隊により無名峠と命名されたObong-Ni峠を占領に行った。彼らを支援するのは海兵隊第1戦車大隊A中隊第1小隊の4両のM26戦車で、Granville Sweet中尉に率いられた。朝鮮人民軍は第4歩兵師団第109戦車連隊第1戦車大隊を派遣してアメリカ海兵隊と対戦した。

昼の戦闘が終わった後、米軍は夜間の防御のため準備を整え始めた。この時M26も後方に撤退して補給を行ったが、夜8時、M26部隊はコードネーム「Flash Purple」を受け、これはすなわち戦車戦の発生を意味していた。

Sweet中尉は彼の戦車小隊を前線に向かわせ歩兵部隊と協同で防御する命令をし下した。何故ならそれぞれの戦車はこの時すでに全て補給を完了していたからである。Sweet中尉が接敵を予想した道路の狭隘な所には3両のM26が横並びで放置されていた。何故ならもし味方サイドの戦車が撃破されたら、戦車の残骸が敵軍の縦隊の前進継続を阻むだろうからである。Sweet中尉の搭乗する戦車の砲身の俯仰機構にいささか問題が出たため、彼の戦車はずっと最後尾に留まった。敵軍の戦車縦隊がひとたびカーブに接近するや、先頭に位置する敵軍の戦車はちょうどM26の射程内に位置した。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「朝鮮人民軍第105装甲旅団第105装甲連隊のT34/85。1950年6月27日、ソウル」)

T34に命中

4両の朝鮮人民軍のT34/85はこの道沿いに攻撃しながら接近し、軽々と前方に布陣し防衛する海兵隊の歩兵部隊を突破し、歩兵と戦車部隊の防衛線を引き裂いた。海兵隊の歩兵部隊は無反動砲とロケットランチャー用いてT34に向け発砲し、T34の外部燃料タンクが命中されて引火したが、戦車縦隊は依然として停止しなかった。T34縦隊は前進を継続し、道路のカーブに来た時、とっくに長時間待っていたM26を見た。この道はアメリカ海兵隊と朝鮮人民軍との間の初の戦車戦の舞台となった。

技術下士官Cecil Fullertonが乗ったコードナンバーA34のM26戦車が戦車戦の第1発目を響かせ、T34に向け高速徹甲弾(HVAP)発射した。だがFullertonは同じ車両の砲手軍曹Stanley Tarnowskiに攻撃が目標に命中していないと文句を言った。だが事実としてはTarnowskiは中隊の中で最も良い「射手」で、彼は標的を外してはいなかった。彼の3回の攻撃は全てT34に命中していた。1発の砲弾はT34の車体を貫通し、砲手を射殺し、装填機構を破壊し、かつまた車体後部装甲を貫通していた。M26が3回の砲撃を終えた時、付近の山丘上の海兵隊の歩兵たちは味方サイドのM26が命中弾を受け出火したと思った。だが実際には敵軍のT34縦隊はこのため足止めされていた。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「アメリカ海兵隊第1戦車大隊B中隊のM26A1。1950年11月10日、咸興」)

90mm砲の強打

第2両目のT34は第1両目のT34の周囲を移動し、かつ直ちに数発の砲弾の命中を受けた。そのうちの1発はその砲塔に命中し、この車両のコントロール不能をもたらし、右往左往し、さらに付近の山腹に向け何発かの無用の砲弾を発射した。第3両目のT34は2両の味方サイドのT34の残骸の後ろから発砲を開始したが、M26は果断に反撃し、かつ相手方に7回命中させた。3名の車両クルーは戦車を飛び出し、車両を捨てて漆黒の戦場の一角まで走って逃げることを企図したが、付近の歩兵部隊は小火器を使用して彼らを制圧し、車内に戻らざるを得なくさせた。最後の1両のT34はその所属する戦車大隊の指揮官によって指揮されており、戦闘中に撤退したが、直ちに歩兵部隊のロケットランチャーによる命中弾を受けた。M26もSweet中尉が撃ち方止めを命令するまで継続してこのT34に向け発砲し、この車両を出火燃焼させた。

歩兵が味方サイドのM26が出火したと思ったと前述したが、実際確かにこうで、しかもそれは何度もあった。慌ただしい行軍の過程で、車両乗員は燃料タンク上部板に油をこぼしていたのである。M26の90mm砲が発砲する時、砲口の化学反応がこの油の跡にたやすく点火した。このことは確かに周囲の歩兵を不思議に感じさせた。

戦車戦は終わり、いかなる「パーシング」の有効性に対する疑いも排除された。この戦闘は、T34/85の装甲はM26の90mm砲の面前では貫通され得ることを証明したが、全米軍のM26とその車両クルーはいずれも将来の烈度のより高い挑戦を迎えることになる。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「朝鮮人民軍の歩兵がT34/85に随伴し突撃を発起」)


 M4シャーマンはT34/85相手に分が悪かったようですが、M26パーシングはキングタイガーに対抗するための戦車ですからね。現時点ではアメリカと北朝鮮の戦車の実力差はさらに開いているはずで、また航空支援などの力には比較にもならない開きがありますが、まあだからこそ北朝鮮は核による威嚇にこだわるわけでしょう。


















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