「消音手袋拳銃」

 床井雅美氏の「アンダーグラウンド・ウェポン」に、「ハンド・ファイアリング・メカニズムMk-2」という手袋に取り付けられた特殊ピストルに関する記述がありました。検索してみると、最近映画「イングロリアス・バスターズ」にも登場したらしいですが私は見てません。「hand firing mechanism」で検索しても有用な情報にはヒットせず、あれだけメジャーな映画に出た以上アメリカなど英語圏のマニアが話題にしていないはずはなく、あるいは別のより一般的な名称があるのではないかとも思われます(原題「Inglourious Basterds」で英語の映画レビューを片っ端から読みまくれば分かるかもしれませんが私にはそんな根性ないです。英語得意で暇な人、よかったら調べて教えてください) この謎に包まれた銃に関し、非常に意外ですが中国のこんなページがありました。

http://bbs.tiexue.net/post2_4061095_1.html


消音手袋拳銃(頑住吉注:原文では「無声手套手槍」):「林海雪原」スパイ装備のルーツをたどる!

曲波の「林海雪原」はよく知られたノンフィクション文学作品として、我が国の読者の間でずっと魅力を高く保ち衰えることがない。今に至るも、威虎山を知略で攻め落とすなどの古典的くだりは依然として多くの人が興味津々で話題にすることができる(頑住吉注:曲波は作者の名で、この小説は1946年を舞台にしていますが書き上げられたのは1956年です。後に人民解放軍の第4野戦軍に発展する東北民主連軍が、国民党の残党が匪賊化した敵を掃討する話だそうです。)。

だが、もしここで突然訊ねるとするなら、「林海雪原」に登場するの匪賊の中で階級が最高なのは誰か?

この質問は読者を混乱させるかもしれない。

この小説の中で、匪賊の中で階級が最高なのは、座山雕に「侯専員」と呼ばれた国民党(頑住吉注:意味不明だったり日本語にない漢字が使われているので肩書かなり省略)スパイ侯殿坤である。名目的に言えば、座山雕も許大馬棒も彼の手下の保安旅団長である。神河廟の中の「宝塔鎮河妖」の暗号名で呼ばれた河道人宋宝森も彼の部下の高級参謀に過ぎない。

小説の構想から見ると、侯殿坤は小説全体の中で匪賊側を象徴するリーダーのようである。重要な役ではあるが、露出は少ない。ついに本当にベールを脱いだ時には、小説はすでに終わりに近い。

だが、侯殿坤は最後の一戦において、国民党スパイの「独門暗器」(頑住吉注:秘密兵器みたいな意味でしょう)によって匪賊掃討小分隊のリーダー欒超家を撃って負傷させる。この匪賊の大物兼ベテランスパイの絶体絶命の中での最後の一撃は、人に深い印象を残す。

欒超家はあだ名を「サル」と言い、少剣波の小分隊の中で最も機敏ですばしこい人物である。乳頭山奇襲では、彼は率先して鷹嘴峰からブランコ(頑住吉注:というかターザンの方が近いのでは)のような動作で落下傘なしの降下を行い、匪賊掃討部隊のために許大馬棒の拠点の背後に突破口を開いた。最後の李鯉宮の戦いでは、侯殿坤はすでにただ1人になっていた。このような優勢な状況下で、豊富な経験を持つベテラン偵察員として、欒超家は何故侯殿坤の手によって負傷したのだろうか? 実は欒超家の過ちは、1つには敵を過小評価したこと、そしてもう1つの理由は侯殿坤が使用したスパイ専用の秘密兵器にあった。‥‥消音手袋拳銃である。

(頑住吉注:原ページにはここに、「消音手袋拳銃説明図」があります。部分名称は上が皮手袋、真ん中がトリガー、下は判読できませんがたぶんバレルでしょう。)

もし「林海雪原」がただのフィクション小説だったら、このようなプロットを我々は笑って読み過ごしてもよい。だが、「林海雪原」はあくまでも相当に写実的な軍事作品であり、作者の曲波は自ら牡丹江地区の匪賊掃討作戦を指揮しており、小説の中の楊子栄、欒超家、座山彫、馬希山らは全て当時の匪賊掃討作戦における双方の実在の人物である。小説の中の戦闘は完全に写実的ではないものの、大部分は元ネタがあり、大半は当時の本当の交戦から取られている。

侯殿坤が手袋につけたスパイ拳銃を使って欒超家を撃って負傷させるこのプロットの背後には、作者の独創性ある人物描写上の目的があり、本当の意図は侯殿坤の国民党のベテランスパイとしての身分を強調することだった。

歴史上、侯殿坤その人は確実に存在する。だがその人生を見ると、小説中の侯殿坤とは微妙な差がある。

歴史上の侯殿坤の出身地は山東省の費県○山后村(頑住吉注:○は山冠に固)である。青年時代は人と闖関東(頑住吉注:華北地区農民の東北三省への移民運動だそうです)を行い、性格が狡猾だったため、後には人が集まって匪賊となった。1946年初め、民主連軍と国民党軍は相前後して東北に進入した。国民党側は侯殿坤を地区の中央国務専員に任命し、匪賊を集め民主連軍の後方を攪乱させた。匪賊掃討部隊に敗れてソ連に数年潜入し、後に帰国し改造を受けた(頑住吉注:仮面ライダーみたいな改造手術を受けたわけではなく労働改造刑を受けたとかそういう意味でしょうね)。真実の侯殿坤は匪賊掃討部隊によって撃ち殺されたわけではなく、しかも彼の人生がスパイ活動とは深い関係がなかった様子が見て取れる。だが「林海雪原」の中の侯殿坤は「空降」のベテランの国民党スパイである。

曲波が匪賊掃討作戦中に国民党スパイの装備や特徴に対し研究を行ったことがあるというのは非常にありそうなことである。さもなければ侯殿坤に「消音手袋拳銃」を使わせることを思いかないだろう。この種の特殊なスパイの武器は、その出所にすこぶるいわくがあり、ベテランでない国民党スパイならば、この種の武器に接触し、手に入れる機会を持つのは難しいからである。

いわゆる「消音手袋拳銃」は国産ではなく、アメリカの海軍情報部が研究開発した装備であり、世界のスパイ兵器発展史の中で一定の地位を占める。第二次大戦中、アメリカ海軍情報部の人員は往々にして前線近くの地区や敵の後方で活動する必要があった。この種の任務を遂行するスパイ人員は各種の危険に遭遇することがしょっちゅうであり、隠ぺいされた、しかも信頼性の高い近距離自営武器を強く求めていた。「消音手袋拳銃」はこういう状況から生まれたのである。

諜報技術の世界的権威であるKeith Melton(頑住吉注:検索したら「CIAスパイ装備図鑑」など多数の著書がありました)は、彼の作品「秘密戦争」の中でこの種の奇妙なスパイ武器を描写したことがある。「消音手袋拳銃」にはグリップがなく、銃本体は金属製の扁平な箱に連結された2本のパイプからなり、長い方は撃発装置、短い方はバレル(.38口径)である。金属製の扁平な箱内は圧縮空気であり、造形はちょっとライターに似ている。この拳銃は圧縮空気によって弾丸を発射するので、発射音は小さい。

この銃はネジによって皮手袋の背面に装着でき、一般に2種類の装着方式があった。

第1種類目は、バレルを中指と平行にし、撃発装置を薬指と平行にするものだ。必要な時は腕を水平に上げ、中指で敵を指し、小指でトリガーを引いた。第2種類目は、バレルを小指と平行にし、撃発装置と薬指を平行にし、射撃時は小指で相手を指し、中指でトリガーを引いて撃発した。この2種の射撃方式はいずれも巧妙に、腕にストックの作用を担当させるもので、いわゆる「匠心独運」(頑住吉注:独創性をもって巧みなアイデアを運用する、という成語だそうです)である。ただし、その撃発装置の位置は風変わりで、特定の指の動作を必要としてやっと射撃でき、訓練を経なければ使用は難しい。小説の中の侯殿坤の動作から見て、彼は明らかにこの方面の訓練を受けたことがある。

あなたは問うかもしれない。それはいいとしてこの銃は何故撃発装置の設計をこのように風変わりにする必要があったのか? と。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「スパイの優れた武器:消音手袋拳銃」)

この武器の撃発装置がこのように珍奇な設計になっている、その主な目的は、スパイが危険な環境にあり、例えば相手に銃を突きつけられているような状況下で、隙を見て手袋を相手の体に接触させ、比較的長い撃発装置で相手の体を突けば、この触れる動きで射撃が起こり、敵を死に至らしめることができることである。この拳銃を持ったスパイは同様の方法を使って暗殺行動も実施できる。

ただ、この銃は体積の制約と言う原因で、圧縮空気が1発の弾丸の発射にしか充分でない。改めての装填には特殊工具とボンベが必要になる。侯殿坤は欒超家に2発目の射撃を行っており、これは別の手袋上の拳銃の使用を準備していたに違いない。

日本の映画監督滝田洋二郎が監督を務めた映画「眠らない街 新宿鮫」の中で、銃器改造を得意とする役柄の木津がこのような銃を持っていた。映画の中では犯人が警察官との近接格闘中にこの銃を使用して射撃するシーンもあり、充分にその性能を顕示していた。造形が斬新であるため、この手袋拳銃と木津の改造した別のアタッシェケース中に隠された消音器付きスパイ暗殺用銃は観衆に深い印象を残した。ある日本の模型製造商はこの両種の銃の模型を販売して大成功した(頑住吉注:上の画像は仲代光希氏の公式サイトから無断借用されたものと思われます。 http://plaza.rakuten.co.jp/asahikoubou/diary/200706280000/ 実は私、今は亡きバクレツパイナップルで手袋銃の現物を仲代氏に見せていただいたことがあります。画像でも分かる通り素晴らしい出来でしたが、通常の弾薬の使用を想定した構造になっていました。なお、現物を見たことはないのですがこちらは出来が悪かったようなので仲代氏の作品を元にしたものではないと思われますが、少数ガレージキットが販売されたようです。ただ「大成功」とはとても言えないはずです。またアタッシェケース入り消音トカレフは販売されてないでしょう。機能ありで販売したら理屈上実銃のトカレフが使用できるはずで、いくらなんでもヤバ過ぎです)。

この拳銃はアメリカ海軍の製品に属すのであるが、何故国民党スパイの手に入ったのか?

これに関しては第二次大戦中のアメリカ情報機構と国民党との協力から語り起こす必要がある。

この時期に最も成功したのは、勝る者のないアメリカ海軍情報員Milton E. Milesと、軍統局(頑住吉注:国民政府軍事委員会調査統計局の略称でスパイ組織)の責任者戴笠との間に結ばれた協力関係だった。1942年5月、海軍中佐の任にあったMiltonはアメリカ海軍連絡管の身分で訪中した。戴笠の嗅覚は鋭敏で、直ちに海軍部長陳紹寛の手からMiltonを招待する権利をいち早く奪取した。Miltonは非職業情報人員出身で、経験のあるスパイ人員に中国における対日情報工作の展開を扶助してもらう必要に迫られていた。戴笠は大規模な軍統局を掌握していたが、アメリカ側の資金、器材、技術的支持を差し迫って必要としていた。双方は意気投合した。1943年4月15日、戴笠が主任、Miltonが副主任を担当する中米特殊技術協力所(Sino-American Cooperative Organization )が正式に成立し、双方は協力契約に署名した。主要な内容には、双方による軍事情報交換、アメリカ側が中国沿海に人員を派遣し機雷敷設、測量を行うことの許可、双方共同での沿海や主要都市へのラジオ局等の情報施設の設立、アメリカ側による中国側のための武器、器材、経費の提供、軍統局による武装スパイ訓練の援助が含まれていた。

協力契約署名後、双方の協力はスムーズに進んだ。Miltonは絶えず軍統局側から重要な対日作戦情報を獲得し、一方軍統局側もアメリカ海軍の資金援助の下で日増しに発展していった。

注意に値する点は、江姐など革命烈士が犠牲となった白公館、渣滓洞(頑住吉注:国民政府側の政治犯収容所)での大虐殺も、一般に「中米協力所大虐殺」と称せられるが、実際にはすでに中米協力所は1946年1月にはとっくに終わっており、この時点では江姐はまだ捕われていなかった(頑住吉注:虐殺は1949年11月です。なお犠牲になった政治犯は200名余りで、「大虐殺」という表現に多少の違和感を感じます)。このように称せられる最も主要な原因は、この2つの収容所の所在地がいずれも大きな範囲では中米協力所があった所在地に属していることである。白公館、渣滓洞などの収容所と中米協力所には隷属関係はない。中米特殊技術所の協力協定第1条には次のように書かれている。「中米両国共同の対日作戦のため、中米特殊技術協力所(略称中米所)を組織する。日本の陸海空軍の軍事情報を交換し、また中国大陸の気象情報を収集する。ゲリラを訓練し、日本軍の後方に送り、アメリカ軍の中国沿海上陸作戦を援助する。共同で迅速に日寇を殲滅する。」 これは基本的に対日作戦のために生まれたもので、対日作戦終結により終結する機構だったのである。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「博物館にある消音手袋拳銃」)

しかし、中米協力所がすこぶる悪名高いのには自ずと原因がある。中米協力の期間、アメリカ側は数万の武装スパイおよび専門家を訓練し、数千トンの各種物資を運び込んだ。これらの人員と器材は、後に大部分が国民党側によって内戦で使用された。このため、費正清(頑住吉注:有名な歴史学者でハーバード大学終身教授)はかつて言った。「中米協力所の弊害は、1945年に国共内戦が勃発した時、その提供したアメリカによる援助物資が全て国民党側に使われたということにある。これはすなわち客観的意味においてアメリカが「過早に」共産党の活動への反対に加入したことを意味する。」(頑住吉注:国民政府は後にあまりの腐敗ぶりにアメリカからすら見捨てられており、「共産党だから敵」と決めつけずに共産党とも話し合いを持って共産党支援の是非を決めるべきだった。現にソ連に対する武器援助も行われたではないか。ということなんでしょう)

これらの物資の中には、スパイ用の「消音手袋拳銃」も含まれていた。解放戦争(頑住吉注:国民党政府との内戦)中、この武器は何度にもわたって国民党スパイ組織から鹵獲された。今でもなお中国人民革命軍事博物館には展示品として1挺展示されている(頑住吉注:上の画像がそれでしょうね)。

しかし、この裏には興味ある事情が隠されている。中米の情報協力は、初期にはアメリカ海軍側が先行していたが、後には戦略情報局(頑住吉注:OSS)がメインになった。戦略情報局の局長で「野牛」の異名を持つドノバン(頑住吉注:William Joseph Donovan)は陸軍出身で、戴笠とMiltonは当初彼とよく衝突した。だが戦略情報局はアメリカの中央情報局(頑住吉注:CIA)の前身であり、その実力と影響力は海軍側の遠く及ばないところだった。特にMiltonのような小人物が対抗できる相手ではなかった。最終的に、Miltonはアメリカに呼び戻され、さらには階級を降格される処分を受けたとされる。

このような状況下では、海軍機関が研究開発した「消音手袋拳銃」は中米協力所初期のMiltonがリーダーシップをとっていた時期にのみ中国に持ち込まれ、軍統局スパイの使用のために提供されることが有り得た。中米協力所の後期の中国援助物資と訓練の提供者は主に陸軍がバックにある戦略情報局であり、海軍の武器を軍統局側に提供することは有り得ない。

曲波は「林海雪原」の中で軍統局スパイという身分の侯殿坤にこの武器を使用させた。実はその言外の意味は、侯殿坤が重要人物であることを説明することに他ならなかった。侯殿坤は中米協力所初期に早くもすでに軍統局のベテランスパイの仲間入りをしたに違いなく、しかもMilton時代のスパイ訓練を受けたことがある可能性が高い、と言いたかったのである!

文学作品の中で、当時のスパイ武器に対するかくのごときリアルな描写が登場することは、作者が軍事生活に対して熟知していることの反映でもあり、これはいかなる机上の空論でも代替できないのである。


 ヨーロッパのレジスタンスの武器というイメージのリバレーターが、実は使用された数ではアジア太平洋地域の方が圧倒的だったという記述に驚いたことがありますが、この特殊兵器も戦争中にアメリカから中国に相当多数が渡っていたわけです。

 一番意外だったのはこの銃が圧縮空気によって弾丸を発射するという記述です。記述の詳しさから見て全くの間違いとは考えにくいのですが、鵜呑みにするにも抵抗を感じます。たぶん「イングロリアス・バスターズ」では通常の弾薬を使用するものとして描写されていたのだろうと思いますが、タランティーノのことですから「新宿鮫」を見て真似しただけという可能性も考えられます。Keith Meltonの著書の記述が紹介されており、内容が間違いであるとされていないところを見ると、Keith Meltonは圧縮空気説と矛盾しない線で記述しているということなんでしょうか。気になります。











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