中国の無反動砲

 他の兵器とは違いソ連製ではなくアメリカ製のコピーが主体だったという点が興味深いです。

http://military.china.com/history4/62/20140321/18407465.html


中国の無反動砲発展史:長期にわたりコピー生産したアメリカの無反動砲を装備

1950、60年代、中ソは軍事同盟関係を建立し、我が国はソ連の援助の下に完備された軍事工業を建立した。1955年になると我が軍は基本的にソ連式装備を用い、戦争の年代に鹵獲した「万国ブランド」の装備を淘汰した。だが我が軍はこれに反して長期にわたり、57、75、105mmという3種の口径のアメリカにならった無反動砲を装備した。

ルーツ

無反動砲は第二次大戦の時期に戦場に投入された新兵器で、アメリカはM18式57mmおよびM20式75mmという2種の無反動砲を研究開発し、主に歩兵作戦支援に用い、同時に対戦車機能も併せ配慮した。1944年に57mm無反動砲がまず実戦に投入され、1945年には沖縄上陸戦役に用いられた。当時中国もアメリカの同盟国として、アメリカ製の2.36インチ(60mm)ロケットランチャーと57、75mm無反動砲を手に入れた。第二次大戦終結後、国民党政府はこうしたアメリカ式武器のコピー生産を決定した。

1946年から、四川に設けられた国民党兵工署第五十工場はアメリカ式57mm無反動砲の作図、コピー生産作業を担当した。この工場はドイツ式37mm対戦車砲を生産した豊富な経験があったので、進展は比較的速かった。信管は37mm対戦車砲の信管で代替し、砲架はスウェーデンの「ボフォース」山砲の砲架の部品を利用して改造して作ることが準備された。だが無反動砲の発射薬の性能の要求は普通の火砲とは異なり、このため「ソロサーン」20mm高射機関砲、「ソロサーン」37mm対戦車砲、アメリカの75mm山砲の3種の発射薬を混合して代用品を作り、かつアメリカ製57mm砲身を用いて試験を行い、もって混合の比率を確定することが準備された。1947年、サンプル砲と弾薬が製造され、「36年式57mm無反動砲」と命名された(頑住吉注:中華民国建国を元年とした暦に基づく命名ですね)。

1948年、雲南省昆明に位置する国民党兵工署第五十三工場は57mm無反動砲の照準鏡を作り、かつ351個を生産した。同年7月、蒋介石は南京でコピー生産された57mm無反動砲の射撃デモンストレーションを視察した。彼はこの砲を大いに賞賛し、自ら兵工署のロケット科長を呼んで大量生産の命令を下した。だが蒋介石は、当時中国は57mm無反動砲に必要なニッケルクローム鋼を生産することは決してできず、第五十工場は在庫の37mm対戦車砲の砲身の鋼材を用いて代替とするしかなかった、ということを知らなかった。このため、生産された95門の砲の品質は不合格で、ずっと国民党軍の使用に引き渡すことはできなかった。トリガーバーとエキストラクターの変形など品質問題の他、1949年4月、22号砲が砲身爆発事故を発生させ、このことは材料問題が57mm無反動砲生産の主要な障害だったことを説明している。

75mm無反動砲は砲弾の図面は完成したが、火砲の図面は一部分しか完成しなかった。国民党政権の時期は主に、農業と軽工業を主とした封建買弁経済を発展させ、重工業の基礎は薄弱だったので、無反動砲といった種類の簡単な兵器すらもコピー生産に成功しなかったのである。

我が軍も解放戦争、抗米援朝戦争、何度もの匪賊討伐、反乱平定作戦、中印国境自衛反撃戦の中で、かつて大量のアメリカ製57mm、75mm無反動砲を鹵獲した。1959年、チベットの農奴の主である貴族の反乱を支持するため、CIAがチベットの反徒に空中投下した武器の中にも、57mm無反動砲が含まれていた。例えば第二次空中投下物資の中には300挺余りのM1半自動小銃、4挺の機関銃、57mm無反動砲3門および砲弾150発が含まれた。1965年5月に反徒に空中投下された武器には250挺の小銃、36挺の「ブレン」軽機関銃、42挺の「ステン」サブマシンガン、6門の迫撃砲、6門の57mm無反動砲が含まれた。

構造の特徴

我が国が相次いで装備した57mm、75mm、105mm無反動砲は、外観の差異は非常に大きいが、その構造原理は同じであり、いずれもライフル無反動砲に属する。

(頑住吉注:これより3ページ目)

ライフル砲身を採用した目的は火砲の射程と精度を高めるためで、これは当初における火砲の論証時の歩兵支援武器としての基本的要求だった。砲弾はあらかじめライフリングにかみ合う溝が作られた砲弾ベルトがあるものと、溝が刻まれていない砲弾ベルトがあるものの2種があった。砲弾に溝が刻まれたベルトがある砲弾は装填は遅いがチャンバー圧力と初速がやや高く、精度もずっと良かった。装填手は刻まれた溝を火砲のライフリングに正確に合わせる必要があり、この動作が火砲の発射速度を低下させ、さらに熟練した手の感覚を必要とした。

薬室は拡大された円筒で、直径は砲身に比べずっと大きく、このようにすると火砲の薬室と弾薬の薬筒との間に空間が留保される。弾薬は定装式で(頑住吉注:発射薬の量が一定で調整できないということですかね)、長いパイプ状の雷管で、発射薬の外包には密封紙があった。薬筒の側面には非常に多くの小さな穴があり、撃発後火薬ガスはまず薬筒の側面から噴出し、その後火砲の薬室後面から噴出する。この種の設計は高温の火薬ガスが直接砲弾の薬室後方の撃発機構に噴射されることを避けるためである。これによりもたらされるマイナス面の影響は、弾薬に発射後放棄されるスチール製の薬筒が増え、無効重量が増加し、しかも発射薬の防湿性能が良くないことだった。砲手は石綿の手袋をつけることを必要とし、それでやっと灼熱の銅製薬筒を抽出でき、実戦の中ではしばしば火傷をした。

閉鎖機は隔螺式である。無反動砲のチャンバー圧力は低いので、その閉鎖機の体積は小さく重量は軽い。3種の閉鎖機は開く方向が異なる。すなわち、57mm砲は右側に向かって、75mm砲は下方に向かって、105mm砲は左側に向かって、である。

57mm無反動砲は重量が軽く、肩撃ちできる。撃発ハンドルは砲身中央右側に装備され、砲手が右腕を持ち上げる時、肩に担いだ重い砲身は容易に滑り落ちない。砲身中央下方には伸縮式支持バーがあり、臨時に火砲を支えるのに便利である。砲身後下方にはさらにバイポッドが装備でき、プローンでの射撃時前の支持架と後ろのバイポッドが比較的安定した三点支持を形成し、しかも火線が非常に低い。

アメリカ製の57mm、75mm無反動砲はいずれも「ブローニング」M1917式水冷重機関銃のトライポッド上に装備して射撃でき、遠距離目標の射撃時はトライポッド上の正確照準器を利用して火砲を調整することができた。M1917重機関銃のトライポッドは中国軍が常用する「マキシム」重機関銃のトライポッドに比べて軽く、その火線の高さの調節範囲が大きいが、調整するのは比較的面倒である。三本の脚の開く角度はそれぞれの固定栓に頼って固定され、調整する時はもう1人の人が砲身を持ち上げる必要があり、さもないと1本の脚が緩んで開いて武器全体が転倒する。大部分の第二次大戦に参加した米軍はすでに空冷バレルのM1919式重機関銃に換装しており、こうしてM1917式重機関銃のトライポッドには大量の在庫があった。しかも太平洋地域の一部の米軍と同盟国部隊は依然M1917重機関銃を装備していた。重機関銃のトライポッドを選択することは米軍にとって非常に合理的と言え、戦争中に臨時に研究開発された武器として、既存の部品が採用できることは時間とコストを節約することができた。だがこの種の重量が24.19kgに達するトライポッドは無反動砲にとっての最良の選択では決してなかった。

中国のコピー生産型

中国がコピー生産したアメリカ式無反動砲は主に機動性の向上方面で多項目の改良が行われた。

1952年式57mm無反動砲は軽量型のトライポッドを採用し、脚は2本が前、1本が後ろの配置で、砲架は重量6.8kgだった。

1952年式75mm無反動砲は新設計の小型トライポッドを採用し、脚は1本が前、2本が後ろの配置で、行軍時はさらに装輪架台に乗せて牽引することができた。砲全体の重量は104kgである。

1956年式75mm無反動砲は52式75mm無反動砲の改良型で、装輪式砲架と照準具が設計し直され、閉鎖装置と薬室の分解結合構造および撃発セーフティが改良された。直接装輪砲架に装備され、火砲の陣地機動性が増加した。砲全体の重量は87kgである。運動時、前の支持架は砲身と一体に結合でき、かつ砲を引っ張るのに用いるハンドルがある。

1956-1式75mm無反動砲は56式75mm無反動砲を基礎に、砲身と薬室を2つの部分に分け、断隔螺式で連結し、素早く分解結合でき、元々の砲身が太くて長すぎる欠点を改善し、人や馬がかつぐのにより有利としたものである。砲全体の重量93kg。

1956-2式75mm無反動砲は56式75mm無反動砲を基礎にした改良型である。装輪架台を折り畳み可能なトライポッドに改め、高強度鋼を採用し、砲身の肉厚を減らし、元々あった間接、直接照準合一照準具の他、フロントサイトと調節式リアサイトを追加した。撃発部分には小グリップ、閉鎖装置の完全閉鎖セーフティが追加された。改良後の砲全体の重量は50kgまで減少し、かつ肩に担いで射撃できた。

1958年、我が軍の砲兵は自ら研究開発を行う段階に入り、オートバイ搭載75mm無反動砲の研究開発に成功した。

1963年、東南沿海の敵に対する闘争の形勢は、小型艇の火力の増強をもって敵の大型艦に対抗する必要を生じさせた。護衛艇のトン数には限りがあり、大口径艦砲は装備できないので、海軍は再度我が軍の、陸上の砲を艦に搭載する光栄な伝統を発揚した。論証を経て、56式75mm無反動砲を艦用連装75mm無反動砲に改装する案が選択された。1964年に海軍工程学院によって改装設計が完成された。砲架は筒式砲架に改められ、砲架上には防盾と砲手の座席が装備され、砲架内には工具箱があり、専用照準具と赤外線照準具が配され、夜戦が行えた。艦用連装75mm無反動砲には三軸安定装置がなく、高速航行時の精度は比較的劣り、最も良いのは低速航行時の射撃だった。この砲は主に小トン数の艦艇上に装備された。これらの艦艇上に元々あった37mm砲の火力は猛烈だが威力は比較的小さく、海戦の中で有効に敵艦のデッキの火力を制圧できたが、敵艦を撃沈することは難しかった。艦用連装75mm無反動砲の装備後は戦果を拡張することができた。

(頑住吉注:3ページ目)

弾薬

1952年式57mm無反動砲の殺傷榴弾には溝が刻まれた砲弾ベルトがある。弾薬全体重量2.6kg、砲弾重量1.26kg、最大射程3,400m。

1952式57mm無反動砲破甲弾には溝が刻まれた砲弾ベルトはなく、直射距離300m、装甲貫通厚度70mm/30度。

1956年式75mm無反動砲殺傷榴弾には溝が刻まれた砲弾ベルトがある。弾薬全体重量10.18kg、砲弾重量6.1kg、最大射程6,500m。

1956年式75mm無反動砲回転破甲弾(頑住吉注:成形炸薬弾)には溝が刻まれた砲弾ベルトがある。弾薬全体重量8.97kg、直射距離380m、破甲厚度90mm/30度。

1956年式75mm無反動砲微旋破甲弾。破甲弾は回転して爆発する時成形炸薬カバーの金属噴流を分散させるので、破甲威力が低下する。このためこの砲弾には溝が刻まれた砲弾ベルトがない。砲弾前部と砲弾のリング型尾翼に頼って位置決定し、砲弾は射出されても高速回転はせず、威力は回転破甲弾に比べ大きい。精度を保証するため、尾翼による安定を採用した。尾部には曳光管があり、弾道修正に用いる。弾薬全体重量6.58kg、直射距離300m、破甲厚度120mm/30度。

米軍の57、75mm無反動砲にはいずれも白燐弾と榴散弾があった。白燐弾は燃焼と発煙の機能があり、米軍地上部隊はさらに白燐弾を空軍のための攻撃目標指示に常用した。榴散弾は近距離生体戦力の殺傷に用い、効果は特別良かった。我が軍の火砲は米軍の弾種を発射できた。

作戦使用

抗米援朝戦争の初期、我が軍の対戦車火力が薄弱だったため(歩兵連隊ごとに6〜8門の90mmロケットランチャー)、アメリカ軍戦車の我が軍に対する脅威は非常に大きかった。機動戦の期間、戦車が道を開き、あるいは増援があったために、竜源裏、長津湖、砥平裏において、多くの米軍が殲滅される運命から逃れた。我が軍が撤退する時、米軍は戦車、装甲車を用いて特別派遣隊を組成し、道路に沿って我が軍に対し追撃と包囲を行った。陣地戦の期間、米軍は20〜30両の戦車集群に我が軍陣地後方に深く入らせ、「戦車劈入戦」を行い、甚だしきに至っては戦車を用いて我が軍の前に銀幕を立てて映画を放映し、心理戦を行った。

我が軍がフルセットのソ連式装備に換装すると共に、対戦車火力は極めて大きく向上したが、ソ連と我が国の国情は結局のところ同じではなかった。ソ連軍は主に東欧の平原地域で作戦し、強大な空中援護があり、機械化の程度が高く、このためソ連は重点的に射程が長く、威力が大きい対戦車砲を開発し、小型対戦車兵器を軽視した。一方我が軍は朝鮮において制空権がなく、戦闘地域の多くは山地で、このため我が軍の歩兵は小型対戦車兵器を必要とした。応急のため、我が国はアメリカの兵器をコピー生産し、50式90mm対戦車ロケットランチャー、52式57mm無反動砲、52式75mm無反動砲を生産した。鹵獲あるいはコピー生産したアメリカ式小型対戦車兵器と、ソ連式の57mm対戦車砲、76.2mmカノン砲、SU76、SU100自走砲、T-34/85中戦車、スターリン2重戦車は、我が軍の完備された対戦車火力体系を構成した。

戦例1。1952年6月13日、我が歩兵某連隊は古直木裏対戦車防御地域において、少数の小型対戦車兵器(57mm無反動砲4門、90mmロケットランチャー2門)だけをもって、3つの直径200mの網状陣地に頼り、我が軍の接近戦の特徴を発揚し、主に側面、後方から敵戦車を射撃した。3時間の戦闘を経て、57mm無反動砲弾10発が発射され、6発が命中した。90mmロケットランチャーは9発で、7発が命中した。敵戦車を破壊すること6両、鹵獲2両、殺した敵の乗員6名、捕虜にした敵は副連隊長以下4名で、我が軍は負傷した戦士2名だけだった。米軍の1個戦車中隊24両の戦車の進攻を打ち破り、対戦車戦闘の模範的戦例を創造した。我が軍の実戦経験に基づき、機動中の米軍戦車に対し、57mm無反動砲は200m以内での射撃の命中率が最も良く、90mmロケットランチャーは100m以内での命中率が最も良かった。

1949年の解放から1960年代初期、我が軍は西南、西北辺境の遠い地域で一連の匪賊掃討作戦、反乱平定作戦、国境自衛反撃戦を行った。こうした軍事行動の多くは地形が複雑な山地、高原で発生した。相手には戦車や重砲はなかったが、流動性が非常に強く、一方我が軍もこうした地域では重火器の携帯は不便で、60、82、120mm迫撃砲、57、75mm無反動砲といったたぐいの分解して馬に載せられる小型火砲だけが遅れず歩兵と騎兵の作戦に随伴できた。まさにこの原因により、いくつかの部隊は鹵獲した日本軍の92式70mm歩兵砲さえ淘汰したがらなかった。2種のアメリカにならった無反動砲はその射程が長く、精度が良く、機動性が高いメリットゆえに継続して装備され、かつ不断に改良された。歩兵大隊あるいは騎兵連隊に属する機関砲中隊は重機関銃6挺、57mm無反動砲2門(あるいは75mm無反動砲1門)、82mm迫撃砲3門を装備した。歩兵連隊に属する無反動砲中隊は75mm無反動砲4門を装備した。

戦例2。ある国境での戦闘の中で、歩兵某連隊第3大隊57mm無反動砲小隊(19人、砲2門、弾薬50発)は歩兵に随伴して迂回任務を執行し、4日5晩の行軍を経た後、真夜中に指定の地点に到達した。2日目の払暁、57mm砲小隊は歩兵第7中隊に随伴して捜索、前進した。8時頃、歩兵第7中隊の先頭の2個小隊と機関銃小隊が道路を越えた。後ろの1個小隊が道路を踏んだばかりのところで即敵陣地上の3挺の重機関銃の射撃に遭い、歩兵は伏せることを迫られた。大隊長は57mm砲小隊に道路西側に陣地を占めるよう命令し、3分間後砲小隊は射撃を開始し、第1の砲は400mの距離で敵の第1の重機関銃を射撃し、第2発目が命中した。第2の砲は450mの距離で敵の第2の重機関銃に初弾で命中させ、さらに伏せた射撃姿勢で2発撃ち、この火力ポイントを完全に破壊した。この時連隊の75mm無反動砲中隊某分隊は砲の設置時に敵の第3の重機関銃の射撃に遭い、照準手が犠牲になった。57mm砲小隊の第1の砲は右前方の転移陣地に向け、80mの距離で初弾を敵の第3の重機関銃の構築物の銃眼に命中させ、さらに伏せた射撃姿勢で1発を撃ちこのトーチカを破壊した。この時の戦闘の中で、57mm砲小隊は7発中6発を命中させ、充分に57mm砲の使用が敏捷、精度が高いメリットを発揮した。

戦例3。1965年11月14日の崇武以東海戦の中で、0時31分、敵の「永昌」号航路護衛砲艦(標準排水量640トン、76mm砲1門、連装40mm機関砲2基、20mm機関砲6門)は我が軍の快速艇が発射した魚雷に命中された後機動能力を失い、艦首を持ち上げて沈み始めた。0時42分、我が軍の2隻の高速護衛艇が突進してゆき、艦首の連装75mm無反動砲を使用して「永昌」号の喫水線の位置に接近しての射撃を行い、「永昌」号の沈没を加速させた(頑住吉注:あんまり自慢にならん「戦例」ですな)。

1960年代、国内で乱を起こす匪賊やスパイはすでに基本的に掃討、平定されたが、外来の脅威に変化が発生した。1963年、葉剣英元帥は指摘した。「未来の戦争の中で、敵の大規模集群の戦車の突撃は非常に深刻な問題になり、対戦車を戦備の中心問題の1つとして重視することが必須である。」 鳴り物入りでの新兵器研究開発と同時に、57、75mm無反動砲がまた最後の持ち場についた。1969年3月の珍宝島自衛反撃戦は、57、75mm無反動砲がすでに有効にソ連修正主義者の亀の甲羅に対応できないことを証明した(T-62の砲塔前面装甲の厚さは220mm)。この後、我が軍の歩兵大隊機関砲中隊は威力がより大きい65式82mmスムーズボア無反動砲に換装した。歩兵連隊に属する無反動砲中隊はアメリカのM40106mm無反動砲にならった105mm車載無反動砲に換装した。淘汰された57、75mm無反動砲は民兵の武器として継続使用された他、さらに何度もの隣国の反侵略戦争を支援し、ベトナムからアフガニスタンまで、いずれにもかつて中国の無反動砲の姿が出現した。


 まあ単純にソ連にこの分野の兵器が乏しくコピー元になる適当な兵器がなかったということですね。現在ではロケットランチャーなどに取って代わられ、中国軍では無反動砲はすでに広く使用されていないようです。































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