何故日本軍はサブマシンガンを使わなかったのか

 以前『「連発式小銃』である十一年式軽機関銃があるから必要なかったのだ」という珍説もありましたが。

http://military.china.com/history4/62/20140722/18650193.html


第二次大戦で日本軍はサブマシンガンを研究開発したが使わず:弾薬の消耗に耐えられないため

人気の連続ドラマ「借槍」の主要なプロットは中国共産党の地下活動するスパイが歪把子機銃で日本の将校を刺殺した物語である。38大盖(頑住吉注:三八式歩兵銃)、大正11年式歪把子機銃は劇中に不断に出現する。だが何故日本軍にはサブマシンガンがなかったのだろうか?

第二次大戦中ほとんどあらゆる交戦国の軍隊はサブマシンガンを装備した。しかも非常に多くの銃が古典的名銃と称するに堪える。例えばドイツのMP-38/41型(頑住吉注:40でしょう)、イギリスのステン式、アメリカのトンプソン、ソ連のPPSサブマシンガン等々である。中国軍では国民党直系部隊のみやっと少数装備し、しかもいずれもイギリス、アメリカに提供されたものだった。だが日本軍はこの重要な武器を大規模に部隊装備することはなかった。日本は自ら「百式サブマシンガン」を研究開発したが、何万挺かしか生産されず、少数の海軍航空降下部隊と戦車兵に装備された。陳腐な戦術思想に加えて国力の限界ゆえに、日本軍は第二次大戦全体で歩兵装備を小銃、機関銃をメインとし、サブマシンガンを装備しなかった。中国軍を打撃するにはまだ良かったが、太平洋の戦場でアメリカと戦うと大いに不利になった。

サブマシンガンを研究開発するも使わず

ずっと昔、19世紀末の日露戦争で、当時ロシア軍が主に使用した小銃は旧式なスムーズボア銃で、有効射程は300m余りしかなかった。一方日本軍は当時最も先進的だった連発銃を使用し、有効射程は800mに達した。また日本軍の訓練は厳しく、軍の中には多くの神射手がいて、その正確な射撃はロシア軍に非常に多くの死傷者をもたらし、これにより小銃の日本陸軍の中での絶対の主力たる地位が固められた。

第一次大戦終結後、日本陸軍でもかつてある人が、部隊にサブマシンガンを装備するという考え方を提出した。1931年の12.8淞滬戦役の期間、日本軍と中国軍が上海で激戦を行った中で、すでに中国の民団(頑住吉注:地方の私的武装組織)や19路軍(頑住吉注:国民党軍の一部隊)の装備するサブマシンガンの威力が認識されていた。事態が静まった後、日本軍の大本営兵器局はサブマシンガンの生産に対し濃厚な興味を生じさせ、相次いで人員をヨーロッパに派遣して実地調査させ、自らのサブマシンガンを研究開発して部隊に装備することを企図した。

1934年、日本陸軍はひっそりとサブマシンガンの研究開発作業を開始した。この試験型サブマシンガンは2号サブマシンガンと命名され、1年後にこの銃は銃器の安全性、信頼性不良のため否決された。

さらに重要なのは、この種のサブマシンガン製造という思想が日本軍の中で非常に多くの人の批判に遭っていたことである。批判者は、サブマシンガンは火力は強烈だが弾薬消費が大きすぎ、かつ射撃命中率が低すぎ、実戦の中では後方勤務供給に対し困難を生じさせ、しかも実戦での作用は人を大いに疑わせる、と考えた。このためサブマシンガン生産の計画は暫時棚上げとされた。

1940年、ヨーロッパの戦事の発展は、日本軍に現代歩兵武器の組み合わせの中で、サブマシンガンには一定の作用があると悟らせた。しかも38式小銃は新たに建設された装甲部隊乗員にとって長すぎでもあり、そこでサブマシンガン生産の計画がもう一度提出され、今回は大本営によって批准された。

設計図面はこれ以前において早くも南部兵器設計所から提出されていた。この「100式」と命名されたサブマシンガンは1940年に定型に至り、ちょうど日本の神武天皇紀元1,000年であり、このため百式サブマシンガンと命名されたのである。その青写真はMP18に依拠しており、事実としてこの銃はMP18のコピー生産品と言ってよい(頑住吉注:いやそれはどうですか)。同様の外形、同様の側面からのマガジン挿入で、ただストレートマガジンが湾曲したマガジンに改められていただけで、装弾数は30発だった。最大の変更はマズルに装着金具が作られ、もって軍サイドのバヨネットを装着できることが必須との要求を満足させた。そのバヨネットを装着すると銃全体が滑稽であるのが目立ったのではあるが(頑住吉注:ステンとかにも着剣はできましたけどね)。国際的にサブマシンガン設計の根本的指導思想は、密集した火力によって敵を威嚇し殺傷することだったが、武士道精神の残渣の影響を受け、日本陸軍は白兵戦に対し特別の執着があり、往々にして戦闘の最後の段階は銃剣格闘だった。日本の新兵は訓練を3ヶ月受け、最初の1ヶ月はまさに銃剣格闘であり、後の2ヶ月が射撃訓練だった。日本軍のバヨネットに対する偏愛はまさに変態の程度に達し、99式7.7mmチェコ製コピー軽機関銃にさえバヨネットを装着した。これは歴史上唯一のバヨネットが付属した軽機関銃である(頑住吉注:それもたぶん違いますね)。重量20kgに達する99式軽機関銃でどうにかして銃剣格闘を行う方法というのは信じ難い。

日本軍部隊が97式戦車を装備した後、戦車乗員もこのサブマシンガンを装備した。乗員の戦車での使用に便利なように、彼ら特製のサブマシンガンに改造が行われ、折りたたみ可能なバイポッドが追加された。百式サブマシンガンは自由ボルト式原理を使用し、セーフティはなく、終始オープンボルト発射準備状態にあり、非常に容易に暴発した。百式サブマシンガンは決して大規模に部隊装備されることはなかった。

(頑住吉注:これより2ページ目)

日本の国力は弱く、弾薬の消耗に耐えなかった

日本は天然資源が極度に欠乏した島国であり、あらゆる戦争物資を外部から獲得する必要がある。日本は半分以上の中国の国土を占領済みで、しかも太平洋戦争勃発後は物産豊富な南洋の諸島を占領していたが、このことは決して日本の資源欠乏の現象を根本から変えることはなく、せいぜい一種の「緩和」でしかなかった。また占領区内に工業的基礎が欠乏していたため、日本は獲得した資源を国内に持ち帰って大規模な加工を行うしかなく、このことは製造コストを高くしただけでなく製造期間も長くした。このためサブマシンガンのメリットは非常に多かったが、製造コストが高い、工程が複雑、弾薬消耗が過大であるなどの原因により、最終的に日本軍によって放棄されたのである! (頑住吉注:プレスを多用した簡単なサブマシンガンのコストは小銃よりずっと低いですが、当時の日本にこうした銃の大規模な生産は無理だったでしょう)

戦術思想が立ち後れた日本は次のように考えた。小銃はサブマシンガンより正確に撃て、小銃と弾薬の品質を保証する方が(実はこれさえも達成されなかったのだが)貴重な資源を浪費するサブマシンガンよりも良い。また、日本の工業生産力には限りがあり、サブマシンガンと弾薬を大量に製造することはできなかった。1人の兵に基数150発の弾薬を配備すると、38大盖なら1日でも必ずしも使い終わらないが、もしサブマシンガンに換えたら、ちょっと激烈な戦闘があると、1時間頑張ったらもう撃ち尽くしてしまい、またサブマシンガンではバヨネットを装着して格闘することもできない。日本軍と正反対だったのがソ連軍である。ソ連軍の第二次大戦時のサブマシンガンの生産量は最高で、使用は最も広範で、前線の歩兵はほとんど全て小銃を放棄してサブマシンガンの使用に改めた(頑住吉注:ちょっとこの人何につけ表現がオーバーですね)。原因はやはりごく簡単で、ソ連軍の対ドイツ作戦は人海戦術と武器の数の優勢に頼り、絶え間なく新兵を用いて戦場の損失を補充する必要があった。このためソ連軍兵士が受ける訓練の時間はごく短く、時間を費やして銃の技法を練習することは不可能だった。しかも新人に対してということで言えば、サブマシンガンは小銃に比べてずっと使いやすかった。サブマシンガンのコストは低く、製造過程もあまり凝ったものではなく、このためソ連の国情に非常に適していた。当時は日本軍だけでなく、ドイツ軍、イギリス軍、フランス軍にも兵個人用自動火器は比較的少なく、米軍も戦争中にやっとM1ガーランド半自動小銃の広範な装備を開始し、トンプソンサブマシンガンは装備され始めたばかりで多くはなく、「プライベートライアン」で中のトム ハンクスの用いたトンプソンは分隊あたりやっと1挺である。一方ブローニング機関銃は重機関銃であり、兵個人の武器とは評価できない。

日本人は決してトンプソンやブローニングを特別に恐れはしなかったが、間違いなくM1は非常に恐れた。何故なら前の2つは火力の密集度は非常に高かったが、射程は限られ(頑住吉注:ブローニング機関銃の射程が短いってことはないです)、一方M1ガーランド半自動は1回に8発装填でき、発射速度が速いだけでなく、しかも射程と精度も非常に良好で、アメリカ人が2〜3挺のM1ガーランドを連続射撃すれば、日本人の不断に給油が必要な歪把子軽機関銃さえ制圧できた。ガーランド最大の欠点は弾薬を撃ち尽くすことが必須で、それでやっと弾薬クリップが交換できることだった。

アメリカ人に直面すると日本人は間違いなく非常に惨めだった。日本は言うまでもなく、ドイツ人も非常に惨めだった。ドイツ人には分隊用機関銃が支援火力としてなく、サブマシンガンはあったが、射程に入る前に往々にしてアメリカ人のM1にやっつけられ、モーゼル98kはM1に直面すると発射速度方面で何らの優勢も決してありはしなかった。

第一次大戦の戦術思想を用いて第二次大戦を指導

日本軍部の高官たちは試験と比較を経た後で次の結論を得た。すなわち彼らは「百発百中の小銃は百発一中のサブマシンガンに勝る」と考えたのである。実はこれは本来日本海軍大将東郷平八郎の日露戦争が終わった時の言葉、「百発百中の砲一門は百発一中の砲百門に勝る」を改変してできたものである。本来東郷平八郎の意図は火力の機能の強調だった。西方にも似た言葉がある。つまり、もしあなたの火力が正確に敵を殺傷できなかったら、敵の志気を鼓舞するだろう、というものである。だが命令に服従すること、権威に服従することに慣れた日本人の手の中ではすぐに、兵士が射撃を正確にしさえすればもうOKだ、に変わってしまい、火力密度の強化は全く考えられなかった。

日本の軍部がこのような結論を出し得たのは、彼らの戦術思想がまだ第一次大戦時期に留まり、「小銃の正確な射撃および機関銃の有効な火力制圧」が陣地戦の「経典」だったからである。欧米の軍事強国が可能な一切を尽くして軍隊の火力密度を高めていた時、日本は逆に軍隊の正確な火力に固執してこれを強調し、甚だしきに至っては兵士に、発射するたび必ず目標に命中させることを要求した。日本人から見て、何十発の弾薬を用いることが必須で、それでやっと1人の敵を殲滅できるというのは我慢できなかったのである! 射程が2,800mに達する38大盖の後座力は小さく、性能は優良で、日本が誇った武器である。しかも日本の自動火器、例えば何種かの軽、重機関銃はずっと部隊に火力支援を提供できることを希望した。だがそれには問題があった。それは火力の持続性である。機関銃が長時間火力支援を提供できることを保証するために、最も主要なのはバレルの放熱問題の解決である。第二次大戦で各国は軽機関銃上に普遍的に放熱部品やバレル交換の方法を採用したが、日本だけがこれを用いなかった。彼らの歪把子はバレルが交換できず、結果的に連続射撃が300発に達した時にはバレルが加熱し、使用できなくなり、ゆっくりと冷却させる必要があった。

日本とアメリカの火力の重点を置く方向は異なり、米軍は兵個人の火力に重点を置き、中、近距離の兵個人火力の優勢を強調した。このため兵個人にサブマシンガンや半自動小銃を大量に装備した。だが日本軍は集団の火力を強調し、しかも比較的先進的な近距離火砲支援を持ち、このため機関銃、迫撃砲、歩兵砲を強調した。日本軍の小銃兵は遠距離正確射撃、近距離銃剣格闘の他、機関銃や火砲の保護に用いられたのである。しかも日本軍の大正11年式歪把子機関銃は小銃と同じ弾薬クリップを使用し、火力の持続性を保証した。日本軍の92式歩兵砲も最も小型で精巧な小型榴弾砲で、人力を用いてもう携帯でき、日本軍は明確に兵個人が使用する擲弾筒さえ発明し、このようにして日本軍は正規の塹壕戦の中での火力を保証した。

このため日本軍の失敗は火力というこの戦術的問題で負けたのでは決してなく、塹壕戦というこの大きな戦略思想の上で負けたのである。塹壕戦は第一次大戦の産物であり、すでに時代遅れだった。日本軍はそれでもまだ塹壕戦を指導思想として作戦を行ったのであり、どうして負けずにいられる理があるだろうか! 第二次大戦の地上戦役は主に空地一体の陸上機動戦で、装甲部隊と空軍を運用して強行突破が行われ、一点を突破した後で縦深への深い浸透、分割包囲を行うという戦法だった。このようにすれば歩兵は二の次に重要な位置に置かれ、主要なのは装甲部隊と空軍だったが、分割後の包囲殲滅には兵個人の火力の優勢が重要となった。このため第二次大戦時、日本軍は非常に惨めに負けた。太平洋の戦場で米軍のM1およびトンプソンが日本の38式を打撃するのはまさに爽快だった。米軍の戦術は火力カバー→全体推進→再度の火力カバー→再度の全体推進で、日本はもはやすさまじく頑強な抵抗をしても防ぎきれなかった。中国の当時における対ベトナム自衛反撃戦初期も軍事思想の限界ゆえに、アサルトライフルは弾薬を浪費するので装備しないと考え、部隊の大部分はまだ56式半自動小銃を用い、結果としてベトナム人のAK47にしてやられた。後に形勢をはっきり理解し、積極的に改変し、81式自動小銃を研究開発し、全体的戦力をすぐに向上させたのである。


 同意できない部分も多いですけど十一年式擁護論よりはノーマルにずっと近いですね。















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