中国の軍事博物館に展示される旧日本軍の大口径榴弾砲

 久しぶりの「歴史秘話」ものの記事です。

http://military.china.com/history4/62/20170731/31020630_all.html#page_2


軍事博物館、日本製の神秘の巨砲を秘蔵 あるいはかつて解放軍の錦州攻略を助けたか

参考情報ネット7月30日の報道 改修され一新した中国人民革命軍事博物館の地下展示スペースに入ると、入り口の真正面のところで、いきなり全体が赤い塗料で塗られた、それにもかかわらず歳月の痕跡が覆い難い大口径巨砲が出迎えるが、これこそすでに世にも稀な珍品となっている日本製45年式240mm榴弾砲である。

45年式240mm榴弾砲は設計定型が明治45年(1912年)であったがゆえにその名を得、第二次世界大戦の期間日本軍の主要な要塞砲の1つで、難関攻略の利器と称するに堪えた。そしてこの砲の物語を語り始めるには、やはり日露戦争から始めなければならない。

1904年から1905年の日露戦争の中で、日本軍が本土から前線まで輸送した18門の280mmの巨砲(イタリアからのコピー)は「功績が卓越し顕著」と言うべきだった。旅順の戦略の要地である203高地を攻略打撃する戦闘の中で、それは敵サイドの構築物に深刻な破壊をもたらしただけでなく、さらにロシア軍将兵を大量に殺傷し、特にロシア軍沿岸防御司令のコントラチェンコ少将を殺し、ロシア軍の士気の衰え、人心の弛緩をもたらし、その早期の武器を捨てての投降を促した。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「軍事博物館が収蔵する240mmの巨砲」)

まさにこの巨大榴弾砲/臼砲の恐怖の威力を見たがゆえに、戦争終結後に日本は継続して一段と力を入れて大口径火砲を研究開発した。初の完全に日本によって自主研究開発、製造された「大殺器」として、45年式240mm榴弾砲(以下240mm砲と略称)1912年に現役に投入され、かつ当時日本本土沿岸防御火力の重要な組成部分となった。

240mm砲は非常にかさばって重く、全体重量は38トンで、輸送するのも配備するのも非常に面倒で、毎回の陣地移転の時、砲全体を部品に分解して10両の車両上に搭載する必要があり、改めて組み立てるにも非常に長い時間を費やし、クレーンを動員するのが必須で、しかも1門の240mm砲は9名の砲兵の「お側仕え」を必要とした。毎回の発射前、砲身を水平の角度まで調整し、しかる後に吊りアームを用いて非常に重い弾頭を火砲後部のレール上の小さな車の中まで持ち上げ、これを火砲尾部から薬室に装填し、さらに順に薬包、信管を装填し、最後に火砲側面の俯仰ハンドルによって発射角度を調整し目標を照準する必要があった。

機動性が比較的劣ったことはともかく、240mm砲の威力はそれにもかかわらずあえて見くびる人のいないものであり、それは400m/sの初速をもって、重さ200kgに達する砲弾を10km離れた敵軍の頭上に落とすことができ、絶望的な壊滅的災難だった。

第一次世界大戦勃発後、日本(協商国陣営)はドイツ(同盟国陣営)の極東における橋頭堡である青島に着目した。そこで1914年9月に陸軍4.5万人を集結させ、240mm砲などの多くの大型武器を配備し、60隻あまりの海軍艦艇の援護の下で数千のドイツ軍しか駐留守備していない青島要塞を猛攻した。この戦役で、日本軍は臨時に建設した軽便鉄道を利用し、多くの240mm砲を前線まで運び、その発射する強烈な砲火はドイツ人が苦心して17年経営した要塞の防御体系を引き裂いた。正式に戦闘が起こって40日後、ドイツの守備軍は降伏した。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「240mm砲の発砲」)

1931年7月、「日本軍一の頭脳」と呼ばれ当時中国陸軍省軍務局長の任にあった永田鉄山の司令に従い、2門の240mm砲が秘密裏に奉天(今の沈陽)に運ばれた。この2門の砲はまず東京兵器工場によって汽車で神戸まで輸送され、さらに神戸から客船によって旅順要塞まで運ばれた。

人の耳目を覆うため(東北軍が探りを入れるのを防いでいただけでなく、甚だしきに至っては日本領事館に対しても秘密保持した)、日本軍はわざわざ砲身、砲架を分け、棺桶や浴槽に偽装して沈陽に運び込み、関東軍西塔守備隊の兵営に置いた。改めての組立も深夜に行われ、対外的には井戸を掘る、あるいはプールを作ると嘘を言った。この2門の巨砲の予定の目標はより明確だった。1門は北大営を照準し、1門は奉天飛行場を照準した。1931年9月18日夜22時頃、日本軍守備隊兵営内に置かれた240mm砲が突然発砲し、砲弾は北大営内の東北軍第7旅団第620連隊の営舎付近に落ち、国内外を驚愕させた「九一八事変」(頑住吉注:満州事変)がここに勃発した。

当時中日の国力はかけ離れていたため、日寇が全面的に中国を侵略した後、240mm砲は逆に中国の戦場では「腕の振るい場所」が少なくなった。太平洋戦争初期に日本軍が東南アジアを席捲した時になって、この砲はやっと一定の効力を発揮した。1941年末から1942年4月にフィリピンに進攻したバターンおよびコレヒドール島戦役の期間、日本軍は本土から8門(一説によれば10門)の240mm砲を運んできて、相次いで4,000発近い砲弾をぶちまけ、最終的にアメリカ・フィリピン連合軍の降伏を強制した。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「日本軍が240mm砲に砲弾を装填」)

1945年8月、「第二次世界大戦最後の戦役」と讃えられる中国東北の虎頭要塞の戦闘の中で、日本守備軍はかつて要塞に配属された多くの240mm砲を用いて追いつめられながらも頑強に抵抗し、進攻するソ連軍に一定の死傷者をもたらした。だがソ連軍爆撃機群と「カチューシャ」ロケット砲の優勢な火力制圧の下、日本軍の大砲は最終的に沈黙した。8月26日午後15時前後、最後の残余の日寇、240mm砲の操縦を担当する日本軍某砲兵中隊はソ連軍によって全滅させられた。

日本の無条件降伏後、2門の240mm砲は我が軍の手中に落ちた。ある噂は、この砲は1946年10月末から11月初めの新開嶺戦役に参加した(この戦役は東北民主連合軍が敵一個師団全体を殲滅した模範例を初めて作った)とするが、調査しても実際の証拠はない。さらにある分析は、我が軍はかつてこの火砲を用いて防御が堅固な錦州を攻撃したと考える。この可能性は比較的高い。原因は2つある。まず錦州を打撃する時、東北野戦軍は600門あまりの各種火砲を集中して難関攻略任務を執行し、240mm砲を移動派遣して参戦させるのは情理にかなっている。次に錦州一帯は鉄道、道路交通が発達し、我が軍は汽車を使って重砲を直接千里離れた黒竜江省から遼西の前線に運ぶことができたこと。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「博物館に収蔵される240mm巨砲」)

また、もう1つの傍証も問題を説明できる。後の平津戦役の期間、「北平城には3丈の高さがあり、城壁は甚だしく厚く、2台の自動車が並走できる」との状況にかんがみて、第4野戦軍本部はかつて城を囲む各縦隊に電報を発して、「依然方法を講じて二四榴を運んできて作戦に参加させるべし」とした。電報の中に言及された「二四榴」とはまさに45年式240mm榴弾砲であり、しかも「依然」との字はこの砲が1回に止まらず戦闘に参加したことがあることを明らかにしている。

建国後、2門の240mm砲が一新した中国人民革命軍事博物館に収蔵され、しかも多くの展示品の中で群を抜いて目立ち、極めて分量を備えた「鎮館の宝」となっている。資料がはっきり示すところによれば、45年式240mm榴弾砲の総生産数はたった80門で、このうち絶対的大部分はとっくに行方不明で、これによりまた一新した中国人民革命軍事博物館に所蔵されるこの砲の歴史および文物としての価値の高さが見て取れる。(作者/凌峰)


 見るからに旧式な火砲ですが当時の中国には作れず、内戦でも活躍したということですね。国民党側に鹵獲された砲はなかったんでしょうかね。
















戻るボタン