中越戦争が小火器分野に与えた影響

 似たようなテーマの文章は以前にも紹介したと思いますが。

http://www.360doc.com/content/13/0118/21/2692871_261092671.shtml


国産小火器は対ベトナム自衛反撃戦を通じて何を学んだのか?

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「我が軍は対ベトナム作戦の前期、小火器も兵個人装備も、非常に多くの方面が依然建国初期のレベルにあった。画像は1979年2月、我が軍の戦闘指揮員が初戦の勝利を喜び祝っているところ。当時少数の56式サブマシンガン(頑住吉注:AK47コピー)の他、火力が薄弱な56式半自動小銃(頑住吉注:SKSコピー)が依然相当大きな比率を占めていたことが見て取れる。」)

対ベトナム自衛反撃戦とは、1979年2月17日から3月16日まで、中国・ベトナム両国が国境地域で勃発させた局地戦争を指し、広義にはさらにこれより1989年に至るまでの10年近くの長きにわたる国境武装衝突および対峙を包括する。戦争の原因は主に、ベトナム南北統一後、拡張の野心が空前の膨張を示し、一方においてはカンボジアに侵入し、一方においては反中国の波がわき起こり、かつ中国サイドの再三の警告をかえりみず、不断に中国の領土を侵略占領したことである。中国国境防衛部隊は忍んでも忍びきれない状況下で、奮起しての反撃を迫られた。全反撃作戦の中で、中国サイドは3.1万の死傷者という代償をもって、ベトナム人民軍とその他の武装人員を死傷させ捕虜にすること6.4万人以上という輝かしい戦果を取得し、ベトナム当局の当時の気炎を深刻に打撃し、鮮血と生命を用いて祖国の尊厳を防衛し、その後20年余りの中越国境の長期的平和を確保した。

ベトナムは1945年に北方が独立を宣言して以後、ほとんどずっと絶え間ない戦争状態にあり、国内工業の発展は緩慢で、小火器や弾薬さえ自給できず、主に旧ソ連や中国の供給に依存していた。中越が1950年1月に国交を樹立してから、ベトナムが相次いで行ったフランス、アメリカに抗する戦争の中で、中国は価値千億以上の大量の物資を無償提供し、いくつかの武器は甚だしきに至っては自身もなお未装備という状況下で優先してベトナムサイド向けに供給した。1970年代初めになり、ベトナム正規軍はすでに基本的に全てソ連、中国両国の提供した装備に換装し、フランス、日本、ドイツの旧式武器はすでに淘汰されていた。米軍がベトナムから撤退した後、残された大量の武器もベトナム軍によって接収された。1978年11月、旧ソ連は中国を牽制する目的から、ベトナムと軍事援助の性質を帯びた「ソ越友好協力条約」を締結し、大量にソ連、チェコなどワルシャワ条約機構諸国が生産した小型、大型の武器を提供し、ベトナム軍の装備レベルもこれにより世界先進グループ入りし、一度は「世界第3の軍事強国」と自慢した。これらの武器には対ベトナム自衛反撃戦の中で我が軍によって鹵獲されたものが多くあった。その中で小火器について言えば、サブマシンガン、アサルトライフル、グレネードランチャー、スナイパーライフル、機関銃など多くの種類が含まれた。こうした戦利品の試験研究を通じて、国内の科研人員はソ連、アメリカ、チェコなどの国の比較的先進的な小火器の設計製造技術をある程度理解することができ、かつ選択的に吸収を行い、目的性を持っていくつかの課題研究やコピー生産作業を展開し、通常小火器の更新世代交代の歩みを加速し、部隊装備のレベルを改善することができた。1980年代に展開された両山輪戦の中で、国産の新式サブマシンガン、自動小銃、スナイパーライフルが相次いで登場し、小火器装備の上で完全な変身をなし、1990年代以後国産小火器が急速に発展する「十年黄金期」のために良好な基礎を打ち立てた。

サブマシンガン

解放初期、我が軍の制式サブマシンガンには50式と54式の2種しかなく(頑住吉注:それぞれPPSh-41、PPSh-43のコピー)、その原型はいずれも第二次大戦時の製品であり、重量が大きい、射撃精度が劣るという欠点があった。1956年、国内で成功裏にソ連式AK-47自動小銃がコピー生産された。この銃は威力が比較的大きい7.62mm小銃弾薬を発射し、実質的にはアサルトライフルに属したが、我が国では依然56式サブマシンガンと呼ばれ、歩兵分隊の正副分隊長への装備に用いられ、元々の50式、54式サブマシンガンの位置に取って代わった。国内で自ら研究開発した初の真の意味でのサブマシンガンは64式消音サブマシンガンだが、これは結局のところ特殊用途の武器であり、体積、重量が比較的大きく、弾薬も専用で、偵察兵に少数装備されただけだった。一方ベトナム軍から鹵獲したMAT49やWZ63サブマシンガンはいずれも第二次大戦後に研究開発されたサブマシンガンであり、比較的軽便で、兵個人のジャングルでの戦闘の中での使用に適していた。このうちMAT49は、スチールワイヤー伸縮式ストックを採用し、マガジンとマガジンハウジングが携行時に前向きに折りたたんでバレル下方に固定でき、携行時の寸法が減少するだけでなく、同時にマガジンと給弾機構が分離するので、自由ボルト式サブマシンガンの容易に暴発する問題が完全に途絶されている(頑住吉注:対策を取らないとボルトが前進したオープンボルト式サブマシンガンを銃口を上にして落としたり銃口が上の状態で高いところから飛び降りたりすると慣性でボルトがシアに引っかからない程度まで後退してから弾薬を拾って前進し、暴発する恐れがあります)。グリップセーフティも発射準備状態での携行時により良い安全性を持たせている。この銃は大量に鋼板のプレス、溶接部品を採用しており、工程的に簡単で、比較的耐用性があった。一方WZ63は9mmマカロフ拳銃弾薬を発射するミニサブマシンガンで、体積が小さく軽便で、銃全体の構造レイアウトは拳銃に似ており、片手射撃に便利で、また折り畳み可能なフォアグリップと伸縮式ストックがあり、肩当てしての射撃もできた。この銃の最大の特徴はスライド式ボルトの前端に舌状の突出部があり、マズルブレーキの作用も果たすし、またこれを硬いものに押しつけてスライドの後退を強制し、片手装填も実現できることだ。我が国はこの2種のサブマシンガンを鹵獲した後、実際の国情と結合させ、小型軽便で火力が猛烈なジャングルサブマシンガンを研究開発する構想を提出した。多くの対比試験を経て、最終的に79式7.62mm小型サブマシンガンが定型に至り、その特徴は体積、重量が小さく、発射速度が高く、火力が猛烈で、しかもセミオートの精度が比較的良いことだった。提示しておくに値するのは、試験中に対比に供された武器の1つが、WZ63を基礎にコピー生産されてできた82式ミニサブマシンガンだったことだ。この銃は9mm拳銃弾薬を発射するため、制式である54式拳銃に使用する51式拳銃弾薬と互換性がなく、加えて信頼性が良くなく、このため部隊装備はされ得なかった。だが少数が国内公安および経済防衛部門に装備されたことがある。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「ベトナム軍の中には国境警備部隊と民兵の中にだけ、まだ旧式のPPSh-43/54式サブマシンガンなどの旧式銃器があったが、第一線の主力部隊はすでに全部AK-47/AKMなどの自動火器に換装されていた。」 続いて2枚目。「1984年4月の老山前線作戦での一部の戦士の集合写真。新型の79式ミニサブマシンガンがすでに普遍的に使用されている他、さらに一部鹵獲したM79グレネードランチャーが流用されている。」 続いて3枚目。「国産の64式サブマシンガンは比較的長くて重く、しかも比較的良い消音効果を取得するには専用の消音サブマシンガン弾薬の使用が必須で、このため前線の非常に多くの戦士は前部の消音筒部分を取り外し、普通の51式拳銃弾薬を発射し、この銃を普通のサブマシンガンと見なして使用した。」)

79式サブマシンガンは決して直接的にMAT49やWZ63の設計を採用してはいないが、その性能と戦術指標の制定はいずれも鹵獲した関連のサブマシンガンを参考にしており、しかも79式のサンプル銃の1つはMAT49に似たスチールワイヤー折りたたみストックを採用していた。だが銃の構えが充分安定せず、後に現行の鋼板をプレスしたコの字型断面のストックに改められ、剛性と安定性が増強され、射撃精度を向上させることができた。1984年の対ベトナムポイント攻略作戦の中では、少なからぬ参戦した特殊大隊が79式サブマシンガンを装備済みで、その軽くて精巧な外形と柔軟な使用法式は戦士たちの好評を広く得た。後に、79式サブマシンガンの使用経験と国外の銃器ファミリー化設計の成果を取り入れた後、我が国はまた構造がより簡単で信頼性が高い85式サブマシンガン銃器ファミリーの研究開発に成功し、これには85式小型サブマシンガンと85式消音サブマシンガンが含まれ、国内の小型サブマシンガンの研究開発水準を新たな高みに到達させ、さらに一歩部隊と公安部門の武器装備の選択の余地を拡大させた。

アサルトライフル

対ベトナム作戦初期、我が軍の歩兵分隊はまだ全自動化を実現しておらず、9人編成の一個歩兵分隊の中で、正副分隊長のみそれぞれ1挺のAK-47をコピー生産した56式サブマシンガンを持ち、1挺の56式分隊用軽機関銃を除き、その他は依然56式半自動小銃を使用していた。この時のベトナム軍の第一線作戦部隊はすでに全部AK-47、AKM、VZ58などのアサルトライフルに換装され、機関銃の配備数も比較的多く、その火力密度、強度は我が軍よりはるかに高かった。実戦の経験は、兵個人武器と分隊火力レベルで、我が軍とベトナム軍にはすでに10〜20年の隔たりがあることを証明し、このためいくつかの不必要な死傷がもたらされ、部隊は切迫して換装を必要とした。このため1979年以後、鹵獲したAKM、VZ58、M16A1に対する真剣な研究を行うことを基礎に、我が軍の新世代銃器ファミリーの研究開発作業が開始され、新型アサルトライフルを用いて現有の56式サブマシンガンと56式分隊用軽機関銃に取って代わらせることを計画し、同時に新たな銃器は重量が軽い、射撃精度が高い、寿命が長いというメリットを持つことが要求された。この計画は1980年代中、後期における81式銃器ファミリーの誕生をもたらした。この銃器ファミリーは81式固定ストック小銃、81-1式折りたたみストック小銃、81式分隊用軽機関銃からなり、銃器ファミリー全体の大部分の部品は共用できた。56式サブマシンガンや56式分隊用軽機関銃に比べ、81式銃器ファミリーはさらに給弾具の共用というメリットがあり、戦闘中これはきわめて実用的な機能だった。基本銃器タイプである81式は比較的長いバレルを使用し、かつVZ58に似たショートストロークピストンのボルトシステムを採用しており、ピストンの直径およびピストンとバレル軸線間の距離が減少し、ピストンの運動がもたらす回転モメントが低下し、同時にボルトのロングレール設計があり、ボルトキャリアの運動をより平穏にし、後座し切った時の衝撃を軽減した。こうした措置は81式の射撃精度を56式サブマシンガンに比べ非常に大きく向上させることができた。また、81式は国産小銃で初めて着脱式ナイフ式バヨネットを採用し、バヨネットの機能は比較的単一だが、後日の95式銃器ファミリーの多用途着脱バヨネットのために経験を累積した。81式小銃は軽機関銃と同様のレシーバーとボルトユニットを使用するため、その基本寿命は軽機関銃に要求される2万発に達し得、これはプレス・リベットによるレシーバーを使用する構造の国産自動小銃の中で相当高い。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「鹵獲したベトナム軍のソ連製AKMアサルトライフルおよび各種柄なし手榴弾、スコープなどの武器装備。」 続いて2枚目。「ベトナム軍が、中国が当時援助した56式サブマシンガン(上)とチェコのVZ58アサルトライフル(下)を使用して訓練を行っているところ」 続いて3枚目。「我が軍が1980年代中期の防御作戦の中で依然使用していた旧式な56式サブマシンガンと67式木製柄付き手榴弾。」)

VZ58アサルトライフルに対して行ったテストの結果は、この銃は高い精度、高い発射速度、軽便で携帯しやすい特徴を持つが、その採用するロッキングブロックスイング式閉鎖原理はボルトの加工への要求が比較的高いという結果をもたらし、信頼性が不足し、川の水に浸すテストの中で、1発ごとに不完全閉鎖、ボルトが動かなくなる、弾薬がチャンバーに入れないという故障が発生することを示し、このためスムーズに関連の試験が完成できない状態に至った。だが国内の科研人員はやはりVZ58から非常に多くのインスピレーションを獲得した。例えばこの銃が採用するショートストロークピストンシステムは、バレル軸線と比較的近いというメリットを持ち、ボルトが前後運動する時に比較的安定していた。また、平行移動式ハンマー発射機構はレシーバーの設計をよりコンパクトにさせるだけでなく、さらに一歩ボルトの運動の平穏さを促進し、射撃精度向上に有利だった。こうした設計はいずれも我が国の新世代小火器にある程度体現された。このうち、ショートストロークピストンはその後各種国産アサルトライフルの基本の自動原理となり、95式銃器ファミリー、03式小銃はいずれも採用し、また設計時いずれもできる限りピストンの軸線とバレル軸線の間の距離を減少させ、精度の向上に対し極めて重要な作用を持った。平行移動式ハンマー機構は以後の各種の国産銃器の中でいずれも使用されなかったが、95式銃器ファミリーは初めてこの種の機構を採用し、かつ成功を獲得した。その基本設計はすなわちVZ58を基礎に改良してできたものである。まさにこの2つの採用、加えて95式の設計が優良なボルトと独特の緩衝機構が加わったために、この銃器ファミリーに比較的良好な射撃精度を具備させたのでもある。

鹵獲されたM16A1に関しては、さらに国内に西側先進国が研究開発した現代自動火器に接触するチャンスを生じさせ、しかもさらに新世代の小口径アサルトライフルであり、その意義は並ではなかった。この銃の多種の創新設計と新型材料、工程(例えば5.56mm口径、リュングマン式自動原理、鍛造アルミ合金レシーバー、直銃床、キャリングハンドル式リアサイト、ボルト緩衝ジャンプ防止器、高強度アルミ合金マガジン、およびプラスチックのグリップ、ハンドガード、ストックへの応用)は、いずれも我が国の小火器に従事する人員に非常に大きな啓発をもたらした。国内ではその後のM16A1ライフルとM193普通弾薬に対するコピー生産を通じて、その設計、加工の特徴に対しより広く深入りした理解が生じた。こうした経験は新世代国産小口径武器の設計の中で非常に大きな作用を発揮し、例えば95式および03式小銃へのアルミ合金レシーバーの応用、ナイロン注型技術を採用して製造した上下レシーバーおよびマガジンなどの部品には、いずれも国際的潮流とのリンクが体現されている。95式小銃のブルパップ式構造は直銃床設計に相当し、銃器の後座力の伝達が平穏であることを保証し、マズルジャンプを小さくさせ、射撃精度を向上させる。一方03式小銃はM16A1のような直銃床を採用していないが、そのストックの直線はすでにできる限りバレル軸線に近づけられており、できる限り射撃精度が相応の距離がもたらす回転モメントの影響を受けることを避けている。また、M193弾薬に対する広範な試験を通じて、国内業界に小口径は必ず低威力という長期にわたる誤った考えは非常に大きな程度正さなければならないと考えさせ、最終的に87式5.8mm小銃弾薬の正式定型、装備のために一定の促進作用も果たした。

グレネードランチャー

我が軍が自衛反撃作戦の中で鹵獲したグレネードランチャーには2種があり、いずれもアメリカ製で、1つはM79単発グレネードランチャー、もう1つはM203吊り下げグレネードランチャーだった。M79は構造が簡単で、拡大した中折れ式単発猟銃のようで、単発装填、発射であり、主にM406ハイエクスプローシブ殺傷榴弾とM433破甲殺傷弾を使用し、この他散弾、照明弾、煙幕弾も発射でき、最大射程は400mで、榴弾の破片の殺傷半径は5〜7mに達した。M79は軽便な高強度アルミ合金材料を大量に採用し、また耐腐食性も比較的良かったが、人員編成を占めることを必要とした。M203はこの欠陥を克服するために設計されたものに他ならず、これはM16A1ライフルの下に直接吊り下げることができ、編成も占めず、また点、面殺傷を有機的に結合し、非常に大きく武器の作戦機能を向上させることができた。M203は高強度アルミ合金とプラスチックを大量に応用し、体積が小さく軽便で、構造上は発射管が前後にスライドする開閉鎖方式を採用し、装填と空薬莢排出がいずれも非常に便利で、弾薬もまたM79グレネードランチャーと共用で、性能もM79と基本的に同じだった。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「ベトナム軍は今に至るも依然少数のアメリカ製M79グレネードランチャーを装備している」 続いて2枚目。「両山輪戦の期間、我が国はグレネードランチャーのような射程が迫撃砲と手榴弾の間に位置する面殺傷火力を欠いていたため、止むを得ずいくつかの田舎臭い方法を採用して補い、例えば画像のような手製の手榴弾投射器である。」 続いて3枚目。「鹵獲されたアメリカ製のM203吊り下げ式グレネードランチャーを基礎に国内で改良して研究開発された第1世代グレネードランチャー、91A式35mm吊り下げ式暴動鎮圧グレネードランチャー」)


M79、M203グレネードランチャーと40mm榴弾は当時世界で最も先進的な兵個人榴弾発射システムを形成し、軽くて便利、精度が良好なだけでなく、弾薬の種類が多く、適応面が広く、手榴弾と迫撃砲の間の火力の空白を埋めた。それまで国内ではまだこの種の武器に接触したことが全くなく、関連の領域は全くの空白だった。発射器本体について言えば、当時国内ではまだ小火器の使用に供する、特に発射管が製作できる高強度アルミ合金の研究開発に成功しておらず、アルミ合金硬質陽極酸化表面処理と熱処理の技術も難関を突破していなかった。弾薬方面の参考にする意義はさらに大きく、アメリカ製40mm榴弾は高低圧発射原理を採用し、そのアルミ合金の薬莢内には高圧チャンバーがあり、発射薬はまず高圧チャンバー内で安定して燃焼し、一定の圧力に到達した後高圧チャンバーにあらかじめ作られた穴を突破し、薬莢内の低圧チャンバーに進入し、しかる後にこの低圧をもって榴弾を押し動かし76m/sの初速で射出し、低圧時には火薬が安定して燃焼できず、高圧時には後座力が猛烈になるという矛盾を解決した。だが当時我が国はまだ大規模にプレス法を応用してアルミ合金製薬莢を生産できず、同時に高低圧発射原理に対する研究も始まったばかりだった。M406榴弾自体の設計について言えば、信管と戦闘部の2大部分に分かれ、その全セーフティ機械式触発信管は時計機構を持つ砲口セーフティ設計を採用しており、発射時に早すぎる炸裂が起こる問題を解決していた。数億発の弾薬の実射の中で安全に関わる事故が発生したことはなく、しかも戦闘部はプレスの、内部にあらかじめミゾが作られたスチールの殻体で、内部には高性能B炸薬が装備され、これもアメリカの成熟した技術の1つであり、例えばM67手榴弾など多種の小型榴弾にとっくに使用されていた。一方我が軍が当時使用した67式木柄手榴弾はまだかさばって重い鋳鉄の弾体を採用し、破片の一致性が非常に劣った。国外のプレス弾体、事前に作られたミゾの技術を取り入れた後、我が国は1980年に77-1式手榴弾を正式に定型とし、その弾体にもあらかじめミゾが作られた鋼板プレスで作る方法が採用され、破片の一致性に非常に大きな向上があった。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「プレス弾体、あらかじめ作られたミゾという技術を採用した国産77-1式プラスチック柄手榴弾」)

グレネードランチャーは1つの完備した武器システムなので、その研究開発は材料学、加工工程学、弾薬および信管の工程、傷弾道学など多くの学科を包含し、多くの科学研究所や工場の支持を必要とする。このため国内では長年の消化吸収を経ることを基礎に、1990年代になってやっと正式に91式35mm暴動鎮圧グレネードランチャーを定型に至らせ、同時にこれとセットで高低圧発射原理を採用した35mm系列暴動鎮圧弾薬を研究開発した。全体構造レイアウトも、材料、表面処理、薬莢の構造等々も、91式はM203吊り下げ式グレネードランチャーと40mmグレネードの非常に大きな影響を受けており、それは決して軍用型ではないが、それでも国内で自らグレネードランチャーおよびその弾薬を研究開発する先鞭を付けたのである。

スナイパーライフル

スナイパーライフルというこの名詞の我が国における出現は非常に遅く、非常に長い時間国内ではずっと正式に設計定型を経たスナイパーライフルがなく、この種の武器の特徴と応用に対しても知るところがはなはだ少なかった。対ベトナム反撃の初期、部隊はベトナム軍スナイパーに非常に多くの苦しみをなめさせられたが、対応するのに適した武器がなかった。ベトナム軍が使用するソ連製ドラグノフSVDスナイパーライフルを鹵獲した後、部隊指揮員の要求に応じ、国内の工場は迅速にそれに対する図面作成とコピー生産を行い、これにより初の国産スナイパーライフルが誕生した‥‥79式である。後にまたこれを基礎に85式スナイパーライフルが改良されてでき、後期の対ベトナム作戦の中で大量に使用され、かつ向小平など著名な戦闘の英雄を多数出現させた。今に至るも85式は依然部隊、武装警察、特殊警察に広範に装備されるスナイパーライフルである。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「ベトナム戦争後期にはベトナム軍が早くも装備を開始した旧ソ連が提供したSVDスナイパーライフル。我が国は鹵獲したSVDのコピー生産と改良に基づいて79式、85式スナイパーライフルを作ったが、専用の狙撃弾薬は決してコピー生産しなかった。」)

SVDは旧ソ連がわざわざ設計した性能が比較的優良な軍用半自動スナイパーライフルで、10発着脱マガジンを配備し、専用に研究開発された7H1型スナイパーライフル弾薬を発射した。この銃は「D」字型スケルトン式のチークピースが付属した直銃床を採用し、後座力の伝達が平穏で、銃の構えが安定している。構造設計の上では、この銃はショートストロークピストンのガスオペレーション原理を採用しており、ピストンの直径が比較的小さく、しかもピストンロッドは決して一体構造ではなく、ピストンの軸線とバレル軸線との間の距離を小さくするのに有利で、しかも一定程度上ピストンとピストンロッドの間の加工誤差を消し去り、ピストンがボルトキャリアに衝突する時に生じる回転モメントを減少させる。SVDは5本の長いスリットを持つ大型の銃口装置を持ち、比較的良い消炎、制退、ジャンプを防ぐ作用がある。この銃が使用する4倍のPOS-1光学スコープのレティクル板は距離測定の目盛を持ち、射手が簡易距離測定を行うのに便利で、またさらにそれ自体にダイオード照明光源を持ち、暗黒あるいは光の照射が不良な環境の中での照準射撃に便利である。79式は鹵獲されたSVDスナイパーライフルを根拠に直接コピー生産されてできたものだが、我が国に長期にわたり専用スナイパーライフルがなかった歴史を解決し、関連の武器と戦術に対する多くの使用経験を累積した。同時に、SVDが使用するショートストロークピストン機構と回転ハンマー発射機構は、後日88式スナイパーライフルを設計する時にも一定の体現があり、95式銃器ファミリーが使用する昼間スコープもPOS-1スコープのいくつかの設計を参考にした。

機関銃

1979年の作戦の中で、当時我が軍の参戦部隊が使用した機関銃は主に56式分隊用軽機関銃と57式中隊用重機関銃であり、後期になってやっと続々と67式および67-1式汎用機関銃が装備された。一方当時ベトナム軍が使用したものにはソ連製のRPD、RPK分隊用軽機関銃やPKM汎用機関銃、および流用されたアメリカのM60汎用機関銃などがあった。57式重機関銃は携行に不便だったため、一般に歩兵の突撃には随伴できず、我が軍は大威力小銃弾薬を発射する汎用機関銃を欠き、このためベトナム軍は機関銃の火力方面で相当な優勢を占めた。そしてベトナム軍のもう1つの切り札はソ連製の12.7mm、14.5mm高射機関銃を利用して平射を行うことで、我が軍の火力の射程外で制圧射撃を行い、我が軍の集結や運動、進攻に非常に大きな脅威をもたらした。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「1979年の対ベトナム作戦の中で我が軍が使用した弾薬ベルト入りの箱によって給弾する56式分隊用軽機関銃。この銃は使用後ばらばらにならない弾薬ベルトも使用できたが、ひっかかり、あるいはからみつきやすいため給弾の故障がもたらされた。ベトナム軍が当時装備したのは旧ソ連によって製造されたRPK分隊用軽機関銃で、この銃はAKMとの汎用性の程度が比較的高かった。」 続いて2枚目。「我が国がAKM銃器ファミリー化の経験を吸収した後研究開発に成功した81式銃器ファミリー。遠いところのは81-1式折りたたみストック自動小銃、近いところのは81式分隊用軽機関銃。」 続いて3枚目。「対ベトナム作戦初期に我が軍が使用した57式中隊用重機関銃」 続いて4枚目。「PKMのトライポッドを参考にした後改良されてできた67-2式汎用機関銃。国産の89式大口径高射機関銃もPKMのトライポッドの設計を採用し、大幅な重量軽減のために基礎を固めた。」)

鹵獲された機関銃の中で、RPK分隊用軽機関銃とAK47/AKMは同一の銃器ファミリーに属し、大部分の部品は共用でき、最大のメリットはドラムマガジン給弾もでき、30発/40発ボックスマガジン給弾も使用でき、元々のRPD軽機関銃とAK-47小銃の給弾具が異なるという問題を解決したことだった。一方当時我が軍の歩兵分隊の中の56式半自動小銃は10発ストリップクリップ給弾を採用しており、56式サブマシンガンは30発ボックスマガジンを使用し、56式分隊用軽機関銃はばらばらにならない弾薬ベルトを使用し、給弾方式の不統一は戦場での補給に一定の困難をもたらした。このため、国内で81式銃器ファミリーを設計する時、RPKの設計模式を参考にし、81式小銃、81式分隊用軽機関銃の戦術指標はAK-47/AKMおよびRPKと基本的に同じだが、重量はより軽く、射撃精度はより良く、生産工程も我が国の国情により符合したものとされた。

PKMは当時世界で最も軽い汎用機関銃で、全備重量は12.4kg、銃本体は7.8kgしかなく、射撃精度が高い、信頼性と防塵性が比較的良いというメリットを持っていた。一方国産の67-1式汎用機関銃は全備重量25kg、銃本体でもう重量が11.5kgに達し、トライポッドの重量は13.5kgで、性能は相対的に立ち後れていた。PKMが重量を軽減できた奥義はプレス、リベット、溶接部品の大量採用にあり、レシーバー、レシーバーカバー、抜弾アーム、トライポッドの大部分にプレス部品を採用し、フロントサイトベース、ガス導入リングなど形状が複雑な部品は精密鋳造法で製造し、加工の難度を下げただけでなく、銃全体の重量を顕著に軽減した。また、この銃は軽量型バレルとスライド駐鋤式弾性銃架を大胆に採用し、これにより全体重量を抑制した。このため、当時国内にはPMKをコピー生産し、国内の67式系列と取り替えて捨て去るのに用いるよう提案する人がいて、すぐに国内のメーカーが80式汎用機関銃をコピー生産し定型に至った。だが少数が海兵隊に装備された他、大部分は輸出に用いられた。これは我が国の小火器科研人員がPKMの設計の特徴を詳細に研究した後67-1式汎用機関銃に対し大幅な改良を行い、これにより67-2式汎用機関銃が誕生し、コピー生産された国外製品を再度装備するという古いやり方が避けられたからである。67-2式は銃の本体構造に対し最適化調整設計が行われ、寿命と射撃精度が高められた他、最大の変化はPKMのスライド駐鋤式弾性銃架を採用し、銃本体の重量が10kgまで下がり、トライポッドは5kgまで下がり、全体重量がたった15kgになったことである。67式と67-1式の銃架が採用したのは肉厚のスチールパイプを溶接した駐鋤式トライポッドで、使用時架台の足を土の中に挿入し、もって銃本体に安定した射撃プラットフォームを提供することが要求された。だがPKMのスライド駐鋤式弾性銃架の足はそれ自体、変断面鋼板プレスを採用し、駐鋤は平底様式で、銃を据え付ける時土の中に挿入する必要はなく、射撃時はストックを肩に当てて射撃し、後座力の作用の下に銃架は地面の上を少し平行移動し、かつ銃架自体の弾性が一部の後座エネルギーを吸収し、このため比較的良好な射撃精度が保持できる。しかもこの銃架は陣地の表面に対する要求が高くなく、もしぬかるみの上であっても据え付けができ、こうしたメリットはいずれも67式および67-1式とは比較できないものだった。

PKM汎用機関銃のテストとコピー生産を通じ、我が国の新世代機関銃の研究開発のために多くの実用技術の蓄えが獲得された。例えば国内で後に研究開発された88式汎用機関銃および85式、89式大口径機関銃はいずれもプレス構造の弾性銃架を使用し、銃架の重量を軽減し、同時に88式汎用機関銃と89式大口径機関銃にもプレス、リベット、溶接部品が大量に使用され、全備重量が顕著に軽減できた。85式は77式大口径機関銃に対し軽量化と生産技術改良をを行って誕生した発展型で、この銃は銃本体に対し工程の簡略化が行われた他、最大の変化はやはり新式のプレス製トライポッドを採用し、銃全体の重量を大幅に軽減したことである。国産12.7mm大口径機関銃を大隊およびそれ以下の戦闘単位にゆだねることが可能になり、さらに一歩我が軍の歩兵分隊の中に機関銃火力が不足している局面を一挙に改変した。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「1980年代中期、輪戦に参加した我が軍の指揮員。手には塹壕やジャングルの中での運動により適した56-1式折りたたみストックサブマシンガンを持ち、同時に現地の自然条件に適応した迷彩服と雨靴を装備している。これらの装備の細かい変化は、一定程度上我が軍の近代化建設が取得した成績を反映している。」)

1979年年初の期間18日の戦闘は、1962年の中印国境自衛反撃戦に次ぐ、中国最大規模の対外作戦行動で、我が軍の実戦能力を再度検証する試験場でもあった。参戦部隊は軍威国威を見せたが、長期にわたって閉じこもって自らを守った結果をも暴露し、特に10年の動乱後、部隊装備は立ち後れ、戦術は老化し、訓練は不足し、全体的戦闘力の深刻な低下という問題をもたらした。実戦は装備の水準を検証する唯一の基準であり、流血の犠牲と引き替えに貴重な経験と教訓が得られ、我が軍はこれから長期にわたる軍隊の正規化、近代化建設を開始し、かつより多くの精力を武器装備の更新、発展の中に投入した。時今日に至り、戦争はすでに終わって20年余りだが、その深遠な影響は依然継続し、特に我が軍が現在装備する一部の小火器の設計指標の上にであり、いずれも多少なりともこの戦争が残した痕跡を帯びている。他方においては、対ベトナム反撃の後、中米関係は10年近くの長きにわたる「蜜月期」に入った。このことは中国の西側世界に向けた門戸を、長期閉まっていた後に再度開かせた。西側の武器設計専門家やメーカーとの交流の助けを借りて、国内の科研部門はさらに一歩国外小火器の発展の状態、特徴、優勢を理解、掌握し、かつ導入と消化吸収を基礎にして、大胆に再創新を行い、我が国の小火器研究開発作業を全く新しい段階に入らせた。このためある意味で、対ベトナム自衛反撃戦は国内の関連業界の技術および思想理念に総合的に影響し、これは戦争自体の経験、教訓よりもはるかに深遠だった。


 鹵獲されたアメリカ、チェコ、フランスの小火器まで含め、今日の中国の小火器に思ったより大きな影響を与えていることが分かり興味深かったです。ただアサルトライフル強化型支援火器が本格的な設計の機関銃に比べ持続射撃能力が劣るという点がどう評価されたのかがこの記述ではいまいちよく分かりませんでした。













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