初めて中国で開発された戦闘機 研駆一(XP-1)

 日中戦争時期の中国の戦闘機というと、ゼロ戦に圧倒されたソ連製I-15、16やアメリカから供給されたP-40などをイメージし、オリジナルの中国製戦闘機はごく最近出現したと思っている人が多いと思います。しかし実は1942年に開発が開始され、1945年1月に初飛行を行った中国製戦闘機がありました。「駄っ作機」扱いしたら怒られそうですが、岡部いさく氏もここまで知らないかもしれない、知られざる航空機のお話です。

http://www.afwing.com/intro/yq1/new/yanqu-1-1.htm


抗日戦の期間に中国が自ら研究開発した前進翼戦闘機、研駆一(XP-1)に関わる人と事

20世紀初め、ライト兄弟の「フライヤー」が青空に飛び上がってから短時間で、東方の中国の航空も萌芽の段階に入り、この中で広東の航空事業の発展が全国各省の中でトップの地位を占めた。1911年3月、馮如がアメリカから広州に帰り着き、「広東飛行機会社」を創設し、飛行機製造に従事し、国内における航空事業を開始した。その後華僑の青年が国外において航空を学んだ後、続々と帰国した。1914年6月、林福元がアメリカから1機の航空機を広東に持ち帰った。7月、陳桂攀も飛行機1機を持って広州に到着した。これに続き、譚根が次の年アメリカから帰ってきた。7月、広州に航空学校成立の準備がなされ、広東の都督だった竜済光の委員李実が監督、譚根が飛行主任を務めた。

中華民国成立後、孫中山(頑住吉注:孫文)氏は積極的に航空による救国を提唱したが、革命の果実がすでに北洋軍閥によって盗み取られていたため、南方で革命を組織する方針に改め、積極的に革命空軍創設を準備した。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「孫中山が夫人の宋慶齢と共に「楽士文」号の試験飛行の典礼を主催している」 夫人の英語名が「Rosamonde」であり、「楽士文」はこれを音訳したものだそうです。 http://www.yingmingwenhua.cn/athena/offerdetail/sale/yingmingwenhua-1033667-492738365.html こんな模型も売られています。この説明文によればこの機は日本の友人の資金援助下で作られたもので、1923年8月に初飛行、複座複葉の爆撃機で、孫文と協力していたものの後に決裂して敵となった陳 炯明派を実際に爆撃したが、その後同派により焼かれたということです。)

1914年、孫中山はアメリカの華僑楊仙逸の助けを得、国民党駐米総支部長林森が国民党空軍の人材を訓練した。林森らは華僑に援助を働きかけ、ニューヨーク州の都市バッファローのカーチス飛行学校内に「中国国民党空軍学校」を創設した。第1期の学生は張恵長、陳慶雲、呉東華、葉少毅、陳干、李光輝、蔡司度、黄光鋭、譚南方ら20人で、アメリカ式の空軍軍事訓練を受け、1917年に卒業し、アメリカの飛行ライセンスを獲得した。卒業後、アメリカで「中国国民党飛行機隊」を組織し、楊仙逸も連れて広州に帰ってきた。その時孫中山は護法運動により南下し、広州に革命政府を成立させた。広州の東郊外の珠江を臨む大沙頭に水陸飛行場をを開設し、楊仙逸が隊長となった。これが孫中山が正式に創設した革命空軍の始まりである。

1919年、桂系軍閥が広東政府を操り、孫中山は広東を離れて上海に移動し、護法運動は失敗した。11月、孫中山は広州において再度護法軍政府を建設し、大元帥の職に復帰した。大元帥府の下に航空局が設けられた。1924年11月、孫中山は招待を受けて北上し国事について協議した。大元帥府秘書兼航空局長陳友仁はこれに同行した。航空局ソ連顧問李糜将軍は代理航空局長を受命し、林偉成、陳卓林は彼と共にソ連に派遣され、航空について考察し、また飛行機に関する支援につき協議した。1925年3月、孫中山は北京で死去し、7月、広東軍政府は国民政府に改組された。国民政府は軍事委員会を統括し、その下には海軍局、航空局、軍需局、参謀団および政治訓練部等の機構が設置され、革命空軍の発展を継続した。

1929年初め、李済深は南京で蒋介石によって拘留され、陳済棠が広東の軍政の大権を握った。所属の航空所所長張恵長、航空学校校長周宝衡、第1隊体長黄光鋭、第2隊隊長楊官宇などの人事は変わらなかった。11月、広東空軍は粤桂戦争に参加し、陸海軍と協力して広東に攻め入った粤桂軍を壊滅させ広西に追い返した。空軍は作戦中一定の威嚇力量をはっきり示したので、陳済棠は空軍の発展に積極的になった。

1933年春、黄光鋭らの一行がアメリカに赴いて航空につき考察し、華僑に飛行機に関する寄付、援助を呼び掛けた。1934年春、黄光鋭は近代的な航空工場の組織と管理が必要であると提起した。この工場は工程と設計を監督、管理する力量を持ち、アメリカで勉強した中国人とアメリカで生まれた中国系志願者が参加すべきものとされた。そこで少数の愛国的学者、技術者が気持ちよく志願し、帰国して建設に参加した。これと同時に外国籍のある人員も採用されて中国へやってきた。その中で最も人々の注目を引き付けた若い技術者こそZakhartchenkoという名の設計者だった。

Constantine L. vovich Zakhartchenkoは1900年1月17日にロシアのLubinで生まれた。早期の教育はルブアーとキエフで完成され、その後帝政ロシア海軍に参加した。かつては海軍学校見習船員の任にあり、1916年〜1920年までの間、二等航海士の任にあった。ほどなく彼はアメリカに移民し、1920年、20歳の時にアメリカのマサチューセッツ工科大学に合格し、1923年に卒業し、航空工程修士の学位を獲得した。1923〜1934年、彼はアメリカのいくつかの有名企業で研究員、総工程師等の職にあった。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「Constantine Zakhartchenko」)

しかしこの時期、アメリカの経済は非常な不景気で、就職の機会は少なかった。ちょうどタイミングよく彼は中国の広東空軍が近代的飛行機を必要としていることを耳にした。彼はこれに対し非常に注目し、彼はまだ独身で行動しやすかったため中国行きを強く望んだ。こうすれば彼の設計方案も実現できるのだった。こうして彼は1934年夏に招請に応じて広東にやってきた。他方面においては、彼は本来帝政ロシア海軍士官であり、元々日本に対し不満を持っており、彼は日本人に一矢報いねばと考えていたのである。1940年初めまで彼は中国の第一飛行機製造工場でチーフアシスタントエンジニアを担当した。1940年、彼は中国政府航空委員会航空研究所に移り、高級航空工程師および技術顧問の任につき、計画、設計、生産を含む複数の研究プロジェクトを主管した。

1936年春から夏の間、陳済棠、李宗仁、白崇禧らは抗日を名目に日本と協力して反蒋介石の行動を実行した。表面的には「西南」を名目とし、南京政府主導による抗日戦を呼び掛けながら、実は内戦の発動を企図し、蒋介石と天下を争ったのである。広東空軍の小規模な一部は1936年6月30日に、飛行員黄志剛、黄居穀、岑沢○らが飛行機7機に分乗し、北へ飛んで蒋介石に投降した(頑住吉注:「○」は日本語にない漢字で上が「流」、下が「金」)。事件発生後、デマが激しくなった。日本の顧問がすでに広州に到着し、広東空軍が接収管理されるなどの情報を話す者がおり、人心は動揺した。一部の空中勤務人員は反陳を密かにはかった。陸軍方面には陳を叩く内戦に反対の態度表明をする者も多かった。そこで空軍の指導者黄光鋭らは同年7月18日に集まって北へ飛び、蒋介石の中央政府に投降した。広東空軍は国民政府に投降したのである。この後、Zakhartchenkoは技術顧問となり、空軍総司令部に訓練、設計、技術人員として派遣された。

(頑住吉注:これより2ページ目)

1938年10月、日本軍は広東を占領し、韶関航空工場は第一飛行機製造工場と名称変更し、1,448km西に移って雲南の昆明に至った。1938年12月、第一飛行機製造工場は昆明で改めて成立した。1939年中期になり、新工場は丘陵地帯において偽装下で全てが復旧し、100機の新たに改修設計を加えたソ連のポリカルポフI-15複葉戦闘機生産した。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「韶関飛行機製造工場が自ら研究開発、生産を行った「復興」式飛行機」 これは練習機で、当時中国が独自に研究開発し、量産した唯一の飛行機とされています。ただし生産数は量産と言えるか微妙な20機でしたが。)

1942年、第一飛行機製造工場は航空研究院から研駆一型駆逐機の研究開発を委託された。研究開発作業は鄒文燿が担当した。鄒文燿、字(頑住吉注:あざな)任華は原籍が湖南省衡陽県で、1897年生まれだった。彼は北京工業大学機械工程系を卒業していた。後にイギリスに留学し、航空機械工程を専攻した。勉強を終え帰国すると我が国の航空工業のために尽力し、相前後して北京航空工場主任、山東航空工場工場長および北京工業大学航空機工程教授を務めた。国民政府航空委員会成立後はこの科学委員会科長を務め、第一飛行機製造工場副工場長および空軍東北航空工業所所長を歴任した。

だが航空研究院が研究開発を委託した研駆一は非常に特別な飛行機だった。飛行機の主翼は前進翼であり、内翼には下反角があり、外翼には上反角があった。材料には航空研究院が提供した木質層板が採用された。全体設計は第一飛行機製造工場の駐工場副総工程師Zakhartchenkoが主導した。彼は当時第一飛行機製造工場の副総工程師の招請を受けており、給料は370元だった。

Zakhartchenkoが主導する研駆一の設計小グループは素早く構想設計、初歩設計を完成させ、詳細設計を行っている時、契約期間が満了し、再契約が行われなかったため、Zakhartchenkoはアメリカへ帰った。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「XP-1 側面図」)

残った作業は雷兆鴻が引き継いで完成させた。雷兆鴻は五邑籍の華僑で、実は韶関飛行機製造工場の歴代の3人の工場長はいずれも五邑籍の華僑だった(頑住吉注:「五邑」は現在の広東江門市の一部だそうです)。周宝衡と林福元の原籍は開平、梅龍安の原籍は台山だった。彼らはいずれもアメリカにいる時、すでに工程師のライセンスを獲得しており、九一八事変(頑住吉注:満州事変)後に続々と帰国し、韶関飛行機製造工場の建設に参加していた。当時工場内で分担して技術作業を行っていた20名余りの中国のアメリカ留学生の中でも五邑籍の華僑が大半を占めていた。現在姓名が知られているのは謝凝燿、雷兆鴻、陳作儒らだけである。この他、工場内の500名余りの技術工員の中の絶対多数はやはり北米から帰国した五邑籍の華僑あるいは華僑の子弟だった。九一八事変後、飛行機製造技術を掌握した多数の五邑籍華僑は続々と飛行機製造工場を開き、飛行機を生産して抗日前線を支援していた。アメリカでは五邑籍華僑の○炳舜(頑住吉注:「○」は日本語にない漢字で、「広」+ふしつくり)は率先して10万アメリカドルを寄付し、しかも華僑同胞にも募って15万アメリカドルを寄付させた。そしてアメリカで「中国飛行機工場」を開設し、生産された飛行機の部品は祖国の抗日前線を直接支えた。同時に、多くの五邑籍華僑が祖国に帰り、抗日軍事工業の中に身を投じた。彼らの一部は粤北の重要都市韶関に来て、当時の韶関飛行機修理工場に入った。

五邑籍華僑雷兆鴻の指揮下で、第一飛行機製造工場の工程人員は設計完成後直ちに製図し、第一飛行機製造工場の貴陽工場区で製造を開始した。最初に2機が生産され、1944年夏に第1号機の組み立てが完成し、機能テストが行われた。一方第2号機もまた同年秋に組み立てが完成した。研駆一の胴体前部、中部、および内翼はいずれも金属構造で、主要な材料は4130クロームモリブデン鋼だった。胴体後部(垂直尾翼、水平尾翼、方向舵、昇降舵含む)および外翼には木質構造層板外皮が採用された。これらの原材料は成都航空研究院、航空研究院層板製造工場、および成都の東南約180kmの隆昌航空研究院外皮製造工場が提供した。胴体後部(木質)と胴体中部(金属)の接合は4本のネジのトルクで行われた。その中では胴体前部から飛行操縦系統を操るワイヤーが機体後部のコントロール可能な各操縦面まで連結されていた。

エンジンは牽引式のレイアウト、胴体後部および外翼はいずれも木質を採用したので、重心バランスを追求するためにバラストが積まれ、本来の木質を採用して重量を軽減するというメリットは打ち消された。甚だしきに至っては一部が重すぎになるという結果をもたらした。研駆一の設計速度は580km/h以上に達し得るというものだったが、実際には機の重量超過のため大幅に割引になった。

研駆一のエンジンに関し、この工場は設計当初航空委員会に2台のエンジンの申請を上げていたが、物資欠乏のため航空委員会は四川南川第二飛行機製造工場が提供した、事故で墜落損壊したC-47型輸送機(頑住吉注:「スカイトレイン」。ダグラスDC-3の軍用輸送機型)の2台のエンジンを徴用し、修理して貴陽に送って使用させた。一方プロペラは第二飛行機製造工場が新たに制作して提供した。推測によればエンジンはWright Cyclone SGR-1820 710馬力であり、エンジンカウリングには木製の型で細かく修正する手法が採用された。特に胴体前部前縁とのラインを一致させ空気抵抗を生まないようにしなければならなかった。エンジンカウリング全体では4ピース式のカウリングが採用され、材料は2014アルミ合金で、しかも熱処理でT6状態にされた。板金作業員は順に型を叩いて成型し、さらに余分な部分を切除しなければならなかった。当時は大型冷凍庫設備がなかったので、T6状態を維持するためには6時間以内で完成させることが必須だった。

コックピットにはアメリカ製飛行機の旧型コックピットキャノピーを改造する手法が採用された。プロペラの色は当時の大部分の飛行機と同様に全体が黒色に塗装され、先端のみ黄色に塗装された。第1号機の試験飛行は設計構想およびテスト機とエンジンのマッチングの程度の検証だけのためだったので、この機は武装されず、関係設備等も装備されなかった。航空灯、脚の出し入れ用液圧システムも装備されず、飛行機には機体名称、ナンバーも塗装されなかった。機体上面はオリーブドラブ、下面は空色に塗装され、垂直尾翼には軍制式の6本の青と白の横のストライプが採用された。国民党のマークは6カ所、それぞれ胴体左右両側、翼両側上下それぞれ1カ所だった。

試験飛行作業は第一飛行機製造工場の駐工場試験飛行員譚寿が担当した。譚寿は広州、広西系空軍にあって非常に有名だった。広東の台山で生まれ、アメリカで飛行員となり、1927年に帰国、かつては広東航空学校第三期甲班の教官、広東空軍第一大隊大隊長を担当し、中央に帰って改編後空軍第十六隊隊長を務め、抗日戦前に第七大隊大隊長に昇進、駐留地は西安だった。後に招請を受けて広州に移り、広州空軍総基地長に任ぜられた。

(頑住吉注:これより3ページ目)

筆者は早くも7、8年前にCGを使って研駆一駆逐機の復元を試みたことがある。しかしいかんせん当時は資料が少なすぎ、多くを文字の記述と当時を思い出してもらってのインタビューに頼りきりになり、研駆一本来の詳しい姿を完全に復元するのは難しかった。しかし資料の不断の発掘につれ、研駆一の全貌もだんだんはっきりしてきた。このことも筆者に、きっと再び研駆一という飛行機を復元し、その抜きんでた姿形を完璧に人々の前に見せなければとの決心を促した。現在画像で復元された研駆一に基づいて言えば、非常に独特な、奇異な飛行機であるとさえ言える。だが惜しいのはこの飛行機が初飛行で即墜落損壊してしまったことだ。現在ではこの飛行機を改めて詳しく見ることができる。前進翼レイアウトの飛行機自体すでに飛行方向安定性の上で比較的劣る。だがこのレイアウトを採用した研駆一は当然取るべき措置を取っていない。逆に飛行機の尾部がより短く、イギリス式の風格を思わせる垂直尾翼の面積はより小さく、このことは安定性を提供する垂直尾翼のモメントが小さくなる結果をもたらし、安定方面の要求を満足させることはできない。2つ目に飛行機のエンジンの効率が小さすぎ、飛行機の安定性不足の状況下では容易に失速後尾部旋転を発生させる。3つ目の問題は飛行機の翼の厚さが薄く、飛行機が低速下にあると翼が充分な揚力を提供できず、機が容易に失速することだ。こうした状況下で、研駆一が成功を獲得せねばと思ったら、充分良好なエンジンが不可欠な要素だった。だがこれは当時完成不可能な任務であり、飛行機が1回の不成功の初飛行後に放棄されたのは、悔しいけれどもやむを得ないことでもある。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「CGで復元された研駆一駆逐機」 これより4ページ目に入ります。)

回想に基づき:

「試験飛行地点は第一飛行機製造工場貴陽工場区そばの貴陽南門飛行場だった。この飛行場の滑走路は南北に走っており、それ自体は泥土の路面で、コールタールで舗装されておらず、ぬかるみは滑走路北端に至りやや傾斜していた。

1945年1月18日、天気予報は飛行に適していた。研駆一の整備作業は全て完了し、9時ちょうどに南門飛行場の滑走路北端から遠からぬ第一飛行機製造工場の事務室の外で簡単な初飛行任務の提示が挙行された。その中の主要なものは、本日は脚の出し入れはしないということだった。当時飛行機の脚の出し入れ機構には液圧システムがまだ装備されていなかった。ただしコックピット左側にハンドルがあり、試験飛行員はこのハンドルを使って脚の出し入れができた。試験飛行員譚寿はその日、飛行革帽、飛行眼鏡、牛革の飛行ジャケット、普通のズボンと普通の革靴を身に着け、座式落下傘を携帯していた(頑住吉注:座席のクッション兼用の落下傘でしょう)。

10時ちょうど、試験飛行員譚寿は機上の人となり、滑走路北端から低速で南端まで滑走した。再び180度向きを変え、機は北に向かい命令を待った。この時一切がスムーズで正常だった。その日何らの儀式も行われず、その場で初飛行を見学していた人員は約12人だった。

研駆一のエンジンの音が大きくなり始め、プロペラの回転速度もどんどん速くなっていった。飛行機は徐々に滑走を開始し、約500m滑走後、研駆一は離陸した。初飛行を見学していた人員は全て歓喜に沸き、それぞれに拍手し喜びの声を上げた。研駆一は飛行可能であると証明されたのだった。研駆一が高度4、500mに達した時、第一飛行機製造工場の木工工場上空に近づき、その後左に向け高速の大きな旋回を開始した。だが2回目の小さな旋回の時、不安定にふらつく現象が始まった。

研駆一が続いて朝陽洞山区に飛び至った時、いくつかの簡単な飛行機動を開始した。飛行機はまず機首を上げ、すぐに下げ、水平飛行に移った後数秒で再び2回目の機首上げを行い上昇しようとした。だが機首はそれでも沈下した。数回機首上げしようとしたがいずれもできなかった。当時機には無線電信の設備がまだ装備されていなかったため、地上の人員は詳細を理解することはできなかった。すぐに飛行機は再度旋回し、飛行場に戻って着陸しようとした。だが下降速度が速過ぎ、しかも失速現象があり、飛行機は回転して急速に墜落し始めた。見学していた人員は研駆一が飛行場南西の隅にきりもみで墜落するのを見た。ちょうどいくつかの建築物および大木に遮られ、飛行機は貴陽市郊外の鴻辺門の地上に墜落、破壊された。試験飛行員譚寿はその場で殉職し、地上の建築物も損傷を受けたが、その他の人に傷を与えることはなかった。

事後、この工場は航空委員会と共に研駆一の設計資料や各テスト報告を重慶中央大学航空系および成都航空研究院に送付し、審査研究を請求した。中央大学航空系の分析結果は、研駆一の安定性は不足で、試験飛行のリスクは大きいというものだった。一方航空研究院はずっと結果の回答をしなかったが、第一飛行機製造工場貴陽工場区の人員の中には、修復を経たエンジンが飛行機の墜落を引き起こしたのであって、飛行機の設計と製造自体には問題はなかったという意見を提出する者もいた。

1944年、研駆一の設計が完成し製造を始めた時、元研駆一設計小グループはすでにその発展型である研駆二の設計を開始していた。これには研駆一と同じエンジンが動力として採用されていた。だが1945年初めの研駆一の事故後、研駆二の計画もこのために終了した。」

(頑住吉注:原ページのここにある画像1枚目ののキャプションです。「ここで皆さんに1冊の良い本を推薦する。Lennart Anderssonの「A History of CHINESE AVIATION-Encyclopedia of Aircraft and Aviation and in China until 1949」(中国(民国)航空史‐中国の1949年以前の飛行機および航空百科全書)である。この本は非常にすごく、内容が多く、写真が良い。心から皆さんがこの本を支持することを希望する。聞くところによればこの本の売れ行きは特別に良くはないという。もし皆さんが支持すれば、作者はさらに皆さんにより多くの良書をもたらすことができると信じる。皆さんがこの本を支持し得ることを希望する。」 続いて2枚目。「この本の中には貴陽南門飛行場における研駆一(XP-1)の実機写真が掲載されている。これは私が初めて見た研駆一戦闘機の実機写真であり、涙が抑えられず、この本が得られたことに感謝した。この本にはさらにその他の多くの珍しく貴重な写真があり、皆さんがこの本を支持し得ることを希望する。」 続いて3枚目。「これは非常に珍しい研駆一駆逐機の実機写真であり、これまでのところほとんど唯一のこの機の写真である。写真は鮮明で、構図は完璧で、多くを得ることができる。写真には研駆一飛行機の特徴が表れている。似ているが決してP-43の胴体前部ではない。似ているが決してP-40のキャノピーではない。似ているが決してCW-21の尾部ではない。独特の引き込み脚とすこぶる英国風味を備えている英国式水平尾翼の設計。飛行機全体の特徴は突出し、風格は独特である。」)

1944年、日本陸軍は何度もの大規模進攻を発動した。我が守備軍は敵ではなく、徐々に撤退した。日本軍は湖南から広西に進入し、11月には柳州を攻め落とし、方向を貴州にとり、貴陽工場区の情勢は再び急を告げた。1945年3月、貴陽工場区の人員および施設は再び昆明に戻され、元々貴陽には移らず昆明に残った部署や人員と再会した。

抗日戦勝利後、航空委員会は1946年6月に空軍総司令部に改組された。これとは別に9月20日に成立した航空工業局は空軍総司令部の直属となった。第一飛行機製造工場は航空工業局の下に入ることが命じられ、かつ「空軍第一飛行機製造工場」と改称された。

1949年4月16日、この工場は昆明から台湾の宜蘭に移ることが命じられ、同年9月16日に移転は完了した。だが人員が全部移ったわけではなく、設備も全部運ぶことはできなかったため、飛行機の製造作業がスムーズに進展できなくなり、このため維持修理作業だけが可能となった。1952年4月、この工場は航空工業局直属から空軍供給司令部の下に入るよう改められ、完全に修理がメインになった。だが空軍第一飛行機製造工場という名称はそのまま残された。

1954年11月1日、空軍第一供給所がこの工場を基礎に成立した。所在地は高雄の岡山で、同時に成立した屏東空軍第一供給区部(主に空軍飛行機修理総工場、空軍通信機材修理工場、空軍913自動車中隊が合併してできた)の下に入った。宜蘭の施設と人員は岡山に移り、元空軍第一飛行機製造工場の名前は消えた。

(頑住吉注:これより5ページ目)

一方研駆一の設計グループ責任者Zakhartchenkoはその後も航空の研究の仕事に従事した。1943年1月9日に彼の契約は満了し、依然契約がない状況下で6月まで手助けを続けて6月になってやっとアメリカに帰国した。帰国直後、James McDonnellの会社に行った。同社はちょうどかけだしの状態で、才能ある人を探していた。このため彼はすぐに同社の設計チームに加入した。実はアメリカ大恐慌の前に早くもZakhartchenkoとMcDonnellはよく知る間柄だった。それは1927年のことであったが、McDonnellが設計した初の飛行機DoodlebugはまさにZakhartchenkoと協力して完成したものだったのである(頑住吉注: http://en.wikipedia.org/wiki/McDonnell_Doodlebug 確かに設計者の中にZakhartchenkoの名もあります)。この他、中国人にとって非常に有名な「人道遠征−日本へのビラ爆撃」の主役、マーチン139WC(B-10)爆撃機も同様にMcDonnellとZakhartchenkoの合作による作品だった(頑住吉注: http://en.wikipedia.org/wiki/Martin_B-10 ここにはこの2人の名はありませんね。なおこの「爆撃」というのは1938年5月19日に2機のB-10が漢口から飛び立ち、熊本、福岡などに中国における日本軍の所業などに関するビラをまいて無事帰還した件です。)。このためZakhartchenkoはアメリカに帰り着いた後、すぐにMcDonnellを探しあて、彼の会社で並列ダブルローターヘリコプターの研究開発作業を展開した。そしてXHJD-1型ヘリコプターの設計と製造作業を成功裏に完成させた。彼と研究開発グループ技術人員の努力のもとにXHJD-1型ヘリコプターは1946年初めに地上試験が開始された。1946年4月27日、初のホバリング飛行に成功した。XHJD-1は世界初の成功した並列ダブルローターヘリコプターである。だがこのヘリコプターは生産に入ることはなく、原型機が試験飛行研究を終えた後アメリカ国営航空宇宙博物館に寄贈された(頑住吉注:多くのヘリコプターは胴体の上で大きな単一のローターを回して浮上しますが、ローター回転の反作用でそのままだと胴体が反対方向にぐるぐる回ってしまいます。そこで尾部に横向きの小さなローターをつけて回転を止めるわけです。並列ダブルローターは2つのローターを逆回転させてトルクを打ち消すので尾部のローターは不要になります。なお、試作機が飛行に成功しただけでよしとするのなら、ナチ・ドイツがすでに作っていたはずです)。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「XHJD-1型ヘリコプター」)

アメリカにいた期間、Zakhartchenkoは多くの飛行機、飛行機部品、各種誘導弾の設計補助や研究開発を行った。これにはZAUM-N-Z巡航ミサイルが含まれる。1956年、彼はU.S. Navy Distinguished Civilian Service Awardを獲得した。

1987年、Zakhartchenkoは華盛で急死した(頑住吉注:華盛は台湾ではなく本土です。どういういきさつがあったんでしょうか)。

一方研駆一機研究開発の責任者鄒文燿は抗日戦終結後、天文と易理の研究に力を尽くし、有名な命相学の大家となった。別名「活歯居士」、時には「命聖」と呼ばれた。1940〜60年代には台湾で活躍し、台湾省台北市人生性型学社(現社団法人中華民国星相学会)を創立した。日本の五行学を根拠にこの研究所は「五行学歴史年表:中国篇」を編纂した。鄒文燿の「人生性命学研究所」の創立と「子平命学考証」および「時空制命書」の完成はいずれも中国の五行学史上の重大事件である。

抗日戦の期間、鄒文燿には「航空発動機学」などの著書があり、一方彼は命相学方面でもまた著作がはなはだ多かった。これには「子平命学要訣」、「子平命学考証」、「命学真源考証」、「徐大升命学考証」、「相学真源考証」、「麻衣相法考証」、「柳庄相法考証」、「孔子五十而知天命考証」、「歴代五徳承運之説法と作法」、「命学辞典」、「相学辞典」、「時空制命書」等の本がある。

鄒文燿は1979年に死去した。享年93歳。

韶関飛行機製造工場跡地は、記録によれば広東韶関南門外左街に所在するに違いなく、今ではすでに韶関市中山公園が作られ、市民たちの日常のレジャー、娯楽の場となっている。常に子供たちの嬉しそうに遊ぶ姿があり、時には鳩もいたりする。半世紀余り前にここにいた人たちは、自分たちの両手を使って日寇より先進的な戦闘機を製造し、敵を国外に駆逐し得ることを希望したのである。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「今は亡き航空史専門家FGZ氏が1980年代に台北の露天で見つけた「研駆一」(XP-1)国産試作型前進翼戦闘機の模型」 続いて2枚目。「インターネットより」)

追記

中国の前進翼戦闘機である研駆一の研究開発開始の2年後、つまり1944年、ドイツも類似の単発牽引式正常レイアウトの前進翼戦闘機の研究開発を開始した。‥‥ハインケルHe P.1076である。

1944年末、ドイツ航空部は高空性能が特に優れた迎撃機を必要としていた。ハインケルは直ちにこの任務を引き受け、He P.1076と名付け、Siegfried Guentherが具体的な開発作業の責任を負った。彼は戦争終結後ソ連のミグ設計局の重要な設計人員の1人となり、ミグ-15は彼の手によるものである。

ハインケルHe P.1076の機体は基本的にHe.100を基礎としており、細部にいくつかの改良を行ったに過ぎなかった。改良には、高空性能向上のための前進翼レイアウトの採用、翼面積拡大が含まれた。同時に高空作戦に適合させるため、コックピットも体積がより小さい、ただし完全に密封された増圧コックピットに改められた。バブルキャノピーは片側に開くよう改められた。降着装置は翼の外側に向かって収納されるよう改められた。同時に翼面冷却システムが新規採用され、武装が非常に大きく強化された。この機の最大速度は人を驚かせる855km/hに達し得ると事前計算されていた。

だがこのプロジェクトは戦争終結に至っても真に完成しなかった。だが1945年半ばになり、Siegfried Guenther博士はアメリカ人の要求のもとにこの設計のフルセットの図面を完成させた。戦後アメリカはP-51を基礎にした単発前進翼戦闘機を改造した。だが後にこの計画は放棄された。歴史上真に完成し実際に製造され、かつ試験飛行が行われた単発ピストンエンジン牽引式正常レイアウトの前進翼戦闘機として現在知られているものは、中国の研駆一だけである(頑住吉注:検索したところ、戦闘機ではありませんがMBB HFB320ハンザというビジネスジェット機は珍しく実用化された前進翼機だそうです。初飛行は1964年で、ただし生産数はたった47機だったそうですが。後退翼機はいくらでもありますけど実用化された前進翼機はこれくらいのようで、想像以上に難しい技術のようです。なお、中島飛行機の戦闘機の多くは翼の前縁が一直線で後縁が前進した準前進翼的なデザインになっています)。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「前進翼P-51の模型」 よく見ると気づきますが、これ単に前進翼にしてみましたというだけでなく、胴体内にジェットエンジンを収納した複合動力機になるはずでした)

「研駆一」の主要技術データ

全長:8.72m

全幅:12.10m

最大離陸重量:2,930s

最大速度:580km/h

航続距離:1,410km

エンジン効率:Wright Cyclone SGR-1820 710馬力

乗員:1人


 日本の航空業界も外国製航空機の輸入に始まり、外国から技術者を招いて設計を担当させていた時期がありました。川崎で多くの設計を行ったリヒャルト フォークト博士が最も有名ですが、川崎にもフォークトが設計途中に帰国してしまい、後に飛燕を設計する土井武夫技師が引き継いだキ5という試作戦闘機がありました。後に優れた設計を行った土井技師ですが、当時はまだ経験不足だったようで、安定性不良などの理由で不採用になっています。日本人の感覚ではこの飛行機は純国産とは呼べないと思われますが、中国には本当に純国産と呼び得る戦闘機がなかったためか、「研駆一」は非常に思い入れのある(筆者が初めて実機写真を見たとき涙が止まらなかったと語るほど)飛行機のようです。どうもCGや模型は唯一残っている実機写真よりカッコよく、近代的にアレンジされてしまっているような印象も受けます。

 「そもそも純国産とは言えないでしょ」以外にも突っ込みどころはたくさんあります。「戦闘機設計で実績のない設計者が航空技術の遅れた中国で作るのに何でこんなラジカルな形式にしたの」とか、「後退翼とか前進翼は基本的に高速飛行のためのもの。580km/hしか出ない飛行機に何のために前進翼を採用したの」とか、「1945年1月初飛行の戦闘機のエンジンが710馬力?」とか(戦闘機のエンジンの馬力がこのくらいだったのは1930年代前半ごろのことです)、「710馬力じゃ580km/hも出ないでしょ」とか、「事故で死人が出てから研究機関に設計の鑑定を依頼するくらいなら初めからやっときゃ貴重な熟練パイロットを死なさずにすんだはずでしょ」とか、「1回の事故で完全に中止したらテストパイロットの死は無駄。何故尾翼面積を拡大するとか改良設計しなかったの」とかですな。しかし国土の多くを占領されて多くの制約があった当時、これだけやったガッツは確かに評価せざるを得ないでしょう。

 重量軽減のために木製構造を選択したような記述がありますが、日本も戦争末期にアルミ資源の欠乏から木製機を試作したものの重量が逆に過大になって生産は断念されています。ドイツも接着剤の不良で木製機の開発には失敗しており、これも決して簡単な技術ではなかったようです。

 開発担当者は英雄的なパイロットを死なせてしまった自責の念からトンデモ世界に走ったのかと思いましたが、どうも最初からそういう人だったようですね。










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