朝鮮戦争停戦・捕虜問題をめぐる毛沢東、金日成、スターリンそれぞれの見解

 以前「朝鮮戦争における米軍捕虜」という「歴史秘話」ものの記事を紹介しました。あの記事は現場の人間レベルから見た話でした。今回紹介する記事は似たテーマですが、主役は毛沢東、金日成、スターリンの3人です。

http://military.china.com/history4/62/20130507/17818012.html


金日成義勇軍捕虜を見る:政治的に信頼できず 彼らは放棄すべき

朝鮮戦争の期間、中朝上層部の間にはイデオロギーを超越した誠意と信頼が欠けており、結果として彼らの同盟および協力に困難をもたらした。

朝鮮戦争の停戦時期に関し、中朝双方にはずっと論争が絶えなかったようである。

沈志華:朝鮮戦争は3年経過したが、1951年7月から戦争集結(頑住吉注:1953年7月)まで、戦争と停戦が交互に続き、半分余りの時間は停戦の談判の中で過ぎた。ここ2年余りの時間の中で、中朝双方は停戦時期の問題でも食い違いが絶えず、論争は止まなかった。(頑住吉注:何の説明もなく出てきてますが沈志華というのは中ソ関係史、国際冷戦史専門家で、この文の筆者です)

第5次戦役以後、中国サイドはついに戦争を継続していくことは難しいと感じるに至った。1951年5月下旬、毛沢東は中国共産党中央召集会議を主宰し、「談判しながら戦争を行い、談判で問題の解決を勝ち取る」との方針を取ることを決定した。金日成は依然功を焦り、戦争を長期化させる心づもりに反対し、中朝連合軍が6月末から7月中旬にもう1度総攻撃を発動するよう要求した。毛沢東は金日成を6月3日に北京に招いて協議を行うほかなかった。協議を経て、金日成は6月から7月に進攻を発動しないことに同意したが、やはり準備を経て8月に反攻を発動する準備をするよう要求した。毛沢東はやむなく、スターリンに金日成と高崗(頑住吉注:中国の政治家でスターリンに近く、1953年スターリンの死後失脚して自殺)に接見するよう要求するほかなかった。同時にソ連で療養中の林彪(頑住吉注:ずっと後のことですが1971年に毛沢東と対立し、飛行機でソ連に亡命を図る途中墜落死)も会談に参加するよう希望した。スターリンの同意を経て、6月10日に金日成と高崗はソ連が派遣した専用機に乗ってモスクワへ向かった。スターリンは詳細に中国サイドの停戦談判に関する意見を尋ねた後、同意を表明し、かつ毛沢東に電話で回答した。「私は今停戦するのは良いことだと考える。」 金日成はもはや自分の意見を堅持することができず、朝鮮戦争はこれより談判しながら戦争する段階に入った。

ソ連大使ラズワイェフの見たところでは、「北朝鮮の指導者は停戦談判に対しやや警戒心があるようだ。彼らはそれを明らかにしたり直接表現したりはしなかったものの。」ということだった。金日成は北朝鮮に戻った後、非常に感情的に気落ちし、ソ連の国連代表マリクが6月23日に停戦談判を呼びかける発言をしたのは、「中国が停戦、そして北朝鮮援助という負担からの離脱の達成を極力図る、最もはっきりした現れだ」と考え、甚だしきに至ってはマリクの声明発表後何日かの時間内、北朝鮮の新聞界およびその他の宣伝機関(頑住吉注:中国では新聞は宣伝機関なんですね)は全てこれに対し、「詳細な説明を行わず、いかなる評論の文章も発表しない」という対応だった。北朝鮮の指導者も後には「停戦協定締結の軍事および政治上の必要性」を認識したが、彼らは中国代表団は停戦協定を達成し得るためアメリカ人に対し過分な寛容さを示しまた譲歩していると考え、同時に中国人が談判の過程で適時に、充分に北朝鮮代表の意見を聞き取らないことにも恨み事を言った。特に7月27日に毛沢東が金日成に通知し、もしアメリカ人が現有の前線を境界線とする立場を堅持したら、アメリカ人に対し譲歩してもよい、とした時は、金日成は極めて大きな不満を表明した。彼は直ちに回答し、「この種の譲歩はあり得ない」とした。何故ならこれは北朝鮮に対する「深刻な政治的打撃」を意味するから、というのだった。金日成は朴憲永(頑住吉注:北朝鮮の政治家ですが後に金日成によって粛清される)に対し、「私はこの種の譲歩をするくらいならばむしろ中国人の援助なしで戦争を継続したい。」とさえ言った。後にアメリカ代表が境界線問題で過分な要求を提出し、かつ談判中に中立区でで挑発を行ったため、中国サイドは強硬な立場を示し、やっと北朝鮮人の感情はやや好転した。だが、ラズワイェフは「最近数ヶ月、北朝鮮人の中国に対する態度は明らかに冷淡になっており、北朝鮮人はよりソ連に頼る方針を固めている。」ということに注意を向けた。

私はあなたが、1952年になれば中朝双方は停戦談判に対する態度がまた一致に戻ると言ったが、双方の立場は依然対立するばかりだ。(頑住吉注:誰の言ったことか分かりません)

沈志華:確かに中朝双方の談判の態度は間もなく自己の対立面に至る。1952年後半、朝鮮の戦場において双方は基本的に戦力のバランスを取得するのと同時に、板門店の停戦談判は逆に膠着状態に陥り、問題は意外にも毛沢東が当初最も解決が容易だと考えた捕虜問題で膠着した。この時、毛沢東は戦争は継続し、和平談判問題上は決して譲歩できない、と主張したが、北朝鮮サイドは逆にアメリカの停戦条件を受け入れ、できる限り早く停戦談判協議を成立させることを希望した。スターリンはソ連とアメリカの対抗というグローバルな戦略から出発して、再度毛沢東を支持した。

1952年2月、板門店での談判は協議を成立させた。すなわち停戦協議締結後90日以内に関係国の政治会議を召集して朝鮮問題を解決する、というものである。だがその他の議題、特に捕虜問題にはまだ争いがあった。この時、北朝鮮サイドはできる限り早く談判を終わらせるよう主張し、金日成はさらに直接毛沢東に対し「戦争は継続したくない」との意見を表明した。ラズワイェフはモスクワに対し次のように報告した。「金日成は南日(頑住吉注:朝鮮人民軍代表として休戦協定書に署名した人物。ずっと後に交通事故死し謀殺説あり)に談判が困難な状況に陥った原因を討論する時、次のような見方を示した。停戦協定締結を提案し、あらゆる未解決の問題は政治会議の場に移して研究すべきである。金日成は談判の遅延は不利だと考えている。何故ならアメリカ空軍は北朝鮮に悲惨、重大な損失をもたらし続けているからだ。彼は捕虜問題で論争を続けることに何の合理性も見出してはいない。何故ならこうした論争がより大きな損失をもたらしつつあるからだ。」 金日成はさらに次のように考えた。中国の義勇軍の大多数の捕虜は以前は蒋介石軍の人で、政治的に信頼できず、このため「彼らのために闘争するのには特別な意義はない。」 「金日成は南日に中国人にこの問題での態度をはっきりさせるよう指示し、かつ李克農(頑住吉注:中華人民共和国外交部副部長、人民解放軍副総参謀長などを歴任)の名義で捕虜問題での譲歩をするよう提案した。」 ラズワイェフはさらに、中国の指導者は「大量のソ連軍事装備の供給が朝鮮戦争の終結と共に減少あるいは中断することを心配しており」、かつあわてて問題を解決することは逆に中朝サイドの戦力を弱めることにしかならない、と考えている、と報告した。

5月2日、朝鮮停戦談判の5項目の議事日程のうち4項目はすでに全部協議が成立したが、第4項目目の議事日程、すなわち捕虜の扱いの問題で、アメリカは「帰りたい者は返す」の原則を提示し、一方中国サイドは全部返すとの原則を堅持し、双方の談判はこれにより膠着に陥った。北朝鮮指導者は元々アメリカ人との停戦協定締結が5月より遅くならないことを望み、かつこれに依拠して1952年後半の経済業務や政治業務を計画手配しており、談判に捕虜問題ゆえに争いが生じ遅延するとは思わず、「このことは北朝鮮指導者に非常に大きな失望を感じさせた。金日成は中国の同志に捕虜問題で譲歩し、停戦協定の締結を勝ち取るよう提案した。」 明らかに北朝鮮サイドの意見に配慮するため、7月3日中朝代表団は次のような新たな提案を提出した。北朝鮮籍の捕虜以外は依然全部返す必要があるが、北朝鮮の捕虜は全部返す必要はないことに同意する。「すなわちその居住地が敵サイドにある北朝鮮籍捕虜は敵サイドの領土に返すべきである。召集に応じて入隊する前、捕虜を獲得したサイドの領土に居住していた北朝鮮籍捕虜は、全部元の場所に留まり、かつ釈放され家に帰されるべきである。」 だがアメリカサイドは中朝サイドの再三の譲歩に配慮しなかった(もはや全部の捕虜人員を返すことを堅持しないという譲歩も含めて)。そして7月13日、全部で83,000人(北朝鮮人民軍捕虜人員80%、中国義勇軍捕虜人員32%を含む)(頑住吉注:計算が合わないですが原文通りです)を返すという基本的数字を提示し、かつこれは最終的で、断固たる、変えられない方案だと言明した。中朝サイドは最後の選択をすることを迫られた。

(頑住吉注:これより2ページ目)

これに対し、中国指導者の態度は非常にきっぱりしていた。毛沢東は7月15日金日成に電話した中で次のように語った。敵の狂気じみたみだりな爆撃という軍事圧力の前で、その挑発的で罠の性質を持つ、しかも決して真の譲歩ではない方案を受け入れることは、中朝サイドにとって政治的、軍事的いずれにも極めて不利だ。戦争は継続する。確かに朝鮮人民と義勇軍にさらなる一歩の損失がもたらされるが、中朝人民も戦争の中で戦うほど強くなっており、全世界の平和を愛好する人民が侵略戦争に反対することを鼓舞し、かつ全世界の平和を守る運動の発展を押し動かしている。戦争はアメリカの主要戦力を東方において継続して損失に遭う状況に陥らせており、しかもソ連の建設は各国の人民革命運動の発展を強化し、影響を与え、このため世界大戦の勃発も遅らされている。毛沢東は、中国人民は可能なこと一切を尽くして朝鮮人民の困難解決を助けたい、と保証した。要するに、「現時点の形勢下で、敵のこの方案を受け入れることは必然的に相手を意気盛んにし、自らの威風を滅することになる。」というのである。最終的に毛沢東は意図をもって金日成に中国サイドの見方と方針を教え、スターリンの意見を求めた後、再び平壌に伝えた。同日、毛沢東はスターリンに電話し、中国は「敵のこの種の挑発的で罠の性質を持った方案」を断固拒絶すると主張し、かつ戦争の拡大に備えるとした。毛沢東はさらに、「金日成同志はこれに対し異なる見方を持っている」と通報した。金日成は7月16日に毛沢東への回答の電話の中で、毛沢東の現在の情勢に対する分析に賛同し、かつ中国が全力で援助を提供する承諾に感謝した。だが同じ日にスターリンにあてた電報の中で、金日成は逆に、消極的防御方針のため、爆撃は北朝鮮の都市と一般民に極めて大きな損失をもたらしており、この種の状況下で中国は敵サイドの条件受け入れを拒絶している、と恨み言を書いていた。彼は毛沢東の意見に同意を表明したが、やはりできる限り早い停戦を希望していたのである。「我々は断固としてできる限り早い停戦協定締結を勝ち取り、停戦とジュネーブ条約に基づくあらゆる捕虜の交換を実現しなければならない。これらの要求はあらゆる平和を愛好する人民の支持を得、かつ我々を受け身の局面から脱出させることになる。」

捕虜問題、この見たところそんなに大きくない問題が意外にも双方の談判の解決困難な問題となった。

沈志華:中朝の間には談判のなかで捕虜問題に関し異なる立場があり、政治的考慮の他、さらにより実際的な原因があった。すなわち双方の捕虜政策は全く異なっていたのである。国内の戦争の伝統的やり方の影響を受け、また国際闘争の経験が欠乏していたため、中国サイドは最初から捕虜拘留を考えたことがなかった。1950年11月17日、彭徳懐(頑住吉注:義勇軍司令官。後文化大革命の混乱の中悲惨な死を遂げる)は軍事委員会に電話し、戦役発起前に100名の捕虜を釈放し、もって敵の戦意を動揺させる計画であるとした。18日に毛沢東は電話で回答し、「一定数の捕虜の釈放はごく正しい。今後捕虜を随時一定数に分けて釈放すべきことに対し、指示を請う必要はない。」 こうして、中国サイドが掌握した捕虜は即相応に減少した。また、1951年11月、中朝は捕虜釈放業務の便のため、以後韓国捕虜は北朝鮮人民軍に渡して管理させ、中国義勇軍はその他の国の捕虜のみ管理する、として合意に達した。こうして、中国サイドが実際に管理する捕虜人員はごく限られ、いくらの談判の元手もなく、これは中国が「全部返す」と主張した原因の1つでもあるようだ。一方北朝鮮サイドは戦後の経済建設に必要な労働力という考慮から、密かに大量の捕虜を拘留していた。ソ連大使の任を引き継いだスズダレフは次のように報告した。「北朝鮮の同志は大量の韓国の捕虜を拘留し、彼らに北朝鮮で各種の負担の大きい体力労働に従事させるのが比較的よく、彼らが自分の故郷に帰ることを要求する願いを考慮する必要はないと考えている。」 (頑住吉注:基本的にこういう考えの人たちなんですね)

問題は最終的にはやはりモスクワで解決された。1952年7月15日、毛沢東はスターリンに、アメリカサイドが提出した方案は、「両者の比率が極めて非対称で、敵はこれにより朝中人民の戦闘に関する団結に波風を立てようと企図している」、「敵の圧力の下に屈服するのは当方に極めて不利である。」と告げ、かつもし談判が決裂するとしても絶対譲歩しないと表明した。「何故ならこの問題は政治の問題であって、朝中両国に対してだけでなく、革命陣営全体に影響する。」 翌日スターリンは電話で回答し、「あなたたちの平和に関する談判で取る立場は完全に正しい。」とした。

周恩来はその後8月にソ連を訪れ、かつスターリンと何度もの会談を行った。途中で駆けつけた金日成、朴憲永、彭徳懐は後期の会談に参加した。中国の経済建設問題を討論した他、会談の重点は以後の戦争の中で取るべき方針の確定に置かれた。周恩来は戦場における中朝の戦力の状況を説明し、「現在我々は充分に把握しており、より長時間の作戦が行えるし、しかも堅固なトンネル構築物を建立済みであるため、爆撃にも耐えられる。」 捕虜問題に関して、スターリンはまず次のように指摘した。アメリカ人は自分の主張通りに捕虜問題を解決したがっている。だが国際法によれば、交戦各方は犯罪者以外のあらゆる捕虜を返すことが必須である。スターリンは、毛沢東は捕虜問題をどう考えているのか問うた。すなわち譲歩か、それとも自分の主張の堅持か、と。周恩来は簡単にこの問題において中朝間に存在する食い違いを説明し、かつ毛沢東の「全部の捕虜を返すことの堅持が必須」との見方を表明した。周恩来は言った。「北朝鮮人は戦争の継続は不利だと考えている。何故なら毎日の損失は返すことに争いのある捕虜の人数を超えるだろうからだ。また停戦はアメリカにとって不利だ、と。 だが毛沢東は、戦争継続は我々に有利だと考えている。何故ならこの乱打はアメリカの第三次世界大戦の準備だからだ。」 スターリンは直ちに肯定して、「毛沢東が正しい。この戦争はアメリカの元気を傷つけた。北朝鮮人は戦争中に犠牲に遭った以外、いかなるものも負けにより失ってはいない。アメリカは、この戦争は彼らにとって不利であり、終わらせることが必須だと意識するに至っている。特に彼らが依然ソ連軍が中国に駐在していると知った後は。必要なのは意志の力と耐える心である。」 スターリンはさらに1つ、より中国指導者の神経に触れ得る問題を提出した。彼は周恩来に、「アメリカに対しては強硬が必須だ。中国の同志は、もしアメリカがこの戦争で負けなかったら、中国は永遠に台湾を回復できないと理解することが必須である。」と指摘したのである。

平壌に対する説得工作は、当然やはりモスクワが前面に出る必要があった。9月4日の金日成との会談時、スターリンは朝中の間に談判問題で何らかの食い違いがあるか否かと問うた。金日成は次のように回答した。「我々の間には原則上の食い違いは存在しない。我々は中国の同志が提出したあの方案に同意する。だが北朝鮮人民の現在置かれている深刻な状況ゆえに、我々はできる限り早い停戦協定締結をより望む。」 スターリンは直ちに言った。「我々はここですでに中国代表団とこの問題を討論し、かつ次のような提案をした。アメリカ人の提出した捕虜問題に関する条件には同意せず、自らの条件を堅持する。」、「もしアメリカ人が20%の中朝捕虜を返したくないのなら、〜彼らの20%の捕虜も返せない。彼らがもはや中朝の捕虜を拘留しなくなるまでずっとだ。」 スターリンは最後に肯定的な語気でこの話題を締めくくった。「これこそが我々のこの問題に対する見方だ。」 1952年11月10日、ソ連代表は国連で朝鮮問題解決の新提案を提出し、24日にさらに補充の提案を提出した。28日、周恩来は中国政府を代表して声明を発表し、ソ連の提案に完全に賛同した。すなわちまず停戦し、さらに全部の捕虜を返す問題を解決しよう、という提案である。この後スターリンが死去(頑住吉注:1953年3月)するまで、金日成はもはや直ちに停戦の主張をすることはなく、いかにしてより多くソ連の援助物資を取得するかの問題に関心を注いだ。だが、戦争が間もなく終わろうという時、中朝間に直ちに停戦協定を締結するか否かの問題でまた食い違いが発生した。これは戦争の期間最後の論争でもあった。1953年3月以後(頑住吉注:すなわちスターリン死後)、ソ連の対外政策および戦争の方針に変化が発生し、この結果朝鮮停戦談判のプロセスが促進された。だが李承晩は停戦を望まず、しかも勝手に捕虜を釈放するやり方で協定締結をぶちこわした。このため、中国サイドはさらにもう一度戦役を発動し、これを利用してより良い停戦条件を勝ち取ることを主張した。だが北朝鮮サイドはすぐに停戦協定書に署名し、李承晩の捕虜釈放の行為は必ずしも追及しないよう要求した。彭徳懐は金日成の主張を理解せず、毛沢東の支持の下、自らの意志に基づいて1回比較的大規模な陣地突破戦を発動し、かつ成功を取得した。

(頑住吉注:これより3ページ目)

明らかに、停戦問題上金日成が考慮したのは北朝鮮の実際の利益だった。すなわち戦争に勝利する望みがない以上、現状維持の前提の下にできる限り早く戦争を終わらせ、経済建設に転じ、その朝鮮北方に対する統治を固めるというものである。一方毛沢東は、そのアジアの革命に対し負う指導者としての責任ゆえに、両陣営の間の対抗の全体的形勢に着眼し、社会主義陣営の東北アジアないしアジア全体の安全、利益に着眼することが必須だった。こうだからこそ、中朝間に食い違いが発生した時、毛沢東が繰り返しスターリンの支持を得たのである。

中朝同盟の中の衝突と食い違いに関しては、どちらが正しくてどちらが間違っていたのか語ることは非常に難しい。

沈志華:朝鮮戦争期間の中朝連盟の真実の状況に対する回顧と探索は、およそ以下のような結論を導き得る。

一、毛沢東は非常に困難な条件の下で派兵し北朝鮮入りしての作戦を決心した。これは中国共産党のソ連と社会主義陣営に対する忠誠を表し、同時に実際の意味で中国が負うアジアの革命の指導者たる責任も示した。これにより、中ソ同盟は堅固になり、毛沢東はスターリンの信任も得た。そこで、中国は戦争中往々にしてソ連の支持を得ることを主張したのである。

二、大規模で不断に持続する派遣軍の朝鮮入りにより、中国は非常に大きな程度上すでに中朝方面の戦争の戦略と策略に対する実際の主導権を掌握していた。スターリンは止むを得ず戦前におけるソ連の北朝鮮に対する完全コントロールを放棄した。一方中ソ二大大国一致団結の状況下で、北朝鮮は「恥を忍んで重責を担う」の服従の態度を取るしかなかった。

三、中朝間には食い違いや矛盾が発生したが、最終的にはいつも北朝鮮は中国の主張に従った。だが毛沢東の本意は決して北朝鮮の主権を侵犯し、北朝鮮の内政に干渉しようというのではなく、スターリンが戦前そうしたように北朝鮮に対するコントロールを追求したのでもなかった。その原因を追求すれば、一つは中朝関係が中ソ関係のように、社会主義国の関係の中の構造的病弊を反映していたことである。すなわち、国際共産運動の中で党同士の関係は本質上一種の各党の独立した地位を排斥した指導と被指導の関係だったのである。もう一つは、毛沢東は中国の古書を熟読し、彼の頭脳の中では意識的か無意識的か「中央王朝」の理念が受け入れられていた。中国と朝鮮の間には歴史上長期にわたり宗藩関係が保持され、その特徴の一つは、宗主国は決して外藩の主権を剥奪してはならず、その臣下としての服従と追随を要求するだけだ、というものだったのである。

四、金日成には一種の強烈な民族独立意識があった。また北朝鮮建設には彼個人の唯一無二の統治者たる地位を必要とした。朝鮮労働党内部には派閥が林立し、このうち脅威を形成したのは主に南方派(頑住吉注:途中出てきた朴憲永が属す)、モスクワ派、延安派だった。特に戦争という環境の中で、延安派メンバーの多くは軍事を指導する幹部で、かつ朝鮮入りして作戦を行う中国軍と密接な関係を保持していた。これは疑いなく金日成に不安を感じさせた。この種の心理的障壁、さらに加えて中国の軍事指導者が時々示した北朝鮮軍の作戦能力に対する軽視は、中朝上層部の間にイデオロギーを超越した誠意と信頼を欠乏させ、したがって彼らの同盟および協力に困難をもたらし、同時に戦後の中朝関係の発展にも影を落としたのである。 (沈志華)


 歴史上のビッグネームによる、西側とは全く異なる意見の交換は非常に興味深かったです。それ以外の登場人物の非業の死を遂げる率の高さも東側の政治闘争の厳しさを示していますね。

















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