再び中国による三八式歩兵銃評

 同じテーマの記事は何度か紹介しているはずですが久しぶりですね。

https://mil.news.sina.com.cn/jssd/2019-01-16/doc-ihqfskcn7516123.shtml


三八大蓋の威力は本当にごく小さいのか? 1000m離れてさえ模擬人体標的を撃ち抜ける

日本が1907年から第二次世界大戦終結まで使用した三八式小銃に対し、中国人民はより好んで三八大蓋と呼ぶ。何故ならこの小銃はボルトのところにボルト共に移動できる防塵カバーがあるがゆえにその名を得、抗日神劇の常連客で、三八大蓋はカギとなる重要な時に主役を撃っても死なせずまた主役に敵を1発で殺させる非常に困難な任務を背負っており、人々のそれに対する印象も威力が小さく、正確度が高く、射程が長いなどの特徴がある傾向で、当然「急所にさえ命中されなければ貫通銃創で、傷の手当てに非常に良い」「鬼子が八路に命中弾を与えても、八路は1日経てばもう出てきて鬼子を撃つ」などの説もある。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「鹵獲した三八大蓋を肩に担ぐ中国の兵士(画像のソース:ネット)」)

だが事実としては、三八大蓋とコンビになる日本の有坂弾薬の殺傷力は実は非常に大きく、近距離作戦では甚だしきに至っては中国軍が装備する7.92mmx57弾薬に負けなかった。これは有坂弾薬の独特の設計と関係があり、まず有坂弾薬は銅・亜鉛ジャケットの鉛芯弾に属し、弾丸が人体に撃ち込まれた後、鉛芯は迅速に脱落して負傷者を貫通するが、銅・亜鉛ジャケットはそれにもかかわらず負傷者の体内で回転、破裂し、かつ激烈な変形を発生させ、甚だしきに至っては一部は釣り針のような形状に曲がり、負傷者に極めて大きな苦痛をもたらした。(頑住吉注:画像を見ると「釣り針」状にひん曲がっているのは鉛コアの方みたいですね)

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「左側はM1ガーランドの弾薬、右側は三八大蓋が使用する有坂弾薬」)

「兵工史料」の記載によれば、中国方面は三八大蓋と有坂弾薬に対し一連の試験を行い、オーダーメイドの発泡スチロール板に対する試験の中で、三八大蓋は500mのところと1000mのところの2回の試験の結果が驚くほど似ており、いずれも発泡スチロール板内部に巨大な空洞を作り、何故ならこの100cmx50cmx30cmの板が模したのは人体だったからで、このため三八大蓋の人体に対する傷害能力は考えれば分かる。一方漢陽造の500m標的には決して大きくない空洞だけあり、1000m標的には甚だしきに至っては空洞の存在がなかった。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「有坂弾は人体進入後に変形が発生するだろう(画像のソース:ネット)」)

アジアの兵士の体型に適応するため、中正式はストックの長さを短縮し、一方日本人は弾薬の装薬量を直接減少した。弾薬の貫通能力は低下したが、それにもかかわらず小銃の後座力は大幅に減少し、兵士がより容易に小銃を制御できるのようにさせた。第二次世界大戦中日本は決して中国軍のように小銃弾を使用して装甲目標を攻撃する必要はなく、このため弾丸の貫通能力が下げられた欠点を日本に受け入れさせることができ、しかも減少した装薬でさらにより多くの弾薬を製造できた。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「有坂弾薬の断面図(画像のソース:ネット)」 「有坂弾薬のクリップ(画像のソース:ネット)」)

真に人に興味深げに語らせるのは実は決して三八大蓋の威力ではなく、三八大蓋の正確度である。三八大蓋は第二次世界大戦中最長の小銃で、日本人は中国の戦場が電撃戦や突撃の条件を決して持たないとはっきり認識していた。南北間の巨大な地理的環境の隔たりも、中国軍の立ち後れた装備も、この戦争を塹壕戦にさせ、三八大蓋はまさに塹壕戦のために生まれたものだった。三八大蓋は全長1.28m、照尺の射程は2400mにも達し、厳格な訓練を経た日本の兵士は300mのところで個人目標を射殺でき、700mのところで集群目標が射殺でき、甚だしきに至っては「三槍日軍」の呼び名があった。意味はあなたが1発撃てば日本人は攻撃する人がいるのに気づき、第2発目であなたの位置をおおよそ事前判断し、3発目でもうあなたの位置を探し出し、もし機動しなければすぐにあなたが照準した日本軍に射殺されるだろう、だった。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「三八大蓋を持つ日本兵(画像のソース:ネット)」)

武士道に洗脳された軍隊として、日本軍は同様に兵士のバヨネット戦能力に重点を置き、30式バヨネットを使用すると三八大蓋の長さは驚異的な1.7mに達し得、正真正銘の「三八式長矛」と言うことができた。一方中国軍が装備する中正式はカービンの一種に属し、長さは1mちょっとしかなく、日本とバヨネット戦をするためにはより長いバヨネットを使用するしかなかったが、バヨネットを製造する技術は大刀に比べはるかに煩瑣で、特に長さを増やすとバヨネットにより容易に断裂が発生し、中国軍がバヨネット戦を行う時に劣勢に立たされる結果をもたらした。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「バヨネット戦の訓練を行う日本兵(画像のソース:ネット)」 「中正式のバヨネットの長さは51cm前後で、一方日本の30式バヨネットは40cmしかなかったが、小銃の長さの隔たりがあまりにも大きかった。(画像のソース:ネット)」 「建国の大業績の中で、白崇禧が使用したのが他ならぬ中正式だった(画像のソース:ネット)」)

三八大蓋に対しては、我々の先輩たちはごく簡単に「一槍両眼」(頑住吉注:きれいな貫通銃創で小さな穴が前後にできるだけ)と談笑したわけではなく、彼らは血と火の間をのたうち回り、死の瀬戸際を徘徊し、傷の痛みの中でもがいていたのであって、彼らのこうむった危険は誤りに誤りを重ねた話が伝わった今の人に理解できるものにはほど遠く、安っぽい抗日神劇の制作で表現できるものでもない。ある人は抗日劇で最初に見るのは襟だ、襟がごくごくきれいな演者は、我々の先輩たちが奮闘し、生死をかけた戦いで退かなかった歳月を再現することは全くできない、と語る。(作者の署名:軍武次位面 皮島総兵)


 旧日本陸軍の第一の仮想敵はほぼ常にソ連で、別に三八式も対中国戦のために作られたわけではないですし、開発された時代にはこのくらい長いのは当たり前で、更新が遅れたに過ぎないわけですけどね。













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