三八式小銃から発射された6.5mm弾薬の威力は?

 旧日本軍、中国軍の小火器に関する記述です。

http://war.163.com/14/0703/14/A08251QA00014J0G.html


日本の三八式小銃が人体を撃つと

本当に小さな穴を開けるだけなのか


導入の言葉:第二次大戦の中国の戦場は、正面の戦場に山地、網の目状の河川や運河などや田畑が密に分布していたため、北方の戦場は巨大なゲリラ戦区域で、このため中国の戦場では小火器が非常に重要な武器となった。

抗日戦時の中国軍には百種以上の小銃があった 後方勤務の災難

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「抗日戦勃発時、精鋭の第36師団は4,800挺の小銃を装備していたが、1944年になると1,700挺の小銃しかなく、実力の低下は非常に大きかったが、依然主力として中国遠征軍に参加した。」)

中国の軍隊では小銃、機関が主要な武器 大砲は非常に少なかった

第二次大戦の中国の戦場は、正面の戦場に山地、網の目状の河川や運河などや田畑が密に分布していたため、北方の戦場は巨大なゲリラ戦区域で、このため中国の戦場では小火器が非常に重要な武器となり、戦闘の形式も小火器の近距離での撃ち合いが主要な形式だった。神様が日本に送ったいくつかの虎式戦車師団も中国の湖南湖北の山地、網の目状の水路や華北の追跡駆逐遊撃隊では全く腕を振るう場所がなかった。

周知のように1930〜40年代の中国は全体的な社会が農村経済にあるという相対的に立ち後れた国で、点々とした取るに足りない工業的実力しかなく、中国の兵士の抗日戦における最も重要な武器は小銃と機関銃であり、軍直属の火砲はせいぜい迫撃砲で、極めて少数の大型榴弾砲は中国軍の中では全て戦略武器に属し、あえて軽易に動員せず、砲弾も発射したがらなかった。

中国軍の最重要の武器である小銃は、中国軍内で種々雑多、各種各様というべきだった。6.5mm、7.92mm、6.8mm、7.65mm、7.62mm等々の各種口径、先端の尖った弾、丸い弾といった各種弾薬タイプ、オリジナル弾薬、リロード弾薬と、あるべきものはことごとくあった。同一機種の銃器であっても各地で生産されればやはり品質の差がまちまちで、さらに加えて各地の軍閥が自身の状況を根拠にして生産された銃器に対し改造を行い、もし同一機種の銃器であっても、各地で生産された部品や弾薬方面で共用できない局面もあり、もし細分化を行えば、小銃だけで国民党軍にもう100以上の品種があり、1機種の小銃にもう10余りの共用できない変種がある可能性があった。このため具体的に中国軍の小銃の性能を語ろうとしても、方法がないのである。

中国軍には小銃が欠乏 清朝の小銃も淘汰されず

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「1944年9月までに、アメリカが援助した武器で内地の400万の中国軍に支給された小銃は1,000挺しかなく、エースである第74軍がアメリカの兵器を受領に行っても、2挺のサブマシンガンしか得られず、軍長の警護員に装備するにも不充分だった。」)

漢陽造の構造は簡単で、文盲の兵士の使用に適した

中国軍で使用されること最多の小銃はきっと総数が100万挺を超える漢陽造と中正式小銃だろう。1つはドイツの委員会1888式からコピー製造され、1つはドイツのモーゼル1924式からコピー生産された。抗日戦の時期は戦争が緊急で、工場も生産数だけを勝ち取り、さらに加えて質の優れた鋼材が欠乏し、この時期に生産された漢陽造小銃の品質が決して高くないという結果をもたらし、また漢陽造が使用する先端の丸い弾も世界的にはとっくに時代遅れだった。この初速が非常に低い先端の丸い弾は射程でも威力でも、先端の尖った弾に比べずっと低かった。漢陽造のメリットは全長が1.25mで、バヨネットの長さが40cm近く、短い槍のように白兵戦を行うのに非常に適することだった(ただバヨネットの生産量が非常に少なく、止むを得ず各種雑ブランドの質の劣ったバヨネットを装着した)。この小銃は簡単、実用的で、中国軍の文盲の兵士の使用に比較的適した。

ここで述べたのは新式の漢陽造で、旧式の漢陽造に関しては、人は老套筒のニックネームを与えた。いずれも使用されること少なくとも20年余り以上の古い銃だった。ライフリングの磨耗による損傷が深刻で、弾丸は発射されると200mでもう動揺を開始した。望むことのできる正確射撃距離も何十mというレベルだった。このことは戦闘中特別に不利で、相手だけがこちらを撃つことができ、それにもかかわらずこちらはやり返すチャンスを有し難かった。このような小銃は抗日戦の時期焼火棍と呼ばれた。

このような焼火棍は何故淘汰されなかったのか? 原因はごく簡単で、抗日戦勃発時中国軍には100万挺の小銃があったが、開戦から4年で55万挺の小銃を損失し、しかし中国の小銃年間生産数は8万挺前後しかなかったのである。だが軍の数はそれにもかかわらずこの4年で倍に拡大していた。この中のギャップは少なくとも100万単位である。焼火棍でも包丁に比べれば使いやすく、こうした焼火棍もずっと堂々と継続して中国正規軍に装備されたのである。

装備の補充が欠乏 精鋭の軍は戦えば戦うほど弱くなった

当時中国軍には特別精鋭のドイツ製兵器師団である第36師団があったことを我々は知っている。彼らは抗日戦が勃発したばかりの時、4,876挺の小銃、351挺の軽機関銃、76挺の重機関銃、24門の迫撃砲、16門の野砲を有していたが、7年の戦争を経て1944年の豫湘桂大会戦の時期になると、中国遠征軍の一員である第36師団には1,784挺の小銃、156挺の軽機関銃、48挺の重機関銃しかなくなり、山砲、野砲はゼロだった。抗日戦中、中国の戦場で何故すさまじい勢いの大反攻がなかったのかの原因はまさしくここにあった。中国軍は戦えば戦うほど強くなるのではなく、戦えば戦うほど弱くなったのである。最終的には全くのところ持ちこたえるのがやっとだった。

中正式小銃は中国軍主力部隊の象徴的武器で、威力が比較的大きく、精度がなかなかで、質が優良だった。だが問題は後座力が比較的大きいことだった。当時の中国の兵士は大多数が体格が痩せて弱く、実弾訓練が少なく、この種の後座力に対し比較的恐怖心を持った。しかもこの小銃は比較的短く、バヨネット戦に不適合だった。

中正式は威力がなかなかだったが、正確射撃距離は非常に短く、また兵士は厳格な射撃訓練を受けたことがなかった。このため日本軍との撃ち合いの時には非常に不利で、戦争後期になると大量のリロード弾薬が部隊入りし、中正式小銃の射撃精度の大幅低下をもたらした。戦闘中中国軍と日本軍の撃ち合いで、日本軍によって1対5、1対10の死傷者を出される戦闘ばかりだった。

チェコ式機銃は維持保護が簡便 マガジン装弾数は少なすぎ

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「日本軍は一般に歩兵砲と擲弾筒を使用して中国軍の軽、重機関銃陣地を打撃し、中国軍には対応する相応の武器が欠けており、ほとんど毎回必ず損失が悲惨、重大だった。画像は日本軍の歩兵砲陣地。」)

チェコ式はバレル交換ができたが、予備バレルはなかった

中国軍が第二次大戦で使用したことのある軽機関銃の種類も非常に雑多で、その中の核心たる主力はチェコ26式軽機関銃だった。チェコ式のメリットは製造が簡単で、維持保護が簡便で、故障が非常に少ないことで、僻地の農村から来たばかりの文盲の兵士にとって、銃器が故障を起こすことは最も頭の痛いことだった。しかもこの銃は使用環境適応能力が超越的に強く、寒冷な東北から猛暑の広東、大江南北まで、全て問題なかった。

チェコ式機関銃の中国軍での主要な使用方法は連続し絶え間ない3発バーストだった。1〜2挺のチェコ式軽機関銃が交代で長時間バースト射撃を行い日本軍を制圧した。甚だしきに至っては夜通し発砲し、日本軍の前進を防ぎ止めた。チェコ式の欠点は装弾数が少なすぎることで、20発しかなかった。一般にバースト6、7回でもうマガジン交換しなければならなかった。制圧性の射撃を行う方法はなく、チェコ式軽機関銃は実際上は自動小銃、例えばブローニング1918式に似ていたと言える。

チェコ式はバレル交換できたが、問題は中国軍にそんなに多くの交換できるバレルはないということだった。だがチェコ式は200〜300発の弾丸を撃つともう加熱し、弾丸が乱れて飛び威力が全くない状態をもたらした。日本軍は一般に中国軍のチェコ式機関銃の発砲によって、来たのがどんな部隊が判断した。もし交戦してすぐあちらの中国軍がもうチェコ式を使用して連続掃射したら、それはこの初心者部隊が恐れるに足りないことを説明していた。もし相手方の中国軍があわてず騒がずそれぞれの角度から交差するバースト射撃を行い、しかも不断に射撃位置を変換したら、真剣に対応する必要があった。来たのはきっと中国軍の精鋭部隊なのである。

ソ連式機関銃は重すぎ、猛暑の地域には不適合だった

中国軍はさらに800挺余りのフィンランドのM26軽機関銃を装備した。これはまさしく精度の王で、ソ連・フィンランド戦争の中で大いに威力を見せた。しかし中国の戦場に来ると、中国は砂嵐がひどいため、この精密な機関銃は故障の王に変じ、各種故障とジャムを起こした。

ソ連のトカレフ・マキシム機関銃は中国軍にも1,400挺あったが、この機関銃は空虚重量でもう26kgあり、弾薬やら何やらを加えると60kgに到達し、痩せて小さい中国の軽機関銃手を長時間徒歩行軍の時に耐え難く苦しませた。

DP機関銃、すなわち転盤機関銃(頑住吉注:銃の上部に水平にドラムマガジンを乗せたデクチャレフ機関銃)は、弾薬量が多く、堅固で耐用性があり、構造が簡単で、訓練に便利だった。中国は一目見て素晴らしいと思い、一定数を輸入して第74軍などの精鋭部隊に装備した。だがその問題はやはり重すぎ、容易にジャムし、亜熱帯地域での使用に不適合なことで、夏ではこの機関銃はバレル交換できないので200発撃つともう休息を必要とした。一方寒冷なソ連ではこれは問題ではなかった。

中国のもう1つのメジャーな機関銃は抗日戦前後に輸入した16,000挺のベルギーのFN-BAR-M1930式機関銃で、射撃精度が高く、製作が精良で、訓練が簡単だった。この大金を費やして買ってきたブランド品は中国に到着して以後、全て精鋭部隊の使用専用に供され、彼らが戦功を立てるのを期待した。だがこの極めて戦場の使用に適する機関銃にはマガジンに20発の弾薬しかないという問題も存在した。だがこの銃には1つメリットがあり、部隊に愛させ手放させなかった。それは7.92mmx57弾薬が使用でき、先端の尖った重量弾、先端の尖った軽量弾、先端の丸い弾と何でもスムーズに撃て、ボルトアクション小銃のように弾薬を選ばないことだった。

日本の小火器を研究 射程が長く精度が高い

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「日本の三八式小銃の工作は非常に精緻で、一方中国国産小銃は非常に多くが小工場で突貫工事で製造されたもので、実際にはカタログデータ上の性能に全く達しなかった。」)

三八式小銃は狙撃銃として使用できた

日本陸軍の小火器には四大特徴があった。射程が長く、正確度が高く、寒い地域での作戦と白兵戦に向くことである。簡単に言えば寒冷な極東において、自らはきっと少をもって多を打撃し、自らの正確な射撃を利用して遠距離でソ連軍を射殺する必要がある、ということである。正確な射撃は最も良い弾薬節約の方法で、広大な極東では補給車が随時自分たちと一緒に行動することは不可能なはずだった。さらに必要な時はいつでも勇猛に白兵による接近戦を行える必要がある。

だからこそ当時世界最長の小銃があった。三八式小銃は日本の武器の製作が精良という伝統を継承し、加工が精細だった。さらに硬度が最高のバヨネットである30式バヨネットを配備し、白兵戦に非常に適する三八式小銃に変じさせた。選択使用された6.5mmx50弾薬は、速度が速く、銃口にほとんど閃光がなく、しかも音も非常に小さく、遠距離の殺傷力が大きかった。アメリカの言い方によれば、この弾薬は150ヤードの距離あるいはさらに遠い距離で我々のヘルメットを貫通できたという。後に三八式小銃は太平洋の戦場で狙撃銃として使用され、わざわざ照準鏡を配備した専用の狙撃銃に比べてもさらに部隊の歓迎を受けた。射撃がどこからなのか全く分からず、煙も炎もなく、人を苦悩させたはずである。

三八式小銃は感じられる後座力がはっきりしたものではなく、射手がその水準を発揮するのに便利で、実戦での射撃正確度は極めて高かった。新兵の訓練に非常に適し、体格大きからぬアジアの新兵が素早く射撃成績を上げるのに非常に適していた。日本陸軍の1929年における射撃教範の規定によれば、小銃は最も遠くて400mで射撃を開始し、軽機関銃は600mで射撃を開始し、重機関銃は800mで射撃を開始する必要があった。一方スナイパーライフルは最も遠くて1,000mで射撃を開始する必要があった。このように中国軍が日本軍に対し進攻する時、日本軍の小銃は400mの距離でもうすでに正確に発砲し、こちらが30m以内に来るのを待つまでには、日本軍は誰もがすでに何度も発砲できていて、中国の進攻部隊はやはり損失が悲惨、重大だった。中国軍は訓練レベルと武器の性能ゆえに、一般に防御の時50m以内での発砲を選択し、実際上1〜2回の射撃のチャンスしかなかった。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「日本は96および99式軽機関銃の多くに照準鏡を装備し、もって正確度を高めた。甚だしきに至っては日本軍はしばしば機関銃をスナイパーライフルとして使用した。」)

11年式機関銃は専用の機関銃弾薬を用いることを必要とし、さもないとジャムした

日本軍の機関銃は主に11年式、96式、99式だった。抗日戦初期、日本軍が使用したのは基本的に全て大正11年式軽機関銃、俗称歪把子だった。11年式の給弾方式は漏斗式給弾で、射撃の時は5発の弾薬を装備した6つのストリップクリップを入れるだけでもう連続射撃できた。その目的は小銃と軽機関銃の弾薬と給弾具を共用するためだった。だがこの独特な設計には問題が1つあり、それは構造が複雑すぎることで、汚れに対し敏感で、大角度の高射あるいは俯角をつけての射撃に用いる時、弾薬の装填が終わると弾薬スプリングのカバー板を釦上(頑住吉注:非常に多くの意味があってどれか不明)することが必ず必要だった。普通の小銃弾薬を使用すると容易に加熱し、最終的にはやはり専用の軽機関銃弾薬を使用しなければならず、それでやっと長時間連続射撃が行えた。

この機関銃のメリットは日本の機関銃が重視した湾曲したストックが特別に肩当てに適合し、射撃が快適で、正確度が非常に高いことだった。

96式機関銃は照準鏡を配備し、戦場での精度が高かった

日本が1936年に生産を開始した96式軽機関銃は30発の上から挿入する形式のマガジンによる給弾を採用し、照準用ピープは左右に調整できた。上にあるマガジンが視線を遮るはずであるため、フロントサイトが左側に置かれ、しかもフロントサイトにはガードウィングがあって保護され、もってぶつけて射撃精度に影響することを免れさせた。最終的にはさらに96式軽機関銃のレシーバーには照準鏡が装備された。この軽機関銃に装備された照準鏡は第二次大戦では非常に珍しいものだった。日本の軽機関銃手に驚異的な正確度をも持たせた。99式軽機関銃は実際上7.7mmx58弾薬を使用する大威力96式機関銃だった。日本の96式機関銃のメリットは、照準鏡が装備され、軽々と400m以遠の目標が正確にバースト射撃できることだった。しかもこちらの機関銃にはこの照準鏡はなく、このためはっきり見ることができず、当然日本軍の機関銃を制圧することもできなかった。これは日本軍の防御陣地が非常に打撃し難い原因の1つだったかもしれない。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「日本の6.5mm弾薬には実際には少なくとも3種の形式があり、威力は全く異なり、初期の弾薬だけが近距離において小さな貫通穴を作った。」)

92式重機関銃の銃架は安定し、夜間照準器が配備された

日本軍の重機関銃は主に1932年に定型に至った92式重機関銃だった。日本がこの機関銃を空冷型にした原因は、水冷式機関銃の最大の欠点を避けるためだった。それは寒冷な地域での作戦で、水冷機関銃と水桶に不凍液を入れる必要があり、射撃の時に湯気が生じて容易に目標として暴露することで、しかも戦地に来ればさらに水を探す必要があり、非常に面倒だった。しかも92式重機関銃の折り畳みできる八の字型グリップとボタン式トリガーは、いずれも寒冷な地域での作戦に適合するためだった。理屈は非常に簡単で、厚い手袋をしての機関銃操作に適したのである。

92式というこの空冷機関銃は54kgあり、マキシムというこの水冷式機関銃の49kgに比べさらに重かった。実際には92式の銃本体は26.6kgしかなく、重量としてはまあまあで、重要なのはマキシム式重機関銃はさらに4kgの水を加える必要があり、水を加え終わるとやはり53kgだということだった。しかもさらに8kgの水を携帯する必要があり、実際の重量は非常に大きかった。

真に92式重機関銃を重くさせていたのはこの銃に大型の銃架があったことで、27.8kgあって銃本体よりさらに重かった。銃架が重い第1のメリットは安定性が特別に良いことで、しかもこの銃架はさらに前の駐鋤が幅広くて大きく、それぞれの脚の受ける力が均等だった。最多の射撃の時でも軽微な左右の散布しかなく、基本的に非常に大きな高低の散布はなく、射撃の時左右の散布は散布射撃による制圧に有利でもあった。しかもこの銃架は高さを調節し、もって隠蔽性を増強することができた。

このようにこの1挺には高低の調節ができ、安定性が非常に高い大型銃架があり、光学照準鏡が配備され、銃口には消炎器があり、銃本体のフロントサイト上にはさらに夜間照準器があり、92式重機関銃は戦場、特に待ち伏せ戦の中で中国軍に対する脅威が特別に大きかった。

日本の6.5mm弾薬には3種のタイプがあり、性能は異なっていた

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「米軍の6.5mm改良型尖頭弾に対する評価は、弾丸が人体に進入した後内部で爆裂が発生し、コアとジャケットが分離し、弾丸が人体を貫通して出る傷口が特別に大きく、まるでダムダム弾のようだ、というものである。」)

日本の6.5mm弾の威力に関しては各種の説がある。実はその原因をつきつめれば、事情がすでに何十年経過しており、さらには中国の非常に多くの人が自らの抗日戦時期の相手である旧日本軍を理解していないことである。日本の6.5mm弾は、実は決して1種類ではなく、日本には3種の6.5mm弾薬があり、その特徴は全て異なったのである。

初期の6.5mm弾薬は実際には先端が丸いもので、威力が最小であり、さらには射程が特別に長く、撃つと小さな貫通穴ができ、人体内で非常に転倒しにくく、遠距離で命中した時だけやっとこの弾は人体内で転倒し、近距離では貫通するのだった。

1930年代以後になると、日本はまた6.5mm弾薬の種類を開発し、これは軽量型尖頭6.5mm弾薬で、この弾は重心がやや後ろ寄りで、コアは鉛・アンチモン合金から構成されていた。この弾薬は近距離で人体に命中した後すぐ転倒が発生し、中距離で命中しても人体内で転倒が発生したが、遠距離ではダメで、初期の円柱体の6.5mm弾とは全く異なっていた。

6.5mm改良型尖頭弾の出現後になると、性能はまた異なるようになった。この弾のジャケットは前が厚くて後ろが薄く、かつ事前に作られたミゾがあり、重心は弾の後部にあり、弾丸がひとたび目標に命中するやすぐ転倒し、かつ転倒後さらに容易に破裂し、初期は重機関銃だけに用いられた。重心が後ろにある弾頭は先天的に不安定で、充分な回転力の拘束がなく、発射されると自動的に転倒して弾頭が後ろを向き、このような弾頭はひとたび物体に命中するや即安定性を失う。ほとんどダムダム弾の効果を達成し、威力最強の6.5mm弾で、いかなる距離で命中弾を受けても、弾は必ず人体内で転倒する。

中国軍が正面の戦場にいると、日本軍正規野戦部隊の大量の機関銃に遭遇し、こうした機関銃が発射するのは6.5mm尖頭弾と改良型6.5mm尖頭弾で、戦場で機関銃火力は密集していた。一方抗日戦初期の日本の小銃はと言えば旧式な円柱体の弾が多く、中期になって新型6.5mm尖頭弾がやっと小銃に大量装備されただけである。だから国民党軍には6.5mm弾は中、近距離で威力が大だったと言う者あり、遠距離の威力が大と言う者もありなのである。

華北の平原でゲリラ戦を戦った八路軍と遊撃隊が遭遇したのは日本軍の治安部隊で、また戦ったのは近距離の襲撃戦であり、かのような種類の大型野戦ではなかった。全て非常に近い距離で交戦し、治安部隊の機関銃は比較的少なく、戦場の機関銃火力はまばらで、新型弾薬も相対的に少なかった。円柱体の6.5mm弾の使用が比較的多く、このことが近距離で人体に命中した後、すぐ貫通して小さな穴を作り、弾丸が人体内で転倒することはないという結果をもたらしたのである。何故ならゲリラ戦で最もよく見られるのは待ち伏せ戦で、基本的に遠距離で発砲する機会は非常に少なかなったからである。円柱体の6.5mmの特性は遠距離で命中してこそ人体内で転倒するというものだった。

一方イギリス、アメリカ、オーストラリアの軍隊は大反攻段階で日本軍に遭遇し、改良型6.5mm弾を装備した部隊に遭遇し、彼らの評判はまた中国の戦場の軍人とは異なったのである。米軍には38の弾の威力に対し明確な認定があり、25ヤードから800ヤードまでの距離で命中弾を受けた傷の状況全てにダムダム弾の威力に比べてもさらに大きいという記録がある。

結びの言葉

日本の抗日戦は1937年から1945年まで、ずっと弱をもって強に抗するで、かろうじて持ちこたえていた。全日本陸軍は第二次世界大戦で決定的に重大な損傷に遭うことがなく、実力は実はずっと存在した。中国の戦場にも大反抗を形成する条件は全くなく、いわゆるアメリカの救援物資は1944年9月まで、内地の400万という中国軍に分配されること1,000挺の小銃、1,706挺のサブマシンガン、351挺の機関銃、28門の小口径防御砲、30門の迫撃砲、96門の山砲しかなく、まさか中国軍がこれっぱかりの装備に頼って百万の装備が全て揃い、主力が全て健在な日本軍に対し大反抗を行うとでも?

中国の抗日戦に関して言えば、立ち後れた農業国が工業強国に抗し得て滅びず、頑張り続けさえすればそれすなわち勝利であり、全世界の反ファッショ戦争に対する巨大な貢献に他ならない。もし中国の抗日戦が敗北したら、百万の日本軍と莫大な数量の弾薬はすぐ南下し、その時サイパン島、硫黄島も、沖縄群島も、日本軍の数は全て倍増し、大型兵器や弾薬の数は数倍以上に急増し、米軍はより大きくより多くの困難に遭遇しただろう。


 少なくとも空中で改良型6.5mm弾が弾底を先にして飛んだというのは間違いなく嘘でしょうし、不正確な記述が多いようです。最後の中国軍の貢献に関する記述はいまいち納得できませんけど、中国ではこう教育されているようですね













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