朝鮮戦争における米軍捕虜

 まあたぶんほとんどの人にとって宣伝臭が鼻につくと思いますが、当事者による回想で興味深い内容を含んでいます。

http://military.china.com/history4/62/20130428/17808099.html


朝鮮の戦場における米軍捕虜の思想は脆弱 下痢し外出せず

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「朝鮮戦争中の米軍捕虜」 黒人率高いですね)

2010年10月の抗米援朝60周年の際、あるメディアが私に特別インタビューを約し、朝鮮戦争中に米軍捕虜とつき合った経歴を回想した。確かに、あの昔の出来事は私にとって忘れ難く、ちょっと触れればすぐ感情が沸き立つのを禁じ得ない。そこで60年前のあの経歴について執筆した。

米軍捕虜を引き取り管理する

私は1949年3月に北京大学を離れて軍に入り、1950年6月に海南島解放戦役(頑住吉注:国共内戦最後の大規模戦闘)に参加した後、解放軍第十五兵団機関(朝鮮入り後志願軍総本部に改編)と共に広州を離れ、鴨緑江の傍らの重要都市安東(今の丹東市)に馳せ参じ、抗米援朝の戦備作業に投入された。指導者は私が朝鮮入りした後、業務と言語の上で準備が整っているだろうということで、私に外国軍捕虜の引き取り、管理の業務をさせた。

9月15日に米軍が仁川港に上陸した後、朝鮮の戦局に突発的変化が起き、私も東北地域で米軍機の爆撃に遭ったが、我が国の国境防衛の安全が深刻な脅威を受けるに至った。危急の瀬戸際だった10月23日夜間、我々の機関の人員はオープントラックに乗り、厳寒を冒して秘密のうちに鴨緑江のそばの長甸河口から硝煙立ちこめる朝鮮の土地に進入した。今に至るも私の記憶の深い所に依然残っているが、24日払暁大楡洞(志願軍総本部の所在地)の谷川に到着した時、すぐ米軍機の奇襲に遭遇した。後に知ったが、毛沢東主席の長男毛岸英も米軍機の爆撃の中で犠牲となった。

1950年10月25日、中国人民志願軍入朝作戦第1回の戦役が始まり、我が先頭部隊は雲山戦役で二戦二勝した。前線部隊は初の米軍捕虜を捕まえ、直ちに我が駐屯地に送った。私はこの米軍捕虜の引き取り、管理に参与し、ここから私の6年の長きに渡る米軍捕虜関連の仕事が開始された。

この米軍捕虜は名をジョーンズと言い、米軍が韓国に派遣した国軍第6師団の軍事顧問で、階級は陸軍中佐だった。ジョーンズは捕まる時右腕に負傷していた。彼はひたすら緊張した表情で、非常に心配げで、多くを話さなかった。何故なら我が軍の政策を知らず、我々が彼をどう扱うか分からなかったからである。我々は彼が同郷人の家に住むよう手配し(頑住吉注:初の捕虜なのに何故同郷人がいるのか分かりません)、腹一杯食べさせ、冬用の衣服を着せ、医者は彼を診察し薬を塗り、夜は彼を同郷人のオンドルの上で熟睡させた。こうして、徐々にジョーンズの「殺される、虐待される」と恐れる心理は消え、少しずつ話を始めた。彼は私に、「私は朝鮮に来て戦争したくはなかった。私には妻と娘がいて非常に懐かしい。早く帰って妻子と団欒したい。」と語った。彼はポケットの中から家人の写真を撮りだして私に見せ、非常に残念な様子を見せた。ジョーンズの思想の変化の中から、私は我が軍の捕虜を寛大に扱う政策の威力を見て取った。

設営、捕虜を寛大に扱うことは苦難に満ちていた

第一次戦役終結後、多数の捕虜が前線から後方に連れて来られ、捕虜を収容する営舎の建立が差し迫った任務となった。ある寒い冬の夜、我々一行20人余りが志願軍政治部防衛部部長楊霖直々に率いられ、風を突き雪に向かい、敵機の爆撃の脅威の中徒歩で碧潼などの地に場所選びに行ったことを覚えている。1950年の朝鮮の冬は特別に寒冷で、温度は摂氏零下40度まで下がり、山は高く道は滑り、行軍速度は非常に遅かった。我々は背嚢を背負ってまる一夜で10kmしか進まなかったが、皆の感情は非常に充実していた。目的地の碧潼は鴨緑江の河畔にあり、三面を水に囲まれ、理想的な設営地だった。だが都市全体がすでに敵機の爆撃を受けて見渡す限り破壊の跡で、修復後にやっと捕虜を引き取ることができた。

1950年12月の第二次戦役後、多数の捕虜を収容するため私と同僚たちは鶴豊銅鉱区にやって来て、そこに残っていた工事現場の小屋を利用して臨時に何百名かの「国連軍」捕虜を収容した。あの時は敵機の爆撃が交通の困難をもたらし、物資が非常に欠乏し、北朝鮮政府が捕虜にトウモロコシ、大豆などの食品を提供することはすでに全く容易なことではなく、しかも悠々と満ち足りた生活に慣れ過ぎたアメリカの図体の大きな兵隊は食品の欠乏した非常に苦しい生活に適応できず、彼らの感情は落ち込み、精神状態がごく不良で、加えて天候が寒冷で風邪をひき、肺炎となり、胃腸の病気を患う捕虜がどんどん多くなった。ある捕虜の思想には波があり、ひたすら横になって建物から出ず、下痢を1回1回毛布で包んで最後に投げ捨てて終わりにし、ある者は地面に落ちている吸い殻さえ拾って吸った。こうした現れは米軍捕虜の思想の異常に脆弱な一面を反映していた。

捕虜となった米軍将校は我が軍に対し深刻な敵対感情を抱いており、捕虜生活に非常に不満足だった。ある時、著名な作家魏巍と米軍捕虜の中佐が話をしていたが、この捕虜の態度は非常に傲慢で、極力米軍の侵略行為を弁護し、我が軍を侮蔑したのを覚えている。魏巍は直ちに厳しい言葉で反駁し、彼に「あなたは自分が中国人民志願軍の捕虜であることを知らねばならない。米軍の北朝鮮侵略は大衆の支持を得ることができない!」と警告した。魏巍の言葉は中国人民の気骨を強め、敵の威風を消し去り、私に非常に深い印象を残した。

碧潼などの地に捕虜の営舎を徐々に建立した後、捕虜の居住条件は改善された。私はある200名の「国連軍」捕虜がいる中隊で、何名かの選抜し派遣されたばかりの大学生を引き連れて一緒に仕事をした。我々は捕虜の敵対感情の緩和、彼らの思想的懸念の消除から着手し、彼らに我が軍の捕虜を寛大に扱う政策を信じさせた。捕虜を寛大に扱うことによって、捕虜によく食べさせ暖かいものを着せ、傷病者を治療し、異なる国、異なる階級、異なる民族と宗教、信仰の捕虜を全て平等に見て、差別視せず、我が軍の平和を擁護し戦争に反対する主張を解き明かした。このことは大多数の捕虜の思想に変化を起こさせ、彼らは捕虜の営舎内の生活が最も安全だと信じた。当然個別の捕虜が逃げたこともあるが、行ける道はなくまた営舎に戻ってきた。彼らは志願軍の捕虜を寛大に扱う政策が仁の道だと身にしみて理解し、我々は「自分たちの命の恩人」だと言い、ある外国軍の捕虜は我が軍の捕虜の営舎を「学校のようだ」、「世界第一等の捕虜の営舎だ」と賞賛した。

(頑住吉注:これより2ページ目)

戦地での捕虜釈放が世界にセンセーションを巻き起こす

戦地での捕虜釈放は我が軍の優良な伝統であり、捕虜を寛大に扱う政策のもう1つの重要な内容である。第二次戦役の前、私はある捕虜釈放準備作業に参与した。

あの時我々は復興裏で捕虜の収容中、突然志願軍総本部の通知を受けた。一定数の捕虜を選んで前線に送って釈放せよというのである。あの時の捕虜釈放は彭徳懐司令員が提案し、毛沢東自らによる批准を経ていた。

緊張する作業を経て、我々は米軍捕虜から27人、韓国軍捕虜76人を選び、彼らに対し簡単で短い教育を行った。当時ある小学校の教室内で釈放される捕虜のリストを発表したのを覚えている。捕虜の名前を発表するや、にわかに爆弾が爆発するように捕虜の中に極めて大きなセンセーションが巻き起こった。釈放される捕虜は感動に満面涙を流し、他の捕虜も早く釈放され家に帰ることを希望した。

釈放される捕虜の出発直前、彼らの入浴、理髪、食事、渡す記念品(頑住吉注:え? どんなの? 毛語録とか?)が手配された。釈放される捕虜の思想的懸念に対し、我々はまた1つ1つ彼らに対し作業を行い、注意が必要な事項を引き継ぎ、彼らが釈放後きっと安全に前線を通過できるよう、万一アメリカ軍の封鎖する戦線が越えられなかったらまた戻ってきてもいいのだと教えた。

1950年11月18日、我が軍が前方で捕虜を釈放したとの情報が急速に伝わり、西側メディアは朝鮮の戦場から東京、ワシントンまで、この情報を先を争って報道した。「ニューヨークタイムズ」の報道は次のようなものだった。「捕虜になっていた27名のアメリカの負傷兵が昨日釈放された。これらの負傷者は、彼らが捕虜になった後に食べたものは非常に良く、待遇もとても良かったと言っている。」 AP通信社の報道は次のようなものだった。「新たに27名の捕虜となっていたアメリカ兵の自由が回復されたことは、朝鮮戦争の中で最も不思議なことの1つと評価できる。」

捕虜交換の対照は鮮明

1953年4月6日、双方の連絡グループの何回かの談判を経て協議が達成され、4月20日、双方は板門店で捕虜の傷病兵を交換した。当時私は中朝合同小グループの英語翻訳を担当しており、我が方が米英などの国の捕虜を送り返す情景を目撃した。交換時、「国連軍」の捕虜は青い制服を着て、我が方に贈られた記念品と病歴のカルテを持ち、笑顔で1人1人我々と握手をして別れを告げ、我々が彼らに「人道的で慈悲深い」待遇を与えたことに感謝し、彼らは「中国人民志願軍の友情は永遠に忘れられない」と語り、別れを告げる時の思いは非常に深かった。

これに比べると捕虜となった我が方の人員の帰還は打って変わって悲惨な光景だった。交換時のムードは非常に緊張したもので、捕虜となっていた人員の下車時、それぞれが義憤に満ち、涙をいっぱいにたたえて大声で敵の彼らに対する迫害を訴えた。我が方が作った色とりどりの「祖国の抱擁」アーチに入る時、持っていた国旗を取り出し、「中華人民共和国万歳」を高らかに叫んだ。

捕虜返還の印象

1951年7月10日、双方による停戦の談判が開始され、捕虜問題は談判の内容の中で論争が最も激烈で、遅延時間は2年の長きに及んだ。1949年に修正された「捕虜の待遇に関するジュネーブ条約」119条の規定によれば、戦争終結後捕虜は遅滞なく釈放され送り返されるべきである。だがアメリカサイドはこの国際条約の規定をかえりみず、全く理由なく「一対一」、「自由に送り返す」(頑住吉注:たぶん帰りたくないものは帰らなくてよい、自由意思に任す、という意味でしょう)などの交換方案を提出した。我が方が持つ捕虜は相手方が持つ捕虜よりはるかに少なかったため、米軍は捕虜問題で大いに策略を講じ、捕虜となっている我が方の多くの人員を拘留することを企み、停戦の談判の長期遅延をもたらした。

双方の捕虜交換がまず突き当たった問題は交換する捕虜のリストだった。これは非常に煩瑣かつ細かい作業で、私は外国軍捕虜のリストの整理と突き合わせ作業に参加した。我々は千単位の捕虜を1人1人突き合わせ、捕虜の姓名をつき合わせる必要があるだけでなく、さらに国籍、部隊番号、階級、病歴のカルテなどの資料をつき合わせる必要もあった。我々は最後に相手方に捕虜リストを渡して詳しく説明してはっきりさせ、これは相手方にとって全く予想外だった。米軍の第24師団師団長ダイアンの名前も捕虜リストにあり、アメリカサイドは「ダイアンはまだ生きていた」の題で新聞報道もした。一方相手方が我が方に渡した捕虜リストはどうしようもなく混乱し、錯誤百出だった。

協議に基づき、1953年8月3日、双方は正式に合同赤十字グループを成立させ、北、南、中の3つのグループに分け、分かれて相手方の捕虜営舎を視察し、かつ捕虜のために人道主義サービスを提供した。私は中グループに参加し、開城地域で我が方の代表申亜光と相手方の代表であるデンマークの医者ビンセント博士などの人のお供をして1ヶ月連続で仕事をした。我々は開城の捕虜中継輸送ポイントの生活施設、医療衛生、交通運輸や安全などの方面に対し視察を行い、かつ捕虜と個別の談話を行い、彼らの発言を聞き取った。視察の仕事の中で、ビンセント代表の業務態度は真面目で、頻繁に捕虜と接触し、談話し、我が方の作業手配に非常に満足だった。彼は、「これは双方の協力の愉快な経歴だ。」とした。相手方代表が視察中に提示した疑問に対し、我が方代表は遅れず説明し、相手方代表の非友好的発言に対しては適当な反駁を行った。合同赤十字グループの業務は捕虜問題の1つの重要な方面で、理あり、益あり、節度ある闘争の中で、我が方の外交闘争の原則を体現した。

「国連軍」赤十字代表は、我が方の捕虜の営舎での捕虜に対するやり方に非常に驚き、彼らの予想を超えていて、余り多くの疑問は出せなかった。これとは違い、我が方の代表が韓国に赴いてアメリカサイドの捕虜の営舎を視察した時はあの手この手の妨害、制限、破壊に遭い、我が方の捕虜人員が異なる程度で虐待、迫害されている状況に深く入り込んで理解することはできず、視察作業がスムーズに進行できない結果がもたらされた。このことは相手方の人道主義精神に対する違反、我が軍の捕虜人員に対する虐待のやり口を充分に暴露した。

非常に困難な捕虜説得作業

停戦後、双方が達成させた妥協協議に基づき、直接送り返さない捕虜は各方が代表を中立国(インド、ポーランド、チェコ、スウェーデン、スイス)に派遣し、代表の監督下で彼らに対する説得を行い、彼らに帰国を勧めた。今回想すると、あれはまさしく複雑かつ非常に困難な仕事だった。1953年9月10日、アメリカサイドは北朝鮮、中国の捕虜を中立国帰還委員会のインド監視部隊に引き渡した。9月11日、私は我が方代表の李慎之に随伴して東場裏に行き、アメリカサイドがインド監視部隊に我が方の捕虜人員を引き渡す状況を見た。我々はまだ捕虜の営舎に入っておらず、鉄条網の外でもうアメリカや蒋介石のスパイと、他に企むところのある者の突然の襲撃を受け、彼らは我々に向け投石し、まだ説得の作業が開始される前に「まずにらみを利かせる」ことを企図した。このため、我々はインド監視部隊のある将軍に抗議を提出し、事態はやっと緩和した。

我々はインド監視部隊が設営したテント内に到着し、2人のインド兵に護送され入って来た我が軍の捕虜人員に説得作業を行った。要求に照らし、説得作業は中立国の帰還委員会代表の監督下で行われた。これらの捕虜はアメリカや蒋介石のスパイの欺瞞と騙しの影響を深く受けていたため、彼らのテントに入ってきた時の表情は異常に緊張し、きょろきょろ見回し、どうして良いか分からない様子だった。彼らの顔あるいは体には「反共抗露」、「殺朱抜毛」(頑住吉注:「朱徳を殺し毛沢東を抜け」で「抜け」は毛に引っかけてるんでしょう)と国民党の党のマークが刺され(頑住吉注:この場合の「刺」の意味が分かりません)、彼らは話をしないか反動的スローガンを叫ぶかで、説明作業をスムーズに進行し難くさせた。

規定に照らし、説明作業には90日の期限があった。だが我々は10日行っただけでもう停止を迫られた。こうではあっても、まだ何百名の我が方の捕虜人員が敵のコントロール(頑住吉注:この場合は洗脳に近い意味?)を突破して、生命の危険を冒して祖国に帰った。アメリカサイドは捕虜問題上悪巧みをはたらき、「ジュネーブ条約」の関連の規定に違反し、我が方の厳しい譴責に遭った。当時我が方の談判の代表団の主要な責任者喬冠華はある内部報告の中で次のように書いている。「説得作業によって、我が方の捕虜人員が戻って来ることは我が方の勝利である。彼らが戻って来られず、我々が敵を姿を暴くことも我々の勝利である。真理は我が方一方にある。」 これは説得作業の最も良い総括評価である。 (蒋ト)


 一方的な中国側の記述を見ても、自由を知って帰りたがらなかった捕虜が多数いることがありありと分かります。捕虜交換時の態度の違いも、双方の待遇の良し悪しを直接反映しているのでないことは明らかです。何が真理か我々は自由に討論し自由に結論を出すことができ、中国にはその自由がない、これこそが決定的違いです。













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