アメリカ、ベトナム戦争でトラップ弾薬を使用?

 今回は「歴史秘話」ものです。ずいぶん前になりますが、「ナチ・ドイツが試作した謀略弾薬」という記事を紹介しました。今回紹介するのはそれと同様のものをベトナム戦争でアメリカが使用した、という記事です。また狙った効果は直接的兵を殺傷することだけではなかったとしています。

http://military.china.com/history4/62/20130315/17730422.html


中国がベトナムに援助した武器は何故ベトナム戦争中チャンバーの破裂を起こしたのか

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「チャンバーが破裂した56式自動小銃」)

1960年代末から1970年頃の北ベトナム正規軍では、手にする武器弾薬から身に付けた装具、甚だしきに至っては糧食まで、一切の後方勤務補給がほとんど中国によって提供されていた。これも「長子行動」の陰険な狙いの1つだった。つまり北ベトナムと中国の関係を仲たがいさせることである。

ベトナム戦争の期間、アメリカ軍の最精鋭の秘密部隊、特殊作戦団(SOG)はある絶対秘密の計画を展開し、「長子行動」(Project Eldestson)と称し、もって北ベトナムサイドに全面的な混乱を引き起こし、かつ北ベトナム兵士とゲリラ隊員に彼らの手中の銃と弾薬の安全性に対する疑いを生じさせることを期した。本文はある当時この計画に参加した体験者の話を整理したものである。

1968年6月6日、カンボジア国境付近で発生したある交戦の中で、1人の北ベトナム兵士が前方に1人のアメリカ兵を発見した。彼はその「ヤンキー」に教訓を与えようと、子細に目標を照準した後、トリガーを引いた‥‥だが大きな音が響いた後、逆に彼自身が血だまりの中に倒れたのである。

後にアメリカ軍第1歩兵師団の兵士たちがこのベトナム人を探し当てたが、彼は中国製の56式自動小銃のそばに倒れ、手足を広げてすでに死んでいた。アメリカ軍兵士たちは真相を知らず、死因を調べ、彼らはこの北ベトナム兵が使用した小銃が猛烈な爆発を発生させ、吹き飛んだレシーバーの破片が一瞬のうちに銃の使用者を殺した、ということを発見した。ここには重大な謎が隠されているようだった。この56式小銃は間違いなく爆発を発生させたが、見たところ通常チャンバーの破裂をもたらす原因のように何かがバレルをふさいでいる様子はない。図体の大きいアメリカ兵たちは、この銃が使用した金属材料に問題があったか、あるいは弾薬に何か欠陥があったせいだと結論した。‥‥だが実はこの2つとも真の原因ではなかったのである。

実際にはこの事件はある秘密計画がもたらした結果だった。すなわちベトナム戦争の中で最も機密性の高い、最も人に知られていない秘密行動、「長子行動」である。この破壊計画はかくのごとく秘密にされ、アジア東南部全体でもごく少ないアメリカ軍兵士しか知らなかった。この計画はSOGによって実施された。ベトナム戦争の中での絶対秘密の特別行動部隊としてSOGは参謀長連席会議に直接奉仕し、ラオス、カンボジア、そして北ベトナム軍の後方で高度に機密の、公開できない任務を執行していた。

「長子行動」の由来

「長子行動」のルーツは1966〜1968年にSOGの指揮官だったシンルオブ(頑住吉注:中国語の発音をカタカナに直しましたがアメリカ人の名前として違和感ありますね)のインスピレーションである。彼は第二次大戦期にOSS(CIAの前身)の秘密行動に参加したことのある老練な軍人だった。シンルオブは次のように説明する。「ラオスにいる時、私は非常に落胆していた。何故なら私が当時『胡志明小道』で発見した弾薬も空輸で持ち帰ることができなかったからだ。というのは当時のSOG組織の小規模特別偵察隊(通常2〜3人のグリーンベレー特殊部隊兵士と4〜6人の南ベトナム兵士から組成された)はしばしば、北ベトナムの野営地やラオスを経由する後方勤務補給ライン沿いの倉庫、隠れ家の中に大量の弾薬を発見したが、偵察グループには臨時の占領区を固める、あるいはこうした兵器を運び去る充分な人手がなかったからだ。しかもこうした分散して置かれている兵器を爆破あるいは放火の方法で完全に破壊することは非常に難しかった。当初私はそれらを利用して、敵が持ち上げた時爆発が起こる一種のトラップを設計しようと思った。だが後にこの考えは変わった。‥‥いっそ弾薬自体を利用してトラップにしよう、と!」

(頑住吉注:これより2ページ目)

「トラップ弾薬」の秘密試験

1967年8月30日、アメリカ軍参謀長連席会議はSOGの行動計画に同意することを決定した。だがシンルオブは(頑住吉注:すぐ計画自体を実行するのではなく)さらにCIAの兵器専門家たちを手配し、できる限り早くこれに関するいくつかの実行可能性の研究を展開させた。当時北ベトナムの後方勤務補給はほとんど中国によって提供されていたので、中国製の武器弾薬を目標にすることが決まった。数週間後、日本の沖縄に位置する知念基地で、シンルオブはCIAのある技術人員が試験を行うのを視察した。彼は1発の改造を経た7.62mmx39破壊性弾薬を折りたたみ式AK47に装填し、その後弾薬を起爆させた。「この弾薬はレシーバーを完全に爆破し、ボルトすら飛び出した。」 シンルオブは試験結果に対し非常に満足した。

この試験の成功後、すぐにこの改造を経た弾薬でトラップを作る方案が確定し、期間1ヶ月の煩瑣な作業が開始された。すなわち手作業で千単位の7.62mm弾薬を分解したのである。中国製の弾薬は弾頭と薬莢の結合部分にぐるっと堅い密封用塗料があり、分解作業をより困難にした。この過程で一部の弾頭に軽く傷が付いたが、弾頭を改めて装着し直す時に傷ついた部分は注意深くカバーされ、しかも何回もの検査を経、それらに見たところ手が加えられた痕跡が全くないことが確保された。この作業の完了時、全部で11,565発のAK47小銃に適する弾薬が新しく改造され、同時に556発の12.7mm高射機関銃(この機関銃は当時の北ベトナム軍の主要な対ヘリ兵器だった)の大口径弾薬も改装を経た。

当初、これらの「トラップ弾薬」内に充填されたのは鈍化タイエンという名の高性能爆薬だった。この爆薬は爆発力が最も強大な通常爆薬で、化学的成分は四硝酸ペンタエリスリトールで、震動と衝撃に対する敏感度が非常に高く、普通の小銃弾薬のプライマーでも起爆させることができた。しかし、この爆薬は無色あるいは白色の結晶粉末で、外観上常用される無煙火薬とは少しも似ていなかった。SOGの技術の天才ベン ベイカーは(彼の地位は007シリーズの映画でボンドのために各種各様の珍奇なスパイ武器を提供する専門家「Q」博士のようなものだった)、もし1人の北ベトナム兵が1発の「トラップ弾薬」を分解しさえすれば、この粉状爆薬と普通の火薬の違いに気づき、計画全体に危害をもたらす可能性がある、と判定した。このため、ベイカーは方針を変え代替品を探し出した。この爆薬の外観は無煙火薬に非常に似ており、その発生させる非常に大きな威力は通常のAK47、56式、AKM小銃、およびRPD軽機関銃が受け入れられるチャンバー圧力の5倍前後だった。このため、充填された爆薬は決して多くなかったが、改装を経た「トラップ弾薬」を装填したいかなる銃も致命的爆弾に変わるのだった。

これと同時にCIAの沖縄に位置する実験室もいくつかの専門的な試験を行った。彼らは方法を講じて7.62mmx39弾薬が詰まった元々の包装を開き(これには外部の木箱と内部の鉄の薄板の箱が含まれた)、その後改めて包装、密封した。試験結果は、改めての包装を経た弾薬箱は外観から見ていかなる破壊の痕跡もなく、完全に安心して計画を進めることができることをはっきり示した。

7.62mmおよび12.7mm弾薬に照準を合わせた破壊の他に、CIAの兵器専門家たちはさらに一歩、特殊な信管を完成させた。この信管は東側諸国で常用される82mm迫撃砲弾と組み合わせて使用された。砲弾にこの信管をセットすると、迫撃砲内で発射される時に信管が直ちに始動し、砲身内でもう砲弾を起爆させ、致命的な破壊効果を達成した。SOGは全部で1,968発の迫撃砲弾を改装した。

「長子行動」の第一歩 「トラップ弾薬」の投入

「長子行動」の最大の困難は設置過程だった。すなわち改造が整った「トラップ弾薬」を北ベトナムの後方勤務システムに混入し、かつ発見されないことである。これは当然グリーンベレーに主導される偵察グループの任務だった。

1965年秋から、SOG行動グループは命令を受けてラオスに到着し、情報を収集し、敵サイドの通信を傍受し、重要な人員を力づくで拉致し、護衛隊を待ち伏せ攻撃し、倉庫を襲撃し、地雷を敷設し、そしてできる限り敵軍の後方を攪乱し、その生存をより困難にした。追加の任務として、それぞれの小グループは少数の「トラップ弾薬」を携帯し、チャンスが生じた時、それらを設置した。

小グループは弾薬貯蔵庫を発見するたびに箱ごとの「トラップ弾薬」を放置した。隊員たちはパトロール隊を待ち伏せ攻撃するたびに「トラップ弾薬」を装填したマガジンを相手方のAK小銃に挿入した。1点極めて重要だったのは、それぞれのマガジン、それぞれのベルトリンク、あるいはそれぞれの箱入り弾薬の中に1発以上の「トラップ弾薬」を入れないことだった。こうすれば銃の爆発が発生した後、現場で第2発目のこのような弾薬を探し出すことは不可能になり、もって計画の破綻が防止された。

破壊性を持つ82mm迫撃砲用「トラップ弾薬」の投入は明らかにより面倒だった。何故ならそれらはバラで輸送することはできず、それぞれの木製弾薬箱の中に隔壁を使って3発の砲弾が固定されていたからだった。このため、設置過程で全体重量11.25kgを超える弾薬箱を背負うことが必須となった。

偵察グループの最もクレバーな設置は、シールズ突撃隊がメコン川三角州で行った軍事行動の時に行われた。ここで彼らは鹵獲した小舟の中に手を加えた弾薬を入れ、その後船を射撃し、これを穴だらけにし、さらに船に鶏の血をいっぱい撒き、北ベトナム軍に彼らの戦友は全て待ち伏せ攻撃の中で犠牲となったと思わせ、結果的に舟の上の弾薬箱を持ち去らせたのである。

「死の罠」を仕掛けられた迫撃砲弾も少なからぬ戦果を挙げた。例えば、ある時アメリカ第25歩兵師団が意外にも北ベトナム迫撃砲1個小隊が全滅しているのを発見した。現場で彼らは4本の爆裂した砲身を探し出し、周囲では砲手が死んでいた。別の事件では、第101航空降下師団の火力ポイントが迫撃砲の砲撃を受けていた時、奇怪な音が響くのを聞いた。「バン プ」と。後にあるパトロール隊が裂けた迫撃砲の砲身のそばに2つの北ベトナム兵の死体を発見し、血痕はジャングルの中までずっと延びていた。1968年7月3日、1門の北ベトナム迫撃砲がアメリカ軍のバンメイシュに位置する飛行場の滑走路を攻撃した後、9名の北ベトナム兵が射撃陣地で死んでおり、彼らの砲身は爆発して粉砕され、いくつかの小さな破片が残っているのしか見られなかった。

ラオスではアメリカのB-52重爆撃機がしばしば相手方の後方勤務補給ラインをターゲットにし、この種の大規模爆撃は広い地域を混乱に陥れた。SOGは充分にこのチャンスを利用し、1個特殊分隊を組織した。B-52の攻撃後にこうした破壊された地域に前進し、偽の倉庫を構築し、これに乗じて「トラップ弾薬」を混入した。しかし、「死の罠」を敷設するたびに戦果を挙げていた時でもSOGにミスがなかったわけではなく、自身に大きな災いをもたらした。例えば1968年11月30日、1機の「トラップ弾薬」投入のための特殊分隊を載せたヘリが、ケサン海兵隊基地から西に32km離れたところまで飛んだ時、37mm高射砲(頑住吉注:機関砲でしょうね)の攻撃を受け、巨大な空中爆発が引き起こされた。機に積まれていた7箱の手を加えた82mm迫撃砲弾は起爆し、機内の全員が難に遭い、彼らの遺体は20年後になってやっと探し出された。

(頑住吉注:3ページ目)

「長子行動」の核心段階 「邪悪な心理戦」

「トラップ弾薬」の投入は行動全体の「前奏」でしかなく、行動の核心は「邪悪な心理戦」宣伝行動の発動だった。1968年にシンルオブから指揮を交代したSOGのシュタイフ カワンラオフ(頑住吉注:これも不自然ですね)上佐は次のように説明する。「北ベトナムの後方勤務補給はほとんど全部中国によって提供されていたので、我々はまさに方法を講じて北ベトナム人民に、彼らの手中の中国から来た弾薬は全て質の劣った製品であると思わせた。ハノイの指導者を激怒させ、しかも兵士に彼らの手中の中国によって提供された武器の信頼性と安全性に疑いを抱かせることを望んだのだ。」 あるSOGによって偽造されたベトナム共産党の文書がスパイによって伝達されてゆき、この文書は武器の意外な「爆発」に関し、事務的に「我々はある噂が、一部の弾薬がAK47小銃内で爆発したとしているのを知っている。この説は極めて誇張されたもので、この爆発した弾薬は非常に小さな比率しか占めない。」としていた(頑住吉注:これちょっとよく分かんないです。何故「爆発が頻繁に起こって重大問題化している。すでに中国に抗議した。」とかにしなかったんですかね)。別の偽造文書は、「現在まで、何千回かのこのような案件しか見つかっていない」とし、さらに「中華人民共和国にもいくつかの品質管理上の問題があるが、こうした問題は解決されているところであり、我々は将来においてこの種の状況が発生する機会は非常に少ないと考える。」と結論づけていた。「将来において」‥‥この言葉の使い方は特別に狡猾なもので、これは文書を見た全ての兵士を不安にさせた。何故なら実際には彼らが使う銃に装填された弾薬は何年か前にはとっくに組み立て済みで、新たな弾薬が南部で長年戦闘している北ベトナム兵士の手に渡るまで輸送されてくるのは非常に難しいことだったからである。

続けて、さらに公開しての「安全」キャンペーンが展開された。南ベトナム軍事援助司令部(MACV)はコードナンバー2-68号の技術情報簡易レポート、「破壊された敵の武器の分析」を発した。この簡易レポートは公開されてアメリカ駐南ベトナム各機関に回覧された。この時のSOGによって入れ知恵された研究は何挺かの爆発が発生したAK小銃の分析で、結論はそれらが「欠陥ある冶金技術がもたらした金属部品の疲労によるクラックの発生」あるいは「質の劣った弾薬が生じさせた過度に高いチャンバー圧力」によって破壊されたというものだった。この簡易レポートのコピーはSOGのために働くあるスパイによってわざとサイゴンの某酒場(酒場の主は北ベトナムのスパイと疑われていた)に置かれた。

一種の偽装として、アメリカ軍兵士たちは鹵獲した武器を使用してはならないと警告されていた。この警告は軍隊のラジオ局やテレビ局によって広く伝えられた。新聞はこの情報を報道する時、「多くの類似の事件がすでに鹵獲武器を使用した人に傷害をもたらしており、ある時は死亡さえしている。」とも書いた。その原因は「欠陥のある冶金技術」あるいは「質の劣った弾薬」だった。1969年7月14日、第25歩兵師団の新聞は同様に兵士に、「共産主義集団の工場に拙劣な品質管理が存在するため、多くのAK小銃はもし軽微な問題があっても射撃時に爆発する。」と警告していた。

だが初期に周到なはかりごとが欠けていたため、この「罠」はすぐに馬脚を現した。だがそうだったとしても、SOGは依然専用に作られたこの大トリックはやはり相応の心理作用を引き起こすと信じた。何故なら真相がすっかり明るみに出た後、北ベトナム軍はいかなるアメリカ軍偵察グループに明らかに接近されたことのある倉庫あるいは隠れ家をも警戒し始め、彼らは止むを得ず、休まずそうした弾薬に手が加えられているかもしれないと調べたからである。無線電信所の傍受により、SOG本部は北ベトナム最高司令官が爆発した武器に対し態度表明を行い、中国兵器の品質管理と、これによりもたらされる陰謀、破壊活動に関心を注ぐ、としたことを知った。このことから、「長子行動」は一定程度上成功を収めたと言うことができる。

「長子行動」の終結を宣言

1969年中ば、「長子行動」に関する情報が「ニューヨークタイムス」のある文章でリークされ、SOGに行動のコードネームを「イタリアの緑豆と変えることを迫った。後にさらに「ポーランドの豆」と変えられた。その後、この行動は一定程度上秘密解除され、秘密解除されたレポートは、1969年7月1日までに偵察グループが投入した「トラップ弾薬」には全部で、3,638発の7.62mm弾薬、167発の12.7mm弾薬、821発の82mm迫撃砲弾が含まれる、と明らかにした。この年の秋、参謀長連席会議はSOGに残る在庫の処理とこの行動計画の終結を指示した。

だが、この計画は結局のところ「語ることのできない秘密」に属し、このため後の人はこれに関するより詳細な「内情」を知ることはできない。


 途中まで「そんなことしたら鹵獲兵器を使ったアメリカ兵が被害に遭う。嘘じゃないの?」と思いながら読んだんですが、一応それに関する説明もあり、最後まで読むと本当なのかな、と思えます。しかし「Project Eldestson」で検索してもそれらしい情報は全然出てこないんですよね。

















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