中越戦争関連2題

 微妙にタイムリーな意義もあると思われる中越戦争に関する「歴史秘話」ものの比較的短い記事を2つまとめて紹介します。

http://military.china.com/history4/62/20140325/18413792.html


ベトナム人が描写する中越戦争:一個中隊、中国の13両の戦車を破壊

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「対ベトナム自衛反撃戦 ベトナム軍に破壊された解放軍の戦車」)

提示:本文の作者はベトナム人であり、中国人はあまり見慣れないかもしれない。ベトナム軍の一個中隊が一度に解放軍の13両の戦車を殲滅しており、虚構の成分が比較的多い。当然、解放軍の戦車は決して無敵だったわけではなく、交戦の時敵によって破壊されることもまたごく正常なことである。

出動命令は第10中隊にすでに伝わっていた。黎文時は飛び起きて背中のリュックにB41ロケットランチャーを入れて飛び出していった。全中隊はすでに集合を終えていた。それぞれの人は迅速に乗車した。自動車は警笛を鳴らしてカーブし、平江橋を通過し、高平市を出、その後直接和安方向に向け走っていった。山頂には霧が漂い、それぞれの人の衣服をびしょりと濡らした。だが山の区域の寒さはそれぞれの戦士の敵を殺すことを期待する情熱的な心情を弱めることはできなかった。

全中隊はすでに構築物の中に展開していた。阿時のB41ロケットランチャー小隊は壕の前端に布陣した。後ろは山の中腹に向かう小道で、ごくスムーズに機動できた。位置に着いた後、阿時は弾薬を装填し、各方向に向けての射撃距離を計算し、もって敵戦車の到来時に素早く発砲するのに便とした。全戦線上の全中隊はすでに準備作業を整え、進攻の命令をを待ち、いつでも発砲できるよう準備していた。敵戦車の音が和安方向から伝わってきて、どんどん近くなった。2両の前面を走る戦車はすでに陣地に進入し、2両の戦車の砲はいずれも前方を向き、彼らはしたい放題にアスファルトの道路上を走っていた。阿時は怒りがこみ上げ、人差し指をトリガー上に置き、すぐに発砲しようと思った。だが突然阿時は想起した。全部の戦車が陣地に進入するのを待つ必要があり、それでやっと発砲してよいのだ、と。

2両の戦車はいずれもすでに中隊の陣地の末端に到達していたが、まだ後続の戦車の到来は見えなかった。もしすぐに発砲しなかったら、彼らはすぐにも高平に入りそうだった。中隊長阿洪は遅れず2名のB41ロケットランチャー手に発砲を命じた。1両の戦車がすぐに発火した。第2の戦車はあわてて引き返そうとした。だがすでに遅く、阿時の同郷人である阮光英がすでに構築物を飛び出し、1発のB41弾をすでに中戦車に命中させていた。戦車は命中弾を受けると停止した。まさにこの時、儂族の農民が家から走り出てきた。彼は阿時のそばまで走ってくると、小声で言った。「部隊の同志、戦車は破壊されたが敵はまだ生きている。彼らはまさにハッチを開けて出てこようとしている。」

阿時はあわててAKを取り上げ、B41を背負い、道案内する農民を追いかけていった。その場所に着くと、彼は敵がすでに戦車の中から飛び出してきているのを見た。1人の敵はまさに退路を探して走って逃げようとしていた。ちょうどその瞬間、阿時は急いでAKを持って正確に点射した。敵に弾が命中し、戦車のそばに倒れ伏した。阿時は戦車の頂部に飛び乗り、懐中電灯を取り出して内部に対し検査を行った。敵は全て殲滅されていた。阿時は急いで自分の位置に戻っていった。

(頑住吉注:これより2ページ目。画像のキャプションは「中国の62式軽戦車」です。)

すぐ続いて敵の戦車大部隊がガラガラと走ってきた。彼らは道を開く戦車はすでにその任務を完成させ、このため傲慢に進んでいる、と思った。前面を走るかの戦車はすでに射程に入っていた。

耳をつんざく爆発音がして、1発のB41弾が阿時の構築物から射出された。前面を走るかの戦車に弾が命中し、黒煙を吐き出した。敵の戦車の隊列ふさがれ、砲口は道の両側に向けて掃射した。だが役には立たなかった。彼らは高く撃ち過ぎ、いずれも我が方の構築物の上端に着弾していた。

「阿時同志、後ろに抜けて最後尾の戦車を殲滅せよ!」 中隊長阿洪は命令を下した。阿時はB41ロケットランチャーを持って後ろの小道から迂回してゆき、もって敵の戦車により接近するのに便とした。5分後、彼はすでに敵の後ろのかの戦車に接近していた。そこの地形はやや開けていた。まばらな樹木があるだけで、ごく容易に敵に発見されそうだった。家の前の空き地に立ち、壁を利用して射撃を援護する? ダメだ。距離が遠すぎて簡単に目標を外してしまう。この戦車に命中しなかったら敵軍はごく容易に和安に逃げ戻り、敵戦車部隊を全滅させる時機はすぐに失われる。ちょっと考え、阿時はよりいくらか大胆に撃とうと決定した。彼は壁を飛び越え、戦車に接近して撃つことにした。敵は前面に向けての射撃にかかりきりだったため、後面に漏れ出た破綻を察知することはなかった。このため阿時はスムーズに敵戦車に接近した。距離が敵戦車からおよそ10mの時、阿時はロケットランチャーをかつぎ、迅速に目標を照準し、トリガーを引いた。阿時は敵戦車の後部に命中させ、濃い煙が湧き出てきて、戦車は動かなくなった。命中を確認すると、阿時は壁の後ろに戻って視察した。生き残った敵が飛び出してくるのは発見されず、彼はやっと安心して本来の戦闘位置に戻り、継続して残る戦車を殲滅していった。戻る途上で、阿時は1人のAKを持った戦士阿謀に会い、阿謀は阿時に告げた。「前面の敵戦車はほとんど殲滅された。中隊長は君に現地を守り、後続の戦車から守らせようとしている。」

阿謀が伝達した中隊の命令を聞くと、阿時はすぐにロケットランチャーを持ってさっきのあの場所に戻った。2人が道をしばらく走ると、第2小隊のあたりに密集した銃声が起こるのを聞いた。

「どこの銃声だ?」

「戦車に乗った敵かもしれないな」

「違う、弾道が地面からごく近い。戦車内で生き残った敵が銃を持ってどこかの場所に隠れて撃っているのかもしれない。」

「そうかもしれん。」

(頑住吉注:これより3ページ目)

2人は静かにしばらく観察し、やっと何人かの敵が竹藪の中に隠れ、重機関銃を使って前方に向け射撃しているのを発見した。阿時は阿謀のAKを持ったが、阿謀は彼を制して、「竹藪で遮られている。3人の敵は竹の根本のあたりにうまく隠れている。AKを使ったのでは命中させるのは難しい、奴らは全員逃げてしまうかもしれない。君はやはりB41ロケットランチャーを使って重機ごとやっつけてしまうのだ。奴らは危険すぎる。」

「よし、それもいいだろう。」 阿時はB41を使っての打撃を決定した。「1発のB41で3人の敵と1挺の重機を相手にするには充分だ。」 このように考え、阿時は敵の後ろに回り、竹藪の後ろに隠れてロケットランチャーをかつぎ、照準した。轟音が鳴り、1挺の重機と3人の敵の死体が吹き飛んだ。

阿謀があの位置に戻ってすぐ、阿時は1両の敵戦車が道端の窪んだ田の中に隠れ、砲口を転じて我が方に射撃しようとしているのに気付いた。阿時は用水路沿いに這っていき、戦車の位置に向かって動き、もって戦車を殲滅するのに便とした。まさに這っている時、阿時は轟音を聞いた。中隊内のもう1人の戦士が遅れず射撃し、この戦闘での最後の戦車を殲滅したのである。

陣地の銃砲声は徐々に静まってきた。敵の13両の戦車はすでに第346師団第9大隊第10中隊によって全部殲滅され、残骸は高平省和安県南俊郷の路上に散らばっていた。

(頑住吉注:4ページ目)ベトナム軍の2人の対戦車チームが対戦車ロケットを発射しているところ。旧西ドイツの「パンツァーファウスト」によく似ている。(頑住吉注:これはPIATじゃないですかね。)

(頑住吉注:5ページ目)陣地に向け対戦車砲を移動させるベトナム某部


 中国の注釈には「虚構の成分が比較的多い」とされていますが、文革の影響を受け、また実戦経験の乏しい中国軍と防御力の弱い戦車、ベトナム戦争が終わったばかりで実戦経験豊富なベトナム軍という構図がよく表れているリアルな描写に感じました。

http://tuku.military.china.com/military/html/2014-04-04/223215_2478925.htm


対ベトナム反撃戦の中の火炎放射器

1979年、対ベトナム自衛反撃戦が開始された。ベトナム北部の地形はカルスト地形で、山に洞穴が多く、しかもベトナムサイドの作った構築物が相当に完備されていたため、構築物内のベトナム部隊を殲滅するには火炎放射器が明らかに最も良い選択だった。ゆえに我が方は全軍の各部隊の58式火炎放射器と74式火炎放射器をかき集め、数千に到達させて前線部隊の構築物および山の洞穴の中のベトナム軍打撃に供し、少なからぬ古典的戦例を創造した。

戦例その一 陸軍某連隊は171高地を奪取した後、さらに一歩戦果を拡大するため、即第3中隊に前方の名もない高地を経て201高地に向け進攻を継続するよう命令した。進攻を保障するため、特別に火炎放射器一個分隊を第3中隊に追加派遣した。このうち分隊長の魏某は火炎放射器2基を携帯し、第3小隊に配属され、火炎放射器兵徐某は火炎放射器1基を携帯し、第2小隊に配属され、それぞれ171高地の両側に配置された。2月17日8時、戦闘が開始された。第2小隊が名もない高地の東北側まで突進した時、突然ベトナムサイドの掩蔽壕内の軽機関銃の火力制圧に遭い、副中隊長は火炎放射器を使用してベトナムサイドの火力ポイントを殲滅するよう命令した。火炎放射器が有効射程まで前進するのを援護するため、我が方は一個分隊の兵力を組織してベトナムの掩蔽壕に向け火力制圧を実施した。徐某は火炎放射器を携帯し、副射手を連れ、高い草むらを利用して敵火力ポイントの左側まで迂回し、敵火力ポイントからの距離が30mのところに火炎放射位置を占め、プローンの委託射撃を採用して敵火力ポイントに向け火炎放射を実施した。第1のボンベの火柱はやや左にそれたが、修正後目標に命中した。敵火力ポイントを完全に殲滅するため、すぐ第3回の火炎放射が行われ、掩蔽壕は完全に焼き尽くされ、軽機関銃1挺、ベトナム軍2名が殲滅され、用いられた時間はたった4分だった。同日19時前後、第3小隊は名もない高地の頂部まで進攻したが、高地頂部の「藁葺き屋根構築物」内に配置された高射機関銃1挺が突然第3小隊に向け射撃してきた。中隊長は第9分隊に名もない高地の有利な地形を利用して201高地方向に向け警戒するよう命令し、また第7、8分隊に引き返してこの「藁葺き屋根構築物」を殲滅するよう命令した。まず使用されたのは40mmロケットランチャーだった。ロケット弾は3発発射されて3発とも命中したが、「藁葺き屋根構築物」は依然破壊されず、相変わらず我が方に向け射撃していた。中隊長はすぐ火炎放射器の使用を命令した。魏某は命令を受けると、副射手と共に草むらと歩兵の火力援護を利用して敵からの距離20m前後のところに放射位置を占め、1回の噴射で3本のボンベの燃料を全部命中させた。「藁葺き屋根構築物」は完全に燃やされ、ベトナム軍3名を殲滅し、高射機関銃1挺を破壊し、かつ構築物内の弾薬庫を起爆させ、弾薬庫内の弾薬は1時間余りも連続して爆発した!

戦例その2 1979年2月28日、我が某連隊第1中隊は上級の命令を奉じて無反動砲2門、重機関銃3挺、火炎放射器2基を配属し、先兵中隊を用いて14号高地と14号高地の西南方向の名もない高地を攻撃占領しようとした。3月1日9時45分、我が方は短時間の戦闘後、14号高地の頂部を占領した。11時、第1中隊第1、3小隊は名もない高地に向け進攻を継続した。12時30分、名もない高地の東北側の中腹まで進んだ。敵との距離が25mの時、ベトナムサイドの手榴弾、高射機関銃、重機関銃の射撃に遭い、進攻は阻まれた。12時50分、第1中隊長は無反動砲と重機関銃に14号高地の頂部において発射陣地を占めるよう命令し、また第1、3小隊に投弾グループを組織してベトナムサイドの塹壕への突撃を準備するよう命令した。15時、第3小隊は重機関銃、無反動砲の援護の下に、敵に向け手榴弾を投げ、まず名もない高地の左側から敵サイドの陣地に突進し、壕に突入して敵との白兵戦になった。第3小隊が進攻を発起するのと同時に、投弾グループが敵火力ポイントと塹壕に向け投弾し、重機関銃1挺を爆発により破壊した。手榴弾の爆発と歩兵火力の援護に乗じ、第1小隊に配属された火炎放射器が敵のいるところに向けて火炎放射し、続けざまに敵火力ポイントと掩蔽部数個を破壊した。16時、ベトナムサイドの一部の残余部隊は逃走を開始し、第1中隊は追撃を実施し、かつ火炎放射器を使用して残余の掩蔽部に火炎放射し、隠れている敵を殲滅し、17時47分に戦闘は終わった。この戦闘で我が方は極めて小さい代価をもってベトナムサイドの62人を殲滅し、高射機関銃1挺、軽、重機関銃6挺、40mmロケットランチャー5門、M79グレネードランチャー1門、自動小銃10挺、弾薬百余箱を鹵獲した。


 ちなみに中国最新の火炎放射器は「02式」で、当然2002年に制式化されたのかと思いますけど何故か1977年には量産が開始されており、その後新たな機種が制式化されていないということは中越戦争での戦果にもかかわらずその役割はさほど重視されなかったということでしょうか。これ以上の改良の余地がないとされたのかもしれませんが。



















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