AK-47パクリ説

 久々の小火器関連です。

http://military.china.com/kangzhan70/zhjw/11173869/20151203/20867868.html


知ってる? AK-47も実は「パクリ」でできたのを

フランスの「シャルリー・エブド」襲撃事件、ヨーロッパの列車凶行事件、パリテロ襲撃の悲惨な事件、アメリカのコロンビア州銃撃事件、こうした2015年に発生した血なまぐさい事件の中で、犯罪分子が用いた武器は基本的に全てAK-47で、再度人々の関心の焦点となった。

2013年12月23日、ロシア連邦部隊中将ミハイル カラシニコフがイジェフスク市で病死し、享年94歳だった。周知のように、カラシニコフ爺さんは世界で著名なアサルトライフルAK-47の設計者で、AK銃器ファミリーの研究開発はカラシニコフ爺さんを現在世界で最も有名な人物の1人とした! しかも今、千万をもって数えられるAK小銃が全世界にあまねく分布し、その「パクリ」品はさらに数が多くて計算できず、戦乱の地域では至る所にその姿がある。

だが、人々が争ってAK小銃およびその「パクリ」機種を語る時、それにもかかわらず実はAK-47自身も「パクリ」で出来たのだと思い至る人は非常に少ない! この歴史を語ろうとすれば、簡単に要領よく第二次世界大戦の軽火器の歴史を回顧してみる必要がある。

第二次世界大戦の時期には早くも、戦争の近代化の程度の高まりにつれ、小銃の発射速度が遅く、弾薬の威力が過大で、寸法が長いという問題がどんどん暴露され、世界の主要な軍事強国は全てこの問題に対し研究を行った。1940年以後、アメリカのM1ガーランドとジョンソンM1941(王宝強が狙撃銃にしたあれである)、ソ連のトカレフSVT、ドイツのG-41、G-43などの半自動小銃が相次いで登場し、小銃の自動化のために先鞭を付けた。だが、こうした小銃の外形は依然伝統的小銃のグリップとストックが一体化した構造から離脱しておらず、弾薬の威力が依然非常に大きく、まだ現代の戦争の需要を満足させられなかった。

(頑住吉注:これより2ページ目)

これと同時に、サブマシンガンが徐々に戦場で寵愛を受け始め、それは猛烈な火力をもって接近戦の魔法のアイテムとなり、市街戦の中ではさらに向かうところ敵なしだった。だが、相対的に大きく開けた戦場では、サブマシンガンの射程の問題がすぐに暴露された。銃器設計者の面前に置かれた最大の問題は、いかにしてサブマシンガンの火力と小銃の射程の間でバランスのとれたポイントを探し出し、全く新しい兵個人武器を設計するかに他ならなかった。

この問題はまずドイツ人によって解決された。ドイツは戦争初期にもうすでにピストルグリップ構造を持つMP-38/40サブマシンガンを装備していた。この銃の全体構造上の優勢はそれをドイツ軍近代化の「寵児」とさせ、さらに出鏡率がすこぶる高い(頑住吉注:意味を説明したページは見つかりませんが映画などへの登場が頻繁だということでしょう)ため、「ナチスの屠刀」と呼ばれる。ドイツの銃器設計師は弾薬の「中間化」の問題を解決した後、MP-38/40サブマシンガンの構造を直接新たな小銃の中に参考として使用し、ガスオペレーション式自動原理の運用を結合し、拡大版の「サブマシンガン」、MKb42を生産した。この銃の第1ロットの製品はスターリングラード戦役の中でSS精鋭部隊に直接装備され、かつ重要な作用を発揮し、ドイツ軍の好評を博した。

後に、この銃はMP-44小銃として正式に定型され、かつてこの銃に対し偏見を抱いていたヒトラーも最終的にその重要な作用を認め、かつ自ら「シュトルムゲヴェール」Stg44と命名し、この呼称が最終的に「アサルトライフル」というこの専門用語を生んだ。

シーンは第二次世界大戦中のソ連に来た。我々はカラシニコフ爺さんが何をしているか見てみよう。

ソ連・ドイツ戦争(頑住吉注:いつもそうですけど出てくる国の並び順は原文のままとし、この場合も「独ソ戦」とはしません)勃発初期、カラシニコフ爺さんはT-34戦車の指揮官として前線に駆けつけ参戦した。ある戦闘の中で、彼は負傷し、一命は取り留めたが、右手はずっと思い通りに動かせなかった。

(頑住吉注:これより3ページ目)

入院の期間、カラシニコフ爺さんと負傷者たちはしばしば共にソ連・ドイツ両軍の小火器の隔たりを論じた。当時、ソ連軍が使用する本国製兵個人武器は主に「モシン・ナガン」小銃、「ペペシャ」サブマシンガン、SVT半自動小銃で、3種の銃器の中で後の2種だけが自動火器で、数の上でまだ優勢を形成していなかった。また、兵員の質の問題ゆえに、2種の武器はまだあるべき作用を発揮するには程遠く、ソ連軍に短期間内にドイツ軍に対する圧倒的優勢を形成させ難くさせていた。

カラシニコフ爺さんはこれに対し非常に憤懣やるかたなく、全く新しい銃器を設計してソ連軍小火器の立ち後れた状況を改変する決心をした。後に、偉大な志を抱いたカラシニコフ爺さんは鉄道機関車修理場にやって来て、余暇の時間を利用して継続して新たな銃を設計した。長年の後、カラシニコフ爺さんの研究開発したAK-47はソ連軍の新たな銃の機種選定の中で頭角を現し、最終的にソ連軍およびその他の社会主義国家の制式武器となった。30歳に満たなかったカラシニコフ爺さんは多くのベテラン設計師を打ち負かし、たちまち「銃王」となった。これより爺さんは飛ぶように出世し、最終的に中将の階級に上り詰めた。

だが、AK-47の研究開発問題に関しては、前述のようにかの第二次世界大戦の歴史の中で生まれたのである。

実は、AK-47の「パクリ」問題はとっくに出現したことがあり、戦後のドイツがソ連の脅威に妨げられてあえて多くを語らなかったに過ぎない。だが銃器マニアはずっといつもこれにつき論争し、双方はほとんどのっぴきならない程度にまで到達している。細かく見ると、問題の重要なカギは3点ある。

まず、カラシニコフの新たな銃器の研究開発作業はM1943型7.62mmx39(中国の56式弾薬の原型)を基礎に行われたが、この弾薬はドイツの同類弾薬を「パクって」来たものに他ならず、口径に変化がある(ドイツのは7.92mm)他、その他の性能は基本的に丸写しなのである。

(頑住吉注:これより4ページ目)

次に、カラシニコフ爺さんは実際にドイツ軍のStg44の原型銃を見た後でやっと新たな銃器に対する全ての認識を持ち、研究開発も突破性の進展を獲得したのであって、この点は非常に多くの軍事マニアが聞いて信じたがらないが、それにもかかわらずカラシニコフ爺さんは公然とこのことを認めている。

最後に、AK-47は閉鎖原理、製造技術などの方面でStg44と非常に大きな差異があるが、その基本構造はそれにもかかわらずStg44と同工異曲の妙がある。AK-47と同時期に出現したその他の自動小銃は依然古い小銃の外形上の特徴から離脱していなかったことを知る必要がある(その中には他ならぬ中国の56式半自動小銃の原型であるSKS半自動小銃がある)。

疑いの余地なく、AK-47の誕生はアサルトライフル史の1つのマイルストーンで、それはソ連の銃器の構造が簡単で操作しやすいメリットを継承しているだけでなく、しかもすこぶる発展の先見性を持ち、このためAK-47はその後非常に多くの国によって「パクられ」もした。AK-47が頭角を現し始めた時、アメリカ人はまだどうやって「ガーランド」小銃を全自動にするかを考えており(後にM14小銃が誕生)、この考え方の筋道はすでにソ連に一時代立ち後れていた!

AK-47が「パクリ」品であるか否かは決して重要なカギではなく、重要なカギはこの歴史が我々にある道理を教えていることである。それは先行者を継承するのと同時にいかにして自らの個性と優勢を発揚して製品を改良するかであり、AK-47成功の事例は今に至るも常に中国軍事工業産業の重要な一課たるべきである。


 最後の例はまさに殲ー20などに当てはまる、と言いたいんでしょうな。AK-47に関しては「全体コンセプトの上で非常に強い影響を受けているがパクリ、コピー品ではない」というのが正しいと思われ、確かに最近の中国の新兵器にはこうしたものが多くなってきている感じです。










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