中国から見た擲弾筒

 今回はユニークで有効な武器だったとして日本人が誇ることの多い擲弾筒に関する中国語のページの内容を紹介します。

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八路軍が日本軍の少将を撃ち殺した神秘の武器 鬼子は見て皆泣いた

1942年の冀中、新たに着任した日本の冀渤特区司令官坂本旅団長は300名余りの精鋭の護衛隊を引き連れて自分の占領区を巡視した。宋庄という名の村落にさしかかった時、この日本軍の隊列は突然ここで待ち伏せていた八路軍戦士の襲撃に遭遇した。

坂本旅団長は歴戦の古参兵で、銃声がするや直ちに軍馬から飛び降り、数発の急速に射撃してきた機関銃弾をかわした。だが1発の小型砲弾が正確に彼の面前に落下し、その頭を粉砕した。‥‥この大日本帝国陸軍少将はその場で死亡した! 事後、日本軍は坂本の死体を検査して気付いた。彼は中国軍が常用する迫撃砲で死んだのではなく、日本軍自身の装備で死んだのだと。‥‥89式擲弾筒である!

歴史

擲弾筒は原理的に言えば超小型の迫撃砲であり、その創造に関して言えば、やはり日本人の功績が大いにある。

1904年〜1905年、日本とロシア帝国は中国東北地方の地盤を争奪するために残酷な日露戦争を発動した(頑住吉注:いきなり本筋からそれますが、ドイツ語ではロシア・日本戦争だったのを思い出し、各国でどうなっているのかちょっと調べてみました。英語、フランス語、スペイン語、イタリア語などヨーロッパでは軒並み勝ったはずの日本が後の表記になっています。中国は日本と同じ表記で、アジアはこうなのかなと思ってハングルを検索してみたら「ロ日戦争」という表記でした。親日的と言われるトルコ、アラブ諸国、アフリカ各国などではどうなっているのか興味がありますがちょっと私の能力では無理です)。この犬が犬を噛む(頑住吉注:辞書には「悪人同士の内輪揉め」などと書かれていますが、この場合帝国主義的侵略者同士の争い、ということでしょう)戦争中、より凶暴残酷で頑強な日本人が徐々に優勢になった。ロシア軍の旅順要塞を攻撃した時、日本軍の死傷者は悲惨、重大で(第1次総攻撃に参加した6万人のうち死傷者数は1万6千)、甚だしきに至っては1日だけで5、6千人が死傷したにもかかわらず(当時日本軍の参謀は死傷者数の報告に接した時、あえてそれを信じようとしなかった。下から上がってきた数字に誤りがあるかもしれないと思ったのである。‥‥0を1つ多く書いたと)、日本軍は自分たちの兵力供給源と火力の優勢により、徐々にロシア軍の拠点を1つ1つ排除していった。

ロシアの兵士が頼りにすることができたのは主に彼らのマキシム重機関銃だったが、日本軍はすでにロシア軍の一部の構築物に攻め入っており、しかもこれらの構築物を移動、利用して有効な遮蔽を行っており、ロシア軍の重機関銃は相当程度その作用を失っていた。そこで、一部のロシア軍砲兵士官は奇想天外にも47mm口径の海軍砲を傾斜させて一種の車輪付き砲架に装備し、大仰角をもって口径より大きく長い尾を持つ形の砲弾を発射した。これこそが世界史上初の迫撃砲である。これらの砲弾は湾曲した弾道をもって正確に日本軍の隠れる構築物に撃ち込まれ、日本軍に多くの死傷者と強い恐怖心を発生させた。

それでも最後には日本軍が日露戦争の勝者となったが、日本軍の下級将校はこの新式火砲を非常を高く評価し、自軍でコピー生産し得ることを希望した。日本軍は戦後直ちに各種の口径の迫撃砲をコピー生産したが、その中の1つこそ大正十年式擲弾筒であり、1921年に部隊装備された。

大正十年式擲弾筒の口径は50mmで、重量は軽くわずか2.6kgで、射程は175mだった。その設計目的は主に、日本軍が中型迫撃砲と兵個人用手榴弾との間の火力の空白を埋め、同時に歩兵分隊の火力を非常に大きく増強することを希望したことだった。大正十年式擲弾筒は日本軍の第二次大戦敗戦まで25年の長きに渡って日本軍で現役にあった。

だが大正十年式自体の性能は良くなかった。その射程は短すぎ(200mにもならなかった)、これは兵士に比較的安全な距離でこれを使用できなくさせた。またその精度も良くなく、このことは十年式擲弾筒を短期間で後の八九式擲弾筒に地位を譲らせることになった。

八九式擲弾筒は大正十年式の改良型で、口径はやはり50mm、全長413mm、砲身長260mm、重量2.7kg、砲身重量1.6kg、脚部の長さ170mm、接地板の重さ1.1kg、支板の高さ60mm、支板の幅67mm、最大射程700m、有効射程500mだった。

八九式は日本軍が第二次大戦中に主に装備した擲弾筒でもあり、本文の主役でもある。

設計の初志

日本軍の擲弾筒は本質から言えば迫撃砲であり、その主要な特徴は発射角度が大きく、湾曲した弾道で、射程が短いことである。主に構築物や遮蔽物の後方に隠れた敵の殺傷、あるいは遠距離からの敵の生体戦力の殺傷に用いられた。その殺傷効果は良好で、操作しやすく、兵個人で携帯して第一線での歩兵の移動に随伴し、第一線の歩兵の支援を行うことができた。兵個人で携帯し、しかも障害物の後方に隠れて発射でき、その隠蔽性は高かった。

1929年の日本軍に関して言うと、その小隊の火力は比較的弱かった。各小隊に2挺の射撃精度が高い歪把子軽機関銃が配備されていたが、この銃の実戦発射速度は低く、有効な制圧火力は形成できなかった。

こうした装備の日本軍は山東において装備がさらに劣る中国の北伐軍との交戦で優勢を占め、中国軍の済南からの撤退を強いた。だが日本軍が対決しなければならなかったその他の強大な相手(例えばイギリス、アメリカ、ソ連)に対しては、日本軍の歩兵小隊の火力は遠く及ばず、しかも短期間では追いつき、越えることもできなかった。

擲弾筒の作用は大筋現在の吊り下げ式グレネードランチャーに相当し、兵個人で携帯して敵の遮蔽された火力ポイント、あるいは小集団をもって存在する敵生体戦力を打撃できる。

第二次大戦後の何度もの戦争の中で、映画の中のような数百数千が密集して並び突撃する場面はいくらも存在しなかった。圧倒的多数の戦闘は自軍の火砲あるいは装甲車両の援護下で、分隊あるいは小隊を単位とした小規模な隊の形式で出撃した。この種の作戦は人数が少なく、かつ分散しているため銃器を用いてこれらの目標を打撃するのは比較敵困難であり、ベトナム戦争中アメリカ軍は1人のベトナム兵を殺傷するのに平均1.5万発の弾丸を発射しなければならなかった。

擲弾筒という武器はこれとは異なり、その発射する榴弾の殺傷距離は十m余りに達し得た(特殊榴弾を使用すれば20mに達し得た)。発射距離が近いため命中率は高く(日本軍の古参兵の命中率は95%にも及んだ)、集団が目標なら1発の榴弾で往々にして十人余りを殺傷できた。ソマリアのモガディシュの市街戦において、黒人民兵がアメリカのデルタフォースやレンジャーに火力で及ばないために頻繁にRPGロケットを発射して補ったのと同じである。日本軍は通常の手段で歩兵小隊の抱える問題を解決できず、通常でない手段によって解決するしかなかったのである。

擲弾筒は歩兵火力を有効に増強できる武器として、急速に配備され、日本軍の使用は二十年余りの長きに渡った。甚だしきに至っては中国の戦場において朝鮮戦争までずっと使用され、まるまる三分の一世紀使用された。

擲弾筒の主要な長所

1.重量が軽く、携帯しやすく、適時の火力支援を提供できる

世界の同じ口径の迫撃砲は一般に、少なくとも6kgは越える。八九式擲弾筒はわずか3kgにもならず、何と小銃1挺の重量と比べてさえずっと軽く、兵個人での携帯に非常に適していた。

九一式手榴弾も0.45kgに過ぎず、弾薬袋1つに8発を入れても3.6kgに過ぎなかった。加えて擲弾筒の全体作戦システム合わせても7kgにも至らず、1挺のチェコ式軽機関銃と比べてもずっと軽かった。重量が軽いため、擲弾筒チームは迫撃砲チームあるいは重機関銃チームのように荷重が大であるために第一線の歩兵の作戦に遅れずついていくことができないということはなかった。実戦中、擲弾筒チームは歩兵の突撃にさえついていくことができた。

日本の古参兵東史郎の回想録の中では、ひとたび危急の時になるや、いつも擲弾筒の適時の火力支援が得られている(頑住吉注:東史郎という人は南京大虐殺関連の告白本を書いて中国では良心的日本人とされ、一方日本では元上官から名誉棄損で訴えられ、最高裁まで争った末に著書の内容が真実ではないとして敗訴が確定しています)。

「自軍の死傷を少なくするため、我々は低い道から敵に接近した。前方の敵は我々に気付いていなかったため、我々は全く容易に前進できた。だが意外にも左後方から敵の猛烈な射撃に遭い、その突然の射撃は我々の対応を間に合わなくさせた。その火力点はドブ川の向こうの竹林の中にあった。チェコ式機関銃が猛烈に我々に向け射撃しているところで、我々は深刻な脅威にさらされていた。いかなる物によっても身を隠すことはできず、我々は山の尾根に這い上がって倒れ伏すしかなかった。この対応は全く妥当だった。何故なら敵の弾は低い所からこちらに撃って来たが、我々は山の尾根に倒れ伏し、ちょうど射撃の死角になったからだ。

山の尾根は1つ1つが饅頭のような昔の墓で、我々はちょうどこれを利用でき、各自前進した。重機関銃は後方から猛烈に射撃し、我々を援護していた。攻撃に出るにあたり、我々はまず左後方の竹林の中の敵を撃退する必要があった。そこで竹林の中に向け数発擲弾筒を発射し、敵の機関銃を沈黙させた。この時、正面にいる敵のチェコ式機関銃が狂ったように我々に向け掃射してきた。数秒ごとに弾丸が一陣の風のように我々に向け飛来した。我々は墓の後ろに隠れて前方の敵に接近した。弾丸が地面に着弾し、耳をつんざいた。我々を援護する友軍の重機関銃の弾は荒れ狂い、敵軍の頭上をかすめた。だが敵は少しも意に介せず、狂ったように我々に向け掃射を続けた。

「中隊長閣下、擲弾筒を発射してはどうでしょうか?」 誰かが建議した。

「いいな! おい! 射手! まず2発撃ってみろ!」 中隊長は答えた。

少しして射手は遮蔽された所から2発撃った。擲弾の爆発音は大きく、聞けば人に砲弾だと思わせた。たった2発の擲弾でもう敵の機関銃は急に沈黙した。皆申し合わせたかのように手にきらめく銃剣を着けた小銃を握り、意気高く一気に敵に向け突撃していった。」

2.威力が素晴らしく、製造コストが低い

一般的に言って、擲弾筒の殺傷半径はおよそ5〜8mであり、1発の榴弾がもし人の群れの中に落ちれば数十人殺傷できる。この威力は50mmという口径に関して言えばやはり素晴らしいものである。

擲弾筒は技術的に成熟した日本に関して言えば製造コストが小銃の1/4でしかなく、また九一式榴弾も普通の歩兵用手榴弾と基本的に同じで極めて廉価だった。このような価格は擲弾筒の素晴らしい戦績から言うと、全くもって非常に安く、」第二次大戦の期間、国民党政府だけで4万門余りを製造し、国軍部隊に大量装備した。

3.化学兵器が発射できる

周知のように日本軍は第二次大戦中普遍的に化学兵器を使用した。今日に至るもまだ数十万発の化学砲弾が我が国の東北で処理されないままである。日本軍は一般に化学兵器を「決勝兵器」と呼び、彼らは化学兵器を、守備が非常に頑強だが基本的に防毒面を装備していない中国軍に対する効果が極めて良いと考えていた(日本兵は全員防毒面を配備されていた)。その重要性が分かる。最も困難な堅固な防御施設の攻略戦あるいは防御戦の中で、日本軍は迫撃砲と擲弾筒に大量の化学弾頭を使用した。1937年の淞滬会戦で日本軍はまず擲弾筒を使用して催涙性の気体とくしゃみ性(嘔吐性)の気体を発射し、中国の守備軍の多くの兵士の意思を失わせた。1938年の武漢会戦の期間になると、日本軍は国民党軍の何度もの包囲殲滅とより頑強な阻止攻撃に遭遇したため、日本軍はさらに憚りなく毒ガスを激しく使い、しかも劇毒のびらん性ガス、マスタードガス、ルイスガスの使用を開始し、中国兵士に多数の死傷を起こさせた。

全体で8年の抗日戦の戦役の中で、中国軍の20%前後の死傷者は化学兵器によるものだった。

擲弾筒は一級の第一線における支援武器の一つであり、戦場での必要性に基づき、非常に適時に化学兵器を散布して戦術打撃を行うことができ、非常に便利だった(頑住吉注:この部分、数字が過大なのではないかと思われる部分が多く、特に「中国軍の20%前後の死傷者は化学兵器によるもの」というのはとても信じられないですが、あくまで中国側の言い分としてそのまま紹介することにしました。それにしても今回は微妙な問題に触れますね)。

日本軍の中国における使用

第二次大戦中の日本軍はこの武器を大量に装備し、それぞれの日本軍歩兵小隊(中国の排に相当。人数は50〜70人)には機関銃チーム(2挺の軽機関銃を持つ)1、擲弾筒チーム(2門の擲弾筒を持つ)1と2個小銃分隊が配備された。

それぞれの擲弾筒チームは一般に1人の擲弾筒射手と1人の弾薬手によって構成され、一部の日本軍精鋭部隊に関して言えば各チームに1人の弾薬手が増やされ、もって弾薬の充足を保証することがあり、また予防戦闘中はこのチームは減員される可能性があった。

八九式擲弾筒が使用する弾薬は九一式手榴弾であり、これは第二次大戦中日本の歩兵が普遍的に携帯した兵個人用手榴弾である九七式手榴弾と性能が基本的に同じだった。円柱形の鋳鉄製弾体を採用し、外部には縦横の刻みミゾがあり、弾体は50ブロックに分かれていた(中国人は俗にマクワウリ手雷と称した)。爆破部にはTNT炸薬6.5gが装備され、殺傷半径は8mだった(これは相当に素晴らしい)。

八九式擲弾筒は特製の弾薬袋によって携帯され、1つの弾薬袋で8発の榴弾が携帯でき、2人による1擲弾筒チームは16発を携帯できた。皆さんは不思議に思うかもしれない。何故擲弾筒射手と弾薬手の携帯する弾薬の数量が意外にも同じなのかと。これは弾薬手にはさらに射手保護の任務があり、弾薬以外に小銃も携帯する必要があったからである。

発射時は、まず射手が撃発バーを引き、その後弾薬手が弾薬を筒口から入れ、弾薬のセットは完成する。左手で発射筒を握り、目標の距離に合わせて撃茎が対応する長さになるまで整度器を回し、射手は照準線によって概略的な照準を行った後、撃発機上の皮ベルトを引いて榴弾を射出する。

擲弾筒は日本軍小隊火力の支柱だった。日本軍の大多数の擲弾筒手は百戦練磨の古参兵で、実戦における400m以内での命中率は85〜95%にも達したとされ、これは非常に驚くべきことである(頑住吉注:的の大きさが示されなきゃこの数字には意味がないのでは)。進攻戦の中で、日本軍の擲弾筒チームは第一線の歩兵作戦に随伴し、主に国民革命軍の機関銃火力点を打撃した。多くの人の想像とは異なり、日本軍は抗日戦8年の中でいわゆる日本の武士のように、ともすれば銃剣をまっすぐにかざして突撃したわけではなく、一種極めて狡猾な方式の作戦をとったのである。

実戦の中で、日本軍はひとたび国民党軍の比較的堅固な重機関銃あるいは軽機関銃の火力点に遭遇すると、直ちに進攻を停止し、どこにでも隠れた。そして部隊に随伴して前進する擲弾筒チームが正確にそれを殲滅するのを待った。淞滬会戦では、中央軍第18軍第14師団第42旅団の36挺の重機関銃のうち、32挺が小日本の用いる平射砲と擲弾筒によって殲滅された(頑住吉注:「平射歩兵砲」というやつでしょうね)。残ったものもどんな作用も発揮することはできなかった。当時の国民党軍の重機関銃手は回想する、彼らは一般に数百発撃っただけですぐに陣地転換する必要があった。さもなければ日本軍の擲弾筒がすぐさま正確に撃って来た。だが1挺50kgの重機関銃を陣地転換させるのは口で言うほど容易ではない! ひとたび国民党軍の機関銃火力がつぶされれば、日本軍は直ちに重機関銃の火力をもって国民党軍の火力を制圧し、その後直ちに優勢な兵力をもって突撃してきた。擲弾筒に極端に依存していたため、ひとたび擲弾筒を失った日本軍はどんな作戦も知らない状態となった(頑住吉注:これもいくらなんでもオーバーでしょうが)。

東史郎は回想する。「私は5、6発擲弾筒を発射しさえすればすぐ急襲できると考えたので、声の限りに叫んだ。「擲弾筒! 擲弾筒!」 だが擲弾筒手はどこにいるか分からず、姿は見えなかった。

止むを得ず、私は「ならば手榴弾を投げて突撃するか?」と言いながら3、4m後退し、地面に伏せた。私は兵士から2発の手榴弾を受け取って、再び這い上がった。だが、敵の火力に直面し、私はあえて身を起こせず、手榴弾を敵中に投げ込むことは全くできなかった。山頂の敵は再び我々を発見し、また手榴弾を投げてきた。周りの数人の戦友がその場で爆死し、我々は這い降りるしかなかった。このように岩石上で2時間余り腹ばいになって、状況の変化を待った。」

一方防御作戦では、日本軍は擲弾筒と機関銃火力を協力させた。まず重機関銃の火力をもって国民党軍の兵士の突撃を制圧し、その後敵の手榴弾の到達範囲外から擲弾筒を使って突撃する国民党軍兵士に対し正確な殺傷を行った。国民党軍兵士がもし身を起こせば機関銃による火力の殺傷に遭い、伏せて隠れていても擲弾筒によって殺傷された。擲弾筒の榴弾の破片は殺傷半径8mに達し得るので、頻繁に国民党軍兵士の重大な死傷がもたらされた。これも8年の期間で中国軍の戦死者数が百万余りになった1つの重要な原因である。

太平洋の戦場では

実際のところ、第二次大戦中の日本軍の小火器は客観的に言って大部分がどうにか使用できるといった凡作であり、殺傷力世界最弱の三八式小銃から持続火力世界最低の歪把子機関銃まで、また自殺するにもしょっちゅうジャムした王八盒子拳銃から力を見せられるのは民間人を虐殺する時だけの倭刀まで、全て島国の住民の持つ乏しい資源を寄せ集めてできた武器である。日本民族には向上に努める特徴があるものの、往々にしてどうでもいいことに力を注ぐ。このためその武器の持つ1つの特色は総合能力がないがしろにされていることである。

小火器の選択に関し、中華民国政府高官たちはずっと理知的であり、これも8年の抗日戦で国民党軍が手にする粗製乱造の武器によってでも百万の日本軍を足止めできた原因である。もし国民政府も日本軍部のように訳の分からない連中だったら、おそらく中国軍はとっくに壊滅していただろう。

だが客観的に言って、日本軍は擲弾筒の設計と使用に関しては世界の各大国のトップを行っていた。第二次大戦期間全体を通じ、日本軍とドイツ軍だけが擲弾筒を装備し、このうちドイツ軍の擲弾筒は性能がより劣っていた。それは根本的に言って重量を軽減した迫撃砲に過ぎず、大量装備もされなかった。装備が劣る中国軍との交戦で優位を占めたほか、太平洋におけるアメリカ軍との激戦でも、擲弾筒はアメリカ軍を悩ませて止まない武器だった(頑住吉注:ドイツの擲弾筒というのは「5cm Granatwerfer 36」のことでしょう。 http://www.warcolorphotos.com/118-5cm-granatwerfer-36 口径は日本軍の擲弾筒と同じ50mm、重量はずっと重く12.5sでした。生産数は31,800門とされ、現場では威力不足として不評だったようです)。

太平洋の島々における激烈な戦闘の中で、日本軍は少しも弱音を吐かない反撃戦を開始した。ドイツ軍がアンツィオにおいて上陸してくる大紅一師(頑住吉注:アメリカ陸軍第1機械化歩兵師団。愛称の「ビッグ・レッド・ワン」を中国語訳したらしいです)に対したのと同様に、日本の勇士たちは一方では大声をあげてヤンキーを海に追い落とし、一方では猛虎が山を下るように多数の兵で突撃し、砂浜に上陸してくるアメリカ軍を一挙に包囲殲滅しようと試みた。結果は往々にして歩兵火力の射程にまだ達しないうちにアメリカの航空機や艦砲射撃の弾雨によって大量に殺傷され死傷が悲惨、重大となり、残る部隊はアメリカ軍の優勢な火力の阻止にあって全く砂浜に接近できなくなる、というものだった(頑住吉注:先日「中国が世界の中心で、下り方向は「進攻、遠征」、上り方向は「侵略」になる」、という話をしましたけど、相手がアメリカ軍になると残虐、狡猾だったはずの日本軍が急にカッコよさげな描き方になるのが面白いですね)。

中、後期になると、日本軍は徐々に戦術を調整した。砂浜は基本的に放棄し、したがって死傷が悲惨、重大となる砂浜争奪戦は避けられた。そしてアメリカ軍を、アメリカ軍の軍艦や重砲が有効に支援することが難しい奥地に引き入れ、坑道戦や夜襲戦を採用した。この種の戦術は上甘嶺で義勇軍がアメリカ軍を叩いた非対称戦に似ており(頑住吉注:朝鮮戦争におけるトライアングルヒルの戦い。 http://ameblo.jp/aki9251/entry-10775107415.html )、アメリカ軍の優勢は発揮できず、歩兵の比較的大きな死傷に頼って、徐々に日本軍の各拠点を掃討するしかなかった。

この種の戦闘スタイルでは、当時アメリカ軍はすでに制空権を掌握し、また重砲群の援護があったため、日本軍の砲兵は有効な作戦ができず(日本軍は一般に最多で数十発発射すれば直ちにアメリカ空軍と重砲によって位置が確定され、殲滅された)、有効な作戦ができるのは兵個人で携帯でき、しかも大きな威力を持つ擲弾筒だったのである。

日本軍の擲弾筒は巨大な作用を発揮した。擲弾筒は主に日本軍の軽機関銃手と組み合わされ、コンビネーション火網を構成した。まず日本軍の機関銃がジャングルや山地の地形上のメリットを利用してアメリカ軍兵士を制圧した。擲弾筒はいかなる地形でも使用できたので、日本軍の隠れる構築物の中から発射し、曲射弾道を利用して隠れたアメリカ軍兵士を殺傷した。

実戦においてこの種の戦術の効果はすこぶる良く、多くの場合日本軍の擲弾筒に対する需要は機関銃さえ超えた。多くの場合日本軍の機関銃は数発いいかげんに発射してアメリカ軍兵士を隠れさせ、その後主に擲弾筒によって殺傷任務が完成された。

実際のところアメリカ軍には近距離用の類似した武器が欠けていたので、死傷は非常に悲惨、重大だった。彼らにできるのはまず日本軍の機関銃火力を制圧し、擲弾筒手を彼らの火力下に暴露することだった。だが日本軍はすでに野戦用の構築物と坑道を作り終え、日本軍の火力を制圧しようとしても容易ではなかった。加えて日本軍の坑道は往々にして四方八方に通じており、日本軍の擲弾筒は兵個人で携帯して簡単に陣地転換できるため、1つの擲弾筒チームが数発発射するとすぐ場所を移るということがしょっちゅう起き、アメリカ軍に目標を定められなくした。要するに、日本軍の擲弾筒に対し、アメリカ軍には良い方法がなかったのである。

こうした状況下で、アメリカ軍は硫黄島に1平方kmあたり砲弾と爆弾を1200トン注ぎ込んだにもかかわらず、自身はそれでも2.86万人余りの死傷者を出した(日本軍の守備隊は2.5万人が全滅した)。その後の沖縄戦役では、アメリカ軍はまた6.6万人が死傷した(日本軍は11万人が全滅した)。

このように大きな死傷者数は、アメリカ軍が最終的に原子爆弾を使用した直接の原因でもある。

国民党軍によるコピー生産と使用

国民党政府は1934年には早くも日本の大正十年式擲弾筒のコピー生産を開始した。だがその性能は並みで、部隊に大量装備はされず、少数の関係する技術人員を養成しただけだった。

全面的な抗日戦開始以後、国民党軍は初期の華北争奪戦や淞滬南京会戦の中で日本軍の擲弾筒の凄さを認識するに至り、また有効な対抗手段はなかった。国民党政府は詳細な研究を行った後、日本軍の擲弾筒に対抗するに最も良いのははやはり歯には歯であると考えた。国民党軍には大正十年式をコピー生産した技術的基盤と完備された設備があったので、1938年には早くも新式擲弾筒をコピー生産した。これは大正十年式を基礎に改良したもので、民国二十七年式と命名された。

その主要な性能は日本の大正十年式に大体相当し、日本軍の主要装備である八九式と比べるとなお相当な隔たりがあった。主要な差異は民国二十七年式はスムーズボアを採用し精度がより劣ったことで、その射程も250mに過ぎなかった。大正十年式と比べれば100m長いが、八九式の600mの射程には遠く及ばなかった。性能がより優秀な八九式をコピー生産しなかったのは、国民党軍がコピーしたくなかったわけではなく、自身の技術的力量が不充分だったのである。同時に戦争の擲弾筒に対する需要の切迫度は兵器工業にも落ち着いた研究をできなくさせた。

抗日戦の時期全体で、国民党軍の軍需企業は4万門余りの擲弾筒を生産し、さらに150万発にも達する榴弾を生産した(平均それぞれにつき30発余り)。この擲弾筒は技術的に比較的遅れていたにもかかわらず、それでも一定程度国民党軍の火砲の深刻な不足を補い、国民党軍の現場の兵士に深く愛された。

八路軍と新四軍によるコピー生産と使用

八路軍は平型関の戦役(頑住吉注:1937年9〜11月。抗日戦で初めての中国軍による勝利であり、皇軍無敵神話を打破した、とされてますが、これも日本側には異論があります)において早くも日本軍の擲弾筒と交戦していたのであるが、真にその凄さを認識するに至ったのはやはり百連隊大戦の関家〜戦役においてだった(頑住吉注:日本語にない漢字です。発音は「グアンジアナオ」といった感じです)。当時数万の日本軍は百連隊大戦の報復のため、大掃討を発動し、この中で岡崎大隊(600人余り)、崛田大隊(200人余り)の2個大隊は突出して八路軍領域深く入り込み、関家〜で八路軍の優勢な部隊によって丸ごと包囲された。

彭老総司令官は第129師団に、必ずこの日本軍を全滅させよ、さもなくば師団長以下全員を軍法に従い処置する、と命令を下した。結果としてこの重火器を持たず、数挺の重機関銃と数門の擲弾筒しか持たない岡崎大隊は、意外にも関家〜の地の利を生かして第129師団の3日もの長きに渡る猛攻を食い止め、しかも八路軍に重大な損失を与えた。このうち第25連隊、第38連隊の負傷者数は1570人、犠牲者は500人余りで、この他に参戦したさらなる第772連隊、第769連隊等にも相当の死傷者が出て、死傷者の総数は3000人を超えた。日本軍の死傷者も重大で、岡崎大隊長自身が戦死し、日本軍の作戦可能な残りの人員は100人にも満たなかった。

関家〜の戦役で、日本軍の擲弾筒は弾薬不足だったにもかかわらず、密集して突撃する八路軍兵士にもたらす死傷はそれでも非常に深刻だった。日本軍の擲弾筒の打撃下で、一部の八路軍中隊は最終的に1/3にも満たない兵士しか残らなかった。この戦いの後八路軍上層部の人員は擲弾筒の作用を重視し始め、詳細な分析後、彼らは日本軍の擲弾筒に対抗する最も良い方法は同じ装備をコピー生産するしかないと考えた(この点は国民党軍サイドの認識と同じである)。

同時に擲弾筒は重量が軽くて威力が大であり、その事前準備時間も短く、八路軍が展開するゲリラ戦に非常に適していた。当時八路軍は中期の編成拡大のため、兵員の素質と装備のレベルが抗日戦初期と比べてすでに大きく低下していた。大多数の八路軍兵士は戦闘前の実弾射撃が10発を超えていなかった(部隊の弾薬が欠乏し、戦闘にも足りず、どうして練習に回せるだろうか)。このような兵士は世界のその他の国の視点から言えば、民兵にすら含めることはできない。同時に八路軍の歩兵装備は主に小銃、手榴弾と少数の軽機関銃であり、少数の迫撃砲はあったものの砲弾は欠乏していた。このような装備では装備に優れた日本軍と遠距離で戦闘することはできず、このため八路軍は近距離奇襲作戦の方式を採用し、もって敵の火力の優勢を削減するしかなかったのである。

当時の日本軍兵士は後に回想録に次のように書いている。「八路軍は150mに至るまでは発砲しなかった。こうした突発的な銃声に直面してもし迅速に反応しないと、数分後には八路軍はもうすでに銃剣をかざして目の前に突進してきた。」

この種の方法は一度は非常に有効で、八路軍は一部の新兵を使い手に長い矛を持たせて道の脇に隠れさせ、主力部隊の突撃と組み合わせ(小銃の数量が不足していた)、日本の傀儡軍の100人の輸送隊を殲滅したことがある。だが、日本軍は後期には戦術を調整し、擲弾筒の大量使用をもって八路軍の密集突撃を抑えた。擲弾筒の発射速度は速いので、優秀な射手は毎分20発余りに達することができ、八路軍兵士が突撃する数分間のうちに擲弾筒はすでに大量の榴弾を発射できるのだった。1発の榴弾の殺傷半径は8m前後あり、1発の榴弾は往々にして突撃する八路軍兵士数人の死傷を引き起こすことができた。一定期間八路軍の死傷は比較的深刻で、このうち擲弾筒による死傷は35%にも達した。

八路軍の上層部はこれにかんがみて、1940年10月に八路軍軍事工業部門に直ちにコピー生産するよう命令を下した。当時命令を受けた八路軍軍事工業部長劉鼎は素早く自分の豊富な経験と鹵獲した日本軍擲弾筒の現物を頼りに、1941年4月に第1号の自分たちの擲弾筒をコピー生産した。これは全部で40門あり、八路軍では五零小砲と称した(頑住吉注:口径50mmから来た名称でしょうかね)。五零小砲の研究開発期間、八路軍の軍事工業人員は多くの、はたから見れば越えられない技術的障害を克服し、各方面を全て大いに驚愕させた。痛い目を食らった日本軍さえ驚いて叫んだ。八路軍は太行山に近代的な兵器工場を建設し、先進的な設備と外国の専門家を抱えていた。

実は研究開発過程全体が極めて困難で、主な問題は原料と加工方法にあった。

まず原料について語ろう

当時の八路軍の根拠地は、遅れた中国でも最も貧窮した地区に属した。擲弾筒の本体に必要な鋼管は根拠地では全く手に入らなかった。しかも自分での製造は大量の鋼材と比較的複雑な工程を必要とした。当時の根拠地では鋼の精錬はできず、唯一の鋼材の入手元は日本軍がコントロールする鉄道のレールを外してくることによるものだけだった。

レールを外す作業は一般に現地の民兵や一般庶民によって行われた。その後レールは八路軍軍事工業部門が小銃や手榴弾と交換した。日本軍はレールを失ったことにより何度も鉄道沿いに掃討や虐殺を行い、この原料の入手元も容易なものではなかった。

筒部の材料の問題は解決したが、今度は弾薬の材料の問題が発生した。弾薬は原料に対する必要量がさらに大きく、我々が手に入れるレールの数量もまた非常に限られていたので、レールを弾薬の材料に使用することは不可能だった。設計人員は再三考慮を重ね、盛んに生産されていた低品質の鋳鉄を原料として用いることを決定した。だが伝統工芸で生産されるこの鋳鉄は現地の農民が土着の方法で精錬して作るもので、炭素の含有量が多く、鉄の質が非常にもろく、ひとたび機械加工を経ると弾薬本体にすぐ割れが発生し、使用できなかった。劉鼎部長、ドイツに留学経験のある冶金技術者の陸達、技術工員の孫兆熙による繰り返しの試験を基礎に、国外の黒心靭化処理技術と伝統的な焼き戻し技術を使用して組み合わせ、弾薬本体が脆弱であるという問題は解決された。1941年にはもう4万発の擲弾筒用榴弾が生産され、できる限り前線の需要を満足させた。

再び加工技術について語ろう

原材料問題が解決したが、今度は加工技術の問題が浮上してきた。擲弾筒本体の製造も多くの難題に遭遇した。例えばスポット溶接技術がない、鍛接粘合で筒を製造すると今度は高温に耐えられないなどである。設計人員は全てにおいて人を驚かせ、不思議がらせる想像力を用いてこれらを解決し、しかも何度にもわたる改良によって生産速度も加速させた。この他、日本軍の八九式擲弾筒は精度向上のためライフリングがあり、榴弾にも対応する純度の高い銅製の弾帯があった。だが根拠地の技術力ではライフリングが作れず、また純度の高い銅資源もなかった(通常兵士は作戦時でさえ弾薬の銅製薬莢をできる限り拾って帰った)。設計人員は研究を経て、国民軍の民国二十七年式を模倣することを決定し、ライフリング構造を放棄してスムーズボア構造を採用した。だが国民党軍の擲弾筒の射程が短いという欠点にかんがみ、五零小砲の発射筒の長さを日本製の280mmから400mmにまで延長し、筒の肉厚もこれに合わせて厚くし、500mの射程を保持した。後に八路軍はさらに五零小砲に対し多くの種類の改良を行い、精度がより高いプッシュ式発火擲弾筒、口径60mmの擲弾筒、さらには平射してトーチカを撃つのに使える擲弾筒さえ生産した。これら全てが独自の1系列の製品となった。

1941年から抗日戦終結の1945年まで、八路軍総本部軍事工業部各工場だけで2500門の擲弾筒、20万発の砲弾を生産し、30近い連隊に装備された。この中で129師団など八路軍の主力部隊は基本的に戦闘分隊ごとに1門を配備し、日本軍との間の火力の隔たりを大きく縮めた。

新四軍は八路軍と異なっていた。水郷作戦の特徴のため、新四軍は迫撃砲の生産をメインとし、擲弾筒の生産数量は比較的少なかった。抗日戦全期間で新四軍は400門の擲弾筒しか生産せず、擲弾筒用榴弾の生産数は2万発だった。

抗日戦全体を通じ、八路軍の軍事工業部門は根拠地の極めて劣悪な条件に直面したが、それでも不屈の創造性をもってこの実現不可能に見える任務を完成させた。研究開発過程全体で、技術工員の張師傅が榴弾の試験時に犠牲となり、魏振様の師である傅明は危険を知りながらも試験を続け、爆発により右手を失った。さらに説明を必要とするのは、当時劉鼎部長自らも試験に参加し、深刻な発射筒破裂事故にも遭っていたことだ。もし戦友が遅れずかばわなかったら、劉鼎部長も重傷を負ったかもしれない。八路軍の軍工人員の勇敢さ、怖いもの知らずぶりは本当に人をして感服させる。

抗日戦後と淘汰

抗日戦が終わったばかりの時、実は内戦が目前に迫っていた。

国民党、共産党双方は互いに華北や東北の日本軍のコントロール下にあった拠点を争奪し、国民党軍は山海関以内で大きく優勢だった。中国を侵略した日本軍の総司令官崗村寧次は極端に反共的な人間であったため、日本の参謀本部が秘密のうちに下した、日本軍華北方面軍は八路軍に投降し、これにより八路軍の実力を充実させ、国共内戦をより激烈にし、日本軍が座してその果実を享受するようにせよとの司令を遵守しなかった。彼は中国を侵略した日本軍を一律に国民党軍に投降させる命令を下し、もし八路軍の投降を強制する命令にあったら、必ず直ちに抵抗すべしとした。アメリカも航空機を使って国民党軍が占領する大都市を援助し、その結果全国で張家口を除く大都市は国民党軍によって占領された。だが八路軍も大多数の華北の中小都市を占領し、相当の日本軍装備を手にした。

山海関の外では、ソ連が武力の使用を禁止したため、国民党軍が八路軍より早く進入した。十万余りの八路軍が東北を占領した後、大部分の関東軍の装備および四十万の満州傀儡軍の装備を接収し、実力は大いに高まった。このうちソ連は日本の関東軍最大の蘇家屯倉庫を八路軍に回し、八路軍は小銃2万挺、機関銃千挺、火砲150門、そして数百万発の各種弾薬を手にした。さらにソ連軍の援助下で、八路軍は錦州の満州傀儡軍1個守備旅団の武装を解除し、小銃3000挺余り、機関銃200挺余り、火砲数十門、さらに100箱余りの砲弾と500万発の弾薬を手にした。東北の八路軍全体で入関数カ月以内に小銃12万挺以上、軽、重機関銃3500挺余り、擲弾筒千門近く、各種の火砲492門を手にした。

1947年、国民党軍は4万門の擲弾筒を装備し、重、軽機関銃との比率は1:2だった。一方解放軍は5000門しか持たず、国民党軍のおよそ1/8だった。この1年で解放軍が生産した擲弾筒の榴弾は16万発で、主力部隊の各分隊全てに1門の擲弾筒が配備された。

1948年になり、前年解放軍が戦略的反攻に転じるにつれ、1946年7月〜1948年7月までの2年間に解放軍は全部で国民党軍の小銃90万挺余り、機関銃6万4千挺余り、迫撃砲8千門余り、歩兵砲5千門余り、山砲、榴弾砲、カノン砲1千百門余り、擲弾筒2万門近くを鹵獲していた。国民党軍殲滅後の鹵獲と、自らコントロールする東北の大型軍事工場の大量生産により、擲弾筒の数量は基本的に国民党軍に相当するようになり、年間で榴弾10数万発を生産した。1949年になると、解放軍は三大戦役において国民党軍の200万近い主力を殲滅し、擲弾筒の数量でも大いに優勢となった。

国民党軍サイドの敗戦にもかかわらず、内戦期間全体で国民党軍サイドは全部で擲弾筒8万門余り、榴弾60万発余りを生産した。だが内戦の終結とともに、1950年末には擲弾筒およびその弾薬は解放軍の装備の序列から退出し始めた。

朝鮮戦争の時期になると、朝鮮入りした大多数の部隊は擲弾筒分隊を廃止していた。例えば第38軍の各歩兵中隊は擲弾筒分隊を廃止し、1個60mm迫撃砲小隊(3門制)を増設していた。だが60mm迫撃砲の数量が不足し、擲弾筒の実戦性能が肯定されていたため、第38軍歩兵中隊は擲弾筒の編成を廃止した後も、依然少数の擲弾筒を下層幹部により「戦損」の名目で密かに残した。資料の記載によれば、3回の戦役後、第38軍第113師団には依然少数のこの種の装備があった。

擲弾筒は何故淘汰されたのか。主要な原因はやはりそれ自身の欠陥ゆえにである。

擲弾筒の主要な欠陥はその照準と精度にあった。擲弾筒には迫撃砲のような正確な照準器はなく、概略の照準しか行えなかった。簡単に言うと、撃ってあたるかあたらないかは主に射手の感覚と経験によっていた。経験ある古参兵が手にすれば毎発命中し得るが、もし経験のない新兵により発射されれば毎発全て命中しないという状況も容易に起きたのである。

日本軍は太平洋戦争および東南アジアにおける戦争の後期になると、古参兵の大多数がそれまでの戦闘で戦死しており、新兵は新兵で擲弾筒を有効に操作できず、歩兵の火力は非常に大きく低下した。当時もう日本軍上層部には擲弾筒廃止の視点が提案されていた。

この他、擲弾筒はライフリングはあるものの砲身が短く、精度不充分という結果がもたらされていた。また擲弾筒発射時は片手で砲身を支えることが必須であり、射撃の後座力が手の振動をもたらすことが免れ難く、砲身が発射の瞬間に振動することがもたらされ、精度を深刻に低下させた。

さらに、迫撃砲技術の急速な発展につれ、迫撃砲の価格と重量が徐々に擲弾筒に接近し(ソ連人は第二次大戦の期間に82.5万門にも達する迫撃砲を生産した)、加えて迫撃砲には射程と精度上の優位性があり、擲弾筒の淘汰は見たところ免れ難いところだった。


 擲弾筒が中国で生産された、しかも国民党軍も八路軍も揃って大規模にコピー生産していたというのは知りませんでした。高く評価してコピーしたのですから当然ですが、基本的に高い評価が与えられています。日本の悪口に関しては、言われてもしょうがない部分もありますし、また日本のものを褒めるときは自分が他の中国人から非難されないようにセットで悪口を書くのがいわばお約束になっているのが分かってきたので苦笑しか出ません。しかしまあ「第二次大戦中の日本軍の小火器は客観的に言って大部分がどうにか使用できるといった凡作であり、〜全て島国の住民の持つ乏しい資源を寄せ集めてできた武器である」なんてことを、ライフリングを切る技術もなかった、鋼鉄を精錬することもできなかった人たちに何で言われなきゃいかんのかとは思います。ただ、「どうでもいいことに力を注」ぎ、「総合能力がないがしろにされている」という評価が当たっている日本の兵器って確かにいくつかありますよね。

http://baike.zhige.net/uploads/201001/1263275592sy2GaCaQ.jpg

 模型ですが、民国二十七年式の画像です。















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