ソ連の「志願隊」抗日戦時の中国軍を助ける その1

 「歴史秘話」ものの記事です。ちなみに長いのとスケジュールの関係で前後2回に分けます。

http://military.china.com/history4/62/20150413/19515825.html


抗日戦中のソ連の中国支援空軍志願隊:その貢献はフライングタイガースをはるかに超える

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「ソ連空軍志願隊の一部の中国支援顧問」)

中国空軍の対日作戦の中での損失が悲惨、重大でソ連は中国に援助を与えることに同意

抗日戦勃発後ほどなく、中国の実戦機は即ほとんど損失し尽くした。欧米各国が日本に対し融和政策を実行する状況下で、蒋介石はソ連に救援を求めるしかなかった。自身の利益のため、ソ連は志願隊の名目で中国に実戦機と飛行員を提供し、抗日を助けることに同意した。

1、中国空軍が装備する各種雑ブランドの飛行機は日本の先進的な実戦機に対抗できず、全ての制空権を喪失する結果をもたらした

抗日戦直前、中国空軍はやっと統一されたばかりで、各種作戦機は305機で、全部国外から購入したものであり、その中ではせいぜい半分がかろうじて現代の作戦飛行機と評価できた。また加えて相応の維持修理やメンテナンスが欠け、実際に戦闘に参加できる飛行機の数は非常に少なかった。中国の飛行員はシステマチックな訓練が欠けていたため、戦闘能力も普遍的に高くなかった。日本空軍は飛行機2,625機を持ち、その中で中国侵略に用いられた陸軍航空隊の飛行機は約300機、海軍航空隊は550機、合計850機だった。さらに重要なのは、日本には脈々と不断に新たな実戦機を研究開発、生産し、戦争の損耗を補充する能力があることだった。

劣勢にあったものの、中国空軍は依然中国を侵略する日本軍と頑強な戦闘を行っていた。だが1937年11月末になって、中国空軍の作戦に用いることができる飛行機は30機しか残らず、中国空軍はここに至り名目はあっても実際には滅んでいた。制空権を完全に獲得した後、日本軍はほしいままに一般民、衛生施設をはばかりなく爆撃することができた。野外作戦部隊とコンビネーションして中国軍に対し重大な脅威を構成した。日本空軍はさらに前線を遠く離れ、大後方の都市を爆撃に行くことができた。

2、蒋介石、ソ連に向け助けを求める スターリン、戦闘機の援助を与えるだけでなく、さらに空軍志願隊を派遣する

九一八事変後、日本は中国東北を侵略占領した。欧米各国は融和政策を実行し、日本の侵略を放任した。ソ連だけが、自身の利益に関わるがゆえに(日本はソ連勢力を中国東北から駆逐しようとしただけでなく、さらにソ連極東地域の安全に脅威を及ぼした)。共通の敵の面前で、中ソ両国は1937年8月に「中ソ相互不可侵条約」を締結した。この後ソ連は中国に三度信用借款を与え、総額2.5億アメリカドルで、利息は極めて低かった。ソ連の中国援助の目的はごく簡単だった。中国を圧力に持ちこたえさせ、日本に降伏させないようにしたのである。

蒋介石は待ちきれないとばかりに中国駐ソ連大使だった蒋廷黻に電話し、彼にソ連との「飛行機交渉」を助けるよう頼み、中国は「現在最も早急に必要とするのは、駆逐機(頑住吉注:戦闘機)200機と双発重爆撃機100機である」とした。後に蒋介石はスターリンへの秘密電文の中でまた、「特に飛行機の件です。全く待ちきれません。中国には現在10機に満たない軽爆撃機しか残っていないのです。需要の急は何も比べられるものがありません。まず協議により許された爆撃機とエンジンをできる限り早く貸し、早く中国に運んで下さい。」と語った。スターリンはすぐ国民党政府の請求に答えた。ソ連政府は1937年9月から第一弾の飛行機を中国に輸送し始めた。その後、また多数の飛行員と航空地上勤務人員を選抜し、ソ連空軍志願隊の名目で中国にやって来させた。

ソ連空軍志願隊、中国に実戦機をもたらし、飛行員を訓練し、対日作戦に参加

ソ連の中国空軍に対する援助は多方面で、志願隊は中国に実戦機を提供し、人員を訓練しただけでなく、さらに優秀な飛行員を出動させ、直接中国の日本軍に対する作戦を援助した。

1、ソ連空軍志願隊が中国のために実戦機をもたらすこと1,000機余りで、中国空軍の絶対的劣勢を逆転させた。

1937年11月には早くも、スターリンは中国軍事代表の楊傑と会見した時、「飛行機の製造は決して困難ではない。難しいのはエンジンの製造だ(頑住吉注:いまだにそうですな)。ソ連は中国向けにエンジンを提供することができる。飛行機は中国が自ら製造するのだ。もし中国が踏ん張りたいなら、自らの空軍と砲兵隊を発展させるべきだ。中国には腕のいい職工がいて、ソ連は設備を提供する‥‥中国は自らの空軍、砲兵、石油があり、自らの重工業ができれば、すぐ日本を打ち負かせる。」 双方の協議を経て、飛行機製造工場は新疆の迪化(ウルムチ)に建てられ、対外的には農業機械工場と称され、1942年になって基本的に完成した。だが後に盛世才(頑住吉注:当時新疆を支配していた人物)の反ソ政策ゆえに、ソ連は全ての工員と設備を撤収した。

(頑住吉注:これより2ページ目)

中国がソ連の飛行機を発注するのに使用したのはソ連の中国に対する信用借款だった。ソ連が中国を援助した各種飛行機の総数に関しては、現在統一された説がない。かつて中国に来て技術兵高級顧問の任についたカリヤキンは、1937年10月〜1942年1月、ソ連が中国に供給した各機種の飛行機は1,235機、航空爆弾は215万発だった、とした。またさらに多くの飛行機のフルセットの予備部品を供給した。非常に多くの志願隊隊員は直接こうした実戦機を操縦し、対日作戦の中に投入された。

2、ソ連空軍志願隊、中国が多くの優秀な飛行員を訓練するのを助け、中国空軍の作戦能力を高める

中国空軍に日本軍と互角の作戦能力を獲得させようとするには、単に飛行機を提供するだけでは不充分で、ソ連はさらに一歩進んで技を伝授し、中国の飛行員の実戦機操縦を訓練した。ソ連はリジャリェフ(後にソ連空軍総司令、空軍元帥に任じられた)、レイチャゲフ(後にソ連空軍司令、空軍中将に任じられた)、ボレーニン(後にソ連空軍後方勤務部長、空軍上将に任じられた)、ヘリューキン(後にソ連空軍副司令員、空軍上将に任じられた)など89名の航空専門家を選抜してやってこさせ、これも空軍志願隊の組成人員とし、中国が航空供給基地、飛行機修理工場を建立するのを助け、航空学校を開設して航空人員を訓練した。

こうしたソ連航空専門家は相次いで中国が蘭州、伊犂、綏寧、成都などの地に空軍訓練基地や航空学校を開設するのを助け、彼ら自らによって教官が担当され、中国航空人員に対し技術訓練を行った。伊遼航空教導隊は1940年だけでもう328名の飛行員を養成訓練した。彼らは4年間、全部で中国のために1万名近い関連の技術人員を養成訓練した。

養成訓練の進度を加速するため、さらに多くの中国の学員がソ連国内に送り込まれて強化訓練を行った。1939年、もう中国は飛行員1,045人、ナビゲーション員81人、無線電信発信員198人、航空機械師団8,354人をソ連に行かせて養成訓練に参加させた。中国の飛行員は中国に援助された飛行機の性能、操作を理解した後、すぐ単機をもってソ連機群に編入され、ソ連飛行隊と共に作戦し、射撃、投弾、落下傘降下、滑空、連絡、ナビゲーションなどの技術を学習し、最終的に中国空軍編成単位に編入された。この種の訓練法式は中国飛行員の技術を向上させただけでなく、さらに中ソ両国の飛行員の戦闘中の暗黙の了解を強化した。

3、ソ連空軍志願隊、しばしば出撃し、かつて日本の在台湾飛行場を奇襲、敵の3年の燃料備蓄を焼失させた

いち早く中国が日本軍を防ぎ止めるのを助けるため、ソ連は志願飛行員を派遣し、直接参戦した。ソ連志願飛行員には皆豊富な経験があり、かつ充分な訓練を受け、平均で8から10年飛行し、そのうちの少なからぬ人は以前は航空学校の教員だった(人員全体はバイカル軍区から選抜されてきていた)。

対日空戦の中で、ソ連空軍志願隊の戦績は卓越し顕著で、百をもって数える敵機を撃墜した。ソ連の中国援助飛行隊はすぐに戦闘に投入され、まずはある大尉が「小手調べ」し、彼は9機の爆撃機を率い、上海に停泊する日本の軍艦を襲撃し、3隻の軍艦を爆沈させ、別に6隻の軍艦を出火させた。これは「七七事変」以来中国の日本軍に対する初の空襲の大勝利だった。

南京陥落後、中日の主戦場は武漢に転じた。国民政府はそこで武漢、南昌に新たな飛行場を修築し、もって日本軍と空戦を展開するのに便とした。1938年2月18日、日本軍は12機の爆撃機を出撃させ、26機の戦闘機の航路護衛の下に武漢を爆撃した。ソ連志願隊飛行員は飛び立って迎撃し、一挙に日本機12機を撃墜した。ソ連志願飛行員はこれにより「正義の剣」の栄誉を獲得した。

4月29日は「天長節」、つまり天皇誕生日である。日本軍は天皇に向け誕生祝いをするため、飛行機69機を出動させ、武漢に行って報復した。日本空軍の両エースと呼ばれる木更津航空隊と鹿屋航空隊もこの行動に参加した。ソ連空軍志願隊は再度飛び立って作戦し、日本機と30分激戦し、2機の飛行機という代価をもって日本機21機を撃墜した。

5月31日、日本空軍は爆撃機18機を出撃させ、36機の戦闘機の航路護衛の下に第3回目に武漢を猛攻した。結果として日本軍はまた14機を損失して敗北した。ソ連飛行員グービェンコは弾を撃ち尽くした後、猛然と敵機に体当たりし、日本機が損傷を受け墜落損壊する結果をもたらし、自らはそれにもかかわらず機を操縦して安全に着陸した。グービェンコはこのため中華民国金質勲章を栄誉にも獲得した。






















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