黄海海戦の考証が進む‥‥?

 日本では日本海大海戦、太平洋戦争でのいろいろな海戦に比べ本当に地味な印象ですが中国人の思い入れは想像以上に強いようで‥‥。

http://military.china.com/important/11132797/20150930/20492410.html


施洋:致遠艦が体当たりしようとしたのは吉野ではなかった可能性が高い

9月29日、国家文物局水中文化遺産保護センターの「丹東一号」の沈没船発掘人員は2ヶ月近い水中考古調査を経て、最終的に「丹東一号」沈没船こそが甲午海戦の中で沈没した致遠艦であると確定した。

近代中国全体に対し、「致遠」艦には非常に多くの尋常ならざるところがある。旧中国最強海軍である北洋水師が最後に対外購入した主力戦闘艦の1つであり、この艦は北洋水師の中で最も先進的だった。そして「致遠」艦の沈没およびその艦長の黄海海戦の中での光栄な殉国ゆえに、さらにそれを北洋水師の代表とさせている。さらに1958年の「甲午風雲」が億万の中国の観衆の心の目の中に不滅のイメージを加えた。北洋水師の中で「致遠」艦は決して旗艦ではなかったが、それにもかかわらずすでに現在の中国のかの歴史に対するカギとなる重要な記憶となっている。

まさにこうであるからこそ、「致遠」艦の発見と確認は、このように多くの中国人の歴史的共鳴を引き起こすのだろう。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「考古現場で発見された四角型の舷窓」)

「北洋水師博物館」と「吉野」の由来

北洋水師と甲午海戦に言及すれば、「致遠」艦と、かの無数の国の人を鼓舞した「吉野への体当たり撃沈を企図」の主役たる日本の艦、吉野に言及せざるを得ない。これらの艦艇の性能パラメータや技術的特徴に関しては、早くから多くの文献の紹介があるが、これらの艦船の特徴がそれぞれ異なるため、やはり最終的に北洋水師と日本の連合艦隊が海戦の中で使用した陣形が大違いであることをもたらした。

当時清国政府が外国に戦闘艦を発注する時、伝統的海権国家イギリスの深い影響を受けて、海関総税務司(頑住吉注:ロバート)ハートを通じて多くの海防艦艇を発注した。しかしハートの艦の購入過程で続々と発生したいくつかの不愉快およびイギリスが中国海軍をコントロールする企図が日増しに顕著になったため、当時中国新式海軍建設を主宰していた直隷総督の李鴻章は徐々にイギリスに対する信頼を失ってゆき、新生の海軍国家であり、勃興したばかりの工業強国でもあるドイツに戦闘艦の建造を発注する方向に転じた。

(頑住吉注:これより2ページ目)

ドイツの造船工場は相当にリーズナブルな価格をもって中国のために「定遠」、「鎮遠」、「済遠」など数隻の戦闘艦を建造したが、イギリスのアームストロング造船工場の積極的渉外活動が原因で、加えて中国・フランス戦争後に中国でわき起こった新たな艦購入の熱いブームがあり、イギリス製戦闘艦を再度清国政府の視野に入らせた。1885年、中国はすでに完成した「済遠」号装甲貫徹巡洋艦の方案に照らし、イギリス、ドイツの造船工場に向けそれぞれ再度2隻の同型艦の建造を発注した。だがドイツには当時艦船の設計経験が欠乏していたため、「済遠」艦の設計は多方の批判に遭い、このためイギリス・ドイツに向け建造を発注した巡洋艦も、「済遠」の同型から「西方の国で通用する有効な船の形式」に変わった。

「致遠」艦を設計したのは当時のイギリス造船界の奇才で、アームストロング社の艦船設計師ウィリアム ホワイトだった。彼は1886年から1903年までの17年間、その抜きんでた才能をもってロイヤルネービーのほとんど全部の大型軍艦の設計を引き受け、ロイヤルネービーのこの時期が「ホワイト時代」と呼ばれる結果をもたらした。彼は「済遠」の設計の不足に対し8カ所の致命的欠陥を提出し、かつ全く新しい巡洋艦の方案を提出した。これこそ後の「致遠」級装甲貫徹巡洋艦である。

当時の海軍はまさに外殻が木造の船から外殻が鋼鉄の船、鉄甲船に、前装砲から後装砲への転換の時期で、武器装備の性能が日進月歩だっただけでなく、海戦の形態すらも揺れ動いて定まらない状態にあった。1862年のハンプトン海戦の中で、火砲が鉄甲を撃ち抜けない事実は一気に旧式な海戦模式を完全に覆した。1868年のリサ海戦の中では、横隊陣形プラス乱戦体当たり戦術のオーストリア海軍が縦隊戦術のイタリア海軍を大敗させ、体当たりと横隊戦術をまたこの時期の海軍理論界の主流とした。だが1890年前後、大口径後座式速射砲の実用化と共に、火砲が改めて海戦の中で優位を占め、海戦の陣形にはまた一度横隊から縦隊に向けての方向転換が発生した。

折悪く清国政府が直面した何度かの海防危機と海軍建設はちょうどこの混乱した時期のことで、北洋水師の何隻かの艦船が旗色鮮明な時代の特徴を有する結果をもたらした。すなわち、1881年の「超勇」、「揚威」両艦は体当たり戦術に重点を置き、1884年から1887年の「定遠」、「鎮遠」、「済遠」、「経遠」、「来遠」は横隊で敵を迎えることに重点を置き、火砲の前置きを多用した。1887年の「致遠」、「靖遠」になった時には、ウィリアム ホワイトの先見の明の下、このクラスの艦の設計はすでに縦隊砲戦と舷側で敵に対する新時代に照準を合わせ始めていた。

中国にこのように多くの当時の新たな潮流に属する軍艦があったことは、当然時代にぴったりついて行ったことの表れだが、このように多くの異なる時代の軍艦が博物館のように同時に1つの艦隊で就役していることは何ら良いことではなかった。さらにまずかったのは、1890年以後海戦が北洋水師の大部分の艦船とは全く異なる方向に発展したことだった。日本海軍も1890年以後大規模に新鋭戦闘艦を購入し、かつ速射砲を使用して古い船を改造したが、1888年以後翁同〜戸部(頑住吉注:日本語にない漢字を含む前3文字が人名で後の2文字は肩書きのようですがよく分かりません)は「減省開支」政策を実行し、中国海軍がもはや外国の軍艦や火砲を購入しない結果をもたらし、国産艦船の建造も支出減少ゆえにスローダウンを始めた。この時期の北洋水師は止むを得ず早い時期に購入した「骨董」に頼って新たな脅威に対応した。

興味深いのは、「吉野」艦の設計のルーツが「致遠」に他ならないことである。致遠艦は設計の時経費の制限を受けたため、船の寸法が大きくできないだけでなく、艦上の火砲もさらに一歩増加できなかった。だが経費が充足し余裕のある日本がイギリスに赴いて戦闘艦を購入する時、致遠艦の設計に基づいてさらに一歩大型化した後の4,200トン型アームストロング輸出型巡洋艦は当然彼らの最も良い選択となり、これが後日の「吉野」艦の由来なのである。

(頑住吉注:これより3ページ目)

「吉野への体当たり撃沈を企図」の悲壮な神話

黄海海戦は致遠艦の生涯の最高峰でもあり、「吉野への体当たり撃沈を企図」は疑いなく致遠艦の最も伝奇的で壮烈な部分である。2隻の同門の出の戦闘艦は海戦の中で対決し、さらにはこの2つの国家の運命を決定する象徴となった。致遠艦が戦列を出たことに関して吉野を体当たりで撃沈するためか、それとも魚雷を発射して接近戦を行うためかにはなお疑問があり、致遠艦が魚雷の命中で沈没したのか、それともボイラー室の爆発で沈没したのかにも定まった論がない。だが近年来の甲午戦争に関する研究が国内で不断に深入りするにつれ、陳悦氏に代表される新世代の学者が致遠艦の戦闘での沈没の研究の上で少なからぬ新たな突破を取得した。筆者が続いて語ろうとしているのは、その中の衝撃的なある発見である。

それは致遠艦が吉野への体当たりを企図した事が、全く存在しなかった可能性が極めて高いということに他ならない。

この研究結果は陳悦と海研会会員の2014年9月17日における、甲午戦争の中の黄海大東溝海戦勃発120周年記念日当日に行われたある海戦シミュレーションから来ている。陳悦の説明によれば次の通りである。「我々は威海シミュレーションの時、ジオラマ上の状況に驚愕のあまり呆然とさせられた。何故なら致遠艦の艦首が向いた方向が、何と日本の連合艦隊の本隊だったからである。当時日本の海戦に参加した部隊は主に2つあり、1つは第1遊撃隊、第2を本隊と呼ぶ。第一遊撃隊は吉野、浪速といった比較的速い軍艦で、本隊は旗艦である松島などといった航行速度が比較的遅い軍艦だった。突然我々は史料を根拠に我々のシミュレーションの結果に気づいた。致遠艦が対面した軍艦は松島、千代、橋立で、もしこの時致遠艦が隊列を飛び出して吉野に体当たり攻撃したければ、艦首を180度回転させる必要があることを意味する。突然の間でのこのような事実はやや受け入れ難く、ならば吉野ではなかったのである。当然この結果が飛び出した事実には決して影響しないし、致遠艦が飛び出していったこと自体の壮烈さの程度にも影響しない。事実としてこの艦は飛び出していって松島に体当たりしようとしたのであって、本隊に体当たりすることは吉野に比べずっと危険なことである。致遠艦の面前には何と松島がいて、これは本隊であり、これは従来我々が全くあえて考えなかったことである。

同様に、中国海軍史研究会会員の張黎源の考証によれば、全ての日本サイドの参戦した人員の一次資料(連合艦隊司令官、第一遊撃隊司令官の報告、各艦の艦長の報告、一部の参戦した人員の日記など)の「致遠」沈没の一件に対する描写は非常に簡単で、例えば「何時何分、敵艦『致遠』が沈没」といった種のもので、いずれも「致遠」が吉野に体当たり攻撃しようとした一件には言及されていない。一方北洋水師方面の海軍提督だった丁汝昌が北洋大臣李鴻章に向け発した第1の手紙の、比較的詳細な戦況報告(9月22日)の中でも、「致遠」は「突撃して沈没した」と言及されているだけで、誰に受かって突撃したのか、誰に撃沈されたのかに関しては、いずれも明言していない。

10月7日、李鴻章は海戦に関するさらに一歩の詳細な報告を得た後、「大東溝戦況折」を取りまとめて執筆し清国宮廷に向け報告し、これは中国の公式の、大東溝海戦の戦況に関する最も詳細で、最も権威ある記載である。その中では、「敵は突然に魚雷快速船をもって『定遠』にまっしぐらに襲いかかり、なお到達しない時、『致遠』がタービンを吹かして『定遠』の前に出て行き、間もなくやってくる船を攻撃し沈めようとした。倭船は魚雷をもって『致遠』を攻撃し、またたくまに沈没し、管帯ケ世昌、大副陳金(頑住吉注:それぞれ前の2文字が肩書きで後の3文字が名前)は同時に水に落ちた。」とされており、同様に吉野には言及していない。

(頑住吉注:これより4ページ目)

比較的早く「致遠」艦が当時体当たり戦術を採用して日本の艦を攻撃することを企図したことに言及した文献の中でも同様に「致遠」艦が「吉野」に体当たりしようとしたとの印象は得られない。例えば1894年9月21日の「北華捷報」(North China Herald)の文章であるが、この報道は自ら海戦を経験した北洋の将校(北洋海軍総教習、ドイツ人のハンナーゲンである可能性が極めて高い)が天津に戻り、海戦の過程を口述した、とする。この自ら経験した者は、「致遠」がかつて突撃を発動した一件を実証しているが、その突撃の対象とそれを撃沈した軍艦は明らかに同一の艦ではない。この新聞も「致遠」を攻撃した者あるいは「致遠」を撃沈した者が「吉野」だとは指摘していない。

張黎源は「国家人文歴史」誌上に文章を執筆して、この後のメディアの報道、例えば9月29日に上海で出版された「申報」は「煙台訪事人述鴨緑江戦事」という一編を掲載し、「致遠」が体当たりしようとした者が日本軍の「旗艦」あるいは「最大の艦」だとは記載しているが、やはりこの艦が「吉野」だとは明確に指摘していない。逆に、甲午戦争時最も威海衛に近かった刊行物である「芝罘快郵」1894年10月1日の報道は、「『致遠』は隊列を出てすでにもうすぐ沈没しようとしていた『赤城』を追撃した。その後『致遠』は日本の艦に10分間包囲攻撃され、あらゆる砲弾が片側に命中し、水密船室の浸水がその転覆をもたらした。」としている。この報道も海戦を自ら経験した者の見聞を参考に書かれている。この報道の中からは、「致遠」が「突撃し追撃した」者は「吉野」ではなく「赤城」だった可能性が高いことを発見することができる。

真に致遠艦が吉野に体当たりしようとしたことを定説にした文献は、1895年のイギリスのロンドン出版の「ブラッサイ海軍年鑑」である。この年鑑の中には海軍史学者クロスが執筆した甲午海戦に関する分析の長文が掲載され、この文は次のように言っている。「『致遠』は当時艦首を『吉野』に向け方向転換させ、体当たりを企図したが、数発の榴弾が喫水線に命中し、ついに右舷に傾斜して沈没した。当時数発の榴弾が同時に命中し、その状態は魚雷の爆発によく似ていたとされる。」 この文章も自ら海戦を経験したヨーロッパの将校の説を参考にしたとされている。だが1894年のあらゆる海戦報告と新聞の中の記載を縦覧すると、いずれも「吉野」には言及していないが、時何ヶ月かを隔てた後、「吉野」は突然この事件の主役となっており、この説が信頼できるか否かは人に疑いを生じさせる。

だが「ブラッサイ海軍年鑑」の当時の海軍界における非常に大きな影響力ゆえに、「致遠」が「吉野」に体当たりしようとしたとの説は徐々に各方面の受け入れるところとなった。後の多くの重要な文献、例えば「東方兵事紀略」、「戴理爾回憶録」、「甲午甲申海戦陣亡死難群公事略」などはいずれも「致遠」が「吉野」に向け突撃したと語り、しかもどんどん伝奇的に、ディテールはどんどん豊富になり、これは著者がさらに一歩演繹したものに過ぎない。まさに「東方兵事紀略」などの著述の広範な伝播ゆえにこそ、「致遠」が「吉野」に体当たりしようとした一件は徐々に公衆の受け入れるところとなったのである。

陳悦などの人の現状復旧の結果を根拠にすれば、黄海海戦当日午後3時以後「致遠」が突撃した目標は日本の連合艦隊の本隊であり、この挙動は事実として第一遊撃隊に突撃するのに比べより壮烈でより危険だろう。日本の第一遊撃隊が「吉野」、「秋津州」の2艦しか速射砲を装備していない状況に比べ、本隊は日本の連合艦隊の旗艦「松島」を含む4隻の日本の艦が大量の速射砲を装備していた。このように、ケ世昌と「致遠」艦が最後の航程の中で直面したのは、恐怖の極である砲火の打撃だった。最終的に艦体は重大な損傷を負い、不幸にも黄海の波濤の間に沈んでいったのである。

中国の歴史上最も悲壮な戦闘艦である「致遠」は1つの縮図であり、無比に真実に、かつ深刻に当時の中国の現状と運命に反応した。旧式で立ち後れた封建的農業国の手中に完全に近代化された先進的な軍艦があり、もし同様に近代的な人によって操縦されたとしても、最終的に跡形もなく消え去る結果は避けられなかった。同様に、中国近代史上最も悲劇的英雄的色彩を持つ封建時代の将官である「致遠」艦の管帯ケ世昌と彼の物語は、今日すでにほとんど中国海軍の全世界におけるイメージとなっている。

今日に至り、業界で名声がはなはだ高いある戦争シミュレーションゲームの中に、我々は依然、新中国の海軍精神を象徴する快速艦艇上にこの言葉を聞く。「此日漫揮天下涙,有公足壮海軍威」。これこそ、「致遠」艦の中国に対する最大の意義なのかもしれない(頑住吉注:カッコ内はケ世昌の言葉で、説明しているページはあるんですけど説明自体が難しすぎてよく分かりません。「この部分は何を指しているのか」といった質問、答えのページが非常に多くヒットし、現在の中国人にも難解のようです)。


 最初に書いたように日本人には黄海海戦に対する思い入れ自体がごく薄く、はっきり言ってどうでもいいような内容なんですけど、話の本筋よりも中国では戦史に尾ひれがつくのが当たり前で、「大筋こういうことがあった」、という部分が間違っていなければ尾ひれがつくこと自体をあまり問題だと思っておらず、それが別の問題における日中の食い違いにも表れてきているのかな、なんてことを考えながら読みました。














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