中国武装ヘリの歴史

 長年遅れていた状況を脱し(?)、ついに専用武装ヘリを持った中国の陸軍航空隊の装備の歴史です。

http://tuku.military.china.com/military/html/2012-11-16/209909_2266233.htm


中国陸軍の革命! 武直-10が新たな時代を開いた

2012年珠海航空展で、武直-10(当局の名称は直-10)が正式にデビューした。

(画像のソース:鼎盛軍事 撮影:機外停車)解放軍陸軍航空隊が成立して現在まですでにちょうど20年になり、その主要装備である武装ヘリにもついに真の国産の血脈を持つ機種が存在するようになり、したがって長年にわたる困窮した局面は終わった。

長きにわたりヘリ、航空エンジン、電子設備は中国の航空工業の「3つの弱点」と呼ぶに値した。このうちヘリの研究開発は長年の間外国が輸出した冷えた残飯を温め直し、小さな改修や補完を行うだけで、自身の技術的蓄積の上に自主的に新しいものを作り出すことが深刻に欠乏していた。1997年7月、解放軍が香港に進駐した時、12機の国産直-9A型武装ヘリが初の空中の進入者となった。喜びとお祝いに満ちた政治的儀式において、国際的装備の水準を熟知する人は、これらの中国初の真の意味での武装ヘリを見て、陸軍航空隊の装備の状況に対し嘆息しないわけにはいかなかった。何故ならこの機種は国際的先進水準から遅れること2、30は下らなかったからである。最近、中国航空工業は武直-10を登場させ、かつこれを主戦装備とすることになり、陸軍航空隊の多国籍ブランドの装備を使用する状況はやっと終わることが有望となり、技術レベルもついに世界に追いついた。

(頑住吉注:2ページ目)1930年代、アメリカのシコルスキーが発明したヘリが登場してから、すぐさま戦争に使われ、主に戦場のすぐ後方の輸送任務を担った。1960年代のベトナム戦争の期間、アメリカは初めて主要装備がヘリの「第1空中騎兵師団」を設立し、陸の戦場における立体作戦の新時代を開いた。その後の局地戦争と西欧の軍事演習はいずれも、武装ヘリが敵戦車に対応するのに最も有効な「空中の殺し屋」であり、最も有効に味方サイドの地上部隊を直接支援できる利器でもあることを証明した。西側の強国とソ連はいずれも膨大な規模の陸軍航空隊を建立した。中国陸軍は1980年代中期までずっとこの兵種がなく、陸上の行動はまだ主に「健脚」に頼っていた。

(頑住吉注:3ページ目)中国がソ連のヘリを導入し、かつコピー生産を行ったタイミングは実は決して遅くはなかった。1951年、ソ連軍がミル-4型ヘリの装備を開始した(この後20年間ずっと標準装備として)後、中国は1955年にこれを導入し、かつ初のヘリ大隊を建立した。1956年、中国はさらに同じくソ連とミル-4ヘリの資料と自ら生産する技術を導入する契約に署名し、1958年にハルビン飛行機製造工場によってコピー生産に成功し、直-5と命名した。初期の製品はいずれも不合格だったので、1963年になってやっと定型に至って大量生産に移り、1979年の生産停止までに全部で545機が生産された。1機あたりのコストは48万元だった。直-5の搭載量は1.2トンで、あるいは完全武装の兵士11名だった。さらに機内には1両の北京212Aジープが搭載された。だがこの機の最大の弱点は搭載量が小さく、防護能力を備えておらず、戦場での生存能力が低いことだった。このため、直-5は陸軍には装備されず、空軍に輸送用として与えられただけだった。1962年以後、ソ連は対中国航空技術援助を断絶し、中国は自分で新ヘリの模索と研究開発を開始した。十数年の努力を経て、1977年に直-6機の設計が定型に至った。しかしテストはこの機のエンジンが出力不足で、飛行安全性が劣り、世界先進水準よりはるかに遅れていることを明らかにし、1979年には生産停止が迫られた。

(頑住吉注:4ページ目)これと同時に、研究中だった直-7大型ヘリも経費不足ゆえに停止された。国産エンジンが遅れているという「心臓病」は中国が自ら研究開発するヘリや戦闘機が遅々として進まず飛躍的進展に成功できない結果をもたらした。

1970年代、中国は西側と軍事協力関係を建立し、フランスのヘリが導入され、国内における直-8研究開発のサンプル品となった。1980年代初め、国内では国防費が大幅に削減され、直-8プロジェクトもまた中止され、一時は研究中の新機種がなく、定型に至っている機も生産停止というまずい状況に陥った。中国のヘリ研究開発と装備は深刻に世界の潮流から落伍した。その中には確かに財力不足という原因はあったが、より重要なのはやはり作戦思想の遅れであり、多くの指導者は歩兵が勝ちを制するという伝統に拘泥し、航空隊の発展は単純に制空権争奪を偏重し、陸軍航空隊が地上戦闘を支援する重大な意義をまだ充分に認識せず、ヘリに対する重視と投資がいずれも不充分という結果をもたらしたのである。

(頑住吉注:5ページ目)1985年、中央軍事委員会は軍人を100万人削減し、重点的に伝統的な歩兵を減らし、技術兵種を強化することを決定し、翌年ついに陸軍航空隊が建立された。陸軍航空隊創立当初の主要装備は1950年代のレベルでしかない直-5と少数の輸入ヘリで、戦場において直接支援作戦が行える武装ヘリはまだなかった。だがそれでもこの新兵種の建立は軍上層部に共同作戦思想上の大進歩があったことを反映していた。

陸軍航空隊の遅れた姿を根本から変える必要があるなら、中国が専用の、先進レベルを備えた武装ヘリを研究開発することは必須である。

(頑住吉注:6ページ目)陸軍航空隊建立後、中国は武装ヘリを発展の第1の重点とした。国内の技術的基礎が薄弱で、軍事費不足と軍隊の長期的発展の要求が大量の外部からの軍事調達を許さなかったため、すでに導入していたフランスの「ドルフィン」民間用ヘリ(ユーロコプター社のAS-365N多用途小型ヘリ)の生産ラインを利用することが決定した。フランスサイドのパテントを利用し、これを武装ヘリに改めるのである。この機のターボシャフトエンジンは比較的先進的だったので、その改良の余地と搭載量は大きく、オリジナル機のプラットフォーム上に「紅箭-8」対戦車ミサイルを主要装備として搭載し、かつ航空機関砲、機関銃、航空用ロケット弾を採用し、全体的に対戦車地上攻撃用と評価できた。

(頑住吉注:7ページ目)ライセンス生産協議に基づき、ハルビン飛行機社は50機の異なるタイプの直-9の原型を製造し、かつこの型のヘリの国産化率を高め、さらに艦載型および空対空ミサイル装備型を製造し、直-9Wと命名した。直-9W
の最大離陸重量は4トン、最大巡航速度は246km/h、最大傾斜上昇率は毎秒7.8m、最大垂直上昇率は毎秒3.5m、航続距離は664km、航続時間は3時間52分、実用上昇限度は4,200mだった。こうした性能は民間用機種のヘリの中では1980年代初めのレベルに到達可能だったが、その最大の弱点は機体が民間用として設計されていることで、正面横断面積が大きく、かつ防御装甲がなかった。この機は短い翼の下に対戦車ミサイルと蜂の巣状ロケットランチャーを満載し、間違いなく迫力があり人を威圧したが、その戦場における生存能力はひどく劣り、アメリカの1960年代末の、ベトナム戦争中に慌ただしく改造された機種のレベルに相当するに過ぎなかった。こうではあっても、中国は直-9の機体とエンジンの国産化を実現でき、全体的には真の意味での国産武装ヘリを持ったと評価された。

(頑住吉注:8ページ目)1980年代中期、チベット地域の空気の希薄さが普通のヘリのホバリングを困難にするという問題の解決のため、中国はさらにアメリカから24機の「ブラックホーク」ヘリを導入し、これは当時中米間最大の軍事販売プロジェクトでもあった。しかし1989年(頑住吉注:天安門事件の年)以後西側は中国に対し武器販売禁止を実施し、「ブラックホーク」の部品はこの時から継続して供給されなくなり、その他の軍用ヘリの導入も原則禁止され、フランスの供給だけがやや緩かったが、これも信頼し切れなかった。

(頑住吉注:9ページ目)中国が一時期まだ先進ヘリを自主研究開発することが難しかった状況下で、再びソ連およびその後継者であるロシアから軍用機を購入する道に戻った。ソ連が1960年代に設計し、1970年代に大量生産し、長期間陸軍の主要装備だったミル-24武装ヘリはすでに時代遅れで、しかも価格が安くはないことを考慮し、中国は主にロシアの輸送ヘリを購入した。最初に導入されたのはソ連が1980年代に生産したミル-17大型ヘリで、サイズが非常に大きいため「カバ」とあだ名された。この機は頑丈で耐久性が高く、輸送量が大きく(28名の兵士と小型火砲を搭載輸送できた)、しかも中国がとっくに使用、コピー生産していた「ミグ」ファミリーのヘリから発展したもので操作に慣れているため、この装備は解放軍陸軍航空輸送力の主力となった。この後、さらにロシアが改良したミル-171型、ミル-17B-5型機を導入し、ヘリがチベットに進出する難題解決のため、さらにロシアがエンジンを換装し改良してできたミル-17B-7型機を購入し、「ブラックホーク」に代わって「高原の力持ち」とさせることができた。

(頑住吉注:10ページ目)解放軍陸軍航空隊成立初期、少数のフランス製「アンテロープ」軽武装ヘリをを導入し、テストと戦術研究に用いたことがあり、国内科研部門もここから技術的成果を吸収していた。数十年のコピー生産と自主研究開発を経、加えて導入したソ連・ロシア、アメリカ、フランスの各機種の長所を取り入れ、昌河飛行機社は1990年から、直-11 2トン級小型多用途ヘリの自主研究開発を開始し、2000年に定型に至った。この機種は当初操縦手を養成訓練する練習機だったが、改装を経て武直-11となった。専用に設計したものではなく、性能も非常に先進的とは評価できなかったが、結局のところこれは中国初の独自の知的財産権を持つヘリであり、陸軍航空隊に新たな力を追加し、経験を積ませた。この機は単価が2,000万人民元にもならないことをもって世界の武装ヘリの最低価格に位置し、一方アメリカの「アパッチ」の単価は2,700万アメリカドル、フランスの「タイガー」式の単価は1,700万アメリカドルである。当然いくつかの高価な機を買えない発展途上国を引き付け、最近ではアルゼンチン空軍がこの機を検討するための団体を昌河社に派遣し、購入プロジェクトにつき折衝した。

(頑住吉注:11ページ目)陸軍航空隊の遅れた姿を根本から変える必要があるなら、中国が専用の、先進レベルを備えた武装ヘリを研究開発することは必須である。国外メディアの報道によれば、これは1998年に正式にプロジェクトとして立ち上げられた後、「95」計画の重点となり、602所によって設計され、昌河社が試作と生産を行い、全国の40の研究機関が協力し、武直-10と命名された。2003年4月に初の原型機が試験飛行に成功し、試験、改良を経てすでに定型に至り、部隊への装備が開始されている。欧米の専門家の評論によれば、この機は世界一流の中型武装ヘリで、その総合性能はアメリカの主力機種「アパッチ」に対抗できる。この機の登場の最も重要な意義は、中国に専用に設計された武装ヘリを持たせ、ヘリの技術レベルを一挙に20年分向上させたことである。

(頑住吉注:12ページ目)過去長年中国航空エンジンの発展を制約してきた「ボトルネック」は材料技術が劣り、技術者に先進的設計があっても生産時には往々にして実現不能だということで、これは国の基礎的工業の底が浅いことがもたらすものである。このカギとなる重要な難題の解決のため、昌河飛行機の副総工程師である李萌は27年という時間武直-10事前研究プロジェクトの回転翼原理サンプル機複合材料ローター研究を主催し、例えばカギとなる重要設備であるローターの成形専用のプレスシステムの核心技術などはいずれも世界一流レベルに到達した。

武直-10の設計は中国、外国の各方面の長所を総合し、国外で流行の武装ヘリのレイアウトを採用し、4枚羽根の単一ローター、タンデム式コックピットとし、射手は前、操縦員は後ろとし、両座席コンパートメント間の防弾ガラスによる隔離を実行した。この機は主にフランスの「タイガー」式を手本としているが、新たに設計を行って自身の必要に適合させている。電子戦システムも国産浴火レーダー(頑住吉注:意味不明。固有名詞かあるいは誤字かも)、早期警戒受信機サブシステムなど多情報融合技術製品の特徴を総合している。前部座席には導入したロシアのKa-50ヘリの00式K-37射出座席が装備され、低空救命能力は欧米の同類機を越えている(頑住吉注:前部座席だけ? 操縦手は死ぬまで操縦を続けろってことですかね)。武直-10はステルス能力は備えていないが、国産のステルス塗料によってそれでもレーダーおよび赤外線信号の探知計測可能性を下げることができる。


 やはり武直-10のエンジン問題、それに関連して登場させざるを得なかった武直-19に触れていないなど不満はありますが、発展の歴史は興味深かったです。「武直-10珠海航空展に登場」に解放軍に「黒鷹」というヘリがあるという記述があり、まさかアメリカのヘリじゃないだろうからそういう名称の中国のヘリがあるのかと思ったら、そのままブラックホークでしたか。天安門事件前はそこまで関係が進展していたんですね。あの時改革が成功していたら、今はどんな世界になっていたんでしょうかねー。











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