林彪、垂直離着陸戦闘機開発を厳命

 中国航空に関する「歴史秘話」ものの記事です。

http://military.china.com/history4/62/20130913/18047571.html


中国による垂直離着陸戦闘機研究開発秘話:研究開発2年でもう放棄を迫られる

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「中国の垂直離着陸戦闘機の想像図」)

1969年は世界航空工業にとって特殊な年だったようだ。何故なら新世代戦闘機の研究開発の多くがこの1年で始動したからである。アメリカのF-14、ソ連のミグー27およびスホーイー17、イギリス、西ドイツ、イタリア三カ国の「トーネード」、これらはいずれも可変後退翼技術を利用して高速・低速飛行の矛盾に協調を持たせた。しかし、イギリスは1957年には早くも垂直離着陸戦闘機に取り組み始め、後に「ハリアー」式戦闘機と改められ、1969年4月には部隊装備が開始された。この垂直離着陸戦闘機は高速・低速飛行の矛盾した関係を根本から変え、尋常でない機動能力と作戦能力を持ち、このため世界各国の空軍の関心を引き起こした。

中国の「ハリアー式」離陸を強行 (頑住吉注:開発開始を「離陸」と表現しているんであって実際には飛ぶまで行ってません)

「文化大革命」は我が国の航空工業の発展に対し深刻な妨害と破壊をもたらしたが、航空工業システムの広大な幹部、科研人員、職工は各方面から来る圧力に持ちこたえ、我が国の現有の条件に立脚し、極度に困難な状況下において独立自主を堅持して新世代高空高速戦闘機殲ー8(頑住吉注:ミグー21発展型)を研究開発した。殲ー8機は初飛行成功後、本来ならば各方面の技術力を集中して急ぎ機の設計、定型作業を行うべきだった。しかし、殲ー8機研究開発のカギとなる重要な時期に、すでに軍事委員会業務の大権を握っていた林彪が突然に輸送機とヘリを大規模にやると言い出し、続けてまた垂直離着陸戦闘機をやると言い出した。

1969年3月2日、中ソ国境で「珍宝島事件」が発生し、中国は一挙に戦争の瀬戸際に追いやられた。「戦争準備」の大きな背景下で、林彪は毛沢東主席の後継者にも確定し、このことは党規約にも書き込まれた。この時、林彪は戦備の強化と戦争準備に便とすることを名目に、軍隊を直接統制し、かつ飛行機装備の研究開発と生産に関与した。

当時我が国の航空工業はまだ非常に薄弱で、垂直離着陸機研究開発の経験もなければこの方面の技術的蓄えもなく、垂直離着陸機研究開発の条件を全く持ってなかった。しかし、林彪は国力、技術などの客観条件の制約をかえりみず、空軍と三機部(頑住吉注:中華人民共和国第三機械工業部)にすぐに垂直離着陸戦闘機を研究開発するよう強く指令し、かつ空軍に短時間内に意見と方案を出すよう要求した。

1968年7月11日、空軍は軍事委員会事務グループと国防科学委員会に向け「第三次五カ年計画期間の我が国の飛行機の発展問題に関し提案する何点かの意見」を提出した。この中ではできる限り早く垂直離着陸戦闘機の問題を解決する必要があると明確に提起されていた。その後、六院(頑住吉注:中国航空宇宙科学技術集団社第六研究院)は空軍の指示に基づき、短距離離着陸戦闘機研究開発課題を下達した。1969年初め601所は短距離離着陸ジェット式フラップ可変翼機を特定項目科研プロジェクトに入れた。だが技術的蓄えの不足のため、このプロジェクトは事前研究プロジェクトに入れることができただけだった。

しかし、時を長く隔てずこの事前研究プロジェクトは一切のものより高い重点プロジェクトになった。1969年8月25日、中央軍事委員会事務グループの六院に関することが国防科学委員会から空軍指導に移されるとの決定を根拠に、航空工業指導小グループは北京で航空工業「825」会議を開いた。この会議は「垂直離着陸機の研究を積極的に展開する」と強調していたが、実際にはすでに明確にこの研究項目を、早急な研究開発を必要とする機種任務に明確に格上げしていた。9月に正式に機種研究開発任務が正式に下達され、そのコードネームは「四号任務」だった。これは短距離離着陸戦闘機課題事前研究プロジェクトがにわかに殲ー6、殲ー7、殲ー8研究開発という最高クラスの任務を圧倒するものに変わったことを意味していた。

10月30日、三機部は沈陽で駐沈陽工場、研究所指導者、幹部会議を開いた。会では垂直離着陸機指導小グループメンバーが発表された。この時の会議は、601所が116名の研究員を抽出し、112工場は40名の技術員を抽出することを要求しており、関係の院校の30名余りと「四号任務」中隊を組成し、601所副所長葉正大が中隊長に任ぜられた。会の後、直ちに緊張した設計作業が開始された。研究開発計画の要求によれば、1971年に飛ぶことを極力求めることが要求されていた。

垂直離着陸機をできる限り早く研究開発するため、林彪は空軍によって担当される航空工業指導小グループに関し、沈陽軍区空軍のある副政治委員を「四号任務」指導小グループの第一副グループ長に指定し、統一的に「四号任務」の研究開発を指導させるよう指示した。同時に、空軍は直接人員を派遣して112工場に駐在させ、研究開発の進度を監督させた。この種の高度の圧力という状況下で、601所設計人員は全力で取り組み、20ヶ月の時間しか使わずに、もう垂直離着陸機の全体方案を設計した。

(頑住吉注:これより2ページ目。画像のキャプションは1ページ目と同じです。)

「四号任務」中止 殲ー8起死回生

「四号任務」研究開発は大量のマンパワーとマテリアルパワーを抽出していたが、残る一部の研究開発人員は各方面の圧力に持ちこたえ、極度に困難な状況の下で依然殲ー8戦闘機の研究開発を継続していた。これと同時に、「四号任務」はさらに鳴り物入りで進められていた。

しかし、空軍司令員呉法憲は1970年6月7日に、北京の京西ホテルで殲ー8機研究開発の状況の報告を聴取している時に、また突然「殲ー8はもうすぐできる。来年は量産だ。1個師団に20機支給し、数個師団に支給するから100機から200機生産する必要がある。」と言い出した。航空工業指導小グループは直ちに112工場に殲ー8機の研究開発を加速し、もってできる限り早く殲ー8機を生産して部隊装備するのに便とするよう要求した。こうなると、研究所と飛行機製造工場はまた止むを得ず力量を調整し直し、もって殲ー8機の研究開発と生産の進度を保証した。

この期間、殲ー8機は何度もの試験飛行、検証を経た。

まさに最初の機がすでに正式に生産に入っていた時、呉法憲はまた1971年7月12日に航空工業指導小グループの会に参加して次のように語った。「殲ー8機の性能は非常によい。アメリカも知っている。アメリカ帝国主義が資料を盗み去るのを防止する必要がある。君たちは図面、資料をよく整理し、秘密保持用キャビネットの中で鎖をかけて保管し、3年は生産を行わない。いつ生産ができるにしても検討は行わない。」 呉法憲のこの移り気な決策は飛行機工場をどうしてよいか分からなくさせた。すでに生産が始められている飛行機が遅々として計画通り生産されない結果がもたらされ、設計定型の試験飛行任務すら正常に行えなかった。実際に、この時殲ー8機の研究開発はすでに半停滞状態にあり、しかも夭折の瀬戸際という状態に陥っていた。

この時、重点研究開発機種に列せられていた「四号任務」は技術、材料、部品、エンジンなど多くの要素の制限を受けたため、やはり研究開発進度が非常に緩慢だった。これはこのプロジェクトが我が国が当時持っていた技術レベルと能力をはるかに超えたものだったからである。これは完全に客観条件をかえりみない、現実を超越した幻想だった。

1971年の「913」事件後になって林彪反党集団は粉砕され、やっと我が国の航空工業は徐々に正しい路線に転じ始めた。このことがやっと殲ー8機の研究開発回復に新たな転機をもたらした。殲ー8機合同指揮部および関連工場、研究所の職工は中央と中央軍事委員会に手紙を書き、呉法憲の殲ー8機生産停止決定の誤りを指摘し、かつ殲ー8機の各種性能の試験飛行をしっかりと行い、もってできる限り早く設計定型を実現するよう提案した。

周恩来首相はこの手紙を非常に重視し、12月11日に手紙を総政治部主任李徳生、空軍副司令員曹裏懐などの処理のため引き渡した。12月14日、李徳生、余秋里など中央軍事委員会指導者は北京で殲ー8機報告会を開いた。会議は1972年には殲ー8機の少数生産を継続し、もって機全体の静力試験(頑住吉注:静止状態での強度試験)を再度行うのに便とし、かつ試験飛行作業を強化する、と決定した。このことは殲ー8機をついに起死回生させた。1972年3月25日、「四号任務」指導小グループは第12回会議を開いたが、これは最後の会議でもあった。会議は「四号任務」は国家機種発展計画には含めず、依然初期研究の科研プロジェクトとする、と決定した。ここに至り、「四号任務」は中止され、これに関する機構も直ちに解散した。

客観的に言って、「四号任務」の研究開発人員はこのために多くの心血を注ぎ、大変に苦しい努力をした。彼らは非常に短時間内に大量の試験を行い、かつ殲ー6設計の改良を基礎に、新たな飛行プラットフォームを設計し、大胆に垂直離着陸戦闘機に関わる多くの技術的難題を探索した。しかし、新型機の設計は大量の基礎研究と技術的蓄えが支持することを必要とするだけでなく、さらに相当長い試験期間も必要とする。「四号任務」の研究開発任務下達から新型機の試験飛行が要求されるまで全部でやっと1年10ヶ月の時間であり、完全に客観的規律に反していた。「四号任務」の研究開発人員はこのために全力を尽くしたが、事実として彼らが「極左」路線の高圧的な政治背景下で1つのプロジェクトを完成させるのは短時間内には全く不可能な任務だったのである。

(頑住吉注:3ページ目も1ページ目と同じ。4ページ目)北京航空中大学に現存するハリアー式戦闘機

(頑住吉注:5ページ目は2ページ目の中見出しと同じ。6ページ目)Yak-36垂直離着陸戦闘機

(頑住吉注:7ページ目)Yak-38垂直離着陸戦闘機

(頑住吉注:8ページ目)Yak-141垂直離着陸戦闘機


 「想像図」は余りにも現実離れしてますね。言うまでもありませんが事実関係や経緯に関しては失脚して死んだ林彪に過度に責任が押し付けられている可能性もありそうです。

















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