日清戦争前、中国の軍艦が主砲に服を干していたというのはデマ?

 東郷平八郎がそれを見て、武士の魂にこんなことをするような軍隊が強いはずがない、と確信したという話は私も読んだ記憶がありますが。

http://military.china.com/history4/62/20140821/18726707.html


甲午の三大噂:主砲に衣服を干す ケ世昌が犬を飼う 慈禧が軍事費を流用

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「北洋艦隊の時代、海軍将兵が衣服を干す通常のやり方は艦船の手すり、帆柱の上に干すというもので、直接非常に多くの衣服を旗の縄に並べてマストの高いところに揚げるというものもあった。こうした方法を採用して衣服を干す時、艦船の甲板上には当然至る所に衣服がたなびき、盛大にして壮観だった。だがこの特殊な光景は当時各国海軍の中では通例だった。」)

「軍紀の緩み」はあまり信用できない 経費流用には別の隠された事情があった

甲午戦争の三大噂の真相を探求する

薩蘇


120年前の甲午戦争の中では、各種の原因ゆえに、多くの歴史的噂が今日まで依然諸説紛々である。こうした噂の本意がどうであろうと、もし歴史を正視できなかったら、その中から獲得される経験、総括に偏差があることを免れ難い。このためこうした噂の真相を探求することには依然すこぶる意義がある。近年の各種新史料の発見と共に、いくつかの広く流れ伝わる説の真相が明らかになる可能性が生じ、ここで評論しても差し支えない。

「主砲に衣服を干す」の噂はどのように生じたのか?

歴史学者たちはずっと北洋水師が何故全軍壊滅したかを探求しており、その中で「軍紀の緩み」が重要な原因と考えられている。この見方を支持する根拠として、「主砲に衣服を干す」との話が広く流れ伝わっている。北洋艦隊訪日の期間、日本サイドの将校東郷平八郎が、北洋水師の旗艦定遠艦の主砲上に衣服が干されているのを発見し、このため北洋水師の軍紀が緩んでおり、戦闘に勝てないと運命づけられていると断定した、とされる。史学の大家唐徳剛の著作「晩清七十年」(頑住吉注:清朝時代末期の70年、といった意味でしょう)の中にもこの記述がある。

だが「主砲に衣服を干す」は本当だったのだろうか? 真偽を検証する必要がある。史料の調査の他、現在ではさらに試験の条件が備わっている。今威海衛には実物大で複製された定遠艦の記念艦がある。「グローバル時報」記者はこの艦を見学した時に気付いたのだが、その主砲の砲身は甲板からの距離が3m以上の高さが充分にあり、しかも砲身は砲塔の外にごく短い一部分しか露出していない。定遠艦の主砲は口径が305mmで、加えて砲身は半mの太さがある筒で、この上に衣服を干しても全く固定できない。「グローバル時報」記者はさらにわざわざこれについて実験し、1人も成功裏に衣服をかけて風に吹き飛ばされないことに成功する者がいないことに気づいた。しかもこの過程は非常にスリリングである(頑住吉注:最初の画像はこの説明で、画像内には「どうやって衣服を干すのか」とあります)。

もし「主砲に衣服を干す」が本当でなかったとしたら、このデマはどのように生じたのだろうか? 「グローバル時報」記者はかつて日本で1899年の葉書を見つけた。これには「東郷平八郎が岸辺で中国の軍艦上に非常に多くの衣服が干してあるのを見」、かつこれを根拠に「中国の軍艦は一撃にも耐えない」と認定した、と注釈が書かれている。だが葉書の中の軍艦には1本のマスト、1本の煙突しかなく、2本のマスト、2本の煙突の定遠艦とは大きさが異なる。これは北洋水師のもう1隻の軍艦平遠艦である。だが平遠艦が日本を訪問したことは全くない。東郷平八郎がそれに衣服が干してあるのを見ることもあり得ない。これはまたどうしたことだろうか?

「主砲に衣服を干す」との説は最も早くは日本海軍中将小笠原長生から出されている。彼は「聖将東郷平八郎」という本を書き、その中にもう北洋水師が「主砲に衣服を干す」との虚構の内容がある。だが「聖将東郷平八郎」は小説に過ぎず、何故中国人によって歴史と見なされているのだろうか? 実は中華民国の時期に中国海軍はある雑誌を発行し、かつ高給で著名な劇作家である田漢を主筆として招聘した。田漢は有名なだけでなく、熱情もあり、しかも日本語を理解した。彼の中国海軍に対する重要な貢献は非常に多くの日本サイドの資料を翻訳したことである。しかし田漢は海軍を理解しておらず、誤って「聖将東郷平八郎」を小説ではなく歴史書として翻訳して中国に紹介したのである。「主砲に衣服を干す」もこれにつれて流れ伝わっていったのである。

(頑住吉注:これより2ページ目。画像のキャプションは「軍艦上で犬を飼うのは当時の列強の海軍の中では一種の習慣で、大げさに怪しむには値しない」です。)

ケ世昌が軍艦上で犬を飼ったのは軍紀破りか?

大東溝海戦(頑住吉注:黄海海戦)の中で、重大な損傷を負った北洋水師の致遠艦はケ世昌の指揮下で日本の艦「吉野」号への体当たりを企図したが、不幸にも損傷が重すぎたために沈没した(頑住吉注:これに関してはたまたまですが10月4日のコラムにも登場しましたね)。北洋水師の水兵陳学海は回想した。「ケ船長(ケ世昌)は自ら海に身を投じ、彼が飼っていた犬は太陽犬という名だったが、主人を救うことを願い、水の中に飛び込んでケ船長の辮髪に噛みついた。ケ船長は船が完全に沈んだのを見て、太陽犬を抱えて共に水中に沈んでいった。」

このディテールが披露されると、非常に多くの人が北洋水師の軍紀が緩んでいたもう1つの鉄の証拠と見なした。だがこの話をする人は明らかに海軍の伝統を理解していない。海軍は一貫してペットの乗船を禁じておらず、軍艦上でペットを飼うのは19世紀の各国海軍の伝統だった。帆船時代には船上で猫を飼って鼠が船の材料を噛んで壊すのを防止し、鉄甲船時代の艦上のペットはさらに種々雑多になり、ドイツの軍艦上には熊や子豚さえ飼われたことがある。目的は遠洋航行中の寂しさと焦燥をやわらげることで、すこぶる作用があったとされる。このためケ世昌が犬をつれて乗船したことは、全く正常なことに過ぎないのである。

中国海軍史研究会会長の陳悦はかつて「グローバル時報」記者に、ケ世昌が船上で犬を飼ったことは珍しいことではなく、もっと変わった動物が飼われたこともある、と教えた。大東溝海戦の中で、日本軍の旗艦「松島」号上で飼われた動物は何と1頭の大きな牛で、しかも海戦の中で北洋水師の攻撃で死んだ。後に「グローバル時報」記者も日本の史料の中から関連の記載を発見した。「海戦は午後2時30分まで行われ、北洋水師の平遠艦が『松島』号に接近し、260mm主砲を用いて直接その左舷に命中させ、医療室と主砲の間に命中し、戦闘位置にいた井出少尉ら4名の日本兵がその場で死に、甲板上で檻の中に入れられていた大きな牛もその場で死んだ。」 日本軍の記録は、当時艦上で牛を飼っていたのはマスコットとするだけでなく、さらに「ひとたび糧食が絶たれたら牛肉を食べることができる」との考慮もあった、とはっきり示している。

ケ世昌と太陽犬に関しては、もう1つの記憶がある。ケ世昌の娘は回想し、父は厳粛だが決して感情がなかったわけではなく、彼は平時艦上におり、妻は陸にいたが、決して「家があるが帰らない」、「帰る家がない」状態にあったわけではない、と語る。小さい時彼女はしばしば門にもたれて見、父親が帰ってくるのに期待した。もし威海衛の霧の中から1人の人と1匹の犬が連れ添ってやってきたら父親が帰ってきたのである。ケ世昌は家に帰るたびにいつも彼の大きな犬を連れており、1人と1匹の犬で、非常に感情に厚かった。

(頑住吉注:第3のエピソードは当時の清朝の人物や政治、行政組織や手続きなどをよく理解していないと分からない内容なので省略します。)

(頑住吉注:4ページ目)乾燥機の普及前、各国の海軍はいずれも軍艦上で服を干した。画像は前甲板にいっぱいに衣服が掛けられた日本の松島号巡洋艦。

(頑住吉注:5ページ目)軍艦上でペットを飼うのも各国の海軍の慣例である。画像はアメリカ海軍兵士がペットの熊を入浴させているところ。

(頑住吉注:6ページ目は省略した内容関連の画像なのでこれも飛ばします)

(頑住吉注:7ページ目)威海衛の北洋水師艦隊

(頑住吉注:8ページ目)南北洋会操の時、旅順東澳内外に停泊する南北洋の軍艦


 たぶんここに書かれていることは直接的には間違っていないのではという気がするんですが、しかしだからといって清国軍の軍紀が緩んでいたことを否定することにはならんと思うんですね。
















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