99式戦車の開発責任者死す

 抗日戦の経験者であり、ずいぶん高齢で開発を担当したんですね。

http://www.hinews.cn/news/system/2014/11/01/017076501.shtml


99式戦車の父祝楡生逝去 享年96歳

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「祝楡生氏と99式戦車サンプル車のツーショット」 続いて2枚目。「解放後の祝楡生氏の記念撮影」 続いて3枚目。「1986年に業務会議に参加した祝楡生氏。彼の後ろにあるのは当時の第3世代戦車の設計方案模型。多くのディテールが参考対象であるT-72戦車とすでに比較的大きな差異がある」 続いて4枚目。「99式戦車の試験に参加した人員と戦車の集合写真」)

中国兵器科学研究院による「兵器」誌公式ブログの情報:全国戦闘英雄、第3世代メインバトルタンク総設計師、「兵器工業科学技術発展終身成就賞」獲得者で、「独臂神師」の祝楡生氏が2014年10月23日に北京で逝去した。享年96歳だった(頑住吉注:「独臂」は片腕という意味で、何故そう呼ばれたかは後の部分を読めば分かります)。

祝楡生の簡単な履歴

祝楡生、四川省重慶の人。1938年に延安抗日軍政大学に入って学習し、革命に参加し、かつて八路軍第115師団司令部参謀、係長、山東ビン海軍区司令部科長、山東軍大処長、副部長の任にあった。戦争の期間は戦闘の需要に基づき、20種余りの武器と戦闘機材を創造および改良し、戦闘中非常に大きな作用を発揮し、1947年には一度大きな功績を立てた。1948年1月、迫撃砲敵前試射を組織した時、右腕を爆発により断たれた。1950年、全国戦闘英雄代表会議に出席した。中国人民解放軍の模範たる軍事教育業務者である。1955年5月、二級独立自由勲章と二級開放勲章を授与された。1960年には大佐の階級を授与された。

新中国成立後、華東軍大処長、総高級歩校訓練部副部、部長、ハルビン軍事工程学院二系副主任、砲兵工程学院副院長、第五機械工業部科学研究院副院長、兵器工業部科学技術委員会副主任兼事務局長、中国兵工学会第10代理事、中国システム工程学会初代理事および軍事システム工程委員会初代、第2代副主任委員、中国空気動力学研究会初代副会長を歴任した。

1984年、国防科学工業委員会は間もなく引退する祝楡生を新型メインバトルタンク総設計師に任命した。2005年、祝楡生は「兵器工業科学技術発展終身成就賞」を獲得した。

2014年10月23日、祝楡生は北京で逝去し、享年96歳だった。

以下は「兵器」誌に2011年に発表された祝楡生氏特別インタビューの文章「莫道桑楡晩為霞尚満天:祝楡生と99式戦車物語」で、ここに転載し、祝楡生氏を痛切に悼む(頑住吉注:タイトルの前半は古典から取ったものらしく、年取っても積極的に行く、みたいな意味らしいです)。

(頑住吉注:ここに祝楡生の履歴がありますが古語みたいのをやたらに多用してあって非常に読みにくく、また上の部分と重複もあるんで飛ばします。)

2010年秋のある午後、本誌は祝楡生をインタビューし、彼が99式戦車研究開発期間のいくつかの物語を話すのを聞いた(頑住吉注:原文では以後「祝総」、つまり祝楡生総設計師を略して表記してますが、分かりにくいんで訳文ではフルネームにします)。

「高綜合、系統取勝」理念 (頑住吉注:「高い総合、システムで勝利する」みたいな感じでしょうか。)

1984年、間もなく引退する祝楡生は99式メインバトルタンク総設計師を担当するよう命令を受けた。

戦車は陸軍の主要装備の1つである。現代の陸軍にとって、メインバトルタンクの性能いかんによって非常に大きな程度上全兵種の戦闘力が決定する。中国は非常に長い陸上の国境を持つ大国であり、メインバトルタンクの性能は国防の安全に対し重大な意義を持つ。

1986年に業務会議に参加した祝楡生氏。彼の後ろにあるのは当時の第3世代戦車の設計方案模型。多くのディテールが参考対象であるT-72戦車とすでに比較的大きな差異がある (頑住吉注:明らかにこれは元々キャプションですね。)

外界の非常に多くの推測とは異なり、99式には研究開発当初において某固定された「仮想敵」あるいは模倣の対象は決してなかった。99式のために確定された研究開発目標は、我が軍装甲部隊の主要装備となり2000年以後の先進作戦対象に対応できる必要がある、というものだった。当時の中国の基礎工業および科学技術レベルをもってしては、この要求は非常に高かったと言うべきである。

1980年代中期、我が国の兵器工業の非常に多くの基本技術はアメリカなど先進国に及ばず、設計能力、技術レベル、技術装備の上でいずれも非常に大きな隔たりがあり、設計院所や工場内のコンピュータは指を折って数えられるほどで、増してやデジタルコントロール工作機械やデジタルコントロールマシニングセンターはごく少なくいくらもなかった。しかも、国際政治や軍事的形勢の影響により、兵器工業システムは1980年代中期から十何年の長きにわたる業界衰退に陥り始め、科研業務も一歩一歩を踏み出すのさえ極めて困難なありさまだった。このような基礎をもって、各方面の性能が全て西側あるいは旧ソ連のレベルに相当し得るメインバトルタンクを作り出したいというのは、その困難推して知るべしである。祝楡生は非常に大きな圧力を受けた。

当時のある世論は、アメリカに代表される西側戦車の設計スタイルを採用すべきだと考えた。だが祝楡生は、新型戦車にこの種の東西サイドのスタイルの分をする(頑住吉注:東西折衷?)べきではなく、確定された研究開発目標、総合的な要求に照らして我々自らのメインバトルタンクを設計すべきであると考えた。東側だろうが西側だろうが、戦いに勝てさえすればもうOKなのだ。しかも自力更生、自主研究開発、中国の特色の体現、実戦の要求を考慮する研究開発の道を行く必要がある、と。

祝楡生は「高綜合、系統取勝」の研究開発理念を提出した。限りある工業的基礎の上で高い総合、最適化されたシステム機能のマッチングなどの手段により、最も優れた戦車の性能設計を達成するのである。この理念を実践するため、祝楡生は工程技術人員を率いて真剣に考察し、各国のメインバトルタンク技術全てに対し深入りし細緻な分析、比較を行い、かつ国外の何人かの技術人員と研究討論交流を行った。例えばT-80戦車が超信地旋回ができない問題に対するロシアサイドの見解は、何十年前に照準具の機能がまだ不完全だった時、超信地旋回は有意義だったが、現在の照準具はすでに自動追跡機能を持ち、超信地旋回できるか否かはどうでも良くなっている、というものだった(頑住吉注:超信地旋回ってそんなことのためなんですかね。それなら砲塔を回せばいいだけでは。超信地旋回ができないと、例えば市街戦の時に狭い場所で素早い方向転換ができなくなったりするのでは)。このため祝楡生は、技術問題はそれぞれにそれぞれの見方があり、重要なカギは自国の国情と現代の戦争の需要に適合する必要があることだ、と語る。

小エピソード

1980年代後期、中ソ関係はまだ雪解けせず、ソ連は自らの先進機種を中国代表団に見せる可能性があっただろうか? 記者がこの問題を提示すると、祝楡生は笑いながら言った。自分が昔解放軍中高級歩兵学校で訓練部長を担当していた時、何人かのソ連顧問と知り合った。そのうちのある人は帰国後ソ連/ロシア戦車院校で教官をし、自分がこの学院を訪問した時、実験室を見学し、掛けられているT-80の図を見ただけでなく、実物も見た。このため、自分はロシアがT-80を公開する前に早くも、それに対する相当に深入りした理解があったのだ、と。

多くの調査研究と深入りした研究分析を基礎に、祝楡生率いる設計チームは99式メインバトルタンクの具体的技術指標を確定した。これは武器装備研究開発の中の最も重要なカギで、最も困難な一歩でもあった、と言うべきである。もし主要な戦術技術指標の選択が当を得ていなかったら、研究開発作業の総崩れがもたらされる可能性がある。ならば99式メインバトルタンクはいかにして選択したのだろうか?

125mm主砲の選択

戦車の三大性能(火力・防御・機動)はすでに人々に熟知されている。だが異なる国では自身の状況に基づき、戦車研究開発時この三大性能の優先順位が異なる。祝楡生は99式戦車研究開発を指導する時、火力が第1位であり、きっとアメリカを超え、きっと火力の有利な高みを奪い占領する必要がある、と提示した。このため、99式の主砲の口径選択は戦車設計の重要なカギの1つとなった。

99式戦車は1999年に初めてお目見えし、当時国際戦車界は「西側を尊びロシアをけなす」の論調にあふれていた。ロシアの125mm戦車砲に対し大いに批判を加え、ドイツのRH120に代表される西側戦車砲はひとしきりの賞賛の中にひたっていた。このため99式戦車が125mm砲を選択使用したことは、人々の広範な推測を引き起こし、議論の声は今に至るも絶えない。祝楡生は主砲方案の決策者として、当時いかに考慮したのだろうか?

祝楡生は、99式の論証開始時、もうある人が西側の120mm口径は性能が非常に良いと提示した、と語る。だが彼は、120mm砲は間違いなく性能が素晴らしく、特に砲口運動エネルギーと装薬のマッチングが非常に良いが、詳細に比較すると、125mm砲の発展ポテンシャルがより大きい、と考えた。

祝楡生は、120mm砲は完璧だが、1つの武器としてその生命力は125mm砲に及ばない、と語る。この2種の火砲の薬室容積、火薬の力、装薬の構造は全て異なる。M1A2の120mm砲は、薬室容積が9.8〜9.9リットルで、一方ロシアの輸出型戦車の125mm砲の薬室容積は13.4リットルにも達する。当時我が国の発射薬の火薬力(頑住吉注:この用語の説明は後で出てきます)はアメリカの125万ジュール/kgより低かった。このためより大きな薬室容積を選択することが必須で、それでこそ99式の火砲に西側の砲口運動エネルギーに追いつかせる、ないし超越させることができる。120mm砲は薬室容積が小さいため、もし発射薬を改良し、砲身を延長しても、その砲口運動エネルギー向上のポテンシャルには限りがある。125mm砲の大きな薬室は必然的に120mm砲に比べずっと大きい砲口運動エネルギーをもたらす(頑住吉注:これも納得いかんですね。それなら優秀とされる西側の120mm砲をベースに薬室容量を拡大してもよかったはずで、要するに手に入る資料の多いロシアの125mm砲をベースにするしかなかっただけでは)。

祝楡生はわざわざ指摘した。湾岸戦争の期間にイラクが装備したT-72戦車が惨敗したのには各方面の原因があり、絶対にただ単に砲のせいではない(頑住吉注:いや単に砲のせいと思ってる人は非常に少ないと思いますが)。その中で非常に重要な1項目は、イラクに輸出されたT-72戦車は先進機種ではなく、配備された弾薬の装甲貫通威力が300mm余りしかなかったことである。加えてアメリカの宣伝があり、人々の「125mm砲はダメ」の誤解を強めたのである。

99式戦車は天安門で初めて明るみに出た。当時99式戦車の生産数が非常に少なかったため、1個スクエアチームを編成するに足りず、このため戦車スクエアチームの中に96式戦車も編入されていることに注意 (頑住吉注:これも明らかに元々キャプションです。)

知識のリンク

火薬力とは1,000gの火薬を燃焼させた時、その気体産物が1気圧(101,325パスカル)の下で膨張してする仕事を指し、定容火薬力とも呼ぶ。その単位はキロジュール/kgで、工程上は万ジュール/kgをその計量単位として採用する時もある。容積が限定された密封爆発器を用いて測定し、もっぱら銃砲の発射薬に用いる。銃砲などバレルを持つ武器の弾道学的計算の中の重要なパラメータでもある。 (頑住吉注:これは元々囲み記事的なものでしょう。)

99式の125mm砲は決して国外の125mm砲の複製品ではない。兵器科研人員は125mm砲に対し応力分析、焼蝕分析を行って、全く新しい砲用鋼、メッキ層技術および液圧自緊技術などを採用し、全く新しい125mm砲が誕生し、中国兵器は戦車砲方面でついに世界先進レベルに到達したのである。

国産125mm砲の性能は明らかに国外の125mm砲を超えている。ターゲット場での試験時、99式は設計寿命要求を超えた射撃試験を行い、数百発発射したが、精度には依然変化がなかった。一方ロシアの2A46は300発撃っただけで砲身内部はもうすでに3.4mm焼蝕し、精度の低下が顕著である。

だが祝楡生は、これは決してロシアの戦車砲技術が劣っていることを説明しない、と指摘する。一方において、ロシアの輸出型戦車と国内装備型戦車の技術レベルには顕著な隔たりが存在する。もう1つの方面として、ロシア軍は戦車大会戦の学説を信奉し、戦車戦の規模が1,000両以上になれば、参戦する戦車は砲弾発射300発を待たずにもう一部損傷を受け、あるいは後方に戻されて修理され、このため砲身の寿命はあまり長い必要はない、と考えているのである。

興味深いのは、威力がかくのごとく巨大な125mm砲にも、「威力不充分」な時がある、ということだ。99式で「自己矛盾」の実験をした時(頑住吉注:要するに99式の砲で99式を撃つ、ということですね)、その結果は125mm砲がよく見られる交戦距離で125mm徹甲弾を用いて99式の前面装甲を打ち抜くことが非常に難しい、というものだった。

発射薬の問題に言及し、祝楡生は笑いながら回想し、新型の発射薬に交換するため、自分はかつて2回の砲身爆発試験を行った、と語った(頑住吉注:迫撃砲の爆発事故で片腕を失った自分がこの年になってこんな試験を、といった自嘲ですかね)。記者はかつてその他の科研人員をインタビューした時、125mm砲はもし榴弾を発射しても、非常に強い対装甲能力を持つ、と知った。何故なら祝楡生は設計を主宰した時、榴弾対装甲システムを研究していたからである。

光電子対抗システム

99式戦車の砲塔の左後方には回転塔が1つある。祝楡生は、これは99式の光電子対抗システムであると語った。このシステムを使用して、相手方を妨害することができる。しかもこのシステムは完全自主作動で、乗員の関与を必要としない。

戦闘全備重量とエンジンの総合的考慮

99式論証当初、かつて2つの方案が提出された。1つはイスラエルの「メルカバ」に似たエンジンを前に置く案、もう1つは伝統的なエンジンを後方に置く案である。研究の反復を経て、世界で主流のエンジンを後ろに置く案が確定した。

画像の中の右から2番目が祝楡生氏。画像の中の99式戦車サンプル車は高射機銃の位置に光電子システムを装備している。これに比べ2012年前後世界中でやっと原理がこれと似た遠隔操作武器ステーションが流行し始めた。 (頑住吉注:これも元々キャプションですね。)

だが事情は決してこんなに簡単ではなかった。車両の設計は非常に大きな程度上エンジンをめぐって展開される。大きなエンジンがあってこそ重い車があり得るのである。当事国内には537キロワットの戦車用エンジンしかなく、99式の戦闘重量は79式、80式戦車に比べ重く、国産エンジンに立脚するか、それとも輸入した国外の機種を導入するか、またも厳しい選択だった。

当時西側の先進的な戦車、例えば「エイブラムス」、「レオパルド」2、「ルクレール」、「アリエテ」戦車や日本の90式戦車は全て1102.5キロワット(1,500馬力)のエンジンを採用していた。99式の研究開発期間、某国の戦車エンジン設計師がかつて中国に来てその製品をセールスした。祝楡生は彼の方案を見て、このエンジンは確かに比較的先進的だが、導入が必要でしかも加工コストが高すぎる、と考えた。またこのエンジンの体積は大きすぎ、戦車の体積を大幅に増加することが必須で、それでやっとそれを収納できるのだった。

祝楡生は、M1A1やレオパルド2A2の戦闘重量はいずれもすでに60トンを超え、このため1102.5キロワットのエンジンを採用するしかないのだ、と語った。西側戦車の体積は非常に大きく、威風堂々だが、被弾率が高く、その生存能力に影響する。

99式の戦闘全備重量はM1A1やレオパルド2A4よりはるかに小さく、50トンしかない。国産の883キロワット(1,200馬力)のタービン増圧中冷式大出力ディーゼルエンジンを採用すれば、そのトンあたり出力性能はM1A1、レオパルド2A4と同等になる。しかもこのエンジンは我が国の自力更生で、自主研究開発である。重量が軽く、体積が小さいので、99式の生存力は高くなる。99式の最大路上速度は時速70kmに達し得、0〜時速32kmまでの加速時間は12秒である。

いくつかの遺憾

当時我が国の工程装備、加工レベル、進度への要求などの問題ゆえに、祝楡生には99式に対し少なからぬ遺憾なところがある。例えば、T-72は重量軽減のため、動力室の装甲板をフライス盤で半分の厚さに削り、1トン余り重量を軽減した。我が国には当時このような設備はなく、この方式は採用できなかった。また、99式のキャタピラ板には鋳造技術が採用され、一方国外はローラー製造技術を採用し、このようにして99式の2本のキャタピラは国外に比べ1トン余り重い。もし関連の条件が具備されたら、全体の防御能力に影響しない前提の下で、99式の戦闘重量はまだ少なからず軽減し、したがって機動性能をさらにある程度向上させることができる。またいくつかの当時すでに研究開発されていた新技術が、定型までの時間の進度に関する要求が緊迫していたため、より多くの押し広げられた応用を行うことが間に合わなかった。例えば祝楡生はかつて99式にアクティブ防護システムの配備を希望した。このアクティブ防護システムも自主運行で、乗員の操縦を必要としなかった。特別の説明を必要とするのは、国外は1950、60年代には早くもアクティブ防護システムの概念を提出していたが、20世紀末、21世紀初めになってやっと重視し、ここ何年かになってやっと工程化された機種が大量に出現したことである。祝楡生は1980年代にもうこのような考え方を提出し、かつ実践に付し、極めて高い先見性があった。

新型装甲モジュールを装備した99式戦車 

すでに部隊装備された99A式メインバトルタンクであるが、祝楡生氏が20年前に99式戦車を設計した時の大部分の遺憾なところはすでにこの戦車では補われ得ていた (頑住吉注:この2つもキャプションですね。)

祝楡生はかつて、戦車に多くのビデオカメラを装備し、その態勢感知能力を改善するべきだと提示していた。一方ドイツは21世紀初めになってやっとレオパルド-2A7でこのような改造を行った。その他の国はまだ追随していない。

だが祝楡生は、これは全て20年前に遺憾だったことだ、と語る。科学技術の発展につれ、我が国の技術上の進展は非常に速い。中国兵器工業公文書館ウェブサイトが明らかにするところによれば、現在兵器工業部門は99式を基礎に99A2戦車を研究開発しているところであり、その主要な車体設計は現有の99式戦車の形式を採用しているが、打撃、ナビゲーション、夜間観測システムの上で、非常に良好な強化が達成されている。


 明らかに人物像が美化されているのが分かりますが、研究開発の過程などに関し参考になる部分が多いと思います。

















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