毛沢東最後の一戦

 「歴史秘話」ものの記事ですが、中国とベトナムの緊張が高まる中、中国がどのように戦闘開始を決断したかの過程などは今後を予測するヒントになるかもしれません。

http://www.hinews.cn/news/system/2014/01/20/016396558.shtml


毛沢東最後の一戦:81歳の高齢で対ベトナム西沙海戦開始を決断

1974年、毛沢東と周恩来、葉剣鋭、ケ小平らベテラン指導者らは共同で決策し、我が軍の西沙海域における海上自衛反撃戦を指揮した。この一戦は、中国海軍艦艇部隊初の対外作戦だっただけでなく、さらには毛沢東が一生の中で決策した最後の一戦でもある。この時、毛沢東はすでに81歳の高齢だった。彼は体の調子がすぐれず、もうすぐマルクスに会う(頑住吉注:死が近い)と自嘲していたものの、頭脳は逆に依然はっきりし、知的で、領土主権の完備に密接に関心を注いでいた。

ケ小平停職7年後初の軍事行動

当時、南ベトナム軍は我が国の南沙、西沙の6つの島礁を侵略占領し、その軍艦はさらに続けざまに西沙海域で中国漁船に体当たりして破壊し、船上の漁民を逮捕していた。

1974年1月11日、中国外交部は南ベトナム当局に向け厳正な警告を提出し、中国は西沙、南沙、中沙、東沙諸島に対し争い得ない主権を持つと重ねて言明した。だが南ベトナム当局は取り合わず、かえって1月15日に3隻の駆逐艦と1隻の護衛艦を派遣し、再度西沙の永楽諸島海域に侵入し、かつ中国国旗をはためかせる甘泉島に向け発砲、射撃し、民兵と中国漁民の死傷をもたらした。1月17日、南ベトナム軍はまた西沙の金銀島と甘泉島を侵略占領し、公然と島の上の中国国旗を取り外した。

当日深夜、周恩来は総参謀作戦部副部長の李力に電話をかけ、西沙諸島の詳細な状況を質問した。周恩来は李力の報告を聞き終わると、西沙で戦争が引き起こされる可能性があり、この問題は非常に大きく、毛沢東主席の指示を仰ぐ必要がある、と語った。その後、周恩来と葉剣英は報告書を書き、毛沢東に送り、パトロールの強化およびその他の相応の軍事的措置によって西沙諸島を防衛するよう提案した。毛沢東は報告書の上に厳粛に2文字を書き加えた。同意! かつ、「見たところ戦争をしなくては、中国の海洋権益を維持保護するに足りない! 恩来、剣英の意見は実に正しい!」と指摘した。

1月19日早朝、4隻の南ベトナムの軍艦が中国海軍艦隊に接近し、かつ第1発目を撃った。中央は、葉剣英、ケ小平が責任を負い、総参謀作戦部に行って西沙海戦を指揮することを決定した。ケ小平は当時カムバックしたばかりであり、1月5日になってやっと軍事委員会副主席兼参謀長に任命され、これは彼の停職から7年後に指揮する初の軍事行動だった。ケ小平が総参謀作戦部に到着した後、最初に言ったのは、「まず状況を報告してみよ」だった。次の言葉は「まず指揮関係を明確にしよう。陸海空の参戦部隊は広州軍区司令員許世友によって指揮される。」 続けてケ小平は作戦命令を口述し、作戦参謀は復唱し、彼はいくつかの字と個別の句読点を直し、その他の将兵に異なる意見があるか否かを問うた。その後、ケ小平は作戦指令を発し、1通1通の電報でこのように広州軍区に発した。

「我々はもう飯を食うべきかな?」

1月19日午前10時25分、西沙海戦が正式に開始された。1時間後、南ベトナムの4隻の軍艦中3隻が重大な損傷を負い、相次いで作戦区域を離れ、残る1隻の軍艦のみが完全な状態だった。11時32分、中国海軍の増援艦隊が駆けつけ、南ベトナム最後の1隻の軍艦が撃沈された。ここに至り、中国海軍は4隻の艦艇が損傷を受け、18人が犠牲となり、67人が負傷する代価をもって、成功裏に戦闘を終結させたのである。

北京で指揮を取っていたケ小平は報告を受け取ると、手中のたばこをもみ消して、「我々はもう飯を食うべきかな?」と言った。作戦当番室を離れる前、ケ小平は広州軍区に電報を発し、西沙海戦を指揮する最後の任務を与えた。すなわち、戦闘を継続して拡大し、珊瑚、甘泉、金銀の三島を取り戻すことだった。この戦闘の後、西沙諸島は中国内地の実効支配下に置かれた。

1988年、すでにアメリカの統治を離れ、統一を実現していたベトナムは、またしても南沙で赤瓜礁海戦を挑発して引き起こした。3月14日早朝、ベトナム海軍の3隻の軍艦が赤瓜礁に到着した。その後、中国海軍「鷹潭」号護衛艦と「湘潭」号護衛艦が相次いで赤瓜礁に到着した。8時、中国の兵士杜祥厚はベトナム軍との対峙の過程でテーブルリーフ上に差し込まれたベトナム国旗に手を出して抜き取った。1人のベトナム兵が直ちに銃を上げ杜祥厚の胸を照準した。もう1人の中国の兵士楊志亮は状況を見、すぐに手を伸ばしてベトナム軍の銃を押しのけた。この時にベトナム軍がトリガーを引き、楊志亮を負傷させた。双方は直ちに交戦を発生させた。4分後、ベトナム軍の604船は発火して沈没した。9時、ベトナム軍505上陸艦が白旗を揚げて投降した。9時15分、「湘潭」号護衛艦がベトナム軍の605船に対し攻撃を開始し、ベトナム軍の605船は砲弾が命中して発火し、指揮台が損傷し、船体が重大に傾斜した。9時37分、「湘潭」号護衛艦は射撃を停止した。後にベトナム軍の605船はその晩沈没したことが確認された。

赤瓜礁海戦の前、我が国はずっと厳正に南沙諸島の主権を持つと宣告していたが、実際上はそのうちいかなる1つの島嶼、珊瑚礁、あるいは砂州も決して有効に支配してはいなかった。だがこの時の海戦後、我が国は南沙諸島の永暑礁、華陽礁、東門礁、南薫礁、渚碧礁、赤瓜礁という6つの島礁を支配し、中国の南沙諸島に対する実効支配の空白を埋めた。1994年、南海の漁政部門は美済礁に進駐し、有効な管理を行い、中国内地が南沙諸島で実効支配する島礁の数を7つに到達させた。(黄錬)


 「見たところ戦争をしなくては、中国の海洋権益を維持保護するに足りない」と決断した上でのことですからベトナム軍が先に撃ったというのが本当かどうかは疑わしいですね。習近平に毛沢東ほどのカリスマ性があるはずもなく、ベトナムに対し開戦した場合のアメリカの動きも当時とは全く異なるはずですが、ベトナムとの問題は今後どう展開していくんでしょうか。

















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