実銃について
南部十四年式、九四式、二式、ブローニングM1910
浜田式拳銃誕生まで
浜田銃砲店は1895年に浜田文次氏の父の手によって東京、神田に開かれた。文次氏は1901年に生まれ、若くして腕のいいガンスミスだった父と同じ才能を発揮した。文次氏が兄の喜三郎氏とともに戦前まで経営していたこの店は浜田銃砲火薬店として現存する。ホームページには文次氏の若き日の写真、戦前に製造された銃の画像、昭和初期のカタログなどもアップされているので興味のある方は検索してみてほしい。戦前まで浜田銃砲店は高級なスポーツ、狩猟用のライフル、散弾銃をおもな商いとしており、軍用銃も拳銃も作っていなかった。しかし、戦争の激化により資材を軍需に回さねばならなくなり、軍用以外の銃の製造は不可能になってしまった。
戦争のため、将校の自衛用などに使われる中型自動拳銃の需要が増した。この用途にはヨーロッパ、アメリカ製品が人気を集めていたが、当時は輸入が著しく困難な国際情勢となっていた。そこで軍は浜田氏ら民間の銃器メーカーにこの用途に使える中型自動拳銃の生産を要求した。浜田氏は生産はしていなかったものの拳銃に関しても豊富な知識があり、すぐに最初の試作品を完成させた。これは.32ACPを使用するもので、構造といい外観といい、ブローニングM1910のフルコピーに近いものだった。この試作品は数挺しか作られず、浜田氏はすぐに独自のアイデアを盛りこんだ新しいデザインに変更した。変更の内容は、バレルの分解方法、ファイアリングピンの構造、ユニークなディスアセンブリープレートの追加などで、のちパテントが取得されている。同時にスライドストップのメカニズムのパテントも取得されているが、これは図面を見る限りモーゼルM1910(おそらくHSc、HK4とも同じ)のものに近い、新しいマガジンを挿入すると自動的にスライドが前進するものだったようだ。ただ、これは浜田式には盛りこまれていない。浜田式は基本的にはオーソドックスな中型オートであり、特筆すべき特徴はほとんど分解方法だけといっていい。そこで、分解方法について少し詳しく考えてみたい。
浜田式に類似したオートピストルの分解方法
オートピストルは、ごく少数の例外を除き、バレル・スライド・フレームという基本3パーツからなる「スライド型」と、バレルエクステンション・ボルト・フレームからなる「ボルト型」に大別できる。今回問題となるのは「スライド型」だ。
オートピストルの発火方式には、「ハンマー式」と、「ストライカー式」がある。今回問題となるのは、ハンマーを持たず、スライド内でファイアリングピンを固定したストライカーが直進してプライマーを打撃し、発火させる「ストライカー式」だ。ストライカーを前進させるスプリングを、発射に直接関係するスプリングという意味で「メインスプリング」と呼んだり、「ストライカースプリング」と呼んだりもするが、ここではファイアリングピンスプリングと呼ぶ。ストライカー式は、ファイアリングピンスプリング後端をフレームで保持する「フレーム保持型」と、スライド内で保持する「スライド内保持型」に大別できる。
「フレーム保持型」はこのような形だ。
スライドが後退すると、ストライカーはそれに押されて後退する。ファイアリングピンスプリングの後端はフレームで保持されているのでスライド後退時に圧縮されることになる。一方「スライド内保持型」は次のようになる。
スライドが後退し、これに押されてストライカーが後退するのは同じだが、ファイアリングピンスプリング後端を保持しているスライドが同時に後退するので、このときにはファイアリングピンスプリングは圧縮されない。ストライカーがシアにかかり、スライドが前進するときに圧縮される。
「フレーム保持型」はハンマー式に近い構造で、システム的に自然だと思う。一方「スライド内保持型」にはやや無理がある。「フレーム保持型」では、発射前、ファイアリングピンスプリングはシアを前、フレームの突起を後ろに押している。これは両方ともフレーム内のパーツなので、スライドにテンションはかからない。そして、発射後、ファイアリングピンスプリングはスライド後退に抵抗する、いわば補助リコイルスプリングといった役目を果たす。これに対し「スライド内保持型」では、発射前、閉鎖しているスライドをファイアリングピンスプリングがこじあけようと抵抗していることになる。しかも、リコイルスプリングがのびきってテンションが最も低下している状態で、ファイアリングピンスプリングは圧縮され、テンションが最も高まった状態でこれを行う。そして、発射後ファイアリングピンスプリングはリコイルスプリングに協力しない。ダブルアクションオンリーの銃は事情がやや異なるが、基本的には同じことだ。
古くからのトイガンマニアなら、「フレーム保持型」はプルコッキング、「スライド内保持型」はプッシュコッキングのエアガンと比較すればわかりやすいと思う。現在ほとんどを占めるプルコッキングは、エアを押し出すピストンを前進させるメインスプリング後端をフレームから上方に伸びた突起で保持している。一方、初期に主流だったプッシュコッキングは、メインスプリング後端をスライド内で保持していた。発射前、メインスプリングがスライドを強く後方に押すため、スライドをリターンさせるスプリングで閉鎖することはできず、閉鎖状態でスライドをロックするシア状のパーツが備えられていた。そして、スライド後退時にはテンションがかからないので、スライドを後退させる弱いスプリングを付属して「ブローバック」の動きを再現することができた。
実銃の場合、リコイルスプリングはきわめて強く、ファイアリングピンスプリングは比較的弱いので、事実上問題は生じにくいが、システムとしてやや不自然なのは否めない。しかし、H&KのVP70、P7、そしてグロックに影響を受けた最近のモデルなど、戦後から現代に設計されたものは、大部分が「スライド内保持型」のようだ。「フレーム保持型」はフレームから上方に伸びる突起を作り、スライドをこれとうまくかみ合わせなければならず、「スライド内保持型」の方が単純な形状に作りやすいからだろうか。ただ、ワルサーP99をスケールダウンしたP22がストライカー式を止めてハンマー式にしているのは、リコイルスプリングの弱い.22LRではこの問題が無視できないほど大きくなるからかもしれない。
「スライド型」オートピストルの分解方法はごく少数の例外を除き、大きく2つに分けられる。現在大部分の銃が採用している、スライドをバレルごと前進させて外す「ストレート前進型」と、後部を持ち上げた状態で前進させて外す「後部持ち上げ型」だ。システムとしては明らかに「ストレート前進型」の方が自然だと思う。「後部持ち上げ型」の代表はワルサーPPシリーズだが、ワルサーはメジャーデビュー作のモデル1以来、ストレートブローバックの中、小型オートには一貫して「後部持ち上げ型」を採用している。マカロフ、Cz83などPPの方法をそのまま真似したものも多い。ザウエル&ゾーンM1938はトリガーガードを分解ラッチに使わず、独立した分解ラッチを備えたものだが、基本的には同じだ。H&K VP70はこれに近い。なお、P7は後述するオルトギースに近い。やや不自然な方法と思われる「後部持ち上げ型」のメリットは、ワルサーも主張しているように、バレルを完全固定にできるので命中精度が高くなる、という点だ。「ストレート前進型」の場合、保持による固定はできても、バレルを完全固定にすることは難しい。「他の条件が全て同じならば」という前提が必要だし、競技銃でもない限り実用上の差はほとんど生じないのだが、理屈としては完全固定バレルの方が命中精度を高めやすい、というのは間違っていない。
さて、延々述べてきたが、このような分類からして、浜田式は「スライド型」「ストライカー式」「フレーム保持型」「後部持ち上げ型」という組み合わせを採用している。実は、こういう銃は珍しい。この組み合わせには重大な問題があるからだ。
スライドが前進した状態のまま後部を持ち上げて分解することは理屈では可能だし、後述のようにそういう銃も存在するが、あまり望ましくない。こういう方法をとれば、簡単な操作でスライドが外れる状態で携帯、発射を行うことになり、携帯時の外力や発射の強い衝撃でスライドが脱落するおそれがある。また、いくらバレルが固定でも、リアサイトはたいていスライドにあるから、スライドの固定が甘いと命中精度にも悪影響が出やすい。そこで、たいていはスライドを引いた状態で後部を持ち上げることになる。「フレーム保持型」では、スライドを引けばファイアリングピンスプリングは圧縮される。この状態で後部を持ち上げたら、ファイアリングピンスプリング後端(たいてい直接的にはガイド)がフレームから離れた瞬間、後方に勢いよく飛び出してしまう。問題はこれだけではない。ファイアリングピンスプリングが圧縮された状態で分解するということは、圧縮しないと組めないということでもある。ファイアリングピンスプリングを素手で圧縮するデザインというのは難しく、単純にデザインすれば、細い棒のようなもので後方から押して圧縮しながら組むことになる。通常分解時に必ず小パーツが勢いよく飛び出し、素手では組み立てられない、という銃は実用銃としては失格だろう。
「後部持ち上げ型」のうち、ハンマー式のもののほとんどは、何らかの操作をすると、スライドが通常の最大後退時よりさらに後退し、これによってスライドとフレームのかみ合いが外れて後部を持ち上げることができる。しかしストライカー式でこういう方法をとれば、ファイアリングピンスプリングとガイドがとんでもない勢いで飛んでしまうことになるので難しい。そこでストライカー式の多くはスライドをやや引いて後部を持ち上げる。それでも飛んでしまうことに変わりはないので、何らかの対策を取らねばならない。こういう方式を採用している銃を順に見ていこう。
ワルサーモデル1
筆者が知るこの種の銃のうち、最も古いのがワルサーモデル1(1908年発売)だ。この銃の構造は、床井雅美氏の「ワルサー・ストーリー」P195にイラスト化されているので、合わせて参照してほしい。筆者の手元にはこの他に複数の詳細な洋書の資料がある。お恥ずかしい話だが、かなり以前からこの銃の構造について調べ、考えているのだが、この銃がこの問題をどう解決しているのかいまだにわからない。この銃は約15mmほどスライドを後退させて後部を持ち上げる。どう考えてもファイアリングピンスプリングとガイドは後方に飛んでしまうはずだ。しかし、資料にはファイアリングピンスプリングとガイドの飛び出しに注意せよといった記述はないし、「組み立ては分解の逆」「工具なしで組み立てられる」と明記してある。案外「ファイアリングピンスプリングとガイドは飛び出すので注意して受け止める。特別の工具は必要ないが、マッチ棒のようなもので後方から押しながら組む。」というだけなのかも知れない。いずれにせよ、その後ワルサーはこの方法を採用していないし、多くの資料であまりいい設計ではなかったと評価されている。
ワルサーモデル9
床井雅美氏は、ワルサーモデル9(1921年発売)を、モデル1の近代化型と評価している。モデル1に問題があったのでこの方法に変更したということだろう。
モデル1もそうだが、モデル9はスライド型でありながら、スライドとフレームがレールでかみ合っていない珍しい例だ。スライド前部はPPシリーズ同様バレルによって保持されている。後部はフレームから上に伸びた「Ω」状突起がファイアリングピンの入る下が開放されたパイプ状スペースに入り、これによって持ちあがりが防止されている。モデル9では、この「Ω」状突起自体が分解ラッチになっている。同時にこれがファイアリングピンスプリングの受けにもなっている。ロックを解いて後方に引き出せば(M16のテイクダウンピンのように完全には抜けない)、ファイアリングピンスプリングのテンションはなくなり、後方に飛び出すことはない。単純で合理的な方法だ。この方法は戦後のモデルTPでも採用されている。
リリパット
リリパット(妖精)という名前のついた銃はフロンマーなども作っているが、ここで説明するのは1920年代、ドイツのMENZというメーカーが作ったものだ。.25ACP、.32ACPモデルもあったが、最小のものは口径4.25mmという超小口径弾薬を使用するきわめて小さいものだった。「発射機能のあるミニチュア」であるコリブリと違い、4.25mmリリパットは.25ACPの半分くらいのパワーがあり、一応実用目的だった。
スライドとフレームがレール状にかみ合っていないのは同時代のワルサーモデル9と同じだ。ファイアリングピンスプリングガイドは後方に押されてフレームからの突起にひっかかっている。これによってスライド後部の持ちあがりは防止されている。ファイアリングピンスプリングガイド後端はスライド後部にやや突き出しており、スプリングのテンションにさからってこれを前に押すとフレームの突起とのかみ合いが外れてスライド後部は持ち上げられる。個人的には今回説明するシステムの中で最も自然で好感が持てる方法だ(モデル化したいという誘惑にかられているが、売れないだろうなあ)。ただ、欠点もある。ファイアリングピンスプリングガイドの後方への突出を小さくすれば、わずかに押しただけでスライドが脱落することになり、携帯時に不安だ。かといって突出を大きくすれば抜くときひっかかりやすくなるし、大きな突出は大きく押されやすいから根本的な解決にはならない。なお、ワルサーモデル9とリリパットはスライド前進状態のまま後部を持ち上げる。威力の小さい弾薬を使用し、あまりハードな使用をしないベストポケットピストルだから許されたのだろうが、前述のようにこの方法はやや不安だ。
オルトギース
オルトギースは1920年代にドイツで人気があった安価な中型オートだ。オルトギースについてはGUN誌1989年2月号に詳細なメカの説明があるので参照してほしい。
オルトギースのスライドとフレームはレール状にかみ合っている。一方フレームから上に伸びる突起は「Ω」状ではなく逆U字状なので、これにはスライド後部の持ちあがりを防止する機能はない。右側のレールはスライドを少し引くといったんかみ合いが途切れる。左のフレーム側の突起はイラストのようにテイクダウンボタンと一体だ。右のレールのかみ合いが途切れたところで、テイクダウンボタンを押すと左のフレーム側のレールはフレーム内部に引っ込んで機能しなくなり、ここでスライド後部は持ち上げられる。
オルトギースにはグリップセーフティがあるが、これはきわめてユニーク、というか、率直に言えば変なものだ。ファイアリングピンスプリングガイド後端はグリップセーフティの上部で保持されている。グリップセーフティを握らない時、上部は後退しているのでファイアリングピンスプリングは伸びていて、コックしても発火に必要なテンションが得られない。握るとファイアリングピンスプリングガイド後端は押されて前進し、このときだけ発火に必要なテンションが得られる。グリップセーフティを握らなくてもコックもレットオフもできるわけだ。たぶんグリップセーフティを握らずにトリガーを引いても発火する可能性はゼロではないだろう。このデザインは、グリップセーフティの機能を狙っただけではないと思う。分解時、グリップセーフティを握らない状態では、ファイアリングピンスプリングは伸びているので、後部を持ち上げても飛び出しにくい、という意味もあるのだろう。ただ、このときもファイアリングピンスプリングはわずかに圧縮されているようだ。「飛び出す」というほどのテンションではないのだろうが、このままでは素手で組み立てられない。そこで、ファイアリングピンの通るスペースにノッチを切り、ここにファイアリングピンスプリングガイド後端をひっかけた状態で組み立てるようになっている。
こんな状態だ。一回スライドを引けばファイアリングピンスプリングガイドはノッチから外れてグリップセーフティ上部に引っかかるのだろう。そして、オルトギースはチャンバー下に垂直の軸があり、上から見てバレルを90度回すことでバレルが外れるようになっている。
筆者の知る限り、「スライド型」「ストライカー式」「フレーム保持型」「後部持ち上げ型」という組み合わせを採用している銃は浜田氏の銃を除けばこれだけだ。たぶん探せばもっとあるだろうが、珍しい形式であるのは間違いない。
2003年5月3日追加
先日入手した洋書「The Gun Digest Book of
FIREARMS ASSEMBLY/DISASSEMBLY Part1:Automatic
Pistols 2nd Edition」(J.B.Wood著)に、「スライド型」「ストライカー式」「フレーム保持型」「後部持ち上げ型」を採用している銃があと2機種紹介されていた。ひとつはイタリアのアーミ・ガレーシー社製ガレーシー25だ。この銃は国内への大型密輸事件で話題となったガレーシー・モデル9(GUN誌1983年4月号に記事がある)とほぼ同型のようだ。口径は.25ACPでベストポケットと中型の間くらいのサイズだ。この銃の分解方法はワルサーモデル9とほぼ同じになっている。もうひとつはレイバンMP−25だ。この銃はアメリカ製の.25ACPオートで、大きめのベストポケットといったサイズだ。きわめて安価ないわゆるサタデーナイトスペシャルだが、サタデーナイトスペシャルの中では最も信用できる銃のひとつと評価されていたらしい。画像やパーツ展開図はここにあった。 http://hometown.aol.com/jtjersey/Raven/raven.htm
この銃はどこかで見た記憶があり、探したところ、GUN誌1991年8月号に「ローシンモデルL−25」というのがあった。レイバンとローシンは排莢方向(レイバンは真上、ローシンは右)が違う以外ほとんど同一モデルのようだ。そして現在ローシンはブランド名は残しながらフェニックスアームズという会社によって販売されている。このあたりの事情はよくわからないが、まあどうでもいいだろう。それより注目すべきなのはこの銃の構造だ。セーフティの構造をのぞき、この銃のメカニズムはトリガーメカといい、分解方法といい、リリパットにそっくりだ。とうてい偶然とは思えない似かただが、レイバンの設計者が何故ブローニングやワルサーといったメジャーどころではなくリリパットのようなマイナーな銃を真似たのか興味深い。リリパットは上のイラストのようにフレームから前上方にフック状の突起が伸び、これがファイアリングピンスプリングガイドをひっかけている。一方レイバンはファイアリングピンスプリングガイドから後下方にフック状の突起が伸びてフレームにひっかかっている。もちろんこれはメカニズム上重要な差異ではない。そしてレイバンのファイアリングピンスプリングガイドは後部に露出しておらず、細い棒のようなもので押しこんでロックを解くようになっている。素手では分解できないわけだが、この種の安価なオートの中にはバックアップや.380シグマのようにポンチとハンマーでピンを叩き出さないと分解できないというものすら普通にあるので、それに比べれば格段に上等な構造だ。
浜田式の分解方法
浜田式も、「スライド型」「ストライカー式」「フレーム保持型」「後部持ち上げ型」という組み合わせを採用しているので、何らかの解決方法が必要となる。浜田式はスライドとフレームがレール状にかみ合っており、フレームから上に伸びた「Ω」状突起と両方でスライド後部の持ちあがりが防止されている。レールはスライドを少し引くとかみ合いが途切れるが、ここでは「Ω」状突起で持ちあがりが防止される。あらかじめ「Ω」状突起を含むテイクダウンプレートを下げておけば、一点においてスライド後部は持ち上げられる。浜田式のスライド、フレームには小さな矢印が刻印され、「この矢印の位置を合わせると分解できるよ」ということを示していた。今回筆者が製作した製品は、この「Ω」状突起自体でファイアリングピンスプリング後端を受けている。だからあらかじめこれを下げておけば、スライドを引いて後部を持ち上げてもファイアリングピンスプリングは飛び出さない。これはワルサーモデル9に近い方法と言えるだろう。こういうデザインの実銃もありうるが、やや問題がある。スライド前進状態で後部を持ち上げるワルサーモデル9、リリパットもそうだが、ファイアリングピンスプリングは、ファイアリングピンが前進した状態でも少し圧縮されているのが普通だ。筆者の製品のようにしたら素手では組めず、細い棒のようなもので後方から押しながらでないとテイクダウンプレートを上昇させることができないことになってしまう。スペースと同じ長さ、または少し短いファイアリングピンスプリングでも発火は可能だが、不発などの問題が生じたとき、同じ規格でやや長いスプリングに交換して対処できないというのはやや融通に欠ける。浜田氏はこういう方法はとらず、テイクダウンプレートの前にフレームから上方に伸びる別の突起を設け、これでファイアリングピンスプリングガイド後端を保持した。したがってこれの飛び出し防止に何らかの対策が必要となった。浜田氏の採用した方法はこういうものだった。
ファイアリングピンまわりの上部に長い板バネを配置して下向きのテンションをかける。通常はこの板バネはフレームの突起に押し上げられていてファイアリングピンスプリングガイドにテンションをかけない。スライド後部を持ち上げると、これは相対的にフレームの突起が下降するということなので、板バネはファイアリングピンスプリングガイドを下に押す。押されたファイアリングピンスプリングガイドはスライド内部のノッチに自動的にひっかかり、飛び出しが防止される。組み立て時はまた自動的にもとの位置に戻る。
これは、オルトギースの組み立て時の「ノッチにひっかける」方法を発展させ、自動化したものと考えてよいのではないか。バレルの分解方法の類似も含め、オルトギースが浜田式に与えた影響は非常に大きいと思う。たいていの資料は、浜田式をブローニングM1910の亜流としている。筆者の知る限りオルトギースと浜田式の類似に触れた資料はないが、オルトギースは戦前の日本に輸入され、将校の自衛用などに使われていたらしい。「MILITARY PISTOLS OF JAPAN」の著者は浜田氏に直接、浜田式とブローニングM1910の類似について質問している。平たく言えば「M1910の真似したんでしょ?」という質問だが、浜田氏は「特定の銃に影響されたわけではない。私はピストルのデザインについて非常によく理解していた。その結果ああなったのだ。」旨答えたそうだ。浜田式はオルトギースの亜流かといえばトリガーメカなどはまったく異なっていて、ブローニングに近い。浜田氏なりに、最善と思われる組み合わせを選び、独自のアイデアも加味して浜田式を設計したということだろう。
浜田式の方法は非常にクレバーなものだとは思うが、個人的にはあまり好きになれない。これは、「スライド型」「ストライカー式」「フレーム保持型」「後部持ち上げ型」という、大きな問題を生じる組み合わせを自由に選んだ上で、これを巧みな方法で解決したものだ。初めからそういう組み合わせを避ければよかっただけなのではないかという気がするのだ。「ストレート前進型」にすればテイクダウンプレートも板バネもノッチもいらず、かなり単純にデザインできる。浜田氏は最初M1910のコピーに近いものから出発したが、なぜこういう方法に変更したのかがよくわからない。「後部持ち上げ型」のメリットはバレルを完全固定にできることくらいしかないと思う。それなのに浜田式(オルトギースもそうだが)は完全固定ではない。これはやや不合理ではないか。
考えられるのは、完全固定ではないものの、M1910の方法よりバレルの固定がタイトで強固になりやすい、という理由だ。M1910の方法は、スライドとフレームのかみ合わせが精密でないとバレルにガタが出やすい。ちなみに筆者は発売当時コクサイのM1910を買い、初めは快調に作動していたが、あるときマニュアルの指示を無視してMGキャップを使用したらバレルが外れ、それ以来外れぐせがついてコクサイキャップでも発火できなくなってしまったという苦い経験がある。今回の製品の場合、バレルはほとんどガタなく保持できているが、M1910の方法は精度や剛性の低いプラキャストでは不安だ。実銃でも浜田式の方法の方が精度上の許容範囲が広く、バレル脱落などの事故が起こりにくいだろうとは考えられる。
ただ、それならベレッタM84のようにバレルを前方からレール状に差し込む方法ならこの方法と同じかそれ以上タイトな固定が得られる。
このように考え、筆者は浜田式のデザインは決して理想的なものではなかったと思う。しかし、当時の世界水準において、特別に優れたものとは言えないにしても、決して劣ったものではなく、充分合格点が出せるものだったはずだ。もちろん当時の友邦ドイツに10年以上前に出現していたワルサーPPに比べ大きく遅れたものだったと言えば言えるが、PPの影響を受けた銃が国外で作られるようになったのは基本的には戦後のことだ。また、緊急に生産性のいい銃が必要とされたとき、複雑なダブルアクションが望ましかったかは疑問だし、当時の陸軍がそのメリットを充分理解して使いこなしたかはそれ以上に疑問だ。
有名な南部麒次郎氏は生粋の軍人だった。南部氏の開発した南部式は、開発時には世界水準を抜いていたといえる。そもそも当時オートピストルを開発していた国自体少なかったし、時代(1907年頃)を考えれば南部式には特別大きな欠点は見当たらない。十四年式(1925年)は当時やや旧式のデザインとなったが、まあ許容範囲の内容だろう。しかし、九四式(1934年)は世界水準に照らしてあまりにも劣った内容だった。南部氏は太平洋戦争開戦当時70歳を越えていた。稲垣式拳銃を作った稲垣氏は元軍人で、南部氏の部下だった。引退後民間用の銃を作っていたが浜田氏と似た経緯で拳銃の開発を始めた。稲垣式拳銃はユニークではあるが、あまり優れた内容とは言えない。稲垣氏は南部氏より少し若いが、ほぼ同年代だった。
浜田氏は主に高級な猟銃の生産を行っていたが、拳銃に関しても豊富な知識があった。また、民間人だったので「国産の銃は独自の構造でなくてはならない」という変な思いこみもなく、当時40歳という働きざかりだった。明らかに浜田氏は当時の日本において最も優れたピストルデザイナーだった。
浜田式は制式兵器ではなく、浜田氏の言によれば「一式」という名称は適切ではないということだ。ただ、まったく軍と無関係に個々の将校が自費で買うだけ、という輸入品と同格のものではなく、軍の要請で作られ、テストを受けて認められ、軍との契約で大量に納入されたものだった。浜田式生産のため、それまでの個人的ガンショップにかわり、日本銃器株式会社が設立された。浜田式は1941年から1944年までに4500〜5000挺が作られ、主に大陸に送られた。「日本帝国の拳銃」によると、この本が書かれた当時アメリカにはたった12挺の浜田式しかなかった。これらは将校個人が購入して南洋に持っていき、米軍に鹵獲されたものだ。最近イベントで浜田式の無可動実銃を見るが、あれは改革開放政策によって中国から逆輸入されたものだろう。
ちなみに筆者は資料から、太平洋戦争の勃発から浜田式の開発が始まった、と解釈したが、よく考えればこれはおかしい。開戦は1941年12月8日のことで、ここから民間用の銃が作れなくなり、軍が拳銃開発を要求し、ピストルを作ったことがなかった浜田氏が一から構想を練り、ブローニングM1910のコピーに近い試作品を数挺作り、これを放棄して新たなアイデアを盛りこんだ試作品を少なくとも数挺作って軍のテストを受け、認められて猟銃の生産ラインをピストルのそれに換え、量産を開始する、というプロセスが年内に終了するとは考えられない。資料には何月と明記していないが、太平洋戦争開戦の少なくとも数ヶ月前に、すでに民間用銃の生産は不可能になり、ヨーロッパの戦争激化、アメリカとの関係悪化によって中型オートの輸入が困難となり、軍からの開発要求があった、ということだろう。
二式拳銃の開発
将校の自衛用として、第2次大戦当時は.32ACPを使用する中型オートが主流だった。したがって浜田式、稲垣式はこの用途に使う限り決して非力ではない。しかし本格的な軍用としては威力が不足していた。また、制式軍用拳銃弾8mmナンブとは使用弾薬が違うので補給上の問題もあった。8mmナンブを使用する比較的小型の軍用拳銃としては九四式があったが、生産に手間がかかりすぎ、数が足りなかった。そこで軍は1942年、浜田氏、稲垣氏を含む民間銃器メーカー少なくとも三者に8mmナンブが使える、九四式の不足を補う拳銃の開発を命じた。このときの条件として、生産および分解、組み立てが容易であることが要求された。
浜田氏は初め浜田式をそのままスケールアップしたようなものを設計した。
作動方式も浜田式と同じストレートブローバックだった。発射時にスライドがロックされず、スライドの重量とリコイルスプリングのテンションだけで安全が保たれているストレートブローバックでは、あまり強力な弾薬は使用しにくい。ボルトの重量を大きくできるサブマシンガンは別だが、ハンドガンでは一般に.380ACPよりやや強力な9mmマカロフ、9mmウルトラ(いずれも9mmx18と表記されるが互換性はない)が限度とされる。8mmナンブはこれらと同程度のパワーと考えられ、本来ならばストレートブローバックでいいはずだ。しかし8mmナンブをストレートブローバックで使用するには問題がある。普通ストレートブローバックのハンドガンに使われる弾薬の薬莢はストレートだ。発射時、内部の圧力が上昇すると、薬莢はややふくらんでチャンバー内部に密着する。このため弾頭が銃口を出ず、バレル内部の圧力が高いままスライドが後退を開始しても、薬莢自体がガスをシールして後方に噴出するのを防ぐ。これに対し8mmナンブの薬莢はボトルネック、テーパーつきなので、少しでもスライドが後退すれば後方にガスが噴出してしまう。スライドの動き出しを遅くするには、重いスライドと強いリコイルスプリングが必要になる。これは携帯性や操作性を低下させるおそれがある。
浜田氏がショートリコイルを検討したかどうかは明らかでないが、結論としてストレートブローバックでいけると判断し、このような試作品を作った。
しかし、軍はろくな審査もテストもなしにこれを却下した。浜田氏の考えでは、実際に生産されたデザインより、このオリジナルデザインの方が、より少ない工程で生産でき、合理的なデザインのはずだった。却下の理由は明確ではなく、浜田氏は「軍は民間人の設計をそのまま受け入れるのは面子に関わると思ったのだ」と語っていたそうだ。筆者も、もしこの比較的小さなスライドで充分安全が保て、スライドが限度を越えて引きにくくないならば、これがいちばんいいデザインだと思う。もしこのデザインならば頑住吉としては「デザインがつまらない」といって製品化しなかった可能性が高いが、それはまた別の話だ。
軍でこの新拳銃開発を担当していた谷戸賢二陸軍兵技少佐は却下と同時にああしろこうしろという指示を出した。浜田氏はこの指示に従って設計を一からやりなおし、次の試作品を作った。
グリップが長いが、これは8発入りマガジンのもので、他に6発入りのものも作られた。スライドとフレームの前部は補助レールでかみ合うようになった。命中精度を高め、タフにする狙いだろうか。意味がないわけではないだろうが、生産性低下に見合うほどか、というのは疑問だ。フレームの削り出し加工もやや複雑化しているが、デザインのイメージを欧米風から日本独自風に変える以外の意味があるのかという感じだ。さらに不可解なのは、フレームの一部をわざわざ切り欠いてディスコネクトの様子を見せていることだ。生産性を低下させ、異物混入による作動不良の可能性が高まるが、何のメリットがあるのかまったく不明だ。この試作モデルは全部で5挺作られ、非公式のテストののち再び却下された。谷戸氏はさらに注文をつけた。
次の試作モデルは最終生産モデルに近いものだ。フレームの加工はさらに複雑化している。また、スライドを全体に大型化した上で重量軽減の大きな削り込みを行っている。これはどう考えても不合理ではないだろうか。日本軍は無意味に複雑な削り出し加工がされている銃を好み、それは現在の自衛隊にまで引き継がれているのではという気さえする。ただ、別の見かたをすれば、重量軽減の削り込みを行う余裕があったわけで、8mmナンブをストレートブローバックのハンドガンで発射するには結果的に大きな問題がなかったと推測できる。このモデルは浜田式拳銃を意味する秘匿名称「ハケ式拳銃」と呼ばれた。そして1943年3月13〜16日、千葉の富津にあった軍の射場で公式のテストが行われた。試験官は谷戸氏のほか、九八式高射機関砲の開発者でもある銅金義一大佐があたった。このときは4挺のハケ式拳銃(6発マガジン2挺と8発マガジン2挺)と数千発の弾薬が使われ、機関部に砂を入れての実射も行われたという。そのときの報告書は次のようなものだった。
ハケ式拳銃試験要報
一、試験の目的 首題兵器試作完成セルヲ以テ之レカ諸性能ヲ験スルニアリ
二、判決 機能、命中、耐久概ネ良好ニシテ若干ノ改修ヲ要スルモ軍用トシ九四式拳銃に匹敵スル価値ヲ有スルヲ以テ速カニ仮制式トスルコトヲ適当ト認ム
三、試験成績ノ概要及所見
1.機能概ネ良好ニシテ悪質ノ故障ナク若干ノ改修ニヨリ之カ(注・一字判読不能)點ヲ除去シ得
2.命中並二初速ハ九四式拳銃に比シ遜色ナシ
四、将来の対策 薬室弾倉口全部複座ばねノミニ若干ノ改修ヲ行ヒタルモノヲ試作シ機能ノ完成ヲ期スルト共二弾倉ノ交換性ヲ点検スルヲ要ス
五、主要兵器
1.ハケ式拳銃(六発入弾倉)…二挺
2.同(八発入弾倉)…二挺
六、試験期日及場所
自昭和十八年三月十三日
至昭和十八年三月十六日
七、試験官及立会者
試験官 陸軍大佐 銅金義一
陸軍兵技少佐 谷戸賢二
立会者 日本銃器 浜田文次
一部改良点も指摘されているが、「スライドが引きにくい」「後方に発射ガスが吹き出す」という指摘はない。このテスト結果を受けてわずかに改良された銃が1943年に二式拳銃として採用(報告書には仮制式が適当とあるが、制式採用だった)された。一方稲垣氏の8mm拳銃は失格とされ、採用も量産もされなかった。
二式拳銃の生産
軍の財政的援助を受け、石川県能登部にあった休眠状態の織物工場が日本銃器株式会社によって買収され、二式拳銃生産の設備が整えられた。工作機械などは名古屋造兵廠鳥居松製造所から供給された。1944年2月、能登部工場の設備は完成し、生産が始まった。浜田氏は新工場の長となり、これと同時にそれまでの東京工場の活動は終了し、浜田式の生産も終了した。
能登部工場で二式は黒染めされない半完成状態で生産され、船便で鳥居松製造所に送られた。そして鳥居松で試射を含む最終試験が行われ、黒染めされて軍に供給された。浜田氏の言によれば、二式は1944年中に約500挺、1945年に約1000挺が生産されて鳥居松に送られ、完成したものは大陸に送られた。さらに、多数の部品が終戦時に工場に残され、占領軍に接収されたという。
しかし現在存在が知られているものは少数で、しかも黒染めされていない半完成状態のものだ。これらはシリアルナンバーが全て50以下となっている。これを素直に解釈すれば、浜田氏の記憶は間違いで、50挺程度生産したものの、完成する前に終戦となった、ということになるだろう。しかし終戦の前年2月に生産が開始されたのに、終戦までに50挺の半完成品ができただけ、というのはどう考えてもおかしい。また、当時鳥居松工場を指揮していたタツミ ナミオ大佐(洋書にしか資料がないので漢字は不明)の記録では1944年に500挺の二式を受領したことになっている。これは浜田氏の記憶と合致するが、1945年に1000挺受領したという記録はない。また、鳥居松製作所の公式記録でもトータル500挺の二式が「処理された」とある。これらのことから、少なくとも約500挺の二式が完成したのではないかと推測される。しかし、それが本当に大陸に送られ、使用されたのかはわからない。国内で爆撃を受けて破壊されたり、大陸に向かう途中で輸送船ごと沈むなどして全て失われ、使用されたものはないのかもしれない。
二式拳銃とは何だったのか
二式拳銃は、浜田氏の合理的なデザインが軍の指示で曲げられ、やや不合理な性格を帯びるようになったものの、九四式に比べればはるかにまともな設計であり、当時の世界水準からしてもほぼ合格点を与えてよい内容だったのではないか。しかし、どうも軍が本気で民間人の設計した銃を有効に使おうとしたとは思えない。民間人を「地方人」と蔑視する体質からも、神様のような存在だった南部氏の銃に固執し、不合理、時代遅れだった従来の軍用拳銃にこだわったのではないか。本来ならば、十四年式、九四式の生産を全て止めて二式の生産に集中してもよかったはずだ。もちろんそうすれば一時的に生産性は低下し、回復しないうちに終戦になった可能性も高いが。そして、たぶん浜田氏もこうした軍の体質に好意は持っていなかったのではないかと思う。終戦によって日本銃器株式会社は解散し、浜田氏は鎌倉にガンショップを開いた。
筆者なりに浜田氏を簡単に語るとこうなるだろう。
「浜田氏はガンスミスの家に生まれ、若くして優れた高級スポーツ銃を作った。太平洋戦争時には時代の必要から軍用銃を作ったが、初めて量産したそれは軍のビッグネームが作ったものよりはるかにすぐれたものだった。しかし軍はこの真価を認めず、当時日本一優れたピストルデザイナーを有効活用することができなかった。戦後、浜田氏が軍用銃を作ることは二度となく、真に愛していたスポーツ銃を扱って暮らした。70代の後半になって社長の座を息子にゆずったが、相変わらず活動的で、かつての敵国の研究者の取材に気さくに応じた。」
なんだかちょっとカッコいい人生だな、と思う。
資料について
資料としては、
1974年12月号のGUN誌の特集記事「幻の二式拳銃」 (記事を書いているのは現在WA社長の国本圭一氏)
「日本帝国の拳銃」(HARRY DERBY著)
「MILITARY PISTOLS OF JAPAN」(FRED L.. HONEYCUTT,JR.著)
「小銃・拳銃・機関銃入門」(光人社NF文庫 佐山二郎氏著)
を主に使った。困ったことに、内容がそれぞれ矛盾している。アメリカ人の記述より日本人の記述、古いものより新しいものの方が基本的には信憑性が高いと思うが、そうともいいきれない部分もあり、最終的には筆者の判断によった。したがって間違っている部分もあると思う。