実銃について 追加
前回資料として用いた「日本帝国の拳銃」の増補改訂版、「日本帝国の拳銃 再考」(Japanese Military Cartridge Handguns 1893−1945)が入手でき、新たな内容があったので、二式拳銃の謎に迫るその核心部分のみお伝えする。
1943年、オードナンス ビューローによって最終的な認可が下りると、新ピストル生産計画はただちに開始された。能登部の稼働していない繊維工場が日本銃器社によって買収され、名古屋造兵廠の鳥居松工場から工作機械を新工場に移送する命令が出された。1944年2月、新工場の設備は完成し、生産が開始された。浜田自身も能登部に移り、東京工場の全ての生産活動は終了した。
慣例通り、私企業によって生産された軍需品は軍が買い取る形となった。二式拳銃の価格は1挺164円98銭と定められた(九四式は生産終了までわずか80円であり、「生産コストが高すぎる」として二式プロジェクトが目標とし、代替される対象だった九四式より確実に高価だった。)。生産は名古屋造兵廠と、そこから資金と設備を供給されて発足した新工場に分割された。全ての二式拳銃は能登部工場で部品生産、組み立てが行われ、その後ブルーイングされずに鳥居松工場に移送された。鳥居松工場はブルーイング、最終的な検査、そして分配を担当した。このシステムは東京工場における7.65mm浜田式拳銃の生産方法とは全く異なっていた。このことは二式拳銃を大量生産し、分配のため名古屋造兵廠に供給する試みを行う上で大きな意味を持った。(頑住吉注:この部分は「不慣れなシステムのため量産の障害となった」と言いたいのかもしれないがいまいちよく分からない)
現在、17挺の二式拳銃の存在が知られている。それらのシリアルナンバーは2、6、10、12、16、18、19、20、21、29、33、40、43、45、46、49、50である。オランダ人のコレクターが所有しているシリアルナンバー21を除き、全てアメリカ人がプライベートなコレクションとして所有している。また、これらは全て未ブルーイング状態である。このシリアルナンバーの範囲と未ブルーイング状態という特徴は、二式拳銃の生産数と名古屋造兵廠への供給をめぐる状況を見積もる上で大きな意味を持つ。この件に関する質問に、浜田は以下のように答えた。
「二式拳銃の生産は2月に始まり、年内に約500挺が鳥居松に送られた。その後終戦までにさらに約1000挺の二式拳銃が送られた。結果的に合計1500挺が送られたことになる。終戦時、生産途中で未完成の二式拳銃が約4000挺あった。これらとその他の部品は1945年12月、連合軍に引き渡された。」
1945年当時鳥居松工場の監督者だったタツミ ナミオ大佐の個人的な生産記録によれば、1944年に500挺の二式拳銃を受け取ったことになっていて、これは浜田の証言を補強しているが、1945年に受け取った記録はない。鳥居松工場の公式記録でも、合計500挺のみの二式拳銃が「処理された(Processed)」ことが確認できる。
能登部工場が500挺以上の二式拳銃を19か月の生産期間内に製造したことは、論理的に確実と推測される。シリアルナンバーが2〜50までの現存する二式拳銃から、最初の50挺が生産されたことは確実である。しかしそれらは明らかに鳥居松工場に供給もされておらず、そこでブルーイングもされていない。それらは最初に送られたはずの500挺に含まれるのだろうか。もしそうなら、他の450挺、そしてもし存在したならさらなる1000挺はどうなったのか。ブルーイングされているにせよ、されていないにせよ、シリアルナンバー50以上のものが見つかっていないというのは不自然である。
一方、1945年12月に連合軍に引き渡された未完成の二式拳銃及び部品がどうなったのかを推測することは困難でない。他の多くの日本製没収兵器同様、価値が低いと考えられ、東京湾に沈められたか、スクラップとして溶解されたかであろう。だが、現存する以外の完成した二式拳銃がどうなったのかは全く不明だ。
米軍が手に入れたシリアルナンバー50以下、未ブルーイング状態の二式拳銃は、これらがシリアルナンバー50以上の銃とは別個に扱われたことを強く示唆する。そして500挺の二式拳銃が「処理された」という鳥居松工場の記録は、それらが仕上げされ、分配されたことを暗示する。二式拳銃の最初の50挺は、何らかの目的で鳥居松には送られず能登部に留め置かれたか、鳥居松において員数外とされたのだろう。その目的とは、おそらく実際には行われなかった延長テストではないか。あるいはフィールドテストのためだったのかもしれない。現存する銃に関する鹵獲時の記録があれば、この謎を解く助けになるだろう。ただ、もしそういうものが存在したとしても現在までに発見されてはいない。
他の「処理された」二式拳銃(それが500挺であれ1500挺であれ)は、恐らく十四年式や九四式と同じ通常のルートで分配はされなかったと思われる。もしそれらがノーマルな供給ルートで流れていたならば、大量に実戦部隊に配備されたろうし、そうなれば米軍に鹵獲され、あるいは降伏時に引き渡され、現存しているはずである。二式拳銃が一般的でなく、軍内部でもよく知られていないものであることは、それらがひとまとめで扱われ、訓練可能なように一部の部隊に供給され、あるいはそうした用途のためにストックされていた可能性が高いことを示す。配備されにしろ、配備の準備で終わったにしろ、ひとまとめで扱われた二式拳銃がたどった道は次の2つが考えられる。1、中国に送られ、終戦時に没収、保管された。 2、南方の戦地に割り当てられて1隻、もしくはそれ以上の船に積んで送られ、そしてその途上で他の何百という日本船同様1944年〜1945年の期間に沈没した。もし倉庫に貯蔵されていた場合は、米軍の空襲で破壊された可能性が高く、もし終戦時まで残ったとしても記念品を物色する米兵に略奪されたと想像される。忘れ去られた地下倉庫で今も眠り続けているという可能性も残っているが、その可能性は低いだろう。いずれにせよ明らかなのは、現存する以外の二式拳銃はまとまったグループで生産され、グループごと消えたということだ。したがってもし今後出現するとしたら、やはりまとまって発見される可能性が高いだろう。
行方不明の二式拳銃がどういう運命をたどったかという謎を解くための、ある1つの手掛かりがある。それは昭和29年(1954年)日本で発行された「The
Great East Asian War-Photographic History,[Part]4
Rise and Fall of Paradise」(Toyoji Yoneno、izumi
Tashukazu著、写真Kazo Shiratori 頑住吉注:『大東亜戦争 写真で見る歴史 4巻 楽園の興亡』といったところか。米野トヨジは漢字の種類以外問題ないだろうが、泉『Tashukazu』という名前はちょっと変だ。写真担当は白鳥『嘉蔵』『鹿蔵』などか。あるいは『Tashukazu』が耳で聞いた音を著者が表現したことによる混乱だとすれば、『カズオ』の可能性もあるかもしれない。)という本に掲載されている写真だ。この写真にはヘルメットとプロテクティブベストを身につけ、満州の鉄道貨車のそばに立つ2人の男が写っている。この写真のキャプションを翻訳すると、「満州カンパニーの警備隊。ブレットプルーフベスト(原文ママ)を着用し、1挺づつピストルを持っている。彼らはバンディッツ(頑住吉注:普通これは「山賊」だが、原文はたぶん「匪賊」だろう)から鉄道を守っている。」となる。2人はホルスターから抜いたピストルを持っているが、それらはブルーイングされておらず、形やサイズから二式拳銃のように見える。
二式拳銃のホルスター、アクセサリーは今日まで確認されていない。だが、九四式の項目で述べたように、九四式の布製ホルスターのうち、レアなサードバリエーションはファースト、セカンドバリエーションより寸法がやや大きく、二式拳銃用にデザインされたものである可能性がある。現存する二式拳銃のうち、シリアルナンバー20の銃は米兵が持ち帰ったもので、現在テキサスの州Texarkanaのパシフィック博物館にある。この銃は九四式用の豚革製ホルスターとセットになっている。このホルスターにはフラップ内部に白のペイントで「二式」という漢字が書かれている。このマークと、二式拳銃にぴったりフィットしていることから、銃とホルスターはある期間共にあったと考えられる(この事実は最初の50丁はフィールドユースのため支給されたという仮説を補強する)。もちろん九四式の革製ホルスターの形状と、二式のスライドデザインは本来一致しない。一方、九四式のキャンバス製ホルスターは二式拳銃とスペアマガジンを簡単に受け入れ可能だ。ということは二式登場時には、使用可能なホルスターは存在したことになる。
基本的には二式拳銃が正確にどれだけ生産され、そしてそれがどうなったのかは不明という結論のままだが、旧版よりかなり詳細で踏み込んだ内容だ。
「1945年12月に連合軍に引き渡された未完成の二式拳銃及び部品がどうなったのかを推測することは困難でない。他の多くの日本製没収兵器同様、価値が低いと考えられ、東京湾に沈められたか、スクラップとして溶解されたかであろう。」という記述は我々にとってはトホホな内容だ。だが筆者は特別日本人に対する評価が厳しい人物ではないし、別に悪気なく、という以前に日本人が読むことなどほとんど念頭になく正直に書いたものだろう。未完成(といっても発射機能を持たせるよう完成させようとすれば簡単なはず)の二式拳銃が連合軍に接収されたのが終戦の4ヶ月も後だったというのも、アメリカ等が二式拳銃を重視していなかったことのあらわれだろう。日本人の記述では日本兵器技術の優れていた点が強調される傾向があるが、客観的にはナチ・ドイツの兵器と比べ、日本のそれの価値は全般的に低く、残す価値がないものが多かったわけだ。確かに二式は日本で最も優れたミリタリーピストルだったと考えられるが、アメリカにとって参考になる部分はなかっただろう。
発見されている50挺がフィールドテストのため実際に使用され、鹵獲された可能性は旧版では指摘されていなかった。だが、未ブルーイング状態でフィールドテストを行うだろうかという疑問もある。それにしても17挺もありながら入手経路が全て不明というのも不思議な気がする。
最初の50挺以上の二式がアメリカ兵の記念品として略奪された可能性も旧版にはなかった。確かに略奪してこっそり持ち帰ったものなら表舞台に出にくいかもしれないが、いまさら処罰されることもないだろうし、今日まで全く存在が知られていないというのは不自然だと思う。
日本の書籍に掲載されている写真だが、これも二式拳銃であるかどうか疑問だ。そう言われればそう見える気もするが、サイズが少し小さい気もするし、特徴的なスライドの削りこみが全く見えないのもおかしい。未ブルーイングに見えるというが、光の加減でそう見えるだけという可能性もある気がする。
全体に、旧版より二式拳銃が実際に使用された可能性が高いニュアンスの記述になっているが、実際のところはやはり不明のままだ。
ちなみに中田商店製の九四式用布製ホルスターに二式拳銃を収めてみた。
このホルスターは九四式用としてはかなりルーズなのでやはり問題なく収まる。実際にこういう使い方がされたかどうかは不明だが、少なくとも考証的に誤りとは言い切れないはずだ。