第一次大戦開戦までのグレネードライフルとグレネードピストル、およびその弾薬(頑住吉注:こうした武器のルーツに関する記述なのでライフリングがない時代の小銃も登場しますが、煩雑なので全てライフルと訳します。ちなみに原文では全てゲベールです。)

 18世紀においてハンドグレネード発射に使われたグレネードライフルは火器と定義される。その特徴は臼砲に似た、(頑住吉注:当時の通常型ライフル)より短く、内径の広いバレルだった。ストック、トリガー、点火機構はノーマルな歩兵用ライフル同様に形成されていた。ハンドグレネードおよび榴散弾発射のためのライフル(そしてピストルも)の使用に関する指摘は16世紀にまでさかのぼる。マッチロックおよびホイールロック点火機構と組み合わせたドイツ製グレネードピストルに関する話が伝承されている。極端に短いバレルとフリントロック点火機構を持つライフルに似たロシア製の「手臼砲」も知られており、これは1712年頃に使用しているのが見られた。他のグレネードライフルは臼砲に似てブロンズ製のバレルとフリントロック点火機構を持っていた。ドレスデン武器庫の地所には、ゴータの銃器工兼鋳造業者Tobias Grafenstein(頑住吉注:2つめの「a」はウムラウト)による1729年由来のグレネード投射器がある。バレルはグレネード発射のために前部が臼砲のような形状に作られ、ねじって外すことができるのでこの銃はノーマルなライフルとしても使うことができた。照準補助具すら存在する。



(頑住吉注:この種の兵器の画像はネット上には見つかりませんでした。これは「Visier」2002年12月号から取ったものです。通常のフリントロックライフルの銃身を極端に太短い砲身に替えたようなもので、この場合砲身は真鍮製らしくライフリングはありません。初速は非常に遅かったはずですが発射される砲弾が極端に重いためリコイルショックがひどかったとされています)

 着脱可能な「射撃カップ」の原理も1747年由来のイギリス製カービン「Brown & Bess」への使用が見られ、これを使ってハンドグレネードが発射できた。射撃カップはバヨネットのように固定された(頑住吉注: http://www.militaryheritage.com/musket1.htm この銃に関する情報はかなりあるんですが、グレネード投射器の画像等は見つかりませんでした)。オーストリアでは騎兵隊が7年戦争(1756〜1763年)の間にグレネード臼砲が装着されたカービンおよびピストルを試験的に導入した。これらは1769年にまだ使用されていた。

 19世紀、グレネード投射器は炸裂する弾丸を発射するための兵器であると理解されていた。1868年12月11日、全ヨーロッパ諸国はある条約(ペテルスブルグ条約)に署名した。この中では手で持って撃つ銃から発射できる400gより軽い炸裂弾の戦争への使用が禁止されていた(頑住吉注: http://dai18ken.at.infoseek.co.jp/kokusaihou/kakuheiki.html )。20世紀初頭に使用されるようになったようなライフルグレネードは通常これより重かった。

 1904、1905年における日露戦争の間にロシア兵は長さ400mmの金属棒が付属したライフルグレネードを使用した。このグレネードは駆動弾薬筒を使ってゲベール91(頑住吉注:1891年開発のいわゆるモシン・ナガンライフル)から発射された。予定破壊個所(頑住吉注:パイナップル型手榴弾などに見られるギザギザ)が設けられたこのライフルグレネードには50gの爆薬が内蔵されていた。着弾時の点火は実に単純に空砲弾薬によって行われた。着弾時空砲弾薬は前方に急速に前進するファイアリングピンによって点火された(頑住吉注:弾頭内部にお尻を後ろにした空砲を内蔵し、その後ろにファイアリングピンを置き、着弾によってグレネードが急速に停止するとファイアリングピンが慣性で前進して空砲のプライマーを突いて発火させる、ということでしょう)。この応急的に作られたライフルグレネードの効果はハンドグレネードに相当し、到達距離に関してはハンドグレネードをかなり上回った。

 日露戦争後、ヨーロッパ諸国の陸軍もこの新しい戦闘手段、ライフルグレネードに興味を持った。個人的な、そして国家によるイニシアチブの下、いろいろな構造があちこちで誕生した。1913年10月の雑誌「世界展望」の中には「兵士に代わる自動装置」のタイトルがつけられたAlfred Gadewitz博士の寄稿が見られる。新兵器およびその弾薬に関して記述されているが、その中にノルウェー人N.W.Aasenのライフルグレネードもある。このグレネードは最大650gの重量を持ち、このうち75gを炸薬が占めていた。さらなる特徴には事前に作られた重量3g、56個の破片と射撃棒が含まれた(頑住吉注:弾殻が爆発によって砕けて破片になるだけではなく、あらかじめ弾片が内蔵されていた、ということです)。Aasenのライフルグレネードは特別な発射薬を使って発射され、ライフルの構造と性能に依存して400mまでの射程に到達し得た。その構造はAasenによって同様にパテント申請されたハンドグレネードに似ていた。このグレネードは着発信管と長さ18mの安全紐を持っていた。破片は25平方メートルの平面に作用した。Aasenのライフルグレネードの発射のための設備がなされたライフルは特別な照準器を得た。これは簡単にマウントでき、透明容器に気泡が入った水準具が役立った。この照準器は直接射撃、非直接射撃ができるよう作られていた(頑住吉注: http://www.worldwar.it/armi/vetterli_aasen/default.asp 「安全紐」先端の安全ピンがファイアリングピンを固定しており、紐の根元を銃に固定した状態で発射すると紐の距離飛行した後に安全ピンが引き抜かれてグレネードが爆発可能になる、という方法で、この原理は第二次大戦時のドイツ製対戦車手榴弾など後の多くの兵器に応用されています)。

 同様に「戦争技術の雑誌」は1913年にイギリス人F. Marten Haleのハンドグレネードおよびライフルグレネードに関する記事を発表した。この重量650gのライフルグレネードの設計は1911年になされ、1908年7月15日のパテントナンバー15045に起源が求められる。外観上の特徴は72区画に分割された(それぞれ重量2.7g)外装ケースだった。非常に敏感な着発信管は水、軟弱な地面、雪に着弾した際の弾丸の炸裂を保証した。このライフルグレネードは誘導棒を持ち、これはライフルのバレルに挿入しなければならなかった。安全ピンを引き抜いた後、安全リングを自己の忍耐強さによって外すとライフルグレネードは炸裂可能になった。炸薬としてはTNTが使われ、これがグレネードを175個の弾片に分解させた。発射は特別な駆動弾薬によって行われ、275〜460mの射程が可能だった。このF. Marten Haleのライフルグレネードはドイツ陸軍指導部に提示されたが、ここでこのライフルグレネードは賛同を得られなかった。メキシコとブラジルはこの構造を引き継いだ。



(頑住吉注:Haleはいろいろなグレネードを作っていますが、このタイプは上に書いたのと同じ、慣性による着発点火方式です。このタイプはたいていそうですが、飛行中などに早すぎる爆発を起こさないようファイアリングピンはスプリングで後方に押されています)

 ドイツ陸軍では国防省内全般戦争局の工兵部門が工兵部隊総監部との協力の下に戦争に有用なライフルグレネードの開発を発注していた。外国から提供された弾丸のテストは満足させる結果をもたらさなかったが、独自開発品も遅延なしには供給されなかった。工兵・包囲輜重隊および要塞におけるライフルグレネードの導入は1913年末に予定されたが、これは実際にはうまくいかなかった。結果としてこの時点でまだ有用なモデルは使用できるものとして存在しなかった。


 簡単に言うと「グレネード発射機能のあるライフルは古い歴史を持っており、またハンドグレネード同様日露戦争頃から新世代の有用なライフルグレネードが多用されるようになったが、ドイツは第一次大戦勃発時、有用なライフルグレネードを充分な数で配備することができなかったし、またハンドグレネード同様主に工兵の兵器であって歩兵への大量装備には至っていなかった。」といった内容です。

 本筋とあまり関係ありませんが、「手で持って撃つ銃から発射できる400gより軽い炸裂弾の戦争への使用が禁止されていた」「ペテルスブルグ条約」というのがちょっと気になりました。検索してみるとこの条約は他の条項によって「核兵器は国際法に違反するので使用を禁止すべし」という論の根拠にも使われており、つまり現在でも有効のはずです。それならばM203などに使われる重量400g以下の40mmグレネード(カンプピストルの弾薬の一部やアメリカが試作した20mm、25mmグレネードも)の戦争への使用は国際法違反ということにならないんでしょうか。









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