実銃について

その1 資料編



同時代に開発された日野式(今回の製品)と南部式(六研製)

 まず、「日本帝国の拳銃」の増補改訂版、「日本帝国の拳銃 再考」(Japanese Military Cartridge Handguns 1893−1945)の日野式に関する記述をお読みいただきたい。なお、いつものことながらかなりの意訳だし、重要性が低いと思われる部分は省略している。


日野ハンドガン

 歴史的に、またデザインという見地から、1904日野-小室ピストルは疑いなく全ての日本に起源を持つカートリッジ式ハンドガンの中で、最もユニークで、興味深い存在である。1903年12月7日、帝国陸軍中尉日野熊蔵と民間人の小室友次郎は日野中尉が設計した7.65mmブローフォワードピストルに関する日本のパテントを申請した。そして1904年(明治37年)3月5日、パテントナンバー7165が取得された。パテントはイギリスでも1907年3月5日に申請され、同年5月30日に認められている。アメリカでは1904年9月23日に最初の出願が行われ(日本パテント取得の5ヵ月半後)、1908年2月7日再度出願され、1908年4月28日にU.S.パテント886211が取得された(ここでは小室の名前が「トミジロー」と誤記されている)。これら海外でのパテント取得という事情は今日知られる他の全ての日本起源のピストルと異なっている。
 イギリスでのパテント申請書類で小室が「生産者」と記されていたため、多くの国の銃器マニアの間でこの珍銃は「日野式」「日野・小室式」より「小室式」で通ってきた。今日日本において、日野熊蔵および彼のピストルに興味を持ち、研究している人の間では、この件はいくぶんデリケートな問題である。我々は両者と「小室銃砲製造所」の詳細と歴史的背景を研究していく。歴史的背景は、この珍銃を「日野式拳銃」として認識することが正しいのであるということを支持する。しかし、もし妥協的に「日野-小室式」という両者の名の入った名称を使いたければ、それも受け入れ可能である。我々の議論ではこの「幻の拳銃」を日本で知られている名称と同様に、単に「日野」または「日野式拳銃」と呼ぶ。
 このピストルに興味を持つ人のために、まず分類作業をしなければならないが、これは煩瑣な試みになる。何故なら各個体は手作業によって1挺1挺異なっており、潜在的各顧客に合わせて多くの弾薬仕様で作られ、パテント取得時から最終的な生産型までにいくつかの注目すべき設計変更が試みられているからである。著者はいくつかの理由に基き、現存する8mm口径タイプを最初に紹介することにした。このタイプはより数が多い7.65mmモデルよりサイズが大きいという点で特殊であるが、この8mmx22モデルは2つの口径タイプが共通して持つ、最終的な設計上の特徴を持っている。このシリアルナンバー184の8mmモデルは珍品である。現存するこの銃のうちこれを含むたった2挺だけが7.65mmでなく8mmモデルなのだ。このピストルは1946年の早い時期、アメリカの第81歩兵師団に属するある兵が、青森市に近い放棄された日本陸軍兵舎で発見したものだ。もう一つの8mmモデルはシリアルナンバーが233で、スコットランドヤードの参考コレクションの中にある。この2挺の8mmモデルは、おそらく「日野式拳銃」について説明する際の最高のサンプルになる。
 日野アクションは、軍用およびセルフディフェンス用の銃としての実用性は明らかに疑わしいが、20歳前の若き日野熊蔵が1897年最初に設計図を書いた独創的な発想である。このシンプルでユニークなアクションは、まずセレーションのあるバレルをつかみ、前方でホールドされるまで引っぱる。あるいはメーカーオリジナルの販売用カタログで説明されているように、片手でしっかりつかんで手首の強いスナップで素早くコックすることもできる。このコッキング操作によってフィーダーが動き、マガジンからカートリッジを抜く。フロントストラップにあるグリップセーフティを握り、トリガーを引くと、バレルがリリースされる。これによりメインスプリングのテンションがかかっているバレルは固定されたブリーチ(ここにはファイアリングピンが固定されている)に向けての後退を許される。バレルは付属のフィーダーとカートリッジを後方に動かし、カートリッジをチャンバーに収め、プライマーをファイアリングピンに打ちつける。カートリッジの発火はバレルとフィーダーをコッキングポジションまで前方に動かし、空薬莢を排出し、次のカートリッジを発火のための準備位置に置く。コッキング状態ではブリーチは開放されており、バレルは前方に38mm伸びている。
 これは1908シュワルツローゼおよびブローフォワードと称されている他の類似のデザインとは異なり、真のブローフォワードアクションである。
 オープンブリーチと延長する移動バレルの大きな欠点は、この銃の外観が特殊であるのと同じくらい明白だ。しかし、最終型における長いスリムなレシーバーとバレル、シーストリガーおよび吟味された木目と仕上げが行われた木製グリップの付属した長いグリップフレームに、東洋的な優美さがあることは認めざるを得ない。
 各ピストルは1挺1挺作られたので、仕上げが丁寧に行われたのと同様に、その基本設計が要求した複雑な機械加工はきわめて慎重に行われた。レシーバー、サイト、ランヤードループ、ブリーチブロックはラストブルー仕上げだった。一方バレル、フィーダー、グリップセーフティ、マガジンキャッチはスチールを磨いて銀色に仕上げてあった。当時の典型的な仕上げ方法だが、トリガー、ファイアリングピン、グリップパネルリテイナーは熱処理でストローカラーに仕上げられていた。マガジン本体はニッケルメッキではなくスズメッキされていた。グリップパネルおよびマガジンベースはウォールナットの仲間の「Juglandaceae」製だった。
 知られている7.65mmモデル同様、シリアルナンバー184のこの8mmモデルは、全ての主要パーツといくつかの小パーツに3つの数字からなるシリアルナンバーがある。これに加え、この銃のグリップストラップ前面には(時として最終仕上げ後に行われることがある)漢字の「特許」とナンバー7165が刻印されている。このパテントナンバーはおそらく8mmモデルがオリジナルの7.65mmモデルのパテントでカバーされていないとき、何らかの保護のため追加されたものだろう。モデル、タイプ、口径、検査合格など他の刻印は見られない。
 シリアルナンバー184が発見された1976年まで、全ての日野式は7.65mm口径で作られたと一般に考えられていた。続いて1979年、日野熊蔵の伝記の著者シブヤ アツシの努力のおかげで、切望されていた小室友次郎の多数の写真だけでなく、日野式のオリジナルメーカーカタログが発見された。
 この発見以前には、日野式に関する全ての記録は、そしておそらくそれまでに知られていた以外の日野式自体は、第二次大戦中および直後に失われたと見られていた。1945年4月15日、東京の日野の家は、手持ちのピストルと記録ごとアメリカの空襲によって完全に焼失した。靖国神社の目録にも日野式があったが、これも戦後の混乱期に失われた。このような喪失の結果日野式拳銃は現在日本で「幻の拳銃」の一つと認識されている。
 このカタログによりある注目すべき発見があった。7.65mmおよび8mmモデルだけが製造されたわけではなく、小室銃器工場の手作業による生産ゆえに、少なくとも初期には販売用として5mmから8mmまでの各種口径が提供されていたのである。

口径:5〜8mm
マガジン装弾数:8〜15発
射程:2000m(明らかに非常に楽観的な見積もりだ)
全長:15cm〜27.5cm
リアサイトの設定:100m
松板の貫通能力:8(32cm。約14インチ)
部品点数:24
価格:35〜45円
弾薬100発の価格:6円
革ケースの価格:2.75円
(明治36年、1903年時点では1ドルが2円に相当)

 この時代まで、日本ではごく小口径のピストルは存在せず、試作はともかく5mmモデルが多数作られたとは考えにくい。だが、限られた数の6.35mmおよび7.65mmルガー(.30ルガー)仕様が作られたことはありうる(ブリーチにロッキングのないこの銃で7.65mmルガーを発射することの安全性には疑問があるが)。この2つの弾薬を使用する銃は小室銃器工場が稼動していた1904〜1912年及びそれ以前、日本に存在していた。コレクター及び銃器研究家は現在この可能性に注意を払っている。
 1903年の早い時期(パテント出願の前)、日野は東京の自宅に小さなショップを持っていた。彼はこの年に小室友次郎を訪れ、財政的支援を要請した。小室はただちにこれを受け入れた。何故なら彼と富裕な兄弟ケンジローはSun Wen(Sun YatsenおよびChung Shanとしても知られる。頑住吉注:孫文のことらしい)の満州王朝に対する革命運動を積極的に支援していたからである。当時Sun Wenは仲間のKo Ko(頑住吉注:黄興らしい)と共に日本に追放されていた。小室の意図は日野式拳銃を販売して利益を得るだけでなく、革命家たちの武装を助けるためにこれを大量生産して中国に輸出することにあった。だがこの計画がわずか2、3年後に失敗に終わったことは明らかである。
 日野、小室の協力関係確立、パテント出願とともに、新しい小室銃器工場が1904年、東京の西大久保に設立された。日野熊蔵は設計と生産を担当し、小室友次郎は販売を指揮し、小室ケンジローは財政的支援を行った。「小室自動拳銃」という名でこの銃の販売が行えるようになった。正確度の低い「小室の」というレッテルが日野のデザインに貼られたのはこのときである。
 最初の注文は少なく、販売も低調だったため、日野はわずか2人の従業員の助けを得て、それぞれのピストルを自分自身で作った。この理由から(全くの推測だが)、生産、販売された2種類のピストルに、それぞれ別のシリーズのシリアルナンバーが割り当てられていたとはきわめて考えにくい。この推測は現存する銃のシリアルナンバーでもある程度裏付けられる。確認されている7.65mmピストルのうち最も大きなシリアルナンバーは445であり、一方8mmピストルは233である。もしこの数だけ作られたと仮定すれば、実際に現存している銃の比率13:1は不自然で、2:1に近くなるはずである。
 日野式拳銃はオリジナルデザインから、シリアルナンバー184および233の2丁の8mmピストル、そしてシリアルナンバー372の7.65mmピストルに見られる最終的な基本デザインが確立されるまで、いくつかの注目すべき形状変更が行われている。幸運なことに、この改良過程はカタログ、オリジナルパテント、そして現存する7.65mmピストルによって追うことができる。最も注目すべき変更は以下の部分で行われている。

銃身長
ファイアリングピンおよびブリーチブロック
サイトデザイン
レシーバーの輪郭
グリップフレームとセーフティの形状
グリップパネルのチェッカリングパターン
グリップパネルの保持方法
マガジン本体のデザイン
マガジンラッチのデザイン
マガジンベースの形状

7.65mm日野式拳銃
 最も重要な改良および形状変更はマガジンおよびラッチ関係である。これによりマガジンを抜くのがはるかに容易になった(頑住吉注:オリジナルでは何と初期東京マルイ製「1900円シリーズ」のようにマガジンがクリックストップするだけだった。マガジンをクリックストップするパーツを動かすスプリングはトリガースプリングと共用で、トリガーを引いている発射時にはテンションが高まってマガジンが脱落しにくくなってはいたが、あまりに乱暴な方法という気がする)。グリップフレーム形状の変更は疑いなくグリップフィーリングを向上させ、おそらくよりターゲットをポイントしやすくもなったはずだ。バレルの短縮は進歩であるが、この銃の基本的な弱点であるオープンブリーチデザイン(しかもバレルがファイアリングポジションで前に延長する)を考えれば重要ではない。わずかな銃身長の差は銃の命中精度や携帯性に大きな影響を与えなかっただろう。デザインの進歩を研究する者にとっては他の変更点も興味深いが、現実的にはたいした意味はない。

7.65mm改造モデル

 シリアルナンバー32はユニークで、いくぶん謎めいたサンプルである。この本の初版では「Chicom rework」(頑住吉注:中国共産党による改造)としてレポートした。しかし、ウチヤマ ツネオからFrancis C.Allanに提供された作り直されたパーツの写真を分析したところ、そのハイレベルな機械加工と仕上げのクオリティは戦前の日本により典型的に見られたものであることが判明した。新造されたパーツに刻印されている数字の形は南部銃製造所国分寺工場で1930年代の遅い時期に使用されていたものに似ているが、決定的ではない。このピストル自体は長時間使用した形跡が認められるが、新造されたパーツの仕上げにはほとんど使い減りが見られない。シリアルナンバー32の変更点は以下のような内容である。

●バレルが約12mm短縮され、またコッキングを容易にするためバレル先端部に長さ約15mmのローレットを切ったカラーが装着されている。
●コンパクト化のため、グリップフレーム、グリップ、マガジンが短縮されている。グリップパネルには一四年式に似たスタイルの水平のグルーブがある(マガジンは改造ではなく新造されたようだ)。
●フレーム後部にファイアリングピンの突出を調節するメカニズムが追加されている。この装置によりファイアリングピンが1.67mm延長できる。これは7.65mm弾薬のプライマーの敏感度をテストするメカニズムとして作られたのではないかと推測されてきた。しかしこの理由なら二段階調節というのはおかしく、これはきわめて考えにくい。ファイアリングピンをブリーチから引っこめてプライマーに当たらないようにするセーフティとして機能したという方がより可能性が高い。この装置はシンプルだがクレバーなデザインだ。スプリングのテンションがかかったファイアリングピン後部にクロスボルトがあり、上下に動いて2か所でロックされる(サンプルのこの装置は今日正常に機能しない)。
●フレーム左側面、トリガーのそばと直後に回転式のマニュアルセーフティが追加されている。表示は英語の「F」「S」で行われている(この点は改造が1939〜1941年の時期に行われたと推測するさらなる根拠となる。当時国分寺工場ではアメリカとの戦争が勃発してその方法が禁止されるまで、内部の検査マークとして英語の「N」を使用していた)。2つの独立したマニュアルセーフティが装備されていることは珍奇で余計のようだが、少数の日野式を再支給に適するように改造するのにはどちらがいいか、2つの異なる方法をテストするつもりだったのだろう。
●ランヤードリングがグリップフレームの後下部から左側面下部に移動している。

 いつ、どこで、何のためにこの改造が行われたのかを示す記録は残っていない。興味深いことに、シリアルナンバー32のこの銃のディテール写真に、オリジナルであるフレーム、改造のため新造されたパーツを含むいくつかのパーツにナンバー65が刻印されているのが見えることだ。この唯一の論理的説明は、フレームの「65」はパテントナンバー「7165」の末尾2桁であり、改造を行った人物がこれをアッセンブリーナンバーと誤解して新造パーツにもこれを引き移してしまった、というものだ。

 日野式拳銃ストーリーの最後に、ある苦笑を誘うようなエピソードを追加しなくてはならない。Francis C.Allanも報じたように、1992年12月28日、45年にわたって倉庫内で保管されていた17丁の日野式拳銃(全て7.65mm)が発見された。倉庫はヨシオカ ヨネタロー(1882〜1948)が所有していたもので、発見したのは彼の家族である。日本の法律では、この貴重なピストルは登録されていないという理由で県警に提出しなければならない。そしてまた法律はこうした未登録のピストルは日本の法執行機関が参考用のコレクションとして保持する場合、日本の博物館が保持する場合を除き、試射の後破壊することを命じている。日野熊蔵の孫はこの発見を知り、その希少性と日本銃器発達史におけるユニークな地位を理由に保存することを試みた。しかしこの努力は失敗に終わった。これを書いている時点で、これらのうち7丁のピストルが警察機関に保持されている。残る10丁は破壊される予定である。日本の博物館が第二次大戦時代からの国産拳銃の見本を切望している時に、これは信じ難い措置である。日野式拳銃のコレクターに対する潜在的価値はほとんど予想できないほどのものだ。

日野熊蔵
 日野式拳銃は日本の火器を研究する上で興味深い一部分を構成している。しかし、彼がなしとげた他の業績に比べれば、より小さな重要性しか持っていない。日野陸軍中佐は成功した航空機設計者として、そして20世紀の最初の20年間における日本最高の飛行家として国民的喝采と名声を得た。
 日野熊蔵は1878年(明治11年、皇紀2538年)1月9日、熊本県人吉市に生まれた。この地は隣県とは九州山脈に隔てられており、歴史的には相良藩として大名に独立的に支配されてきた地である。現在では美しい景観と文化遺産に恵まれている。
 日野は歩兵中尉として陸軍士官学校(10期)を卒業した。だが、彼は歩兵科には残らなかった。彼の発明の才能は自動車技術、手榴弾、ライフル、ピストルの改良などさまざまな分野における研究、設計改良を通して認められた。1903年5月、25歳の誕生日を迎える直前、若き日野は天皇の側近だったナカムラ K.中将の推薦で陸軍技術審査部のスタッフ技術者に任命された。この機関は全ての陸軍兵器の検査と開発の責任を負っていた。軍の技術者としての最初の年、日野は明治天皇の前で個人的デモンストレーションを行うことを求められるという栄誉を得るほど意味のある、いくつかのライフルの改良を行った。
 1903年12月、彼は日野式拳銃の設計を終え、後援者である小室友次郎とともに日本のパテントを申請した。興味深いことに、軍は日野中尉の設計に非常に強い関心を持ち、陸軍大臣寺内正毅はイギリス、アメリカなど外国におけるパテント出願の個人的保証人になった。
 設計を終え、試作品を組み立てている時、日野は自分の左手の親指を撃ってしまった。この親指は生涯曲がったままだった。少し後、彼は使用人が仕事中に暴発させたことにより、さらに重い傷を負った。弾は背後から日野の腹部を貫通した。そのとき彼が着ていた絹の羽織には弾の貫通孔と血痕が残った。これは1945年4月に彼の家が空襲で破壊されたとき失われた記念品の1つとなった。
 彼の陸軍向けの兵器設計は注目に値するものではあったが、彼の決定的な仕事ではなかった。彼にとって最も重要な別の仕事に目覚めたからである。1909年、彼は新設された臨時軍用気球研究会に転属を命じられ、大尉に進級した。翌年4月11日、彼は操縦技術の学習と日本軍が購入する航空機の選択のため、ドイツに派遣された。6カ月後の10月25日に帰国した。彼はすでに操縦技術を完成させており、2サイクル4シリンダーの24馬力空冷エンジンを搭載したドイツ製ハンス・グラーデ機の購入を推薦した。この機と、徳川好敏大尉(徳川将軍一族の子孫)が推薦したフランス製ヘンリー・ファルマン機は日本に輸入された最初の航空機になった。
 日野大尉と徳川大尉は、ともに代々木練兵場で行われる臨時軍用気球研究会による最初のテストフライトのパイロットに選ばれた。1910年(明治43年)12月14日、日野はドイツ製ハンス・グラーデ機で2回の短距離の飛行をを行った。初回は距離たった30m、高度はちょうど1mに達しただけだった。その日2回目の飛行は距離100m、高度2mに達した。翌日彼はグラーデ機を飛ばし、高度30m、距離250mを達成した。不運なことに、これらの飛行は公式記録になっていない。
 4日後の12月19日、エンジンの不具合を修正したフランス製ファルマン機に乗り、徳川大尉は距離3000m、高度70mの飛行に成功した。この飛行は歴史上の公式記録となり、いくぶん不正確なことに徳川大尉を日本初の航空機パイロットとした。
 だが日野の技術的才能は優れており、彼は後に自作の航空機を設計し、製造し、そして飛行した。日野モデル1、直後の日野モデル2がそれで、これらには彼自身が設計したエンジンが搭載されていた。幸運なことに、彼はこれらの業績を認められ、茅場タイプHK-1無尾翼グライダーおよび日本初のロケット「秋水」の設計に参加したとされている。
 無遠慮にものを言う性格、当時の陸軍内部での世渡り下手がたたって、日野は1911年、福岡の歩兵連隊に転任させられた。そして彼は最終的な階級中佐で引退するまでそこで研究活動を続けた。彼は1946年(昭和21年)1月15日、貧困の中栄養失調で死んだ。68歳だった。
日野式拳銃に加え、日野は日本航空史への注目すべき貢献によって長く記憶されるだろう。1978年、彼が生まれた地である人吉市に彼の生誕100周年を記念する記念碑が建てられた。


 続いて吉村昭氏著「虹の翼」(文春文庫)における日野熊蔵に関する記述を引用する。この本はぜひ購読をお勧めしたい筆者の愛読書の一つで、ライト兄弟の飛行以前にエンジンつきの「飛行器」を構想していた二宮忠八の伝記だ。日野に関する記述はもちろん本題ではないし、全体のごくわずかな部分を占めるにすぎない。


日野は、明治十一年六月九日、熊本県球磨郡人吉市に生れ、十八歳で陸軍士官学校に入学、卒業後、千葉県佐倉歩兵第二連隊の連隊旗手になった。少年時代から発明に興味を持っていたかれは、独創的な拳銃を試作し、日野式拳銃として特許出願され、登録された。と同時に、歩兵科の将校として異例の陸軍技術審査部員に任命された。
 明治三十七年、日露戦争が勃発し、日野は砲兵工廠で自動車の研究に専心し、ついで手榴弾の研究に没頭した。それまで日本軍が所有していた手榴弾は、牛肉の罐詰めの空き罐に火薬とこまかく切った鉄綿を入れ、導火線にマッチで火をつけて投げる初歩的なもので、日野はこれを改良し、戦場に送ったのである。
 明治四十一年には、自動歩騎銃、軽機関銃、三十八式小銃新弾薬、歩兵砲、迫撃砲などの研究に従事、明治天皇の前で小銃の改良について講演したりした。また、その頃、かれは日本で二番目に輸入されたオートバイの練習をはじめ、馬で行く将校たちの中をオートバイで出勤し、人々を驚かせた。
 翌年七月、長岡外史中将を会長とする臨時軍用気球研究会が設立され、日野大尉も委員に推された。陸海軍は異常なほどの熱意をもって支援を約し、委員たちはただちに活動を開始した。まず、飛行場敷地の選定(略)
 飛行機については、陸軍運輸部から発動機が提供され、日野熊蔵大尉と海軍の中技師である奈良源三次が研究にあたった。さらに、日野は独力で飛行機の設計、試作にとりかかっていた。かれがまず入手したのは、水冷式八馬力の自動車用発動機で、それにもとづいて独自の機体設計にとりくんだ。
 設計を終えた日野大尉は、牛込五軒町の林田工場で機体の製作に入った。工場主の林田好蔵は「洗米機」を発明するなどした技術者で、日野に積極的に協力した。やがて機は出来上がった。翼長八メートル、全長三メートルで、工事は三ヶ月、制作費は二千円であった。費用は、日野が私財を投じたものであった。
 実験は、戸山ヶ原でおこなわれることになり、機は電車道を押されていった。見物人が物珍しげについてきて、戸山ヶ原についた頃は、かなりの群集になっていた。
 大尉みずから座席について発動機を始動させた。機は滑走したが浮き上がらず、何度繰り返しても結果は同じであった。……三月十八日のことであった。
 日野は個人的な研究を中止し、会長命令で新たに気球研究会委員に任命された徳川好敏陸軍大尉と、ヨーロッパへ飛行機研究と購入のため、四月十一日に出発した。
 徳川好敏は、(略)
 二人はシベリア鉄道を経由してヨーロッパへ渡り、日野はドイツ、徳川はフランスに入った。(略)
 日野と徳川は、飛行機研究と操縦法の習得につとめ、日野はハンス・グラーデ式単葉機、徳川はアンリー・ファルマン式複葉機をそれぞれ購入、二人は連れ立って十月二十五日に帰国した。(略)
 臨時軍用気球研究会は、両機を十二月十二日に代々木練兵場に運び、二日後から試験を行うと発表した。(略)
 翌朝、新聞で飛行実験がおこなわれることを知った見物人が弁当持参で押しかけてきた。人出が多く、おでん、鮨を売る仮店まで出た。名士も続々と練兵場に到着した。寺内陸相、石本次官、奥参謀長、乃木大将らが姿をみせ、むろん臨時軍用気球研究会の委員たちは練兵場に詰めていた。(略)
 翌十四日は、地上滑走試験がおこなわれる日であった。(略)
 その日は風速五メートルで、両機は調整をはじめたが、日野大尉のグラーデ式単葉機の発動機の状態が良好なので、試験をおこなうことになった。
 午前十時、グラーデ式単葉機が格納天幕からひき出され、滑走地に押されていった。軍装をした日野大尉が飛行機に乗り、腕力の強い兵がプロペラを勢い良くまわすと、やがて轟音をあげて回転しはじめた。機は走りはじめたが、強い強風をうけて倒れ、翼の端にある棒が折れてしまった。そのため試験を中止し、天幕の中に運び入れて修理をほどこした。
 午後三時、再び天幕から引き出された機は、日野大尉を乗せて走りはじめた。速度をあげた機は三時三十分頃から時々地面をはなれるようになり、遂に一メートルほど浮いて三十メートルほど飛んだ。
 つづいて試験がおこなわれ、ゆるやかに地上から十メートルほど浮き上がり、六十メートル進んで着地した。(略)
 その日の試験をつたえた新聞には、
「日野大尉グラーデ機を操縦し
日本の空に初めて飛行
十米上昇して六十米突を飛ぶ」
 という見出しの記事がのせられた。
 日野大尉搭乗のグラーデ式単葉機は、十メートルの高度で六十メートル飛んだが、それは
「滑走中の余勢であやまって離陸した」ものとして報告された。その日が地上滑走試験日で、単にジャンプしたものと判定されたのである。(略。翌日徳川大尉が飛行に成功し、日本最初の飛行記録として公認された。日野もより長い飛行に成功したが、発動機の故障のため徳川大尉より遅かった。)
 翌日の各紙は、大々的にこの飛行成功を報道した。「暁天の大飛行、我国初めての大成功」「徳川大尉三千米突を飛行、日野大尉一千米突飛翔」などの見出しのもとに、写真とともにその詳細が熱っぽい筆致で記されていた。
 飛行成功は人々の大きな話題になり、徳川、日野両大尉は、日本初の飛行家の栄誉をあたえられ、新しい飛行機時代の開拓者として国民的英雄になった。(略)
 日本の飛行機操縦もようやく軌道に乗ったが、それらは外国から輸入した機によるもので、それを不満とした者たちの間で国産機を作る機運がたかまっていた。それを最初に手がけ成功させたのは、複葉機の研究に没頭していた海軍中技師の奈良原三次であった。(略。この機はエンジンは外国製)
 当然のようにエンジンも日本人の手で製作しようという声がたかまった。最初にそれに応じたのは、日野熊蔵大尉であった。
 かれは東京工科学校内で発動機製作に打ち込み、六十馬力の水冷式エンジンを作り上げた。そして機体の製作にもつとめ日野式一号機を完成した。高翼式単葉機で、郷里の土地、建物を売却した代金をつぎこんでいた。かれは、五月二十三日午前三時、機を解体して東京工科学校から青山練兵場に馬車で運び、組み立てを完了した。発動機の試運転も良好だった。
 その日、純粋な国産機の初飛行がおこなわれるという新聞報道に、見物人が夜明け前から練兵場に集まってきた。天候は、雨であった。
 日野は七時頃から飛行準備に入ったが、発動機が始動せず、午後二時半まで調整につとめた。が、結果は同じで、ついに飛行は中止になった。会場には北白川中将宮殿下をはじめ高官が臨席していた。
 その夜は、徹夜で発動機の修理につとめたが、故障はなおらず、結局第一号国産機の飛行は失敗に終わった。(略。その後徳川大尉が臨時軍用気球研究会の資金を得て純国産複葉機「会式」の飛行に初めて成功。)
 十二月に入って間もなく、新聞をひらいた忠八は、日野大尉が臨時軍用気球研究会委員を辞任させられ、十二月一日付で福岡歩兵第二十四連隊付になって、追われるように東京をはなれたことを知った。あきらかに左遷で、意外な人事であった。
 日野は純国産機の製作につとめ、失敗はしたが、私財を投じて研究をつづけていた。いわば、かれは、日本の航空界を発展させた功績者の一人で、それが代々木練兵場での初飛行後、わずか一年で研究会委員を免ぜられ、左遷されたことが、忠八には理解ができなかった。輝かしい栄誉を得て英雄扱いされていた日野大尉に対する処置としては、余りにも苛酷であると思った。
 二日後、新聞をひらいた忠八は、日野が左遷された理由をようやく理解することができた。新聞にはその日と翌日にかけて、「日野氏罷免事情」として、そこに至るまでの経過が報じられていた。
 その新聞によると、日野は三千余円という負債の返済を求める訴訟を起こされているという。日野は、早くから飛行機を独力で製作することを志し、第一号、第二号機を製作したが、いずれも失敗に終わっていた。それに要した費用は、故郷にある父祖代々の土地六百六十余坪と付属建物を売却した金をあてたが、それでも不足で、予備二等主計山田末熊らから飛行機を担保にして二千円の借金をした。が、飛行機の飛行試験は失敗したので、山田は貸し金の返済を求めた。
 日野は、飛行機を製作する工作機械を発明し、叔父の林久蔵を出願者として特許も受けていたが、その権利をゆずることを条件に器械業をいとなむ知人の予備歩兵中尉山内晋から、計二回にわたって三千二百余円を叔父を介して借りた。叔父は、山内から借りた金の中から二千円と利息を、催促をせまる山田末熊らに支払った。
 日野は叔父の行為に不服をとなえた。山内晋から借りた三千二百余円は、次に計画している飛行機制作費にあてるもので、山田らから借りた金の返済のためではないと主張した。感情を害した日野は、山内晋に特許権をゆずる約束も果すことをこばみ、山内はしきりに譲渡することを求めたが応じなかった。
 山内は憤り、日野に三千二百余円の支払いを求める訴訟を起こしたのである。
 そのことは陸軍省の知るところとなり、臨時軍用気球研究会委員としてふさわしくないと判断されて職をとかれ、少佐に昇進させると同時に、福岡歩兵第二十四連隊付を命じたのである。また、新聞には、日野が軍の上層部との協調性に欠け、以前から批判する声が多かったこともその一因らしいと記されていた。
 忠八は、先駆者である日野の悲運に同情した。


 最後に(株)新人物往来社刊、別冊歴史読本「日本軍用機総覧」第五部「草創から終焉まで、日本の陸海軍航空を開拓した人々」の中の日野に関する記述を引用する。


日野熊蔵(ひの・くまぞう)
中佐 陸士10期 熊本県
冷遇され続けた日本初の飛行成功者
 生まれつき発明マニアだった日野熊蔵は、明治四十二年、歩兵大尉で臨時軍用気球研究会の発足と同時に、陸軍代表の一人としてこれに加わった。この年、日野は早くも日野式機を製作した。飛行機の実物はまだ日本にはなかったから、まったくの独創であったが、ライト兄弟が飛ばした飛行機の写真や絵は日本でも紹介されていたであろう。
 日野式機は明治四十三年、東京・新宿に近い戸山ヶ原練兵場で飛行試験を試みたが、離陸までには至らなかった。しかしこの年、日野大尉は徳川好敏大尉とともに、操縦を習得するためにドイツへ派遣された。わずか半年の出張だったが、ドイツから単葉のグラーデ機を持ちかえった。
 明治四十三年一二月、東京・代々木の練兵場(現在のNHKや代々木公園の一部)でテスト飛行が行われ、日野は日本人として初めての飛行に成功したのだった。観客は五日間で計五十万人との驚くべき記録が残っている。
 もっともこのテスト飛行では、次に述べる徳川大尉も飛んだが、徳川がフランスから持ちかえったファルマン機は高度四十メートル、飛行時間四分を記録した。これに対して、日野のグラーデ機の記録は、高度二十メートル、飛行時間一分二十秒であった。この記録の大差が、最初に飛行したのは日野であったけれども、その後は徳川大尉だけがどんどん出世し、日野大尉はサッパリだったのは気の毒だった。
 だが、日野は仲間の昇進をねたむほど小心な男ではなかった。大正七年、中佐で(頑住吉注:徳川の最終的な階級は中将)予備役となったが、それを機会に昔からの趣味の世界に頭をつっこんでしまう。その“成果”が、昭和八年(一九三三年)におけるヘリコプターの設計であり(頑住吉注:当時ドイツではヘリコプターが作られ始めており、これもドイツからの情報に刺激されてのものと思われる)、日華事変が始まった昭和一二年の無尾翼機の設計なのだった。両方とも実用化したわけではなかったが、それでもめげずに今度はロケットの設計に取り組み、昭和十七年にはその功績で技術院賞を受賞したのだった。











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