実銃について

その2 本編

 「日本帝国の拳銃 再考」は最近刊行されたものだが、やや情報として古い部分、誤りと思われる部分がある。GUN誌1994年10月号にキャロットの「日野・小室式」に関する記事があり、ここには実銃に関する記述もかなりある。なお、GUN誌は1980年5月号、1981年3月号でも日野式の実銃に関する記事を掲載しているので、合わせて参照していただきたい。
 1994年10月号によれば、1992年12月に三重県名張市の民家の納屋から17挺の日野式が発見され、そのシリアルナンバーに400番台のものが確認されたという。この号でキャロット製品と比較されているのはシリアルナンバー421の8mmモデルで、孫文に寄贈されたものの一部だという見方があるとされている。「日本帝国の拳銃 再考」で2挺しか現存しないことになっている8mmモデルは現在ではもっと多数あり、従来想像されていたより多数製造されていた可能性もある。「日本帝国の拳銃 再考」にも「ヨシオカオネタローの倉庫」からの発見についての記述があるが、こちらは全て7.65mmモデルとされ、新たな8mmモデルの発見には触れられていない。「1992年12月」「17挺」まで一致しているので同じ件としか思えないが、著者に伝わった情報が不正確だったのだろうか。
 なお、「日本帝国の拳銃 再考」では日野オリジナル飛行機が飛行したとされているが、「虹の翼」では結局飛行は失敗だったと書かれており、他の資料からも後者が正しいようだ。

日野熊蔵という人物 
 「日本帝国の拳銃 再考」とあわせ、大部分日野式拳銃とは直接の関係がない「虹の翼」の関連部分をお読みいただいたのは、日野熊蔵という人物のキャラクターをなるべく理解していただくためだ。日野は早くから新時代の技術に深い興味を抱き、さまざまなチャレンジを行った。興味を持ったり手がけたりしたものには自動拳銃の他、小銃、機関銃、手榴弾、自動車、オートバイ、航空機、無尾翼機、、ヘリコプター、ロケットなどがあり、多くの分野で注目すべき試みを行っている。ドイツに渡ってわずか半年で航空技術を学び、操縦技術を習得し、日本に適した飛行機の選定をすること(ちなみに単葉機が主流になるのは25年以上も後のことで、ここにも時代の先取り傾向が見られる)、エンジンを独自に設計し、製造すること(これは銃器や航空機の機体を作るよりはるかに難しい)などは決して誰にでもできることではない。明らかにパイオニア精神に満ちた、しかも知性に優れ、才能豊かな人物であったことが分かる。しかし、その割にはほんの一時期国民的喝采を浴びただけで、全体として報われることの少ない人生だったという気がする。
 この理由は何だろう。「明らかに日本初の飛行を行ったのに公認されず、徳川が公認された」「軍は徳川には高額の資金援助をしたのに日野は私財をなげうち、これが左遷の間接的な原因になった」というストーリーなどから、2つの別々の見方が浮かんでくる。
 
 「先見の明を持って航空技術に以前から取り組んでいた日野は、純粋にパイオニア精神を持って可能なときに『日本初の飛行』を行ったが、軍は『その日は飛行予定日ではない』という形式主義で理不尽にも無視した。日野がへつらわない人物だったために上層部の覚えが悪く、名門の家柄であった徳川より冷遇された。それでも日野は私財をなげうってオリジナル飛行機の開発を進めたが資金不足が主な理由で失敗し、訴訟を起こされたことをいい口実にして左遷され、飼い殺しにされた。」

 「日野は日本に2台しかなかったオートバイに乗って出勤したことに象徴されるように自己顕示欲が強い人物だった。初飛行時も日本初の栄誉が欲しかったためにルール違反を犯してごく小距離を飛んだが、これを公認しなかった軍の判断は正しい。日野式も欠点が多い拳銃で事実商業的に成功しなかったし、日野のオリジナル飛行機は結局飛ばず、その後の発明でもものになったもの、実用面で高く評価できるものはほとんど見られない。組織内での協調性にも欠けており、関係者に多くの迷惑をかけ、訴訟を起こされた日野の左遷はやむを得ない処置である。」

 これはどちらかが100パーセント正しいということではなく、両方の側面があったのだと思う。資料から、軍も決して初めから日野に冷たかったわけではないことが明確に読み取れるし、多くの日野と近かった人が後に離れているように見える。「虹の翼」の記述どおりならば、日野は目的のためには周りが見えなくなり、はた迷惑な言動をすることもある人物だったようだ。筆者はやはり日野のキャラクター自体に他人とうまくやっていけない何らかの問題点があったことは確かだろうと思う。また、彼の発明は過度に独自性にこだわり、無理に時代の先先を行こうとする欠点の多いもので、資金がいくら潤沢にあっても実用面で彼の発明が大成功を収めて広く普及することはなかったのではないかと思う。安全な立場から客観的に見る限り、非常に興味深い、魅力的な人物だとは思うが、筆者は彼を「理解されなかった悲運の天才」風に美化することは避けたい。
 ちなみにメッサーシュミットMe163ロケット戦闘機の資料を潜水艦で日本に何とか持ち帰り、これを原型にして戦争末期に陸海軍が共同で開発したのが日本初の有人ロケット「秋水」だ。資料は当然ドイツ語のはずで、日野はドイツ語がかなり出来たはずだし、航空機、特に日本ではほとんど未知だったはずの無尾翼機に関する経験があり、ロケットも手がけていたという。これだけ条件が揃えば開発スタッフとして参加しても不思議はないが、手持ちの「秋水」に関する資料には日野の名前はまったくなく、少なくとも重要な働きはしていないようだ。また、GUN誌1980年5月号には「太平洋戦争が勃発した際、62歳になった熊蔵は、自分の考案した自動小銃を軍部に採用してもらおうと努力した。」との記述があるが、これは「特殊小火器研究所」の秋氏が解説されているものだと思うので参照していただきたい。非常にシンプルにできるという大きなメリットがある興味深いメカだが、やや頼りないのではという気がするし、事実このアイデアを盛り込んで成功した銃は知られていない。いつも書くことだが、本当にいいアイデアなら真似され、生き残っていくはずだ。

日野式のメカニズム
 よく日野式のブローフォワードは「ブローバックの逆」と説明される。しかし、筆者は「ブローバックとブローフォワードは基本的に同一のメカニズムである」と認識している。つまり、ブローフォワードとは、「スライドにあたるパーツにグリップが付属したレイアウトが異なるブローバックのこと」だと考える。通常のブローバックピストルのスライドにグリップを取り付け、何らかの方法で安全にトリガーを引けば、理屈上バレルを含むパーツが外見上前進して排莢するはずだ。基本的にはこれがブローフォワードである。ただ、マガジンを作動のたびに激しく前後動させるのは現実的ではないので、日野式ではこれを通常のブローバックピストルではスライドにあたるパーツに移すため大きなレイアウト変更を行っている。しかしこれは「ブローバック」という作動上の基本に関わる変更ではない。




これは日野式をできるだけ簡略化して示した主要部の断面図だ。空色はフレームおよびそれにに固定されているパーツ、黄緑色はバレル、赤はフィーダー、黄色はトリガー、トリガー上部に付属している黄土色の部分はディスコネクター、赤茶色が弾薬だ。ここでは携帯時など、バレルが後退し、発射準備前の正体を示している。

1b


バレルとフィーダーの関係を簡略化して示す。これも側面から見たところだ。チャンバー部側面には濃い緑で示したミゾが彫ってあり、フィーダーの左右のアームはここにはまっている。

1c


こちらは下から見たところ。アーム先端には内側への突起があってこれが側面のミゾにはまっており、ミゾは後ろまでは切られていないのでここまでで強制的に停止する。図上わかりにくくなるので前方にも切られていない部分があるようになっているが、上のように前はいっぱいに切られている。これでもフィーダー後部のブロック(ブリーチブロックの下半分といった役割を果す)が前進してバレル(チャンバー)後端にぶつかれば当然停止する。チャンバー下部には段差が複雑に切られている。これでも最大限単純化しているのだが。まず、この図でいちばん手前まで肉があるのがチャンバーの黄緑の部分(前部)だ。濃い緑の後部はやや削られて前部とは段差があり、これがトリガーにひっかかってバレルが前方でコッキングされる。次に手前まで肉があるのが空色の部分、そして最も深く削られているのが青い部分だ。もう一度一番上の図に戻っていただきたい。ディスコネクターは青い部分の深いミゾにはまっている状態だ。なお、側面の断面では下から見たような段差が表現しがたいので多少アレンジしている。




1の状態からバレル先端をつかんで前方に引き、コッキングしたところ。これはコッキング完了状態だが、実際にはバレルはいったんもっと前進してから後退し、このようにカートリッジ先端をくわえるような形になる。ちなみに今回の製品は柔軟性のある素材を使っているので事情が違うが、実銃はグリップセーフティを握らないとコッキングできなかったはずだ。




トリガーを引くとチャンバー下部の段差とのかみあいが外れ、バレルはそれ自体に巻かれたリコイル(メイン)スプリングの力で後退する。フィーダー後部のブロックは後退し切るとフレームと一体になってブリーチブロックを形成し、内部をファイアリングピンが貫通する。チャンバー内に収まったカートリッジ底部のプライマーはファイアリングピンに打ちつけられ、発射が起こる。その寸前カートリッジのリムにはエキストラクターがパチンとはまる。トリガーを引いてから発射が起こるまでバレルが長距離後退することでロックタイムが長くなり、また銃の動揺が大きくなるので、命中精度は低くならざるを得ない。せっかく「全長の大部分が銃身」になっているのに、初速はともかく命中精度上の長所にはなりえないわけだ。




バレルを基準にしてフレーム全体がブローバックする。バレル前進時、フィーダーは後ろに取り残されるが、可動限界までくると当然強制的に前進させられる。カートリッジのリムの上部はエキストラクターにかまれており、下のブロックが前進するとひねられて上にはじき出される。ディスコネクターは図1cで示した空色部分にいったん押し下げられる。

 


バレルが前進しきると、ディスコネクターは図1cの空色部分後端にひっかかり、バレルはコッキング位置よりやや前方でホールドされる。トリガーを戻すとディスコネクターとバレルのかみあいは外れるが、その一瞬前に図2のようにトリガーがバレルをコッキング位置で止める。今回の製品では再現されていないが、実銃は発射後バレルがコッキング位置よりさらに前で停止し、トリガーを緩めるとカクンと少し後退するわけだ。

 「グリップを含むパーツがブローバックする」のがブローフォワードだが、この場合フレームの方がはるかに重く、手で保持しているから外観上バレルが前進するのは確かだろう。例えば現用のブローバックガスガンのほとんどは、スライド内のピストンまたはシリンダーがフレームを前方に押しているが、フレームは動きにくいので逆にスライドが後退する、というようなものだ。通常のブローバックでは閉鎖の強さはスライドの重量とリコイルスプリングの強さで決まるが、日野式の場合はバレルの重量とリコイル(メイン)スプリングの強さで決まるのだろう。ただし、バレルを重くするのは難しいし、無理に重くしても「オープンバレルファイア」のこの銃の場合命中精度に対する悪影響がどんどん大きくなってしまう。ストレートブローバックで使用するには元々やや問題があるとされる8mmナンブが安全に使用できたかどうか、またコッキング操作が限度を越えてやりにくくなかったかどうかは不明だ。スプリングのテンションがかかって移動できるスライドで反動を受け止めるブローバックはリボルバーなどよりリコイルがマイルドに感じられるが、日野式の場合は同じような条件の通常ブローバックより直接的に感じられたのではないか。また、オートピストルにおいて銃をしっかり保持せずリコイルを受け流すようにするとジャム率が高まるとされるが、この傾向も通常より強かったのではないかと思う。ただ、こうしたことは推測の域を出ない。
 ちなみに「日本帝国の拳銃 再考」にはシュワルツローゼなど他の「ブローフォワード」とされているピストルは真のブローフォワードではないというような記述があるが、この真意は不明だ。筆者はシュワルツローゼは立派なブローフォワードではないかと思う。

日野式の実用性
 日野式はバレル先端をつかんで前方に引くことでコッキングする。バレルは重量を増やしにくいし、ロッキングシステムはないのでリコイルスプリングは比較的強くなる。先端に滑り止めのセレーションが彫ってあるということは、逆に言えば滑る恐れがあるということだ。もし、コッキング寸前で指が滑ったら、システム上暴発する可能性が非常に高い。そして、バレル先端をつかんで強く前方に引いている指が滑ったら、暴発が起きるその直後、指は銃口の前に来る可能性がきわめて高い。日野は試作品の組み立て中、暴発によって自分の左手の親指を撃ってしまったというが、これはこういう状況で起きたのではないだろうか。緊急時は銃を強く振ってコッキングするという方法が勧められていたが、この場合も力がわずかに足りなければ暴発する可能性が高い。また、上の図5からトリガーを戻して2に戻るとき、ゆっくり戻すと暴発する可能性があるし、2からゆっくりトリガーを引けばフルオートになるおそれがある。実際取扱説明書でもトリガーは強く引くように指示されていたという。暴発やアンコントロールの危険が高い、きわめて安全性の低い銃だったと言えるだろう。
 2の状態から発射を中止し、弾薬を取り出すのは非常に困難で、事実上いったんバレルを後退させ、リムをエキストラクターにかませて排出するしかない。しかしファイアリングピンは固定であり、これはあまりにも危険だ。その場合はネジを緩めてファイアリングピンを後退させる必要があり、非常に不便だ。「日本帝国の拳銃 再考」に登場しているシリアルナンバー32のファイアリングピンを伸縮できるシステムは、この問題を解決するためと思われる。
 同書の記述からすると、この銃は、1940年前後、大陸での戦争が長期化、深刻化してピストルが足りなくなっているのに輸入は困難になったとき(浜田、稲垣両氏が軍の要求で将校用中型拳銃を作ったのとほぼ同じ頃)、生産はとっくに終了していたが腐らせておくには惜しい数(数十挺程度か)の日野式があり、これを何とか使用可能なものにできないか南部銃製造所国分寺工場で改造したものではないかと推測できる。ただ、こうしたサンプルは1挺しか現存せず、それ以上の資料もないので、やってみたがどうにもこうにも使い物にならなかったということではないか。開発当時も軍採用を狙ったはずだが、成功しなかった。佐山二郎氏著「小銃 拳銃 機関銃入門」(光人社NF文庫)によれば、実用上日野式よりはるかに優れていた南部式ですら「寺内陸軍大臣は経費多端の折から拳銃改良のごとき不急の研究をあえて行うのは本末を転倒していると一喝し」といった事情で採用中止となっており、不採用は当然だったと言える(面白いことに「日本帝国の拳銃 再考」によれば、寺内は日野式の海外パテントの個人的保証人になった人物)。もし採用されていたら、九四式をはるかに超える「スーサイドガン」のレッテルを貼られていたはずだ。内地とはいえ、現存する銃の少なくとも1挺が旧軍の兵舎から発見されたということは、日野式が将兵の私物として戦地に持ち込まれ、実際に使用された可能性もゼロではないはずだが、大きな活躍がなかったことは間違いない。数百挺生産されながらあまり売れず、あまり人も殺さず(ひょっとして1人も殺さず、人間を撃ったのは日野自身を2回事故で撃っただけかもしれない)、世紀の珍銃として伝えられ、コレクター垂涎のアイテムになる。これは日野式という銃にとって案外ラッキーな結果だったのかもしれない。




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