実銃について


渋谷のアルバンで購入したアイバージョンソンリボルバーの本。W.E.Goforth著。

アイバージョンソン社設立以前 
 アイバー・ジョンソンは1841年、ノルウェーに生まれた。家は農場だったが、働き手の兄たちが大勢いたため、16才でガンスミスに徒弟に出された。5年間の修行の後、1862年には自分の店を持った。だが翌年にはアメリカ(マサチューセッツ州ボストン)に移民として渡っている。当時南北戦争で多数のガンスミスが必要とされたため、当時銃器工業の中心地のひとつだったウォーセスターのアレン&フィーロック社に職を得ることができた。1871年、同じ職場のマルチン・バイという人物とアイバージョンソン社の前身であるジョンソン&バイ社を立ち上げた。当時ピストルだけでは社が成り立たず、所有していた工作機械で作れる警察用の手かせ、足かせ、おもちゃ、玩具銃、空気銃、自転車、三輪車、赤ちゃんの歩行器などを作っていた。これはアイバージョンソン社が発展した後も続けられ、1911年にはバイクも製作している。
 ジョンソン&バイは最初ペッパーボックスと通称されるシリンダーとバレルが一体のリボルバーを試作したが、これは当時すでにあまりに時代遅れであり、発売されなかった。1871年、ジョンソン&バイ最初の銃器、単発デリンジャーが4機種発売された。1つは.30口径のパーカッション、1つは.22口径のリムファイア、そして他の2つはそれぞれのデラックスバージョンだった。リムファイアはコルトNo.3に似ており(時期もほぼ同時でこの形式は当時の流行だった)垂直の軸があってバレルが上から見て反時計方向に回転するものだった。
 この銃のシリアルナンバーは1から始まって99999に達するとまた単純に1に戻るという妙なものだった。この方法はかなり後までたくさんの機種で行われ、結果的に全く同じシリアルナンバーの銃が複数存在し、いつ製造されたのか、生産数がどのくらいなのか判定することが不可能というおかしな結果を生んでいる。後のアイバージョンソン社でもある銃の改良が行われた後、余った部材を組んででっちあげ(?)の別ブランドで安価に販売することをよく行っており、いずれも二流メーカーらしいエピソードだ。
 こんな理由で正確な生産数を知ることは不可能なわけだが、この本では40〜60万挺ではないかと推測されている。さて、ガンマニアに「史上最も多数生産されたデリンジャーは何か?」と問えば、たいていの人は「レミントンダブルデリンジャーでしょ」と答えるだろう。しかし、レミントンダブルデリンジャーの生産数は普通「15万挺以上」とされている。とすれば、アイバージョンソンのデビュー作は少なくともそれに匹敵する数が作られていた可能性が高い。それなのにコルトNo.3(約48000とされる)よりはるかに下(というかほぼゼロ)の知名度というのは二流メーカーの悲しさだろうか。
 1873年(コルトSAAが発売された年)にはシングルアクション、スパートリガー、5連発のソリッドフレームリボルバーが発売された。口径は.22、.32、.38、.41があり、リムファイアのみだった。
 1878年にはダブルアクションのソリッドフレームリボルバーが発売された。これにはセンターファイアもあった。ちなみにダブルアクションは1800年代前半のパーカッション時代にすでに存在しており、コルト最初のダブルアクションであるライトニングは1877年に発売されているので、特別早いということはない。
 この時代は時代遅れの習作に始まり、ようやく時代に追いついた、アイバージョンソンの助走時代といえるだろう。

史上初のスイングアウト式ダブルアクションリボルバー?
 
史上初のスイングアウト式リボルバーはC.S.シャタックポケットリボルバー(失敗作だったようだ)であり、史上2番目がアイバージョンソンの作ったM1879だとされる。C.S.シャタックはシングルアクションだったので、M1878は史上初のスイングアウト式ダブルアクションリボルバーということもできる。これはコルト、S&Wより数年早かった。…だが、この銃(ちなみにC.S.シャッタックも方式はほぼ同じ)は現在のスイングアウト式とは全く違う。シリンダーの前方に垂直の軸があり、上から見て反時計方向にシリンダーが直角に振り出されるのだ。非常に珍しいことに、この銃はバレルとフレームが一体成形されていた。口径は.38のみだ。
 コルト初のデリンジャーはNo.1デリンジャー(以前モデルアップしたNo.2と構造は同じ)だ。この銃はバレルの下に銃身と平行の軸があり、ラッチを引いて後方から見て反時計方向にバレルをスイングアウトする。この形式はコルトの後のスイングアウト式ときわめてよく似ている。前項で説明したアイバージョンソン初のデリンジャーとM1879もよく似ている。刷り込みというのか、発想の原点というのか、これはちょっと興味深い。コルトはNO.1、No.2を放棄してNo.3を生産し、よりヒットしたのだから、デリンジャーとしては垂直の軸を持つ形式の方が優れていたのだろう。ただこれをリボルバーに応用した場合では明らかに水平の軸を持つタイプの方が優れており、コルトとアイバージョンソンは明暗を分けたことになる。
 この銃はシリンダーがスイングしてアウトするのは確かだが、使用感からすれば通常のスイングアウトとブレイクオープンくらいかけ離れており、「史上初のスイングアウト式ダブルアクションリボルバー」と称していいのかやや疑問もある(それなら当然現在の形式のスイングアウト第一号は何か、という疑問が生じるが、調べきれていない)。この銃はアイバージョンソンが作った銃の中で唯一ハンドフィットを必要とし、手間がかかりすぎたためか生産は1年で終了した。そしてアイバージョンソンは2度とスイングアウト式リボルバーは作らなかった。つまりまともなスイングアウト式のアイバージョンソンリボルバーは存在しない。他メーカーにさきがけてスイングアウト式リボルバーを作ったが失敗し、他メーカーが優れた方式のスイングアウト式リボルバーを開発して成功し、それが主流になった、これがくやしいのはわかる。しかし近年までリボルバー専門メーカーだったのに主流をなすスイングアウトを一切作らずに終わったというのはちょっと依怙地という気もするし、ほほえましい気もする。

アイバージョンソン社誕生
  ジョンソン&バイの初期の製品はあまり売れず、彼らは1881年ボストンのJ.P.ロベル社と契約し、そのルートのみで販売することになった。通販などで実績は上がったが、ロベル社の許可なく改良が許されないなど制約も多かったようだ。この契約はアイバージョンソンが死ぬまで継続した。1882年バイとの協力関係が終わり、アイバージョンソン&Co.リボルバーズが誕生した。1888年アイバージョンソンはアメリカ市民権を得、1890年にはフィッチバーグに移った。フクロウの顔のトレードマークを初めて使ったのもこのころだ。1894年、アイバージョンソンアームズ&サイクルワークス(Iver Johnson's Arms & Cycle Works)と改名した。これからという時期だが、アイバージョンソンは翌1895年に死亡、息子のフレッドが新社長となった。

最高傑作セーフティオートマチックリボルバー発売
 リボルバーを最も単純に設計すれば、ハンマーダウン時、ハンマーに付属したファイアリングピンがプライマーを圧迫する形になる。コルトSAAなどはこういう構造であり、ハンマーをややコック状態に後退させて停止するセーフティコックはあまり確実ではないので、携帯時には一番上のチャンバーを空にすることが推奨された。ちなみに以前モデルアップしたコルトのクローバーリーフピストルはシリンダーを中間位置で停止することにより、フル装填して安全に携帯できるものだった。4連発ながら、護身用としては事実上5連発と同じ価値があったことになる。さて、初期のダブルアクションリボルバーはSAA等をそのままダブルアクション化したようなもので、フル装填して安全に持ち運ぶことはできなかった。これでは満足できないので、ハンマーを自動的にややリバウンドさせる方法が考えられた。これだけではセーフティコックより不確実なので、リバウンドしたハンマーの前進を邪魔するハンマーブロックが考え出された。S&Wは現在でもこの方法を使っているし、コルトはパイソンあたりまではこの方法を使っていた。なお、ハンマーブロックはハンマーが後方から叩かれた場合の安全性を確保するためのものであり、その可能性がないS&Wセンチニアル(ハンマー内蔵)には入っていない。
 これに対し、スタームルガー、トルーパー以後のコルトリボルバーなどは、トランスファーバーシステムを採用している。このシステムではファイアリングピンがハンマーと別にフレームに設置され、ハンマーダウン時ハンマーとファイアリングピンの間には空間がある。トリガーを引いたときだけ両者の間にトランスファーバーが介入して力を伝達する。ハンマーブロックシステムでは力が伝達される状態だが邪魔が入っている形、トランスファーバーシステムでは力が伝達されない形、ということだ。前者では邪魔を排除するほど強い力で叩かれれば暴発する可能性があるのに対し、後者はまず絶対に暴発しない。このため、理論上は後者の方が安全性が優れているとされる。このシステムが一般化したのは1970年代に入ってからだ。たびたび話が脱線して恐縮だが、現在のオートピストルのオートマチックファイアリングピンブロックはどちらかといえばハンマーブロックに近い。これで安全性が完璧であるとされているのはハンマーダウンでもファイアリングピンの先がプライマーに当たらず、強く叩かれたときだけ当たる慣性打撃式だからだ。ただこの方法はファイアリングピンの質量が大きくないと使えないため、リボルバーに応用するのは無理だろう。逆にオートはスライドが後退するのでトランスファーバーを組みこむのは難しい。
 アイバージョンソンは1894年、初めてトランスファーバーシステムを採用したセーフティオートマチックリボルバーシリーズを発売した。この当時はまだSAA並みの安全性しかないものが当たり前であり、きわめて先進的で、競合製品とは比較にならないほど安全性の高い製品だった。19世紀末の製品でありながら、現在のS&Wリボルバーより理論上安全性が高かったことになる。セーフティオートマチックリボルバーという名称は今にしてみれば奇妙な感じだが、当時はまだいわゆるオートマチックピストルが一般化していなかったので違和感はなかったようだ。いわゆるレールガンが将来小火器の主流になったら、未来の人は21世紀初期の銃を見て「レールガンじゃないのにレールシステムなんて名前つけて変なの」と思うかもしれない、というようなものか。なお、アイバージョンソンブランドでのトップブレイクリボルバーはこれが初めてだが、J.P.ロベル経由で「スウィフトリボルバー」という製品をそれまでに多数販売しており、トランスファーバーシステム以外の多くの特徴が受け継がれている。

セーフティオートマチックリボルバーのバリエーション
 セーフティオートマチックリボルバーはいくつかの特徴で分類される。これもいかにも二流メーカーらしいが各形式にはっきりしたモデルナンバー、名称がついていない。
 まずフレームのサイズによってラージフレーム、スモールフレームに分けられる。ラージフレームはS&WのJフレーム(チーフスペシャルなど)に近いサイズで、スモールフレームは現在一流メーカーが作っていないミニサイズだ。.22など使用弾薬のバリエーションもあるが、原則ラージは.38S&Wショート5連発、スモールは.32S&Wショート5連発だ。なお、アイバージョンソンには大型、大口径の機種が少なく、小型のフレームで.44口径5連発というソリッドフレームの銃が最大だ。
 製造時期によってファースト、セカンド、サードに分けられる。ファーストは1894〜1896年、セカンドは1897〜1908年、サードは1909〜1941年となっている(これはスモールフレームであり、ラージフレームとはややずれがある)。セカンドモデルはバレルラッチがシングルトップポストからダブルトップポストに変更されたものだ。これは一般的なT字型のラッチだ。サードモデルではシリンダーストップが独立し、スプリングが全てコイルとなり、使用する鉄も品質のいいものに変更された。サードモデルは圧力の高い無煙火薬に充分耐えることを主な目的とする改良型だった。
 ハンマー露出、ハンマーレスは原則各バリエーションに存在した。なお、初期のハンマーレスモデルにはグロックと同じ構造のトリガーセーフティが装備されていた。これは史上初のセーフティトリガーとされ、パテントも取得している。これを早々に放棄したアイバージョンソン(の一族)も、これと同じ構造のトリガーを持つ銃が約90年後に最高の軍用拳銃として大ヒットし、亜流製品が続出するとは想像もできなかったろう。グロックの開発者がアイバージョンソンの前例を知っていたのかは不明だ。というか、いまだに知らないという可能性すらある気がする。
 銃身長はサイクルモデルと呼ばれる2inのスナッブノーズから6inターゲットモデルまで各種あった。
 最も一般的なのはスモールフレーム、セカンドモデル、.32、ハンマー露出、銃身長3inというものだった。.32S&WショートはS&WのNo.2リボルバーなどに使われた.32S&Wリムファイアの改良型であり、当時の記録によれば初速が168m/sしかなく、いわゆるエアソフトガンの極悪銃と大差ない(たぶん飛ぶ弾頭が肉眼で見えたはずだ)。もちろん弾頭重量が大きいからエネルギーははるかに大きいが。これは当時護身用として非常にポピュラーなもので、反動が小さいので不慣れな射手にも扱いやすかったという。
 グリップはフクロウの顔のトレードマークが入ったハードラバー、ラウンドバットのものが標準だったが、オーバーサイズのハードラバー(通称パーフェクトグリップ)、ウォールナット、パール、アイボリーがあった。アイバージョンソンのイメージからして違和感があるが、エングレーブ入り、豪華木製ケース入りプレゼンテーションモデルというのもあった。
 アクセサリーとしては、ナックルダスターグリップもあった。これは単にナックルダスターの機能も持つグリップアダプターだが、これでもパテントを取得している。

セーフティオートマチックリボルバーと社会
 アイバージョンソン社はこのセーフティオートマチックリボルバーを主力に大きく発展した。
 アイバージョンソンというと最低の安物というイメージが定着しているが、最盛期には必ずしもそうではなかった。1905年、上記の最も一般的なモデルの価格は6ドルだった。当時コルトSAAが13ドル、S&WトップブレイクDA(正確な機種不明)が10ドル、H&Rオートエジェクタートップブレイクが8ドル、ホプキンス&アレンセーフティポリスが5ドル、輸入品のイングリッシュブルドッグDAが3ドルだったという。当時は品質がよく、それにしては安い、という評価で人気が高く、ちょうど今のスタームルガーのような感じだったのではないか。
 生産のピーク時にはセーフティオートマチックリボルバーを主力に日産2000挺(年間70万挺以上)程度だったと想像され、1910年ごろには世界で最も多数のリボルバーを作る会社だった。また、現在においても史上最も多数のリボルバーを製造したメーカーだとの説もある。
 1904年、アイバージョンソンは「ハンマー ザ ハンマー」のスローガンを初めて使用した。これは昔の「象が踏んでもこわれない」(←古い)、最近で言えば「100人乗っても大丈夫」のようなもので、「撃鉄を金槌で叩いても絶対安全」という意味だった。当時ダントツの安全性を持っていたことは確かで、実際セーフティオートマチックリボルバーがトリガーを引かないのに暴発した事例は報告されていないそうだ。ただ、当時は要求される安全性のレベル自体が現在より低く、ハンマー側から落とせば暴発する危険があるのはある意味当然とされ、他社を完全に圧倒するほどのメリットとはならなかった。ある意味では「早すぎたアイデア」だったのかも知れない。例えば落とした包丁が先から足の上に落ちたら大怪我をするかもしれないが、その危険は現在誰もが許容している。グリップセーフティのようなものをつけ、しっかり握っていない限り刺さらない包丁を作ることは充分可能だが、現在そんなものを作っても売れないだろう。しかし将来それが必要とされる日が来ないとは断言できない。皮肉な話だが、リボルバーが落としても叩いても絶対安全であることがようやく求められはじめた1970年代にはアイバージョンソンは見る影もなく没落し、やがてリボルバーを作ることをやめている。 
 セーフティオートマチックリボルバーシリーズは総計数百万挺生産された。これは生産された最終年にイギリス、オランダ領東インドに輸出された分をのぞき、軍用に販売したものはない。以前アームズマガジンでスタームルガー.22オートを作ったとき、軍の制式にならずにシリーズ総計数百万挺という銃は他にないのではないか、と書いたが、意外なところに存在したわけだ。アイバージョンソンは輸出にも力を入れていたので、米墨戦争、日露戦争では両軍の将兵がこのシリーズの銃を護身用の私物として戦場に持ち込んでいたという。
 1901年、アメリカ合衆国大統領マッキンリーを暗殺したのはアイバージョンソンのブレイクオープン、.32、ニッケルメッキのリボルバーだったとされ、今回モデルアップしたものにきわめて近いタイプと思われる。
 1941年に生産が終了したのは恐らく第二時大戦の進展、特に太平洋戦争開始によると思われる。当時イサカやシンガーといったメーカーまでガバメントを生産しており、アイバージョンソンにも打診があったが、結局実現はしなかったようだ(アイバージョンソン製ガバメントは実現しなくてよかった気もする)。M1カービンを製造していたのはそのメーカーに買収された近年のことであり、当時作っていたわけではない。それなら主力製品の生産を止めて一体何をしていたのか資料にもないのでよくわからない。働き手を徴兵や重要な軍需産業にとられて活動を縮小していたのだろうか。

その他の製品
 1900年にはソリッドフレームのニューモデル、M1900が登場した。これはハンマーにファイアリングピンが付属したもので、安全機構はセーフティコックのみだった。装填はローディングゲートから行うか、シリンダーを外して行う。極端に安価だったためセーフティオートマチックリボルバーシリーズに次ぐヒット作となった。生産数はやはり不明だが、やはり百万単位になっているようだ。これも1941年に生産が終了している。
 1908年にはIJプチソリッドフレームダブルアクションと呼ばれる製品が発売された。これはかつて製造された中で最小のダブルアクションリボルバーではないかともいわれるものだ。.22ショート弾を使用しても手を傷めたり思わずとりおとすほどだったという。実用性が低かったのでこの年だけで生産は終了している。なお、この銃はハンマーと板バネの2パーツだけでリバウンドハンマーを実現してパテントを取得しており、史上最もシンプルなリバウンドハンマーだと思われる。
 1936年にはモデル36Tというターゲットリボルバーが発売された。この銃はトリガーコッキングというユニークなメカを採用していた。ダブルアクションに似ているが、この状態でトリガーを引くとハンマーがコックされる。引ききってもハンマーは倒れない。いったんトリガーを引く力をゆるめてもう一度トリガーを引くとシングルアクションの軽いプルでハンマーが倒れる。シングルアクションと違ってグリッピングを変えずに素早くコックでき、ダブルアクションより命中精度が高い、ということだったのだろう。いちばん繊細な動きを要求されるトリガーフィンガーが早く疲労してしまうが、短時間に正確な連射を要求される競技ではあるいは有用だったのかもしれない。
 戦後のアイバージョンソンについてはあまり多く語るべきことがない。セーフティオートマチックリボルバーシリーズの生産は再開されず、セーフティコックやリバウンドハンマーしか安全機構がなく、完全に時代錯誤のトリガーがシリンダーストップを兼ねるリボルバーなど、安い以外に何のメリットもない製品などを作っていた。ネジ1本でフロントサイトを上下調節できるデザイン、シリンダー前面の穴をすりばち状に広げ、シリンダーギャップからのガスを射手と逆、つまり前方に向けるアイデアなどはやや興味があるが、実効は疑問だ。
 J.F.K.の弟であるロバートケネディ上院議員を暗殺したのはアイバージョンソンの.22ソリッドフレームダブルアクションリボルバーであるとされる。当時のアイバージョンソン製品は安価なため犯罪によく使用され、破産者が最小の予算で入手し、自殺に使うという意味でスーサイドガンとも呼ばれた。銃規制がゆるかった時代はスーパーマーケットや質屋などで信じられないくらいの安さで入手できたらしい。
 アイバージョンソンはその後倒産、再建、所有権のたらいまわしなどを経て現在では活動していない。今後再建されることはあるかもしれないが、されたとしても過去のアイバージョンソンとは直接の関係はないものにすぎないだろう。

アイバージョンソンは早すぎたスタームルガーだったのか
 戦後はともかく、アイバージョンソンがきわめて先進的でユニークなメーカーであり、規模も非常に大きかったのがお分かりいただけるだろう。トランスファーバーの使用、史上初めて板バネを全廃したメーカーであるなどコストダウン、新技術の導入にも熱心だった。アイバージョンソンのリボルバーにはサイドプレートを使用したものがない。左右のフレームの壁が一体のパーツとなっている構造はサイドプレートを持つものよりタフだ。先進技術を導入し、安価でいいものを作り、安全性、タフネスに優れている。これらの特徴はどうしてもスタームルガーとだぶる。二流メーカーから脱皮して大成功を収めることができたスタームルガー(今でも1.5流では、という見方もあるだろうが)と、一時は隆盛をきわめながら二流イメージから脱することはできず惨めに没落したアイバージョンソン、その違いはいったいどこにあったのだろう。アイバージョンソンの死後の1895年に長男フレッドが新社長となった以後、1909年次男ジョンL、1935年末の息子ワルターO、1953年アイバーの孫ルーサー.M.オットー3世と社長が交代したが、完全に創始者一族だけの経営だったことがうかがえる。このような中で、かつて先進的でユニークなアイデアを実現していた会社が次第に硬直化、保守化して時代に追い越されてしまったのかもしれない。しかしいずれにせよアイバージョンソンとその最高傑作セーフティオートマチックリボルバーは銃器発達史において特筆すべき存在であり、現在のようにまったく知られていないに等しいという状態は不当に思える。

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