実銃について
左よりワルサーPPK、九四式拳銃、稲垣式拳銃、ブローニングM1910
まず、「日本帝国の拳銃 再考」(Japanese Military Cartridge Handguns 1893−1945)における稲垣式に関する記述(主要部分)の訳文をお読みいただきたい。
レアな稲垣式
7.62mm稲垣式
稲垣の物語は戦時中の日本における民間小火器設計者および生産者に関わる物語の1つとして現在よく知られたものの1つである。全ての7.62mm稲垣式拳銃は、その設計者であり生産者である稲垣岩吉の名前を持っている。フレームの右後ろ側に刻印してある、からみあった「I」と「S」のモチーフは、「稲垣式」を意味する。稲垣は1872年頃生まれ、彼のキャリアの初期では、小石川の東京砲兵工廠において南部麒次郎将軍の下で技術者であった。1924年、彼は陸軍を引退し、東京都杉並区に小さな工場を見つけた。彼は第二次世界大戦が始まるまでここでエアライフル、エアピストル、猟銃を設計、生産していた。浜田文次と彼の民間工場のケース同様、稲垣は第二次大戦が始まった時、民間用生産を継続するために必要な原材料を入手することができなくなった。そして彼は軍用兵器の設計と生産に路線変更を強いられた。
1941年、日本国特許番号144612を持つ彼の7.65mmピストルは、東京の小金井にある第一陸軍技術研究所に正式認可と採用のために提出された。当時同研究所の第一セクションの長だったイトウ シンキチは浜田文次がそうしたように当時の事情を回想した。彼らの記録と記憶から、少なくとも3つの民間猟銃メーカーがテストのために銃を提出した。浜田の日本銃器株式会社と稲垣銃器工場の7.65mmデザインが認可を受けた。不幸にも入手可能な記録はタイプ名称が割り当てられていたのかどうかを示していない。生産は認可後すぐ始まった。
帝国海軍も海軍パイロットに支給するために稲垣式拳銃をオフィシャルに採用し(頑住吉注:いわゆる「制式採用」ではないはずです)、少数を購入したことは確認されている。アメリカのコレクションの中に4挺の稲垣式の存在が知られているが、このうちナンバー160と164にはグリップパネルの上、フレーム右側に円で囲まれた海軍の錨の刻印がある。シリアルナンバー285と391には錨の刻印はない。報告されている初期生産分の銃に錨の刻印があることに基き、帝国海軍が稲垣式を1941年の陸軍による受領に先立って認可していた可能性が存在する。しかし1940年に日本の海軍省が出版した「日本海軍システムの歴史」a13巻は採用と生産の期間を扱っていないので、これは確認不可能である。いずれの場合も知られているシリアルナンバーと支持する日本からの意見に基づき、陸海軍双方用に生産された総生産数は疑い無く非常に少なく、恐らく500を越えない。
7.65mm稲垣式拳銃は、スライド内にプレートとネジを使って2本のリコイルスプリングが組み込まれたストレートブローバックデザインの作りのよいピストルである。分解は比較的シンプルである。ピボット運動によりトリガーガードをフレームのリセスから左横に離す。90度回すとトリガーガードは下に抜き取ることができる。トリガーガードの上への突き出しがストップの役割を果たしているので、トリガーガードを取り去ってしまえばスライドとバレルは簡単にフレームから分離できる。ドライバーとポンチを使って他の小パーツを分解できるが、これは通常の手入れのためには必要ない。
初期生産分の銃の仕上げはラストブルー仕上げで、エキストラクター、トリガー、マガジンキャッチのような一定のパーツは熱処理された。遅い時期の生産分では明らかに高品質なホットソルトブルーイングも使われた。
グリップパネルは「Leguminosue」(アカシアの仲間)製で、銃と同じシリアルナンバーが入れられていた。目の細かい、明らかに手作業で切られた斜めのグルーブは、生産の間中それぞれのパネルに違う数があてはめられていた。例えばシリアルナンバー164には左右それぞれのグリップに46本のグルーブがある。それに対しシリアルナンバー285は右のパネルには38本のグルーブがあり、左には35しかない。全ての銃にはパネルに完全な縁取りがある。パネルの幅も銃ごとに異なる。
割り当てられたシリアルナンバーは大きな4mmの数字でトリガーガード直上のフレーム左側に刻印されている。スライド、マガジン、トリガーおよびトリガーガード、バレル、リコイルスプリングリテイナー、ストライカーのような他の全てのメジャーなパーツにも全て3桁の数字のシリアルナンバーが刻印されている。
特別に興味深いのは12条の山と谷のマイクログルーブライフリングを持つ短い72mmのバレル、そしてフレーム左後方に位置し、むしろより一般的な漢字ではなく「S」と「F」(セーフとファイア)でレバー位置が表示されているセーフティレバーである。7.65mm稲垣式は実にユニークで、全てのスタンダード兵器中における考慮すべき極端なレアアイテムである。8mm口径のプロトタイプバリエーションも存在するが、これは日本においてさえ今日ほとんど知られていない。
8mmプロトタイプ稲垣式
1942年の早い時期、日本が完全に第二次大戦に巻き込まれた直後(頑住吉注:1941年12月の太平洋戦争突入からさほど経たない時期、ということです)、当時日本軍で多数使用されていた外国からの購入品および国内設計両方の6.35mmおよび7.65mmハンドガンと交換するための8mm制式弾薬仕様の小型ピストルの必要性が明らかになった。そのような動きは供給の激減と、多くの異なる弾薬の使用によって経験した兵站上の問題のためと思われる。一定の軍将校もコストおよび生産上の困難さから九四式の生産続行に疑問の声を上げていた。その結果日本軍は8mm仕様の代替デザイン開発のできるだけ早い開始を決定した。
1942年、当時70歳の稲垣岩吉は彼の7.65mmモデルに似た8mmピストルを設計し、それを検討とテストのためオーディナンスビューローのチーフ(頑住吉注:知識不足で日本語の何に当たるのか分かりません)に提出した。他の2つの民間会社も設計を提出した。このうち1つは浜田文次の「ハケ式」であり、これは後にいくつかのモデファイの後、浜田二式として採用された。
かつて「研究所」の第1セクションの長だったイトウ シンキチは、稲垣の8mmピストルがテスト過程に落第したこと、そして却下の理由が貧弱な板バネデザインだったことを回想した。理由は不明だが、受け入れられなかったデザインがモデファイも新たなプロトタイプもなくテストと採用のため再び提出されたことが明らかである。
今日3挺の稲垣式8mmプロトタイプの存在が知られている。シリアルナンバーは101、102、109である。興味深いことに、8mmプロトタイプにはより頻繁に使用された単一数字のシステムでなく100シリーズのシリアルが割り当てられた。シリアルナンバー101と102のプロトタイプは「reference
library of the National Research Institute
of Police Science,National Police Agency,Tokyo」に展示されている(頑住吉注:これも日本語で何に当たるのか不明です。ちなみに「科学警察研究所」なら東京ではなく千葉県にあります)。シリアルナンバー109はアメリカのプライベートコレクションの中にある。3挺の銃が知られているだけだが、少なくともテスト目的に10挺のプロトタイプが製造されたに違いない。
日本にある2挺の稲垣式8mmプロトタイプは細かい外的特徴がいくらか異なっており、検査とテストのためだけに手作業でニューデザインの銃を用意したものと思われる。(アメリカにある唯一知られている銃は著者によって調査されていないが)最も目立つ差異はグリップパネルである。シリアルナンバー101に縁取りのない25本の斜めのグルーブがある一方で、シリアルナンバー102には縁取りのある24本のグルーブが右のパネルにある。ところが左には23本しかない。スライドの滑り止めセレーションも、シリアルナンバー101の14本からシリアルナンバー102では13本に減らされている。発射された弾丸の弾道学的特性の分析は、2挺のピストルの間の差異はノーマルなそれを超えていることを明らかにした。
8mmデザインは、より大きな弾薬に適応させるため全体の寸法が大きくなっていることを除けば、7.65mmモデルと基本的に同じである。しかし注目すべきいくつかの改良と、他のモデファイが行われている。
●銃身長が増大している。
●ライフリングの山と谷の数が12から11に減らされている。
●排莢方向が右から上に変わっている。
●スライドの滑り止めグルーブが増えている。
●マガジンキャッチがグリップ下からトリガーガード下端の直後に移動している。
●セーフティが垂直に作動するボタン(頑住吉注:いわゆるクロスボルト式)に設計変更された。これがオリジナルの回転レバータイプに置き換えられたが、オリジナルはダメージを受けがちだったため7.65mmデザインの主要な弱点だった。少なくともプロトタイプにはセーフティ位置の表示は与えられていない。
●左面にあるフレームプレートのデザインをセーフティを簡単に分解できるよう改善した。以前のテンション方式ではなく1本のネジで保持するよう設計変更した。
●トリガーガードがアクシデントで外れたり回転したりしないように下端のフレームとの結合を確実にするため、ネジを設けた。
これも注目すべき興味深い部分として、8mmデザインはフレーム右サイドに全て漢字で「稲垣式」と識別のための刻印が打たれ、「I」と「S」の絡み合った7.65mmデザインのロゴと置き換えられていた。似たような変更は川口銃器会社のの97式信号拳銃の識別刻印でも、アメリカが参戦した1941年以後に行われている。
幸運なことに、多くのプロトタイプや少数生産品でありえた、戦争の混乱の中で消え去り、歴史の深淵の中に消えた多くのケースとは異なり、稲垣岩吉のピストルは生き残った。それらは現在銃器について学ぶ者たちやコレクターたちの教育や楽しみのため利用可能である。
後知恵だが、九四式の代用品となる小型の8mm仕様ピストル開発に向けての真剣な努力が、明らかに1942年に開始され、1年後に浜田2式の採用が決定され、そして成功した2つの銃器メーカーを含めて明らかに日本の戦争努力のために意味のある数が決して現実に供給されなかったことは不思議である。なぜ稲垣や他の小火器メーカーが成功した浜田デザインの補足的生産のための全般的プログラムに使用されなかったのかは、おそらく浜田の生産品そのものの大部分が消失したこと同様に、好奇心をかきたてる疑問である。
7.65mm稲垣式
名称:稲垣式
口径:7.65mm
アクション:ストレートブローバック コンシールドハンマー
全長:165mm
全高:114mm
重量:1ポンド7オンス(頑住吉注:652g)
銃身長:72mm(2.83インチ)
ライフリング:12条の山と谷 左回り
マガジンキャパシティ:8発
供給先:陸海軍
メーカー:稲垣銃器工場 東京都杉並区
生産時期:1941〜43
生産数:おそらく500挺以下 6挺がレポートされ、4挺の存在が知られている
全般的なシリアルナンバーの範囲:1〜500
知られているシリアルナンバーの範囲:160〜391
刻印:生産者、シリアルナンバー、海軍の刻印
仕上げ:初期はラストブルー、後にホットソルトブルー
グリップパネル:木製。斜めのグルーブ。アカシア製
シリアルナンバー刻印:全ての主要なパーツと大部分の小パーツ
8mmプロトタイプ稲垣式
名称:8mmプロトタイプ
口径:8mm
アクション:ストレートブローバック コンシールドハンマー
全長:180mm
全高:129mm
重量:2ポンド0オンス(頑住吉注:907g)
銃身長:81mm(3.19インチ)
ライフリング:11条の山と谷 左回り
マガジンキャパシティ:8発
供給先:プロトタイプ
生産者:稲垣銃器工場 東京都杉並区
生産時期:1942年
生産数:3挺のみ知られている
全般的なシリアルナンバーの範囲:100〜110
知られているシリアルナンバーの範囲:101〜109
刻印:生産者およびシリアルナンバー
仕上げ:ホットソルトブルー
グリップパネル:木製。斜めのグルーブ。タイプは同一ではない。
シリアルナンバー刻印:フレームのみ
他にもこまごました資料は存在するが、これが最も新しく、内容的に詳しい資料である。非常に興味深い人物像が浮き彫りにされた日野氏、それに比べれば地味だが堅実で魅力的な人物像が浮かび上がった浜田氏に比べ、これを読んでも稲垣岩吉氏の人物像はほとんど浮かばない。強いて言うならアイデアマンではあったが、強力な8mm弾薬に7.65mmと同じ設計を用いて失格したのに同じものを再び提出したというあたりにやや融通がきかない、それでいて自信を持っている人物像が想像できるが、うすぼんやりとした想像に過ぎないし、これは70歳という高齢のせいもあるかもしれない。いずれにせよ少なくとも開戦時においてピストルデザイナーとしての実力が浜田氏に及ばず、その8mmプロトタイプが量産、実用に耐えないものだったことは間違いなさそうだ。
稲垣氏は他に空気銃でもパテントを取得しており、三八式歩兵銃のボルトを交換して空気銃として使用し、在郷軍人および学生の射撃訓練に役立てるという考案も行ったようだが、これに関しても詳細はよく分からない。
さて、稲垣式拳銃そのものに関してだが、これも残念ながら不明の点が多い。ただ、「稲垣式はリコイルおよびメインスプリングに板バネを使用していた」という説明をよく見るが、これは誤りであると思われる。この誤りの原因になったと思われるのがこのパテント図だ。
この図によればフレームから上方に板バネが2本伸びていて、1本はリコイルスプリング、1本はハンマーとして機能することになっている。ちなみに板バネでハンマーを動かすのではなく板バネ自体がハンマーの役割をするという大胆不敵な設計だ。そしてこのハンマーの役割をする板バネをキャッチ、レットオフする仕組みはどうも九四式に近いようだ。しかし、この設計はこうして作図されている以上パテントとして出願はされたはずだが認められたかどうかは不明であり、少なくともこの構造による量産は行われていない。パテントが認められていたにしても、浜田式でもあったことだが現実に量産された銃がそのとおりの構造になっているとは限らず、過信すると誤りを犯す可能性がある。
なお、板バネを使ったデザインは一見シンプルだが、板バネ自体の製造がコイルスプリングより難しく、またテンション調整はさらに難しいという問題がある。またおそらく発射時の急速な動きのくり返しによって折れるおそれがあり、折れてしまったら銃はまったく使用不能になる。したがって優れたデザインとは言えない。
稲垣式のリコイルスプリングは「日本帝国の拳銃 再考」の記述にあるように2本並列のコイルスプリングであり、スライド後部に組み込まれている。これは複数の分解状態の写真でも確認でき、またその写真にはフレームから上方に伸びた板バネなどは写っていないため、間違いないものと思われる。ただ、そうなると、「イトウ シンキチ」氏の8mmプロトタイプに関する、「却下の理由が貧弱な板バネデザインだった」という証言が分からなくなる。「8mmデザインは、より大きな弾薬に適応させるため全体の寸法が大きくなっていることを除けば、7.65mmモデルと基本的に同じである。」ともされているからだ。
●「イトウ シンキチ」氏の記憶違い。
●実は内蔵ハンマーを板バネで動かしており、そこに問題があった。
●トリガーガードを板バネに使ってその弾性で保持しているシステムのことを指している。
といったことが考えられるが、真相は不明だ。ちなみに板バネを使っているかどうかはともかく、内蔵ハンマーをキャッチ、レットオフするシステムはやはり九四式に近かったのではないかと推測されるが、これもはっきりしないし、主要な弱点のひとつだったとされるセーフティのシステムも不明だ。
稲垣氏がこのリコイルスプリングの方式をとった理由は、後述する分解方法をとるためには通常のようにリコイルスプリングをバレルに巻いたりバレルの真下に配置したりすることができなかったからだ。だが、このデザインによって稲垣式にはある欠点が生まれている。稲垣式の外観をよく見るとあることに気付く。それは全長の割にバレルが短いということだ。
参考として、ストレートブローバックの中型オート各種の全長に対する銃身長のパーセンテージを表にして示す。ちなみに数値は稲垣式と浜田式のみ「日本帝国の拳銃 再考」、他は床井雅美氏の「現代軍用ピストル図鑑」によっている。
モデル名 | 全長(mm) | 銃身長(mm) | 銃身の占める割合(%) |
ブローニングM1910 | 152 | 87 | 57 |
マカロフPM | 160 | 91 | 57 |
ワルサーPPK | 156 | 85 | 54 |
モーゼルHSc | 152 | 86 | 57 |
モーゼルM1934 | 155 | 88 | 57 |
ベレッタM1934 | 149 | 87 | 58 |
SIGザウエルP230 | 168 | 92 | 55 |
浜田式 | 159 | 88 | 55 |
稲垣式 | 165 | 72 | 43 |
ご覧のように通常のデザインでは全長に対する銃身長のパーセンテージは54〜58%とおおよそ一定になっている。ところが稲垣式のみ10%以上数値が小さいことが分かる。同時期に同じような経緯で開発された浜田式と比較すると、全長は6mm長いのに銃身長は16mmも短い。実際のところこのクラスのピストルにおいて銃身が多少長かろうが短かろうが威力や命中精度に決定的な差は生じないだろう。また例えば日野式は独特の構造からこの数値が異常に大きくなるが(ちなみに80%以上)、だからといって優秀な銃とは言えない。しかし他の条件が同じで銃身長が長いものと短いものでは前者の方が原則として望ましいと評価されるのはやむを得ないだろう。また、銃身長は性能面だけでなく、さまざまな弾薬に対する適応性やスライドの引きやすさ等にも影響するようだ。
稲垣式のバレルが短いのは明らかにリコイルスプリングを無理にスライド後部に収めたからだが、それでは稲垣式の分解方法はバレルがやや短くならざるを得ないというデメリットを打ち消すほどのメリットになるのだろうか。
これは実際にパテントが取得された図面だ。やはり構造、形状は実際に量産されたものと大きく異なっているが、分解方法には大きな違いはない。バレルは前方からフレームに差し込まれ、前部はフック状の突起で浮き上がりが抑えられる。今回の製品では補強のため後部にも突起を設けてフレームとかみ合わせたが、実銃にはこれはなく、後部はスライドの存在のみで浮き上がりが抑えられている。一方スライドは、後部はM1910の場合ファイアリングピンが入っている下部が解放されたパイプ状のスペースが、フレーム側のΩ状突起とかみ合うことで浮き上がりが抑えられ、前部はバレルとかみ合うことで浮き上がりが抑えられる。スライドの前進はブリーチ前面がバレル後端に当たることで抑えられ、バレルの前進はトリガーガード上端とかみ合うことで抑えられる。だからトリガーガードを下に抜き取ってしまえばバレルとスライドはともに前方に抜き取れるわけだ。稲垣氏はパテント書類の中で、この発明により分解組み立てが簡単になり、製造も容易になると主張している。
しかしバレルの前進を止めている下からの突起を下降させることでバレル、スライドを前方に抜くというこの方法は、より早く出現しているモーゼルHScの方法と基本的に同じである。違うのはHScは独立した分解ラッチを使い、稲垣式はトリガーガードで分解ラッチを兼用している点くらいだ(言うまでもなくトリガーガードを分解ラッチに使う方法自体はHScよりさらに古いワルサーPPですでに使われている)。稲垣式の場合トリガーガードを分解ラッチに使ったためにバレルを止める位置がどうしても前寄りにならざるを得ず、バレルにリコイルスプリングを巻くことができなくなった。そしてその結果リコイルスプリングがスライド後部に追いやられ、これに圧縮されてバレル自体が通常より短くなってしまったわけだ。HScのように独立した分解ラッチをもっと後方に設け、バレルにリコイルスプリングを巻けば、稲垣式は大筋ノーマルな構造になる。確かにHScの方法よりパーツ点数は減り、製造も容易になると思われ、この点は長所と言えなくもない。しかし8mmプロトタイプでトリガーガードの後部がアクシデントによりフレームから外れることを防ぐために固定ネジが設けられたことを見れば、やはり.32ACPモデルではトリガーガードの固定に問題があったと考えられる。ネジを外さなくては分解できないのはあまりに不便だし、トリガーガードにロック機構を設けたらHScの方法に勝るメリットはほとんどなくなる。
こう考えると、ユニークな稲垣式の分解方法はあまり優れたものではないと思われる。実際、筆者の知る限りこの方法を真似した銃は出現していない。
稲垣式の実用性はどうだったのだろうか。実際の使用例、射撃経験を語った資料は全く見つからず、不明としか言いようがない。リコイルスプリングを無理にスライド後方に押しこんだデザインは作動不確実を招くおそれがありそうだが、これも想像に過ぎない。通常エキストラクターは水平に位置しているが、稲垣式のそれは前部が高くなるように傾斜している。このデザインが何を意図したものだったのか、実際にどういう効果が得られたのか、得られなかったのか、それともデメリットが生じたのか、これも不明だ。12条というきわめて珍しいライフリングにしたのはどういう意図だったのかも不明だ。
結局稲垣式は依然謎に包まれたままの幻のピストルである。