M1877ライトニング 実銃について

 この銃に関し、まずドイツの銃器雑誌「Visier」2005年3月号のレポート内容を紹介します。


稲妻と雷鳴と共に

このコルトブランドの最初のダブルアクションリボルバーは、シングルアクションリボルバーの影に隠れているが、豊かな歴史とバリエーションを持つ。
 
くの有名な人物の最後の言葉は知られているが、他の著名人のそれは、最後の喘鳴にまじって発せられるのがただぼんやりと感じることができるだけである。例えば、1862年に48年の短い、しかし波乱に富んだ人生の後に死んだリボルバー製造業主、サミュエル コルト大佐の場合である。「ともかくダブルアクションは止めておけ。」 彼は死の直前にそうつぶやくことができた。というのは、彼はダブルアクションを装備したリボルバーを一生の間不利としか見ていなかったのである。それは特にこの領域における彼自身の実験が不満足に経過していたからである。個人的なフラストレーションがあり、技術的な失敗作が生まれ、この工場設立者の裁定は彼の社内に雷鳴のようにこだました。ヨーロッパの努力家がすでに長年ダブルアクショントリガーを改良しており、モダンなダブルアクションシステムの基盤が作られていたにもかかわらず(囲み記事参照)、コルトの工場は1877年になって初めてダブルアクション機能原理を持つ自社製リボルバーを発表した。…コルト大佐の死から15年後のことであった。

 この新製品はモデル1877という名称を得たが、その履歴はおそらくより早くからすでに始まっていた。この件に関し、ドイツ人コレクターでありM1877ファンのUwe Dorflein(頑住吉注:「o」はウムラウト)はアメリカのコルト専門家Don Wilkersonの注意を受けてこう述べている。「本当に1877なのか? 21挺からなる最初の供給品は1877年1月1日にロンドンに向かった。つまりこのモデルはすでに1876年に開発され、製造されていたのだ。」 

隆起つきのバーズヘッド
 M1877は、それまでに作られた全てのコルトリボルバーと、そのトリガーメカニズムによってのみ異るわけではなく、グリップ形状によっても異る。というのは、コルトはその回転ピストル(頑住吉注:「Drehpistolen」。リボルバーは狭義にはピストルに含まれないとされますが、厳密好きのドイツ人もときどきこの言葉を使っています)に40年にわたって丸く弧を描くグリップ後部を備えてきたからである(頑住吉注:ストレートに訳そうとするとこうなりますが、これでは分かりませんよね。要するにSAAのようなグリップ形状のことです)。それに対しM1877はバーズヘッド(頑住吉注:「Vogelkopf」。そのまんまです)グリップつきで登場し、その上部には特徴的な突出部があった。これ(頑住吉注:グリップ形状)を度外視すれば、6連発銃であるM1877は本質的には当時のアメリカ軍制式拳銃である、ピースメーカーとして知られる.45口径コルトM1873シングルアクションアーミーの縮小版であるかのような印象を与える。すなわち、例えばM1877の場合もSAAにならってシリンダーのチャンバーにローディングゲートから装填ができる。そしてこれにより、M1873の購入者は慣れる必要がない。M1877リボルバーの一部にも、同様にバレル右にエジェクターが、それに属するケースごとあるからである。

 もっとも、全てにあるわけではない。このコネチカット州ハートフォードの会社(頑住吉注:コルト)は、そのダブルアクションの初物に際し、英語では「エジェクターロッド」として知られるAusstosserを、そのリボルバーがショートバレルのときには断念していた。

バリエーション続々
 コルトの専門家R.L.Wilsonによれば、コルトはM1877を1.5〜10インチまでの13の銃身長で製造した(1インチは2.54cm)。これでは充分でない。コルトはこのリボルバーを銃身長領域4.5、5と3/8、6インチではあるものはエジェクターつき、またあるものはなしで製造した(頑住吉注:後に改造されたものはともかく、製造時点では4.5インチより短い銃身を持つものには全てエジェクターはなく、6インチより長い銃身を持つものには全てエジェクターがあったということでしょうね)。そしていくつもの弾薬仕様があった。大部分は.38ロング、ショートコルト、および.41ロング、ショートコルト仕様で登場した。約200挺の.32、一点もののような.38-40ウィンチェスターおよび.38S&W仕様の両銃はレア品目に該当する。専門取扱い商であるオハイオ州のKittredgeのような会社はM1877に通称を当てはめている。すなわち、.38口径を「ライトニング」(稲妻)と言い、.41口径を「サンダラー」(雷を鳴らすもの)と言っている。だが、アメリカの専門文献が示すように、例えばR.L.WilsonやNorm Flaydermanは今日、「ライトニング モデル オブ 1877」のような名称をシリーズ全体の上位概念として使用している。

 この銃の多様性を口径および銃身長によって(頑住吉注:のみ)分類する人は正しくない。差は仕上げ、サイト、グリップ、刻印にも指摘される。コルトライトニングおよびサンダラーは工場をスタンダードにはブルーおよびケースハードゥンで去った。在庫にはニッケルメッキがあったし、固定注文によって金および銀メッキも購入できた。初期のみ(大体1880〜81年まで)バレルのマズル上に洋銀(頑住吉注:銀の代用となる銅、亜鉛、ニッケルの合金)製フロントサイトが鎮座した銃が生じた。以後はスチール製である。Uwe Dorfleinのような専門家たちは、グリップの違いについて知っている。いわく、「一番最初は粗いチェッカリングのあるワンピースのローズウッドグリップだった。直後に細かいチェッカリングのあるワンピースのローズウッドグリップと、ワンピースの(非常にレアな)グタペルカ(ハードラバー様の)製が登場した。1880年以後はツーピースのグタペルカグリップがスタンダードとして使われた。」 コルトは当然デラックス品にはスムーズまたは彫刻を施した象牙またはパール製グリップも装着した。

刻印
 刻印に取り組む人は、この主題に本格的に深く参入しなくてはならない。
●例えばフレームの刻印。全てのライトニングとサンダラーには3行のパテント日付表示がある。ただし、1892年以後に製造されたものにのみ、その後ろに円の中に刻印された会社のエンブレム、「ランパンコルト」がある。つまり棒立ちになった子馬である。
●例えば口径の表示。一行の「COLT D.A. 41」または「COLT D.A. 38」という形でバレル左に目立つように示されている。Uwe Dorfleinいわく、「このマーキングは1877年からおよそ1889〜91年ごろまではエッチングで行われ、その後は刻印として行われた。この移行ははっきりしておらず、シリアルナンバー領域72000〜80000の間に実施された。」 
●そして例えばバレルのアドレス。コルト工場はバレル上部に常に2行の会社の住所、「COLT‘S Pt. F.A. MFG.Co./HARTFORD.CT.U.S.A.」を刻印していた。ただしその長さはバレルの長さによって決まっていた。3.5インチ以上では刻印の長さは1と1/16インチとなり、これに対しより短いものは3/4インチしかなかった。

 ちなみにこの短い刻印はイギリス向けに供給された銃身長3.5インチ未満のコルトM1877にも見られる。長い銃はアドレスの追加「DEPOT 14.PALL MALL LONDON」を持つ。

 こうした多様性を見れば、コレクターが時として一生涯このリボルバーに取り組むのも驚くには当たらない。これは例えばジョージア出身の薬剤師であるBo Harperにあてはまる。彼は150挺以上のライトニングおよびサンダラーを、それに属する紙箱ごとコレクションした。そしてそれでもなお1あるいはそれ以上の銃が欠けていた(頑住吉注:バリエーションのうち集めきれていないものがある、ということのようです)

金の話をしよう
 その忠実なファンにもかかわらず、コレクターズアイテムとしてのM1877は決して本当にはコルトシングルアクションバリエーションの影から脱することができない。このことはスタンダードバージョンの価格を一瞥すれば示される。例えば最高度に維持された初期のM1873シングルアクションアーミー、別名ピースメーカーは45000〜60000ドルもする。完全にサビを磨き落とした、そしてガタの来たピースメーカーでさえしばしば2000ユーロを越える。これに対し、スタンダードなコルトM1877の事情を見れば、状況はずっといい結果になる(頑住吉注:安いということです)。すなわち、最高度に維持された銃でも2500〜4000ユーロですでに買えるし、明らかに使い古された銃なら当然さらに安くなる(頑住吉注:2005年5月4日のレートで換算すると、「45000〜60000ドル」は約34960〜46614ユーロとなりました)。

コルトの失敗作?
 この価格の差には明白な理由がある。コルトM1877には技術的に「誤った開発」というイメージが伴っている。事実、多くの銃にはメカニズムに故障や作動不良がある。作動という点では、コルトのほぼ全てのシングルアクションリボルバーには、かろうじて入手できるオリジナルも含めてほとんど問題はない。非常に多くが最後に製造されたM1877系よりも50年も古いものであるにもかかわらずである。それゆえ、ライトニングのレプリカも存在しない。ただしウベルティのような会社は、すでにショートバレルのピースメーカーコピーに、M1877に特徴的なバードヘッドグリップをつけている。これは19世紀には存在しなかったものである。

 もっとも、M1877のメカニズムはしばしば主張されるほど不安定であるとは言えない。さもなければコルトはこのリボルバーをただちにマーケットから引っ込めていただろう。そうする代わりにこの銃の生産は1909年まで続き、166849挺という相当な数が世に出た。シングルアクションアーミーは匹敵する期間に261000挺がコルトの工場を離れた。

 その上、M1877の開発された時代にはこの作動原理はもはや新しいものではなかった。コルトの専門家R.L.Wilsonが詳述しているように、当時DAシステムはとっくに皆に知られた共有財産だった。このことは、M1877を担当したコルトの技術者William MasonがこのDAメカニズムをめぐってパテントを取得していないという事実が証明している。この銃に刻印されているパテント日付は主としてローディングゲートのフタとエジェクターをめぐる技術的特徴に関係するものである。アメリカン エキスプレス カンパニーが1200挺以上のM1877リボルバーを入手したことも、この銃の品質を物語っている。コレクターはこれをグリップ後部の刻印「AM.EX.CO.」で見分けている(頑住吉注:ちょっと驚いて調べてみたんですが、公式サイトによるとこの会社は1850年にニューヨークで創業したそうです。多額の現金を扱う会社だから自衛のための即応性の高いハンドガンが多数必要だったということでしょうか)。その上、この銃は多数がメキシコの役所に送られた。バレルの文字列「POLICIA DEL DISTRITO FEDERAL MINISTERIO DE GOBERNACION」が示すようにである。当然、このダブルアクションコルトM1877はしばしば稲妻を走らせ、雷鳴を轟かせもした(頑住吉注:ライトニング、サンダラーという名称にひっかけた表現ですが、要するに実戦で頻繁に使用もされた、したがって故障ばかりでどうにもならなかったということはないはずだ、ということです)。

ワイルドウェストにて
 開拓民の民話の中で「クイーン オブ ザ バンディッツ」として知られるMyra Belle Starrは1880年代の初頭に、彼の銃とともに1枚の写真に撮られているが、彼女は3.5インチ銃身つきコルトライトニングも持って写っている(頑住吉注:私はこの人知らなかったんですが、検索してみると非常に有名な人みたいです。不鮮明でよく分かりませんがここの写真のことでしょうか。 http://www.panhistoria.com/Stacks/Novels/Character_Homes/home.php?CharID=5361)。

 ほぼ同じ頃ニューメキシコで1人の若者が死んだ。彼の名はHenry McCarty、またの名をWilliam Bonney、またの名をKid Antrim、またの名をビリー ザ キッドと言った。保安官パトリック フロイド 「パット」 ギャレットがニューメキシコのLatinosで「El Chivato」として知られるこの追いはぎをFort Summerで射殺したとき、キッドの手には.41口径のサンダラーが見つかった。ちなみに、ギャレットも1挺のM1877を所有していた。キッドの死からまる20年後、彼は租税徴収者としてエルパソに赴いた。この機会にニューメキシコ出身の友人が彼に、純銀製グリップが付属した、エングレーブ、金メッキされた銃をプレゼントしたのである。

 ビリー ザ キッド自身が持っていたコルトサンダラーも貴重なものになることになった。長年カンサス州BerryvilleのSander‘sミュージアムには、1挺の3インチバレルを装備したエジェクターなしのM1877が収められていて、そのアイボリーグリップには「Billy」の名が彫刻されているのが見られた。この銃が本当にキッドの持ち物だったのかは、たぶんManituのみが知っている(頑住吉注:この単語は辞書に載っていませんが、検索したところネイティブアメリカンの言葉で「神の住むところ」という意味のようです。普通ならドイツ人だってそんなの知らんだろうと思いますが、どうもこの言葉をタイトルにした映画がドイツで大ヒットしており、説明不要ということらしいです。要するに「神のみぞ知る」ということですね)。少なくとも、ビリー ザ キッドがコルト初のダブルアクションリボルバーを愛用していたことはハリウッドまで広まった。そして1988年、映画「Young Guns」で、映画用レンタル銃に特殊化した会社Stembridge Gun Rentalsの小道具係は、キッドを演じた俳優エミリオ エステべス用に多数のオリジナルコルトM1877を用意した。その中には1挺の6インチバレル、エジェクター、ハードラバーグリップの付属したサンダラーがあった。

 次に有名なコルト初のDAシリーズのファンは、Frederic Remingtonという。Desperado(頑住吉注:響きはスペイン語っぽいですが、ドイツ語の辞書にも「無法者」という意味が載っていました)ではなく、1900年頃のアメリカで最も有名なカウボーイや騎兵をテーマとした画家である。レミントンは若い頃長期間にわたって西部で可能な限り全ての職業についた。そのとき彼はこの小型のコルトに対する愛好をも高め、多くの油絵やデッサンにおいて牧人やスカウトのホルスターに収めていた。そしてR.L.Wilsonが発見したように、彼は1895年3月にシリアルナンバー98951を持つ1挺のサンダラーを入手した(頑住吉注:検索したところ、この人は1861年生まれ、1909年没ということです。M1877生産中止と同じ年にかなり若くして死んでます)。

 当時、「ピストル名士」の中の最大のM1877ファンの人生は終わりに傾いていた。これはワイルドウェストで最も戦慄すべき記録を樹立した人物、テキサス人John Wesley 「Wes」 Hardinのことである。ギャング史によれば彼の道は44の死体によって舗装されていた(頑住吉注:変な言い回しですが、要するに生涯ガンファイトで44人殺したということでしょう)。「メキシコ人とインディアンは計算に入れていない」 1895年、背後から発射された1発の.45口径弾がこの大きなゲームを終わらせるまでに。このメソジスト説教者の息子はリッチにデコレーションされたリボルバーを好んだが、その中には1挺のM1877ライトニングもあった。弁護士として働いていたHardinは、彼の親類である「Killin Jim」として悪名高いJames Millerを裁判の際に弁護した後でこの.38口径リボルバーを手に入れた。Millerが敗訴したにもかかわらず。それでも彼はHardinに高価な時計と、エングレーブされ、パールグリップの付属したライトニングをプレゼントした。彼がほんの2、3ヵ月後に裁判の相手を散弾銃で射殺する前にである。

ガンマンのための3挺のコルト
 ただし、シリアルナンバー84304のついたHardinのこのライトニングは、彼の持つ1877系シリーズのうちの1挺のリボルバーにすぎなかった。彼はその上2挺のニッケルメッキされた.41口径サンダラーを持っていた。シリアルナンバーはそれぞれ68837、73728だった。前者はアイボリーグリップと4.5インチバレルつきで、後者は5インチバレル、パールグリップつきでエングレーブが施されていた。ちなみに前者はカリフォルニア州のGene Autry Western Heritage博物館に、同様にHardinが所持していたコルトピースメーカーとともに収容されている。もっとも、Hardinはこれらで長いこと楽しんだわけではない。このことは伝記作家Robert McNellisによってまる30年前に確認されている。すなわち、彼の調査によれば、コルトは1889年にこのエングレーブが施されたサンダラーを、14のいろいろなリボルバーとともに、テキサスのエルパソに所在する銃器商Ketelson&Digetauに送っている。ここからこの6連発銃はArthur R. Kline& Co.社に引き渡され、1895年にHardinに販売された(頑住吉注:約6年も売れなかったというわけでしょうね)。そしてこの翌月、エルパソのゲームサロンでダイス遊びをしていたとき、いかさまをされていると感じ、彼はこのサンダラーをさっと抜き、ポットから金を取った。直後にHardinは警察官William TenEyckに直面し、この銃は押収され、そして後にゲームサロンのオーナーに売却された(頑住吉注:要するにこの銃は1ヶ月かそこらしかHardinの手元にはなかったということです)。

 だが、Wes HardinはこのDAコルトをいかがわしい場面のみに使用したわけではない。ワイルドウェストの専門家Phil Spangenbergerは、彼がこの銃を使って曲芸をすることを好んだということを突き止めた。彼はこのコルトを、グリップを下にしてズボンのポケットに突っ込み、バレルが上にのぞいて見えるようにした。彼は足を開いて立ち、マズルをつかんでこのリボルバーを引き抜き、空中で回転させ、グリップを受け止め、発射した。Hardinはこれで命中させることもできることを、何歩も離れたポーカーカードに穴を開けることで証明した。これにサインしてファンに差し出すために。

いつかこれを撃てるか?
 正常化したメカニズムと、妥当な試射を前提として、サンダラーまたはライトニングからいくらかの黒色火薬による稲妻を走らせることに反対はしない。しかしアメリカのウェスタン銃器の専門家、Mike Venturinoはこれに関し、この銃は「ヒールタイプ弾」を使った弾薬用に設計されているということを指摘している。すなわち、ひっこめられたかかと部によって薬莢に差し込まれており、一方その上にある弾頭部の直径は、たいてい薬莢の口より大きい結果になるということだ。それに対し、今日の弾丸の場合は外径は常に薬莢のそれより小さい。(頑住吉注:要するにこういうことです。

左がライトニングの弾薬で、右が通常の弾薬です)。Venturinoいわく、「.38口径コルトの額面上のライフリングの山部の直径は.357インチ、.41口径コルトのそれは.403インチである」。今日.38口径弾薬用に普通である直径.358インチの弾丸は、ライトニングのバレル内によりどころを見つけない。というのは、このバレルは後部が大きく中空になった柔らかい鉛弾用だからである。すなわち、バレル内のガス圧によって広がり、弾丸の誘導を引き起こすようになっている(頑住吉注:いまいち分かりにくいんですが、この銃の「額面上のライフリングの山部の直径」は.357で、現在普通に使われている.38口径弾は.358なのでギリギリライフリングにかむように思われるが、実はバレル内径は拡張する弾丸用に少し広くなっているのでかまない、ということでしょうか)。当然、祖先のスタイルで自分で鋳造した「ヒールタイプ弾」でも成功する。

 そしてアメリカの専門家たちのレポートを信じるなら、良好なM1877の射撃フィーリングを表現するための言葉は一言だそうである。すなわち、「Fun」。

トリガーをめぐって(囲み記事)
 サミュエル コルトは彼のリボルバーを常にシングルアクショ原理でセッティングした。だからトリガーは1つだけの使命を持った。すなわち、発射を引き起こすことである。一方シリンダーは親指がハンマーを起こしたときに回転した。こうしたセパレートの動きのため、ドイツ語圏の専門家たちはシングルアクションリボルバーを「Hahnspanner」(頑住吉注:英語に直訳すれば「ハンマーコッカー」でしょうか)と呼んでいる。この対立物は「Spannabzug」(頑住吉注:「コックトリガー」でしょうか)と言う。これはシリンダーの回転からハンマーのコックを経て発射を引き起こすことまで全てを処理する。この原理は19世紀半ばには非常によく知られていた。アメリカのEthan Allen、ベルギーのA.Mariette(頑住吉注:アメリカ・イギリス系とベルギー・フランス系、ペッパーボックスの代表2機種を作った2人です)、イギリスのCharles LancasterRobert Adams(頑住吉注:後者は初期コルトリボルバーの強敵となり、イギリスでは勝利したアダムスリボルバーを作った人ですが、前者は知らなかったので検索してみました。こんなのを作った人らしいです。 http://www.horstheld.com/0-makers-L.htm )のような設計者たちはこれをペッパーボックスあるいは通常リボルバー用に使用した。アダムスは彼の銃に装備したこの発火機構を「セルフコッキング ロック」と言った。だが、コルトは1842年および1858年における多くの実験の後、セルフコッカーを却下した。彼はその理由をすでに1851年にロンドンで、技術者の団体「Institution of Civil Engineers」を前にした講演で解説していた。コルトによればハンマーコッカーまたはセルフコッカーリボルバーはメインスプリングの強い力を必要とし、正確なサイティングを妨げる。その上セーフティレスト(頑住吉注:セーフティコック)がなく、1発の発射を起こさせるためにはハンマーへの一撃で足りる。だが1855年、イギリスのFrederick Beaumont中尉がその両方の欠陥を、複数のレストを持つ安定したコックトリガーによって取り除いた。すなわち、この銃はコルト風に手動コックすることもできるようになり、この結果2つのトリガー方式の選択を提供した。これによりBeaumontはモダンなダブルアクションリボルバー発火方式の先駆者となり、後にベルギーのJules Chaineux、フランスのJean ChamelotおよびHenri−Gustave Delvigne、スイスのRudolf Schmidtによって改良された。


 天才というものは、偉大な発明を成し遂げる一方自信過剰で他人の発明した優れたものを取り入れることを頑なに嫌う一面を持つことが往々にしてあるようです。他のアメリカの歴史的大発明家の例を挙げるなら、例えばエジソンが頑なに交流電流を危険なものとして嫌い、攻撃したこと、ライト兄弟がオリジナルな航空機の構造にこだわりすぎたため基本形以上の傑作をその後作ることができずに結局時代に取り残されたことなどの事実があります。同様に、現代リボルバーの基礎を築いたコルトの業績は実に偉大なものですが、人格や手法にやや問題があったのも事実のようです。

 コルトが初めてリボルバーを発売したのは1836年のことであり、一方「Visier」の記事でも例に挙げられているイーサン・アレンはその翌年にはダブルアクションメカのパテントを取得し、ダブルアクションペッパーボックス(多銃身回転式拳銃)を発売しています。コルトリボルバーは初期には非常に高価だったこともあって普及するのに時間を要しました。一方アレンのペッパーボックスは安価であることを最大の武器にして初期コルトリボルバーの最強のライバルとなり、少なくとも発売から10年以上にわたってコルトリボルバーよりはるかに有名で、人気があり、商業的に成功していました。したがってダブルアクション回転式拳銃自体はM1877発売のはるかに前から周知のものだったわけです。またイギリスではアダムスのダブルアクションパーカッションリボルバーがコルトとの競争に勝利したことが示すように、ヨーロッパではダブルアクションが主流でさえありました。コルトはアレンやアダムスとの激しい戦いの中でシングルアクションリボルバーに磨きをかけ、言うまでもなく後には高い評価を得ています。当時のコルトリボルバーと大筋同じ構造の銃器は現在でも生産され、実戦目的にではないものの多くの銃器愛好家に求められています。コルトが後の銃器発達史に与えた影響は明らかにアレンやアダムスのそれよりはるかに大きなものです。コルトの道は決して大きく間違ってはいませんでしたが、彼らへの敵対心からダブルアクションを必要以上に嫌った彼の態度は社のため、また銃器の進歩のためにプラスにはならなかったと考えられます。

 M1877は1876年、当時コルト社の設計スタッフの中心人物だったWilliam Masonが開発したもので、偉大な創業者コルトの「ともかくダブルアクションは止めておけ」という遺言は15年も社を縛り続けたことになります。この銃のダブルアクションメカは、現在では一部の低価格製品などに残存しているだけですが当時はむしろ主流だった、トリガーに可動パーツが付属し、これがハンマーを押し上げてコックするものでした。言うまでもありませんが現在ではトリガーがハンマーに付属した可動パーツを押し上げるメカが主流です。ちなみにアダムスリボルバーは前者であり、アレンのペッパーボックスはレイアウトは大きく異なるものの後者に近いものでした。「Visier」はM1877のメカが、「確かに問題があったものの言われるほどではない」、とする論拠の1つとして、「当時ダブルアクションはすでにプルーフされた存在だった」ことを挙げていますが、私はこれはおかしいと思います。M1877のメカニズム上の問題はダブルアクションメカニズムそのものにあるのではないと考えられるからです。

 M1877の他のリボルバーと最も異なる特徴は、シリンダーストップのデザインです。言うまでもなく通常のリボルバーにはシリンダー側面にノッチがあり、ここにシリンダーストップがはまってシリンダーを止めるようになっています。これは他ならぬコルトによるデザインであり、M1877以外の全てのコルトリボルバーはこうなっているはずです。コルト以外でもシリンダー側面にノッチを持たないリボルバーはM1877以外にはウェブリー・フォースベリーやモーゼル1878などジグザグミゾによってシリンダーを回転させ、同じミゾによって停止もさせるリボルバーくらいでしょう。ところがWilliam Masonは何を考えたかノッチをシリンダー後部に設けました。

 シリンダー後部にノッチを設けること自体は新しい発想ではありません。リボルバーでこそ珍しいものの、アレンのペッパーボックスがそういう構造だったように、これはペッパーボックスにおいては珍しい方法ではなく、信頼性にも大きな問題はなかったようです。ただし、これをメタリックカートリッジ式リボルバーに応用した場合、大きな問題が生じました。

 M1877のシリンダーは、リム部がシリンダー内に収まるカウンターボアードにはなっていません。シリンダーストップはリムの厚み分大きく前進しないとシリンダーに到達できないだけでなく、前進が早すぎるとシリンダーストップがリムに当たってシリンダーを止めてしまい、また前の弾薬のリムがある間は前進できず、過ぎたら間髪いれずに前進しないとシリンダーを止めそこなうというものになってしまいました。

 単純化してイラストにするとこんな感じです。青がシリンダー、黄色がリム、空色がフレーム、赤がシリンダーストップです。どう考えてもやや無理のある方法という気がします。現存する多くの銃が作動不良を抱えているというのはここに原因があると考えられます。「COLT FIREARMS」(James E.Serven著・アメリカ)という参考資料は、この銃に関するコメントとして、「(このシステムは)シリンダー回転の自由度がより高く、ハンドの耐久性は進歩していると主張した。これはこの有利さを持つ唯一のリボルバーであることを意味した。しかしこのリボルバーはメカニズム的に理想からは程遠かった。このコルトのうち1挺を手にした人は誰でも、メカニズムが複雑すぎ、調整がデリケートすぎると公言するだろう。」旨記述しています。また、「The Gun Digest Book of FIREARMS ASSEMBLY/DISASSEMBLY PartU:Revolvers 2nd Edition」(J.B.Wood著・アメリカ)という参考資料には、「このリボルバーは、おそらくかつて案出された中で最悪のダブルアクションリボルバーであるといういかがわしい勲章を与えられている。正しく作動している『ライトニング』は稀な例外である」としています。当時はともかく、長い年月が経過したM1877はまともに動かないものが多いということです。このシステムがダメだったことは、この1作のみで放棄されたことが証明していると言えるでしょう。

 前掲の「COLT FIREARMS」によれば、この銃は1877年1月1日に初めてコルト社による広告が行われたとされ、「Visier」の記述とも合わせ、1876年のうちには開発が終了し、生産も始まっていたと考えられます。「Visier」の記述のように、生産された総数は166849挺にもなり、これは同時期に生産されたSAAの6割以上の数ですから、意外なほど両者の数には差がなかったことになります。まともに動かないものが多く(今動いていてもいつ動かなくなるか不安)、イメージが悪い上、なまじ多数が生産されたため、コレクターズアイテムとしての価値が低いわけです。メカニズムに問題があるからこそ実銃レプリカもかつて生産されたことがなく、国内でも製品としてモデルアップされたことはないわけです。おそらく今後モデルアップされる可能性も限りなく低いでしょう。今回購入された方にとっては貴重なコレクションのひとつになることと思います。


 これは製品に付属した内容ほぼそのままですが、その後判明したことなどを追加しておきます。

 まず、このシステムを使用していたのはM1877だけとしましたが、M1878も基本的に同一のメカだったようです。ただ、この銃に関しては詳しい史料が少なく、不明の点が多く残っています。ちなみに不充分ながら「知識の断片」コーナーの「コルトM1878シェリフスモデル」の項目にも情報があります。

 私は当時コルトによる後のリボルバーに与えた影響をやや過大評価していたようです。「知識の断片」コーナーの「Faustfeuerwaffen」のうち「ハンマーに関節結合されたダブルアクションシアを持つダブルアクション銃の発達」の項目にあるように、現代リボルバーのトリガーメカニズムのルーツは明らかにベルギー製ピンファイアリボルバーにあり、これはM1877よりはるかに古いものです。M1877のメカは他社に遅れてダブルアクションリボルバーを世に出すにあたって独自色を盛り込んだが失敗し、放棄されただけのものととらえるべきもののようです。

 










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