1.8 ニードルガン用およびセルフパッキング一体弾薬

 すでにマッチロックや後のホイールロックの全盛期、そしてフリントロックの時代に、後装ライフルや時には後装ピストルが作られた。その長所は決定的に速い発射速度にあり、欠点は高いコストと閉鎖機構におけるガス損失だった。特にハンティングおよび軍用目的にはその速い連射に関心が持たれ、その結果欠点にもかかわらず再三にわたって後装銃が開発され、そして製造された。時には部隊に支給さえされた(それが一時のことだけだったにしても)。だが、後装銃のブレイクに力を貸すためには、製造技術や点火システムにおける進歩がさらに行われねばならなかった。

 19世紀前半には当時新しかったパーカッション点火を使った一連の後装構造が知られている。だが、新しい点火物質によるこの点火方式の発達は、まだ転換期の糸口を開くことのできる段階ではなかった。この中で、長年St. Etienneで働いていたスイス人技術者J.S.Paulyの弾薬は実に本質的進歩をもたらした。すでに1808年にPaulyは総体として装填された弾薬を作っていた(頑住吉注:要するにコンプリートなものとしてカートリッジ化された弾薬ということです)。図1-16a)はPaulyが1812年にフランスにおけるパテント、ナンバー843内で描写した弾薬の原理を示している。「木、金属、あるいは他の適したマテリアル」製の弾薬底部(3)はその本質的構成部分である。この弾薬底部はリムを持ち、中央に貫通した穴を備えている。これを通って点火のための火が火薬(1)に点火することができる。打撃に敏感な点火薬(5)は深くなった部分の中に位置し、外に貼り付けた紙で保持される。弾薬底部の円筒状部分のまわりには紙(4)が巻かれ、あたかも薬莢の側壁部分を形作り、火薬(1)と弾丸(2)を弾薬底部に結束している。

 b)はPaulyのピストル弾薬をを示している。これにおいてはすでに金属製の完全な薬莢(6)があり、弾丸(2)は薬莢のマズル部の摩擦によって保持された。この弾薬では閉鎖機構における気密はまだブリーチ前面と弾薬後部の球状表面の正確なフィッティングによって達成されていた。1811年における彼のイギリスパテント、ナンバー4026の中で、Paulyは彼の弾薬をさらに発展させていた。閉鎖機構の密閉の困難を克服するため、Paulyはこの弾薬において、「鉛、銅、あるいは他の、発射薬の爆発力に屈する展性の物質製の」薬莢底部を使用した。これによりセルフパッキング薬莢が発明されたことになる。その原理は今日までハンドガン用弾薬において唯一のものとして使用されている。‥‥ときおりの、そしてこれまで成功していないケースレス弾薬の試みを除外すればである。

 
図1-16a) Paulyの弾薬。これでは火薬(1)、弾丸(2)、弾薬底部(3)が紙(4)によって結束されている。(5)は点火薬。(頑住吉注:弾薬底部の円筒部分に紙を巻いて上方向への延長部のような形にし、そこに発射薬を流し込み、弾丸を乗せて糸のようなもので縛ってあります。薬莢の大部分は燃えてしまい、底部のみ取り除くという形式はずっと後に小火器のケースレス化の一環で試みられたり、戦車砲で使われたりしているようです。
b) 真鍮薬莢(6)を持つPaulyの全金属弾薬。弾丸(2)はこの中に摩擦によって保持されている。(頑住吉注:単に圧入されているということです。薬莢底部は球面状になっていて、圧力によってブリーチ前面に押さえつけられてガスを封じるようになっています。薬莢のボディー部は非常に厚く、内圧で膨らんでチャンバー内に張り付き、ガスを封じるセルフパッキング機能はありません。)

 Paulyのアイデアは時代をはるかに先んじるものだったが、彼はその弾薬の高い価格のため世間に価値を認めさせることはできなかった。

 だが、ドイツのライフル工、ニコラウス フォン ドライゼ(頑住吉注:Nikolaus von Dreyse)は彼の一体弾薬およびシリンダー閉鎖機構(頑住吉注:ボルトアクション)によって満足できる解決法を示すことに成功した。これは(頑住吉注:時代の先を行きすぎたPaulyのそれと違って)経済的、そして製造技術的実情に合っていた。ドライゼの一体弾薬(図1-17bを見よ)は紙製弾薬であり、火薬(1)、弾丸(2)、ピストン(4 頑住吉注:原文では「Treibspiegel」=「駆りたて面」といった感じです)、点火薬(5)が一体としてまとめられている。点火薬はピストン後部の深くなった部分の中にあった。銃の装填のためにはボルトを開き、弾丸付きの弾薬をバレルに前方に向けて押し込み、ボルトを閉じる。紙製弾薬はセルフパッキング効果を持たないので、良好に設計されたドライゼのシリンダー閉鎖機構でさえ気密は完全に満足できないものだった。点火は長い点火針によって引き起こされた。この点火針はボルト内に収納され、レットオフ後紙製弾薬に穴を開け、点火薬に突き当たった。1841年に点火針小銃はプロシア陸軍に採用された。点火針ピストル(モデルM1856)、点火針リボルバー(1850年)もドライゼの作業場から生まれた。こうした新しい銃の、当時普及していた前装パーカッションライフルに対する優越は相当なもので、1866年におけるオーストリアに対するプロシアの勝利にかなりのシェアを持った(頑住吉注:ドライゼのニードルガンがいわゆる普墺戦争における大きな勝因のひとつだったというわけです)。

図1-17b (頑住吉注:これは以前「フランツ フォン ドライゼの知られざる業績」の項目でイラスト化したものの流用です。。ちなみに1-17aはミニエー弾の図で、前回レプリカの写真をお見せしたので省略します。抜けている「3」は初期のミニエー弾で後部のホロー内に入れられていた薄板製の「キュロット」に振られている番号です)

 しかし実用に役立つ、信頼性の高い後装銃への道における決定的ステップは、特別な閉鎖機構の開発ではなく、金属製弾薬の開発だった。これは点火薬、発射薬、弾丸を一体の中にまとめたドライゼの紙製弾薬のようなものだが、それを越えて、金属薬莢によってボルトとバレルの間の気密を引き受けるものだった。

 Pauly以後における気密の機能を引き受ける最初の成功した弾薬は、Lefaucheuxによって1835年に発明されたピンファイア弾薬(頑住吉注:「Stiftfeuerpatrone」。そのまんまです)である(図7-3を見よ 頑住吉注:図のナンバーが飛んでいるのはずっと後の弾薬に関する章の図だからです)。この弾薬は広く普及し、ハンティングライフル、ピストル、リボルバーがこの弾薬用に作られた。最初のLefaucheux弾薬は紙製薬莢を伴う真鍮製底部を持ったが、1850年以後全金属製薬莢つきとなった。プライマーは薬莢内に位置し、1本のピンによって点火された。このピンは薬莢を貫通してプライマー内部にまで突き出ていた。ピン上へのハンマーの打撃が点火薬を爆発に導いた。

図7-3 ピンファイア弾薬の断面(Lefaucheux 9mm)。1.弾丸、2.薬莢、3.火薬スペース、4.インサート、5.点火薬入りプライマー、6.点火ピン(頑住吉注:薬莢が現在のものよりはるかに単純に作れそうなものであること、弾丸がミニエーのように後部が広がって気密する機能を狙ったものであることなどが分かります。言うまでもなく点火ピンを何かに強くぶつければ暴発するおそれがあり、これが大きな欠点とされました)。

 我々はモダンなセンターファイア弾薬の本質的特徴をMorseの弾薬(1856および58年)の中に見出す。彼の弾薬では弾薬底部中央内部にあるプライマーに、ワイヤー製金床が向かい合って位置している(頑住吉注:

例えばモデルガンにおいてカート内発火方式のリボルバーでは、ほぼこんな構造になっていることが多くて、黄色の真鍮製パーツのうち上のパーツはカートと一体で固定され、下のパーツが打撃によって上昇してキャップ火薬の火薬部分を上のパーツに叩きつけて発火させますよね。実銃のカートリッジではキャップ火薬と違ってプライマー自体が金属製ですから下のパーツは不要で、面でなく点の打撃が行われますが、原理的にはほとんど同じです。「金床」=「Amboss」というのは上のパーツ、つまり打撃によって点火薬が叩きつけられる部分を指しています。)。この構造はアメリカ人Berdanによってさらに改良された。これは金床を弾薬底部の一部として形成し(図7-5a)、プライマーは外部に位置している。1868年にはUnion Metallic Cartridge Companyがベルダンプライマーを持つ弾薬の製造を引き受けた。

 今日特にアメリカで普及している他の点火方法は、イギリスの大佐Boxerに由来する(1867年)。ボクサーは金床をプライマー内に設置した(図7-5b)。

図7-5 対応する薬莢内のベルダンおよびボクサープライマーの横断面。1.点火薬、2.金床、3.点火経路、4.火薬スペース

 両弾薬はプライマーが弾薬底部に設置されているので、浅い鉢がバレルとボルトの気密を(薬莢とボルトとの間の気密を薬莢が行っているのと同じ方法で)引き受けている(頑住吉注:非常に悩んだんですが、「金属薬莢は発射時に火薬ガスによる内圧で膨張し、チャンバー内に強く張り付いてバレル内部のガスのパッキングを行う。一方プライマーは弾薬底部の穴に圧入されているが、発射時薬莢内部のガスは薬莢とプライマーの隙間からも逃げようとする。プライマーは薬莢がバレル内でそうするのと同じように薬莢底部内で膨張して気密を行う。」ということだと思われます。「浅い鉢」というのはプライマーの金属製アウターを指しています)。

 リムファイア弾薬はイギリス人HansonとGoldenに由来する。これは1841年にパテント内で記述されたものである。この弾薬ではプライマー上に球が設置されていた。発射薬としては点火薬だけが役立った。大きな普及のため、この弾薬はパリ市民のライフル工Flobertによるさらに改良された形で登場した。彼は1849年にこの弾薬でフランスパテントを取得した。Flobertは彼の弾薬をターゲットシューティングに使われるライトなピストルおよびリボルバー用に作った。この銃には弾薬同様今日も彼の名が使われている(頑住吉注 http://www.outlandsales.com/22data.html ここに画像があります。最初のリムファイア弾薬は左端のBBキャップに近いものだったということです。ここに挙げられているBBキャップはFlobertのものとされていますが、記述からしてほぼ同じものと考えられます。Flobertによる改良された形というのは左から2番目のCBキャップのことでしょう)。

 点火薬が薬莢の後部のリム内に位置したのは、彼の遅い時期の型になって初めてである。ファイアリングピンの打撃がこのリムに加えられ、リムはチャンバー上で支えられていた。これにより信頼性の高い点火が保証された。

 1857年にはアメリカ人D.B.Wesson(頑住吉注:S&W創立者の1人)が今日まで生き続けている弾薬をデザインした。WessonはFlobertのリムファイア弾薬の薬莢を10.2mmに延長し、点火薬に加えて0.2gの黒色火薬を発射薬として加えた。鉛弾は約1.8gの重量、5.7mmの直径を持った(そして今も持っている)。我々はこの弾薬を、.22クルツ(頑住吉注:ショート)という名称で知っている。.22ロングライフル弾薬は1887年にJ.Stevens Arms & Tool Co.によってマーケットに持ち込まれた。その薬莢は15.4mmに延長されていた。弾丸直径は約5.7mmで、弾丸重量は約2.6gだった。この弾薬にはまず最初には0.32gの黒色火薬、後にはニトロパウダー(頑住吉注:無煙火薬)がロードされた。この弾薬は世界中で比類のない大躍進を始めた。今日この弾薬は無数の「禁猟期ライフル」(頑住吉注:意味不明です)、ポケットピストル、ポケットリボルバー、ベストのスポーツ銃に使われている(頑住吉注:「.22lfB」は.22LRのドイツ式表記ですが何の略か不明でした。ここの記述で初めて「lang fur Buchsen」・2つの「u」はウムラウト・と分かりました。英語に直訳すれば「ロング フォー ライフル」です。ドイツ語では名詞の頭が大文字になるのでBだけ大文字なわけです。ちなみに「Buchsen」は対戦車ライフル=「パンツァービュクゼ」にも使われる単語ですが、ゲベールとの意味の違いがいまいち不明のままです)。

 5.6mm口径のリムファイア弾薬とならんで、一連の他の口径も誕生した。例えば.32ショート、.32ロング、.380エクストラショート、.38ショート、.38ロング、.41ショート、.44ショートである。この多くの弾薬用のリボルバーが生産されたし、.41ショート用としてはレミントンダブルデリンジャー、コルトデリンジャーNo.3が有名である。

 新しい時代ではかなりの成績を持つ2つのリムファイア弾薬が開発された。1959年にはウィンチェスターが.22WMR(ウィンチェスターマグナムリムファイア)弾薬をマーケットに持ち込んだ。ただちにS&Wおよびルガーはこれ用のリボルバーを製造した。薬莢の長さは約27mm(これに対し.22lfBは約16mm)、弾丸直径は5.72mmである。その後の1970年にはレミントン製の似た弾薬、5mmRMR(レミントンマグナムリムファイア)が続いた。この弾薬の薬莢は約26mmで、弾丸直径は5.21mmである。

 いろいろなセンターファイア弾薬の数も同様に膨大である。特にセルフローディングピストルの発達が始まった頃は常に新しいものが誕生した。というのは、いくつかのタイプが普及する前に設計者はピストルをしばしば弾薬と同時に設計したのである。この時代はすでにモダンな火薬と製造方法が使えるものとして存在していたので、こうした弾薬は弾道学的成績および構造に関して実際上パーフェクトで、その使用目的にしばしば良好に適合した。すでに当時ホローポイント、フルメタルジャケット、セミジャケット、ワッドカッター弾が存在した。もし誰かが.44レミントンマグナムの成績を持つ弾薬と銃を必要と考えても、1900年においては製造手段が欠けていたはずである。

 事実として達成された成績も申し分ないものだった。すなわち、C96ピストルから発射された9mmモーゼル弾薬の弾丸エネルギーは、100mmの銃身長を持つリボルバーから発射された.357マグナムとほぼ同じくらい大きい。今日使われているリボルバー弾薬の多くは、マグナム弾薬と小口径高初速弾薬を除けば実に高齢である。

 下の表はセルフローディングピストルおよびリボルバー用の、広く普及した古い、または特に興味深いセンターファイア弾薬の概観である。さらなる記述は弾薬に関する章にある。

ピストル弾薬

弾薬 発生または採用の年
6.35mmブローニング 1905
7.63mmモーゼル 1893
7.65mmブローニング 1899
7.65mmパラベラム 1899
8mmナンブ 1904(?)
9mmクルツ 1908
9mmパラベラム 1902
9mmモーゼル 1908
9mmステアー 1910
.38コルトスーパーオートマチック 1929
9mmマカロフ 1953
9mmウルトラ(9mmx18) 1974(?)※
9mmウィンチェスターマグナム 1978
.45ACP 1905
.45ウィンチェスターマグナム 1978

※この弾薬の発生は1936年にさかのぼる。ワルサーは当時PPに似たピストルをこの弾薬用に、そしてGecoが約20,000発の弾薬を試験用に製造した。 頑住吉注:なら1936年にすりゃよさそうなもんですが、当時はテストのみで終わり、ワルサーPPスーパー用として実際に使用され始めたのが1974年なので、事実上は1974年登場と見ていいだろうといったニュアンスでしょう。

リボルバー弾薬

7.62mmナガン(ロシア) 1895
8mmGasser 1898(?)
8mmLebel 1892
.32S&W 1878
.32S&Wロング 1896
.32ウィンチェスター(.32-20) 1882
.38S&W 1876
.38S&Wスペシャル 1902
.357マグナム 1935
.41マグナム 1964
10.6mmドイツ帝国リボルバー 1879
.44S&Wスペシャル 1907
.44マグナム 1955
.45ロングコルト 1873
.22レミントンジェット 1961
.221レミントンファイアボール 1963
.256ウィンチェスターマグナム 1961


 図1-18はヨーロッパおよび北アメリカにおける点火システムの開発と使用をまとめたものである。はるか以前の発明の年代推定はすでに不確かである。さらに、特定の点火システムを持つ銃が使われなくなった多くの時点についても不確かである。前産業時代においていろいろな実用価値のさまざまなシステムが長期間同時に存在して使用されたことは確かである。スポーツ(頑住吉注:この場合競技)目的に新たにフリントロックあるいはパーカッション点火方式を持つ銃を使用することは考慮に値しない。それらはおそらく一部は制限的銃器立法の影響だろうし、静かな時間経過に対するノスタルジックな意識に起因するものである。

点火方法の発達に関する表による概観 (頑住吉注:本では長さの異なる平行線による表ですが、簡単にアレンジします)

Handrohr 1380年頃から1800年頃まで
マッチロック 1450年頃から1800年頃まで
ホイールロック 1515年頃から1800年頃まで
スナップハンスロック 1530年頃から1800年頃まで
フランス式フリントロック 1640年頃から1865年頃まで
パーカッションロック 1820年頃から1870年頃まで
点火薬を伴う弾薬 1840年頃から

(頑住吉注:「Handrohr」=「手筒」とは、最初に出てきた「タンネンベルグの銃」のようなものを指すんでしょう)


 初期のカートリッジ化の試みに関して非常に興味深い記述がありました。普通に考えれば、パーカッションキャップ、火薬、弾丸を別々にロードしていたのをまとめたのがメタリックカートリッジであると考えられそうですが、実はまだパーカッションキャップが存在しない1900年代のうちにドライゼのニードルガン用弾薬よりもはるかに現在のものに近いカートリッジが作られていたんですね。ただ、リボルバーもそうですが、アイデアがあっても製造技術等が追いついていないと普及できないことがあるわけです。

 さて、メタリックカートリッジの完成によって点火システムについては現在主流の方法まで説明が終わり、次回からは銃自体の構造に関する説明が主になります。まずメタリックカートリッジを使用する単発銃の閉鎖機構に関する説明が行われ、さらにいまだに誤解が多いらしいリボルバーの発達に関する記述が続きます。







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