実銃について

タイトル
コルトSAA、イーサン・アレンのペッパーボックスと本物のペッパーボックス(ペッパーミル)

 ペッパーボックスは日本ではあまり知られていないが、銃器発達史上独自の地位を占める重要な存在だ。ここでは、代表機種であるイーサン・アレンのそれに関してだけではなく、ペッパーボックスとは何か、そしてそれがどのように発達し、衰退していったのかを論じていきたい。そしてもちろん、それを語るには兄弟のような存在である通常型リボルバーの発達史を抜きにするわけにはいかない。

ペッパーボックスとは
 ペッパーボックスという用語は厳密に用いられておらず、主に広義の使い方と狭義の使い方がある。前者では中心軸のまわりに多銃身(3本以上)がある銃すべてを指すと考えられ、COPのようなバレルが回転しないタイプも含めることがある。これに従えばロシアやH&Kの最新型水中ピストルも含まれることになり、特殊目的に限って現用軍用銃として生き残っていることになる。ただ、これでは範囲が広すぎるので、今回は狭義に絞りたい。狭義には「中心軸のまわりで多銃身が回転する銃器」とも考えられ、実際この定義を採用している資料もあるが、後述のようにこの定義にあてはまりながらペッパーボックスとは呼ばれないタイプの銃も存在する。そこで、「単一のハンマーまたはストライカーを持ち、中心軸のまわりで多銃身が回転する銃器」という定義を考えた。この定義はパーカッション以後のものに関してはほぼ問題ないはずだが、ホイールロック以前のハンマーがない銃、フリントロック時代に存在したという、多数のハンマーごと回転するタイプが除外されてしまうという問題がある。そこで、ここでは一応「多数のバレルを含む放射状対称形の部品が中心軸のまわりで回転する銃器」としたい(後述するが、暇な方は最初の定義にあてはまりながらペッパーボックスとは呼ばれない銃器とはどんなものか考えてみて欲しい)。発火方式は火縄式、ホイールロック式、フリントロック式、パーカッション式、ピンファイアやリムファイアといったカートリッジ式などいずれでもよい。定義上はセンターファイアでもかまわないが、センターファイア式のペッパーボックスは原則として存在しない。
 ペッパーボックスは多数のバレルを持つという性格上、どうしても重く、かさばる傾向にあり、たいていのものは22〜38口径、3〜6連発となっている。例外的なものとしては口径13.1mmとか、24連発などというものもあるが、特に後者はドイツの資料では「化け物」、アメリカの資料では「フリークス」呼ばわりされている。もちろんこんな太鼓みたいなものを携帯用の武器として使えるわけはない。銃身長にも限度があり、普通6インチくらいまでだ。リボルビングライフル、、ターレットライフルというものは存在するが、さすがにペッパーボックス式のロングアームというものはほとんど見当たらない。ペッパーボックスのみ「ライフル」という呼称を避けたように、原則としてペッパーボックスにはライフリングはない。ペッパーボックスの全盛期は1837〜1850年くらいまでだ。用途は主に民間人の護身用であり、戦場で使われたことは多かったものの、軍用制式兵器になったペッパーボックスはないようだ。
 「ペッパーボックス」とは、本来胡椒の実を砕きながら料理にふりかける台所用品、「胡椒挽き」(現在は「ペッパーミル」というのが普通)のことだ。ほとんどの資料は、この胡椒挽きに外観が似ているからこの名で呼ばれるようになった、としているが、「FRONTIER PISTOLSandREVOLVERS」(Dominique Venner著・この本の内容はほとんど参考になっていないので巻末の「参考資料」には加えていない)という本のみ、初期の手動回転式ペッパーボックスのバレルを回す操作が胡椒挽きと似ているから、と説明していた。これはもちろん外観が似ていることに加えて、という意味だろう。面白い説ではあるが、筆者は通説の方が正しいと思う。後述のように手動回転式のペッパーボックスが普及した時代というのはないからだ。
 銃器などの兵器、武器に、メーカーや軍による公式のものでない、ユーザーによるニックネームがつくことはよくある。「ヒトラーの電気ノコギリ」「スターリンのオルガン」などは恐怖、つまり兵器としてはプラス評価の意味をこめたニックネームと考えられる。「ドアノ・ッカー」「ワンショットライター」「オート・ジャム」「ステンチ・ガン」「マテル・スペシャル」などははっきりマイナス評価の意味がこめられている。「ペッパーボックス」に最も似ているのは同じ台所用品の名である「レモンスクイーザー」(操作の類似)、「ポテトマッシャー」(外観の類似)などだろうし、台所用品ではないが「グリースガン」もニュアンスは似ている。これらはニュートラルのようにも思えるが、親しみをこめていると同時に、やや馬鹿にしたニュアンスも感じられる。本当に持つ人に大きな自信を与え、敵に恐怖を与えるものと考えられていたら、こういう名前はつけられないだろう。実際、ペッパーボックスという名称をメーカーが使うことは少なく、当時のメーカーは「リボルビングピストル」「リピーティングピストル」などと呼ぶことが多かった。ペッパーボックスの全盛時代は回転式、連発式ピストルのライバルが少なかったので、これで通用したわけだ。
 ペッパーボックスという名称はいかにも俗称っぽいが、英語にはこれにかわる正式名称というのはないようだ。いつからこう呼ばれるようになったのかははっきりしていないが、ペッパーボックスが本格的に普及しはじめた1837年以後であり、1850年代にすでにそう呼ばれていたのは間違いないようだ。
 ドイツ語では「ブンデルリボルベル」という。「ブンデル」とは「束」という意味だ。
 たぶん明治時代につけた人はいると思うのだが、少なくとも一般的には日本名は存在しない。

 なお、ここでは以後、特別に断らない限り「ペッパーボックス」といえば狭義のもの、「リボルバー」といえば通常型リボルバーのみ、「リボルビング火器」といえば両者を含めて呼ぶことにしたい。

ペッパーボックスおよびリボルバーの起源
 ペッパーボックスはリボルバーより古いもののように考えられがちだが、それは必ずしも正しくない。もちろん、発想としてペッパーボックス以前にリボルバーが浮かぶということは考えにくいし、実際に歴史をたどっていけば、ペッパーボックスの先祖の方が古いらしい。
 しかし、リボルバーの先祖も想像よりはるかに昔から存在していた。火縄銃の時代、ペッパーボックス型とともに、リボルビング式のロングアームは存在していたらしい。(ちなみに日本にもペッパーボックス型火縄銃が伝わっているが、日本への鉄砲伝来自体が遅く、他国のようにフリントロックなどへ進歩しなかったので、銃器発達史において大きな意味を持つほど古いものではないと思う。)ただ、リボルビング式に限らず、火縄式ハンドガンは少なくともヨーロッパではあまり広く普及しなかった。これは、ハンドガンは携帯用の武器で、とっさの必要に迫られて使用することが多いものであるのに対し、火縄式は発射準備に時間がかかりすぎてあまり役に立たなかったからだ。携帯用として使いやすくなったのはホイールロック式(ライターに似た火打石を使う回転式の発火方式)からだ。1530年頃、3連発のホイールロック式ペッパーボックスが作られていた。ホイールロック式リボルバーも少なくとも17世紀初頭には出現していたという。しかし、ホイールロック式銃器は単発のものですら当時としては非常に複雑で高価なものとなり、王侯貴族のステイタスシンボルといった性格が強く、一般に普及はしなかった。増してリボルビング型はきわめて珍しい存在にすぎなかった。その後原型となるスナップハンスなどを経てフリントロック式銃器(火打石の打撃による発火方式)が誕生した。ヨーロッパ製フリントロック式ハンドガンは史上初めて普及したといいうるハンドガンだ。この時代、フリントロック式ペッパーボックスも存在したし、知られる限り最古のフリントロックリボルバーとして、17世紀後半のものが伝わっている。驚くべきことに、この銃は手動回転式ではなく、シリンダー後部のギアをテコで動かす、一般にコルトが発明して現在に伝わったとされる「ポール&ラチェット」式ときわめて近いものだったという(巻末の資料Fによる)。
 軍用銃器発達史において、メインウェポンであるロングアームより、それよりはるかに地位が低いハンドガンの方が早く連発、多弾数化する例が少なくない。これはやや不自然な気もするが、ロングアームの交戦距離なら時間のかかるリロードも可能な場合があるのに対し、接近戦用のハンドガンでは難しいからだ。接近戦の最中にフリントロック式ハンドガンをリロードするのはほとんど不可能なので、当時としても数発の連射ができるリボルビング式ハンドガンは非常に有利だったはずだ。しかし、フリントロック式のペッパーボックスもリボルバーも、ごく例外的な存在にすぎず、広く普及することはなかった。これは一体何故だろうか。
 その理由のひとつは、フリントロック式自体がリボルビング火器に向かなかったからだ。フリントロック式では、発射薬となる黒色火薬がチャンバーに直接充填され、その前に弾丸がある。この外部で火打石の火花を散らして発射薬に点火するのだから、チャンバーには外界に通じる穴を開けなくてはいけない。この穴が大きければ射手が危険だし、大きくパワーダウンしてしまう。かといって火花が小さな穴から確実に内部に侵入して発射薬に点火するというわけにはいかない。そこで、小さな穴の外に少量の点火薬を置き、火花によってまずこれに点火する。この火が小さな穴を通って内部の発射薬に伝火する、という方法をとる。この点火薬は、簡単に言えば「お皿に乗せて軽くフタをかぶせた」といったものだし、小さいとはいえチャンバーから外界に穴が通じているのだから、これをリボルビング形式に配置して回転させるのは難しいのだ。また、狙ったチャンバーにのみ確実に点火し、その両隣には決して点火しない、というのも難しい。このためフリントロックリボルビング火器は点火薬のスペースに開閉式のシャッターを設けるなどして対応したが、当時としては非常に複雑なものとなり、また操作しにくいものになった。
 もうひとつの理由は、工業技術がまだ未発達だったことだ。原始的な工具、設備を使った手作業で、複雑化せざるを得ないフリントロックリボルビング火器を正確に、頑丈に作るのは非常に困難だったのだ。特に、中心軸のまわりに正確にチャンバーの穴を開けることは極度に困難だった。この困難は筆者が手作業でシリンダーをフルスクラッチする困難に似ている。筆者は「アイデア・テクニック紹介」のコーナーでお知らせしているように、ブロックに穴を開ける方法では作れず、正確な寸法のパイプの組み合わせで比較的正確なシリンダーを作っているが、もちろん当時の職人にはそんな選択肢はない。また、正確なシリンダーができても、それを正確な位置で停止させること、シリンダーギャップを一定に、小さくすることも困難だ。もしうまくいかないと、大きくパワーダウンしたり、連鎖反応的に複数の発射が起こるおそれがあるし、最悪の場合弾丸が逃げ場を失ってシリンダーが破裂し、射手を殺傷するおそれさえある。ペッパーボックスならややハードルが低いようにも思えるが、リボルバーのチャンバーよりずっと深い穴が必要だし、ごくわずかでも角度が狂えば着弾点が極端に狂ってくるからそれなりに困難だったはずだ。そして、せっかく作っても、ブロンズなど比較的やわらかい素材で作ったメカはすりへって使えなくなるのが早かった。
 作るのが極端に難しく、手間とコストがかかり、できても操作しにくく、安全性、信頼性、耐久性が低い、ということでフリントロックリボルビング火器は普及しなかったのだ。

フリントロックリボルバーの実例

アネリー フリントロックリボルバー

アネリーリボルバー

 これはイギリスで18世紀初頭に作られたものとされる。バレル、シリンダー等は真鍮製で、全長305mm、重量約1.3kg、口径10.2mm、8連発、初速は122m/sとなっている。電動ガンでも可能なくらいの初速だが、これは実際に計測したわけではなく、「およそ400フィート/sと推定」ということらしい。コルトより100年以上古いものだが、この銃もシリンダーは自動回転式で、コルトに近い「ポール&ラチェット」だったという。点火薬のスペースのシャッターはハンマーに連動して自動的に開く。つまり、ちゃんと機能しさえすればハンマーをコックする、トリガーを引く、という操作だけで8連射できたことになり、パーカッションリボルバーに準ずる価値があったことになる。時代のはるか先を行くすばらしい内容だと思うが、これでも普及はしなかったのだ。(資料Bによる)

コリアー フリントロックリボルバー

コリアー フリントロックリボルバー

 これはおそらくフリントロック式リボルバーとしては最も有名なものだ。イギリス在住のアメリカ人、エリーシャ・コリアー(Elisha Collier)が1818年にパテントを取得した。いくつかのタイプがあるが、代表的なものは全長362mm、重量約1.0kg、口径12mm、5連発、初速168m/sだった。全体のスタイルは単発フリントロック式ピストルを単純にリボルバー化したような感じに見える。
 各チャンバー後部からはシリンダー外周に通じる穴が開けられている。シリンダー後部はすっぽりとカバーでおおわれ、一番上の穴だけが露出し、ここに火花が点火するようになっている。シリンダーはスプリングで前方に押され、前面の穴がバレル基部にくいこむようになっている。これによりバレル、シリンダーは正確に一致し、シリンダーギャップからのフラッシュが隣のチャンバーに点火する(メタリックカートリッジ以前にはときどきあったらしい)ことを防ぐ。ガスシールリボルバーの元祖とも考えられる。シリンダーは手動回転式だ。ちなみにコリアーは自動回転式のパテント(ロングアーム用)も取得していたが、これは「ポール&ラチェット」ではなく、シリンダーにスプリングで回転のテンションをかけ、チャンバーがバレルと一致するごとにストップをかけるものだった。コリアーリボルバーは手動回転式であり、各チャンバーごとにシャッターを設けていないなどの理由でフリントロック式リボルバーとしては比較的単純だ。しかしそれでもパーツ点数は50点に及んでおり、特に当時としては非常に複雑だった(ちなみに資料Dによればコルト最初期のリボルバーであるパターソンは36点、アレンのペッパーボックスは30点となっている。パーツ点数は数え方によって多少変動するが、目安にはなるはずだ)。コリアーリボルバーは高価だったことなどから商業的に成功しなかった。
 コリアーリボルバーは総合的に見て最も完成度の高いフリントロック式リボルバーとされている。これはさまざまな優れたアイデアが盛り込まれていたからだけでなく、時代が新しいだけに高い工業技術で作られていたからという理由が大きいと思われる。しかし、その登場はあまりにも遅すぎた。コリアーリボルバーの登場と同時期に、ほとんど全ての面でフリントロック式より優れたパーカション式が普及し始めたからだ。
 ただ、コリアーリボルバーに限らず、フリントロック式の銃をパーカッション式にコンバートすることは容易だ。そして実際に少数のコリアーリボルバーはパーカッション式に改造されたという。これが順調に進歩すれば、あるいはコルトより数年早く本格的パーカッション式リボルバーが誕生したかもしれない。そうなれば現代ハンドガンの歴史は大きく変わっていただろう。だがコリアーはガンスミスというよりもメカニカルエンジニアであり、フリントロック式リボルバーの商業的不成功からこの方面への興味を失ってしまった。1827年にコリアーがこのビジネスから手を引くまでに生産されたコリアーリボルバーは300挺以下と推定されている。(資料AおよびBによる)

 フリントロック式リボルバーは、原則として新しいものが古いものを参考にして次第に発達したわけではなく、ある時代、ある地域のアイデアマンが独自に考案し、普及せずに忘れられ、また現れては消えるということをくりかえしたのだった。

パーカッションキャップの発明と本格リボルバー誕生
 パーカッションキャップは、簡単に言えばモデルガン用キャップ火薬のビニール部分を金属にしたようなものだ。フリントロック式はまず火打石で点火薬に火をつける。この点火薬は発射薬と基本的に同じものなので燃焼速度は遅い。これが小さな穴を通じて発射薬に点火し、発射となる。こういうプロセスをたどるため、トリガーを引いてから発射までにかなり長いタイムラグ(ロックタイム)が生じ、特に動標的に対する命中精度が低かった。火薬が外部に露出しているから水分の侵入にも弱い。また、火打石は半消耗品だし、理想的な条件が揃っても不発率は高かった。パーカッション式は、一応火薬が密封されるので水分に強く、燃焼速度の高い発火薬を打撃によって発火させ、このフラッシュを一気にチャンバー内に突入させて発射薬に点火するのでロックタイムはほとんど感じないくらい短くなった。そして、パーカッション式はフリントロック式よりはるかにリボルビング形式に向いていた。リボルビング火器のアイデアも、自動回転システムも古くから存在したが、これにパーカッションキャップの発明と工業技術の進歩が加わって、本格的リボルビング火器誕生の条件が揃ったことになる。
 自由に空を飛びたいという願望を持つ人間は古代から存在したし、レオナルド・ダ・ヴィンチは手動回転式ヘリコプターのスケッチを残している。しかし人力で本格的な飛行を行うことは難しかった。蒸気機関で飛ぼうと試みた人もいるが、蒸気機関は生じるパワーに対して重量が重過ぎるため失敗した。工業技術の発達に加え、エンジン(内燃機関)が発明されたとき、本格的飛行を行う条件が揃った。日本の二宮忠八も含め、ライト兄弟の飛行前にエンジンつき飛行機械の構想を持った人は世界各地にいたし、実機を製作して飛行に挑戦した人すらいる。エンジンも、グライダーも、プロペラもライト兄弟が発明したものではないし、まったく誰も思いつかないようなものを唐突に作ったわけでは決してない。当時は飛行機械が誕生すべき時期だったし、もしライト兄弟が存在しなくてもそう遅れずに誰かが動力飛行に成功したはずだ。しかしライト・フライヤーは当時としては非常に優れたアイデアに満ちた洗練されたマシンだったし、ライト兄弟の業績は高く評価されるべきだ。
 サミュエル・コルト(Samuel Colt 1814〜1862)についても似たようなことが言える。コルトはリボルバーの発明者でもなければパーカッションキャップの発明者でもない。初めてパーカッション式リボルバーを作った人でも、初めて自動回転式リボルバーを作った人でもない。当時は本格的リボルビング火器が登場すべき時期だったのであり、コルトと無関係に似たようなものを考え、作っていた人は少なくとも数人以上いた。コルトがいなくても本格的リボルビング火器はそう遅れずに登場したはずだ。しかしコルトのリボルバーは非常に優れたアイデアに満ちた、当時としては非常に先進的な銃だったし、初めて本格的リボルバーを量産した業績は高く評価されるべきだ。

ファイフのリボルバー

 これは、1835年、アメリカのハーモン・ファイフ(Harmon Fife)という人が作ったとされるパーカッションリボルバーだ。資料の写真が小さく、ほとんど黒くつぶれているので細部はわからないが、大体の形状はわかると思う。1835年といえばコルトがアメリカでパテントを取得する前年であり、コルトを真似た可能性はないはずだ。シリンダーは手動回転式で、25口径6連発のタイプと、36口径7連発のタイプがあった。内蔵ハンマーで発火するが、これを動かすメインスプリングがトリガーガードを兼ねるというユニークな設計だった。フレームに対するシリンダー、バレルの固定法、レイアウトなどがコリアーリボルバーにやや似ており、あるいはコリアーリボルバーから発想がスタートしたものかもしれない。これはコルトと同時期に開発されたリボルバーの一例だが、全体デザインといい、判明している範囲のメカといい、コルトとのレベル差は明らかだろう。ファイフのリボルバーはほとんど手作りだったようで、量産はされていない。(資料Cによる)

 コルトリボルバーが成功するためには、主に2つの問題を解決する必要があったとされる。ひとつはシリンダーを確実に回転させ、正確な位置で強固に固定するメカの開発だ。コルトはこれを「ポール&ラチェット」による回転、ボルトによる停止で実現した。このメカは現在まで基本的に同じものが使われていることでも分かるように、始めからきわめて完成度が高かった。
 もうひとつは連鎖反応的発火の防止だ。この原因は主に2つある。まずコリアーリボルバーのとき説明したシリンダーギャップからのフラッシュが隣のチャンバーの弾頭の周囲から侵入し、発射薬に点火してしまうものだ。これはやや大きめの弾丸をシリンダー前面から強く押し込み、密閉性を高める(後にはラムロッドと呼ばれるパーツでテコの原理を利用して押し込む形になった)ことでほぼ解決した。ただし、シリンダーギャップからのフラッシュが長時間となり、大量の火薬を使用するロングアームではときどきこれが起こり、シリンダーギャップからの爆音がハンドガンより近い位置にある耳に不快であるという理由とともに普及を妨げたという。もうひとつの同時発火のの原因は、パーカッションキャップからのスパークが一部外に漏れて隣のキャップを誘爆させることだ。コルトはキャップ間にパーティション(仕切り)を設けることでこれを解決した。

コルトパーカッションリボルバーのシリンダー

 キャップをはめるニップルの間に仕切りがある様子がわかるだろう。また、現在の感覚では当たり前に思えるが、キャップがチャンバーと同軸、真後ろに位置していることも重要で、こういうデザインの方が銃がコンパクトになるとともに不発率が低くなるという。

 コルトは1835年にイギリスでパテントを取得した。これはイギリスは他国ですでにパテントが認められているアイデアをパテントとして認めなかったのに対し、アメリカにはそういう制約がなかったからだ。アメリカでは翌1836年にパテントを取得した。これによりアメリカでは他のメーカーは1857年まで事実上リボルバーは作れないことになった(ポール&ラチェットとは異なるベベルギアを使った自動回転式リボルバーを作ったS&Wの前身にあたるメーカーは長い裁判闘争の末に敗れ、多額の賠償金を払わせられている)。コルトは従来品より明らかに強力な武器であるリボルバー生産の権利を向こう20年間独占したことで絶対の自信を持ち、強気に大規模な生産施設を整え、量産を開始した。しかし国内には意外なライバルが存在していた。

パーカッションペッパーボックス出現
  コルトが少年時代に外輪船のホイールを見てリボルバーを思いついたという話は有名だ。この話は宮本武蔵が太鼓のバチさばきを見て二刀流を思いついた、という話に酷似している気がするが、筆者はいずれも偉人を必要以上に美化する作り話だと思う。宮本武蔵以前に両手に別の武器を持って戦った人がいなかったわけがないし、コルト以前でも、銃器に強い関心がある人ならリボルバーという形式は知っていた可能性が高い。コルトがコリアーリボルバーを知っていたどころか、これを入手して自動回転メカの研究開発を行ったという説すらある。コリアーリボルバーは成功しなかったといっても300挺近く作られ、それなりに注目すべき優れた内容を持っていたのだから、一般大衆には知られなくても銃器業界にはある程度は知られていただろう。おそらくコルトリボルバーは既存のリボルバーの改良から出発したのだと思う。
 一方、パーカッション式ペッパーボックスは、リボルバーと似た存在ではあるが、リボルバーとは別の経路で誕生したのではないかと推測する。フリントロック式リボルバーには比較的有名なものもあるのに対し、フリントロック式ペッパーボックスはそれ以上に例外的存在だったので、フリントロック式ペッパーボックスから進化したのでもないのではないか。
 最初のパーカッション式ピストルは当然単発だった。パーカッション式ピストルも戦闘中にリロードすることはまず不可能だから、連発のパーカッション式ピストルが考えられた。最初に登場したのはバレル、チャンバー、ハンマーメカなどを全て2つ持ち、それを横に並べた水平二連銃だったろう。しかしこれではハンドガンとしては全幅が大きくなり、携帯性に問題が生じる。そこで軸の両側にバレルを持ち、まず普通の単発銃のように使用した後、バレルまわりを180度回転させて再び単発銃のように使用できる上下二連銃(「オーバー・アンド・アンダーピストル」などと呼ばれるもの)が登場した。さらに、水平二連銃のように使用した後にバレルまわりを回転させ、再び二連銃のように使用できる四連銃も誕生した(ちなみにこれが冒頭で述べた「中心軸のまわりで多銃身が回転する銃器」という定義に合致しながら普通広義にすらペッパーボックスとは呼ばない銃器だ)。

バレル回転式四連銃

 これはイギリスで作られたこの種の四連発ピストルの例だ(資料Bによる)。発火機構が2つあり、バレルまわりが放射状対称でなく上下対称である点を除き、ペッパーボックスとほとんど同じものと言え、ここまでくれば手動回転、シングルアクション式のパーカッション式ペッパーボックス誕生までは時間の問題だろう。
 アメリカ初のペッパーボックスは、1836年にパテントが取得されたダーリング兄弟のものとされる。これはアメリカにおけるコルトのパテント取得と同年(正確には2ヶ月ほど遅いが)であり、これもコルトとは別に、独自の発想で開発されたパーカッションリボルビング火器だと思われる。

ダーリング兄弟のペッパーボックス

 この銃のデザインは、前述のような経緯でパーカション単発銃が徐々に発達した結果誕生したものとして納得しやすいスタイル、構造を持っている。36口径、6連発、シングルアクションでバレルグループは手動回転式だった。この銃はファイフのリボルバーよりは洗練されたスタイルだと思うが、それでもコルトとのレベル差は明らかだろう。ダーリング兄弟のペッパーボックスは100挺強が生産されただけで、普及はしなかったし、アレンのペッパーボックスにも大きな影響を与えていないとされる。(資料Dによる)

 1837年には、真に本格的で、広く普及したペッパーボックスが登場した。それがイーサン・アレンのペッパーボックスと、マリエッテのペッパーボックスだ。両者は互いに無関係に、ほぼ同時にダブルアクション、自動回転式パーカッションペッパーボックスを開発したと考えられる。コルトとの差もわずか1年だ。パーカッションキャップの普及が始まって15年以上経ち、本格的リボルビング火器がほとんど同時期に次々出現したことは、「そういう時代だった」ことを象徴的に示すものだろう。典型的なパーカッション式ペッパーボックスはアメリカ・イギリス系とベルギー・フランス系に大別されるが、アレンのそれは前者、マリエッテのそれは後者の代表だ。

マリエッテのペッパーボックス
 アレンについては後に詳述するので、ここではまずマリエッテのペッパーボックスについて述べる。マリエッテはベルギー人で、この銃は一時ベルギーとフランスで非常に広く使われた。

マリエッテのペッパーボックス

 ベルギー・フランス系のペッパーボックスはアメリカではあまり普及しなかった。ベルギー・フランス系のメカのものは一部作られた(または部品を輸入して組み立てられた)ようだが、それもバレルはアメリカ・イギリス式だった。
 バレルの違いというのは、アメリカ・イギリス系は1つの金属の塊に複数の穴を開けてバレルグループを作り、ベルギー・フランス系は別々の金属パイプになっている、ということだ。この金属パイプがターンテーブルのような基部にそれぞれねじ込まれる。
 発射準備のためには、まずバレルを全て抜く。バレル同士は密着しているので素手では回しにくい。また黒色火薬を使用する銃はさびやすいので、さらに困難になることも多かったろう。そこで、マズルには4本のスリットが切られ、専用工具(キャップ交換にも使用するヤットコのような工具の柄の先)を差し込んで回せるようになっていた。このスリットはしばしばライフリングと誤認されるという。バレルを抜いた銃を銃口側を上にして立て、各チャンバーに黒色火薬を流し込む。その上に鉛弾を置く。この上にバレルをねじ込む。バレル内径は弾の径よりわずかに小さくされていたので、補助的手段なしにしっかり保持され、密閉性も高かった。弾丸には球状の他円錐弾も使えた。この特徴はほとんど後装銃に近いものといえる。この方式はマリエッテ特有のものではなく、フリントロック時代から存在した。メタリックカートリッジ式以前のものとしてはリボルバーを除いて唯一成功した後装システムともいわれ、一般に前装銃より威力が大きく、また命中精度が優れていた。
 マリエッテの銃のトリガーはリング状で、ハンマーは下にある。当然発射は下のバレルから行われる(マテバの元祖か?)。トリガー前面には可動式のフックがとりつけられ、後ろからハンマーを直接ひっかけている。トリガーを引くとハンマーはトリガーに連動して引き起こされ、一定以上引くとフックが外れてハンマーが落ちる。現在存在するどのダブルアクションともまったく異なる異様なシステムで、現在のダブルアクションよりファニングを自動化したものに近い感じでもある。バレルグループの回転システムは上下逆なだけで、アレンのものと基本的に同じもののようだ。ニップルがチャンバーと同軸、真後ろに位置し、間にパーティションがあるあたりはコルトに近い。あるいは、この形式のバレルを持つものがアメリカで生産されなかったらしいのはコルトのパテントに抵触するからかもしれない。ハンマーの頭にはちりとりのような形のカバーがあり、ハンマーダウン時はパーティションとこのカバーが合わさって、ほとんどパーカッションキャップは密封される。これにより同時発射はほとんどなかった。(資料B、E、Fによる)

 以前、アメリカ人は「ペッパーボックス」(胡椒挽き)という軽いニックネーム呼び、ドイツ人は「ブンデルリボルベル」(束状回転式拳銃)という論理的な名称で呼ぶことは、両者の国民性の違いを表わすものだと書いたことがある。これは間違ってはいないと思うが、別の理由もあるらしいことに気づいた。アメリカ人にとってこの種の銃はアレンのそれに代表されるアメリカ・イギリス系のものだ。これらは1つの金属の塊に複数の穴を開けてバレルが作られているので「バレルを束ねている」という印象は薄く、外観は胡椒挽きに似ている。一方ドイツ人にとって一番身近なこの種の銃はベルギー・フランス系のものだと考えられ、これらはまさにバレルを束にしていて、外観は胡椒挽きにはあまり似ていない。アメリカ人がベルギー・フランス系の銃を見ても「ペッパーボックス」とは名付けず、ドイツ人がアメリカ・イギリス系の銃を見ても「ブンデルリボルベル」とは名付けなかった可能性が高いだろう。もちろんその場合もアメリカ人は柔らかく、ドイツ人は硬い名前をつけた可能性が高いだろうが。

イーサン・アレンのペッパーボックス
 イーサン・アレンのペッパーボックスは、アメリカ初のダブルアクション、リボルビングファイアーアームズであり、アメリカで初めて広く普及したペッパーボックスだ。アメリカで最もメジャーなペッパーボックスであることは間違いない。マリエッテのものと並んで、初めて本格的に普及したペッパーボックスでもあるが、その登場はコルトリボルバーよりわずかに遅れている。本格的に使えるものが誕生する条件として、パーカッションキャップの使用を必要とすることはリボルバーでもペッパーボックスでも同じであり、両者はほぼ同時に普及しはじめ、初めのうちはライバル関係にあったのだ。

 アレンのペッパーボックスはトリガーを引くだけで素早い連射が可能で、当時最も速射が利く銃器だった。ハンドガンでの撃ち合いは大部分が近距離で起こるものであり、特に技量が低い者同士が至近距離で撃ち合った場合、アレンのペッパーボックスがコルトリボルバーに勝つケースも多かったと推測できる。多くのものは小型で、円柱を曲げたようなスムーズな外形なのでコンシールドキャリーしやすく、また抜くときひっかかりにくかった。操作が単純なので誰にでも使いやすく、信頼性が高く、タフだった。
 構造はきわめてシンプルで、最小のパーツ数で構成されていた。また、シリンダーとバレルの位置合わせが不要なため、精度が低くても許され、主要パーツ(バレル、フレーム、サイドプレート)を鋳鉄で作ることができた。具体的にどんな素材の、どうやって作った型に溶かした鉄を流し込んだのかは不明だが、これによって安いコストで量産できたことは確かだ。ドイツの資料であるEには、トリガーを引ききったときにもバレルグループは固定されず、1〜3mmの範囲で動けるとあった。1mmと3mmではえらい違いで、ドイツ人らしくもないアバウトな記述だが、この記事は1挺のサンプルを詳細に分析して書かれたものであり、遊びがバレルごとにバラバラで、1mmから3mmの範囲だったということではないだろうか。そのくらい精度が低くても高い信頼性をもって作動したのだろう。幅広いハンマーが振りおろされた下のどこかにパーカッションキャップがありさえすれば発射に支障はないし、着弾点もほとんど変わらない。トリガーを引ききったときの3mmの遊びというのはリボルバーではとても許されないはずだ。
 バレルグループは鋳鉄の塊に穴を開ける方法で作られ、4〜6連発、口径は28〜36口径だった。バレルグループ外周のデザインには、今回モデルアップした「フラットバレルリブ」と呼ばれるもの、ゆるやかな凹凸の「フルーテッドバレルリブ」の他、レアなものとして単なる円柱状、正六角形状のものもあった。通常、パーカッション式の銃のニップルは基部がナットのような多角形になっていて、専用のニップルレンチで回して着脱できるねじ込み式になっているものが多い。アレンのそれも初期の少数はそうなっていたが、後の大部分はバレルグループと一体で削り出された。アメリカの資料はこれによってシンプル化、コストダウンに成功したと好意的に書いているが、ドイツの資料Eはこわれても交換できないので理想的なデザインとはいえないと批判している。どちらも一理あるが、一体に変更された後に長期間大ヒットを続けたのだから大きな問題はなかったと見るべきだろう。独立したパーティションはないように見えるが、半球状のくぼみの底にニップルがある形なので結果的にパーティションがあることになる。くぼみの形が半球状なのも、外部にもれたスパークが隣のキャップ方向に飛ばないための工夫ではないかと思う。初期モデルはニップルがむきだしだったが、後の大部分にはニップルまわりをすっぽりおおうシールドが設置された。これらの工夫により、連鎖反応的発射はほとんどなくなった。シールドにはおそらく銃を落としたりぶつけたりしたときの暴発を防ぐ効果や、発射の衝撃、携帯時、抜く時の外力でキャップが脱落することを防ぐ効果もあっただろう。
 ハンマーは「バーハンマー」と呼ばれるもので、銃上面にあり、ダブルアクションで動くので事実上サイトは設置できない。ハンマー上にサイティングのための溝を彫ったものも少数あるが、ファルコントーイのルガーみたいなもので、これで正確に狙えるはずはない。シングルアクションを可能にしたもの、コンシールドハンマーのモデルもあったが、ごく少数だ。
 トリガーは大部分が今回再現したものとほとんど同じ形で、少数のものはリングトリガーだった。トリガー、ハンマーメカニズムについては製品でほとんどそのまま再現しているので説明は省く。なお、1837年パテントモデルと1845年パテントモデルではバレルグループ回転メカに変更があるというのだが、1837年パテントモデルがどういうものだったのかどの資料にもなく、不明のままだ。
 グリップフレームにはさまざまな角度のものがあり、ごくおおまかには初期のものほど直角に近く、後のものほど後方になびくような角度になっているようだ。1837パテントモデルはグリップ前面のトリガープル調節ネジが下についているので容易に判別できる。グリップはウォールナットがスタンダードだが、パール、アイボリー、ローズウッド、洋銀などファンシーな素材を使ったものもあった。スタンダードなフィニッシュはバレル、フレーム等がブルーイング、ハンマー等がケースハードゥンというものだった。
 大部分の銃にはフレームなどに簡単なエングレーブがある。これは型でできたのかと思ったのだが、実は全て手彫りだったという。安価だということが最大のセールスポイントの一つだったのに、なぜこうだったのかはよくわからない。ただ、長期間生産された銃の大部分にエングレーブがあったということは、ユーザーもそれを求めたということだろう。

  アレンのペッパーボックスは、大きく50のタイプに分かれ、それぞれにサブタイプがあり、全体としては驚くべき数になる。アメリカ銃器史全体でもあまり例を見ないほどのバリエーション展開だった。生産期間が長かったこともあり、全体として膨大な数が生産されたことは間違いない。アレンのペッパーボックスには一応シリアルナンバーが刻印されているのだが、これは比較的少数のロット内でのナンバーにすぎず、同じナンバーのものが多数存在するから生産数推定の手がかりにはほとんどならない。会社がとっくに消滅していることもあって、正確な生産数は不明だ。原則として各機種の生産数を掲載している資料Cも含め、どの資料にも「非常に多数」以上のことは書かれていない。

 さて、一方のコルトは、当時としては高度に機械化された非常に大規模な生産設備を整え、リボルバーの量産を開始したが、初期にはあまり売れなかった。コルトリボルバーは非常に精巧なものだったが、その分きわめて高価だった。資料Eは「1840〜1860年、アレンのペッパーボックスが10〜18ドルだったとき、コルトリボルバーは40〜50ドルだった」としているし、資料Gは「平均的ペッパーボックスが10ドルだったとき、コルトパターソンはタイプやデコレーションにより25〜100ドルだった」としている。「数倍かそれ以上高価だった」と考えればいいだろう。コルトは一貫して軍との取り引きを重視し、民需を二の次にした。製品もそれに合わせ、大型のものが主だった。これに対しアレンのペッパーボックスにはドラグーンサイズと呼ばれる大型のもの(36口径、6連発、銃身長6インチくらいのものが多い)もあり、フロリダでのセミノール戦争、米墨戦争、南北戦争などで使用されたが、主に民需向けであり、比較的小型のものが多かった。このため、コルトリボルバーとアレンのペッパーボックスは必ずしも正面衝突する性格のものではなかった。しかし、同時代のリボルビング火器である以上比較されることは多かったはずだし、「ペッパーボックスに比べて高価」という見方をされたのも確かだろう。1837年の軍によるテストでは、その連射性と命中精度が高く評価された反面、分解しないとリロードできない、重くかさばる付属品をたくさん持ち運ぶ必要があるなどの問題点が指摘され、すぐ大量に注文が入ることはなかった。大きな投資をしながら民間用にはペッパーボックスに押されて人気が出ず、頼みの軍からも認められない、ということで思惑が外れたコルトは苦境に陥り、1841年、コルトの会社はいったん倒産した。これと対照的にアレンのペッパーボックスは商業的に大成功し、庶民に広く普及した。

イーサン・アレンとその会社
 「Ethan Allen」で検索すると、20万件以上のヒットがあった。立派な石像の画像を見ることもでき、その名を冠した会社、団体も多数あるらしいことがわかる。明らかにサミュエル・コルトよりずっとビッグな人物のようだ。しかし、「アメリカではこんなに有名な人だったのか!」と驚いてはいけない。実はこのイーサン・アレン(1738〜1789)は、独立戦争の英雄であり、今回のテーマであるペッパーボックスを作ったイーサン・アレン(1808〜1871)とは同姓同名ながらまったくの別人である。アメリカの資料の多くは「独立戦争の英雄の血縁者であるというのは俗説で、少なくとも証拠はない」ということを念押ししている。一方ドイツの資料にはこんな記述はまったくなく、この独立戦争の英雄はアメリカ限定の有名人らしい。
 一般的なコルトの肖像画は、筆者には50代のように見えるのだが、実はコルトは40代のうちに早死にしている。ほとんど少年といっていい時期に画期的リボルバーの構想を得、21歳で英国パテントを取得し、二十数年でコルト社成功の基盤を築いて死んだ早熟な天才だった。
 一方アレンはコルトより数年早く生まれ、10年近く長く生きていた。同時代の人物だが、その人生はコルトのそれとはかなり違っている。アレンはマサチューセッツ州ベーリンガムに生まれた。家はニューイングランドの旧家で、アレンの社は一貫して家族経営だった。1831年、アレンはマサチューセッツ州の小村ミルフォードで工業生産活動を開始した。この頃作っていたのは靴作り職人の工具、ナイフなど刃物類だったとされ、ここで彼は金属加工技術と製品販売についての基礎を身につけた。同年のうちに同じ州のノースグラフトンに移り、同じような製品の生産、販売を続けたが、ここで彼は初めて銃器の販売を行った。そして、ロジャー・ランバートという人物のパテントに基づくケーン・ガン(ステッキ銃)の生産も行ったという。

ケーン・ガン

 こんな感じの銃で、柄をやや引き出して曲げるとバー状のハンマー、トリガーが飛び出すという単発銃だったらしい。この銃は比較的少数生産に終わったようだが、この経験がアレンに銃器ビジネスの有望性、またパテント取得の重要性を教えたと考えられる。アレンが銃器業界に参入したのは20代後半ということになり、これはコルトとの比較だけでなく、ある道で業績を残し、成功した人物のデビュー時期としてはかなり遅い部類に入るだろう。

 1836年、アレンは初のオリジナル銃器「ポケットライフル」を作った。

ポケットライフル

 名前を聞くとどんな凄いものかと思うが、要するに単なる単発ピストルだった。口径は31、銃身長は51/8〜6インチ、前装銃だった。デビュー時期がまったく違うのだから比較するのは無理だが、同年にアメリカでパテントを取得したコルトのリボルバーとは比較にならないつまらない銃だ。ハンマーが下にあるのがやや奇異に感じられるが、これは「アンダーハンマー」といって当時は極端に珍しいものではなかった。ちなみに、アレンのペッパーボックスにはライフリングがないが、その技術がなかったわけではなく、このデビュー作も含め、ペッパーボックス以外の大部分の銃にはライフリングがあった。生産は1842年まで続き、生産数は1000あまりとされる。

 1837年、アレンは最初のパテントを得た。多くの資料では「1837年、アレンはペッパーボックスのパテントを取得した」とされており、筆者もここまでそういう線で記述してきたが、実はこれは正確ではない。このときアレンが取得したパテントはダブルアクショントリガーメカニズムに関するもので、そのパテント図面は単発ピストル用に作図されていたのだ。

チューブハンマーポケットピストル

 これがそのときのパテントに基づいて作られた「チューブハンマーポケットピストル」だ。グリップ、トリガー&ガードなどは後のペッパーボックスと明らかにデザインが共通している。ちなみにこれは前装銃だったが、後にペッパーボックスに似たバーハンマーのモデルも作られ、このタイプはマリエッテと同じ後装システムを採用していた。アレンはすぐにこのダブルアクショントリガーメカとペッパーボックスを組み合わせ、自動回転メカを加え、画期的な新型ハンドガンを完成させた。

初期のアレンペッパーボックス

 初期のペッパーボックスはほぼこんな形のものが多かった。今回製品化したものと比べると、ニップルまわりのシールドがなく、グリップ角度が急なのが分かると思う。同年、アレンは義理の兄弟であるチャールズ・スーバーと初めてのパートナーシップを組み、社名は「ALLEN&THURBER」となった。新製品ペッパーボックスは大ヒットとなり、1842年、生産の拡大のため、工業の中心的地域だったコネチカット州ノルウィッチに移った。1845年には2つ目のパテント、バレルグループの自動回転メカと、シングルアクションが可能なトリガーメカに関するものが取得された。ただ、後者はごく少数の製品にしか応用されなかったようだ。技術があってもライフリングを切らなかったのも、後装にしなかったのも、DA/SAモデルを少数しか作らなかったのも、そんなことをしても基本構造などから命中精度が悪いことに大差がなく、少なくともコストアップには見合わないと判断したからだろう。1847年にはマサチューセッツ州ウォーセスターに移っている。理由は明らかでないが、よりよい設備、安いコスト、輸送の便のためと考えられている。この頃、米墨戦争などの紛争による需要、そしてそれらでの有効性の証明によって再建されたコルト社製リボルバーの人気は急速に上昇した。ただ、軍用はコルト、民間用はアレンのペッパーボックスという住み分けによってこの頃はまだ深刻な脅威にはなっていなかったようだ。1848年からのゴールドラッシュの時代はアレンのペッパーボックスの全盛期とされている。
 「ALLEN&THURBER」のビジネスは1854年まで続いた。グラフトン時代初期に社に加わった別の義理の兄弟であるトーマス・P・フィーロックがこの頃フルパートナーに成長し、社名は「ALLEN THURBER&Co.」に変更された。1856年、チャールズ・スーバーは引退し、社名は「ALLEN&WHEELOCK」に変更された。翌1857年、コルトリボルバーのパテントが切れた。コルトの成功を指をくわえて見ているだけだった他メーカーは競ってリボルバーを生産し始めた。アレン&フィーロック社も1857年、初のリボルバーを発売した。

アレン初のリボルバー

 これが「アレン&フィーロック ラージフレームポケットリボルバー」だ。「ラージフレームポケットリボルバー」というのは変な名称のようにも思えるが、アメリカでは中型オートのことを「ラージサイズポケットピストル」と呼んだりする。見て分かるように、ペッパーボックスを強引にリボルバー化したような外観をしている。34口径、5連発、3〜5インチオクタゴンバレル、ハンマーはペッパーボックスと同じバーハンマーなのでサイトはない。作動はダブルアクションオンリーだ。生産数は約1500とされる。いかにも中途半端な出来で、あまり成功しなかったようだ。アレンのあせりを表わすようなエピソードも残っている。1858年、アレン&フィーロックは「リップファイア」と呼ばれるシステムのリボルバーを発売した。名前でもたいがい想像はつくが、これはS&Wのパテントだったリムファイアに類似したもので、S&Wの圧力により販売は中止に追い込まれた。アレン&フィーロックはやむを得ず通常のパーカッションリボルバーの生産を始めた。

アレンのパーカッションリボルバー

 サイズ、デザインなどいくつかのタイプがあるが、初期のパーカッションリボルバーはほぼこんな形だった。サイドハンマー、シングルアクションで、ハンマーは斜め後方からパーカッションキャップを叩くというものだったようだ。別にこれといって長所らしいものは見当たらず、デザインもあまり洗練されているとはいいがたい。

 アレンの社のリボルバーはあまりぱっとしなかったが、1857年以後多数のメーカーの競争、技術の進歩によって小型軽量、高性能で安価なリボルバーが普及するようになり、ペッパーボックスの人気は明らかに下降し始めた。アレンのものを含む多くのペッパーボックスは多数のバレルが存在し、それらが固定されていない、ライフリングがない、サイトがない、トリガープルが重い、純前装銃であるといった理由から命中精度が低かった。また、多数のバレルが存在するためにどうしても大きく、重く、フロントヘビーでバランスが悪くなりやすかった。この欠点を過大にしないため、あまり大きな、多弾数の、威力のあるものは作れなかった。そういう制約がある以上公用に販路を見出すことは困難だった。これらの欠点は全てもともとペッパーボックスに備わっていたものだ。ライバルが少ないうちは目立たなかったが、リボルバーが普及し、それらと比較されるようになればますますこれらの欠点は大きくクローズアップされざるを得ない。しかし、1861〜1865年の南北戦争では一時的に人気が盛り返し、特に南部で多数が使用された。もちろんこれはリボルバーよりペッパーボックスの方が優れているという認識をされたわけではなく、短時間で安く量産しやすい点が買われたことと、リボルバーの生産が追いつかなかったというだけのことだろう。

 ただ、この時点では、ペッパーボックスの将来がまったく暗いのか、安価を武器にリボルバーと住み分けられるのかは予測困難だったことだろう。南北戦争中、ノルウェーからの移民、アイバー・ジョンソンがアレン&フィーロックに入社した。アイバー・ジョンソンは史上初のトランスファーバーメカニズムを開発し、世界で最も多くのリボルバーを生産する会社の基礎を築いた人物であり、先見の明がない人物でも、愚かな人物でもなかったはずだ。その彼が、アレン&フィーロック退社後、デビュー作の候補として最初に作ったのは改良型ペッパーボックスだった。アイバーは南北戦争直後くらいの時点で「改良すればペッパーボックスはまだまだいける」と判断したわけだろう。しかし、アイバーのペッパーボックスは発売されることはなかった。少なくとも完成時点ではペッパーボックスがもはや時代遅れなのは明らかだったようだ。実際のデビュー作となった単発デリンジャーの発売時期から考え、アイバーがこれを悟ったのは1860年代末から1870年頃だと思われる。

 1864年、フィーロックは死に、この年の終わりか翌年の始め、2人の義理の息子、ヘンリー・C・ワーズワースとシルビアン・フォアハンドとパートナーシップを組んで「E.ALLEN&COMPANY」に社名が変更された。少なくとも1870年代に入った頃には、当然社の中でももうペッパーボックスの時代は終わりだという考えが強くなっていただろう。しかし、偉大な創業者であるイーサン・アレンに誰もそれを言い出せなかったのではないだろうか。結局、ペッパーボックスの生産が終了したのは1871年、アレンの死後のことだった。アレンの死後社名は「FOREHAND&WADSWORTH」に変更され、単発デリンジャーやリボルバーを生産し続けたが、この時代の製品にはほとんど見るべきものがない。先進的なアイデアにあふれ、タフで信頼性の高い銃を大量生産して安価に販売し、その販路をほぼ民需に限るというアレンのコンセプトを忠実にひきついだのは、義理の息子たちではなく、一時社に在籍したアイバー・ジョンソンだったような気がする。フォアハンド&ワーズワースは1890年にワーズワースが引退したのち、「FOREHAND ARMS COMPANY」に社名を変更し、1898年フォアハンドが死ぬまで続いた。フォアハンドの死後相続人によって社はホプキンス&アレン社に売却された。またややこしい名前が出てきたが、ホプキンス&アレンの設立メンバーの一人、チャールズ・W・アレンはイーサン・アレンとはまったく無関係のようだ。イーサン・アレンが設立した社の歴史はここで終わったことになる。

 アレンは20代後半に銃器ビジネスに参入し、画期的なリボルビング火器を完成した。アレンのペッパーボックスは少なくとも発売から10年以上にわたってコルトリボルバーよりはるかに有名で、人気があり、商業的に成功していた。そのペッパーボックスは、単発ピストルと初期に時代の技術的限界から伸び悩んだリボルバーとのギャップを埋める橋渡しの役目を果たしたと評価できるだろう。製品はペッパーボックスが中心だったが、単発ピストル、水平二連ピストル、単発デリンジャー、リボルバー、ライフル、ショットガンなど多岐にわたり、いうまでもないがここで紹介したのはごくごく一部にすぎない。その社は初めて大規模な生産活動を行った私的銃器メーカーのうちのひとつ、コルトと並んでインターチェンジブルパーツプリンシプルに基づいてハンドガンを製作した初めての会社のひとつ、19世紀アメリカ最大の銃器メーカーともいわれる。ただ、率直に言えばペッパーボックス以前にも、そしてその後も特別注目に値する製品は作っておらず、まさに銃器史上の「一発屋」と言っていいだろう。それでも、アレンとその社はアメリカのみならず世界の銃器発達史において重要な存在といえる。(この項目は主に資料Cによる)

その後のペッパーボックス
 古典的ペッパーボックスの全盛期は1850年頃までで、その後は衰退に向かい、その役割は南北戦争終了とともにほぼ終わったと考えられる。最後に開発されたパーカッションペッパーボックスは1865年にコンチネンタルアームズが作ったものだとされる。ただ、その後もペッパーボックスに分類される銃の生産は続いた。このタイプでもアメリカとベルギーで代表的な機種が現れており、性格もやや似ている。アメリカのジェームズ・ライトは1865年にナックルダスターとしても使えるリムファイア式リボルバー「マイ・フレンド」のパテントを取得し、1882年頃までに約14000挺を販売した。ベルギーのL・ドルネはピンファイア式ペッパーボックスにナックルダスターと折りたたみナイフを組み合わせた「アパッチ」を製作し1875年に英国のパテントを得ている。この他、一流メーカーのレミントンも1861年にリムファイア式のいわゆる「ジグザグデリンジャー」を作っている。これらの銃は冒頭に掲げた狭義のペッパーボックス定義に合致する。

「アパッチ」

 しかし、これらは古典的ペッパーボックスが進化して生じたものだろうか。筆者は違うと思う。古典的ペッパーボックスの特徴は、バレルグループがフレームにとりかこまれておらず、メカが全て終わったその先にバレルグループがある、というレイアウトだ。例えばこの「アパッチ」にバレルをつけ加え、ナイフを除き、トリガーガードをつけ、グリップを普通の形状にしたところを想像してほしい。この銃は基本レイアウトから明らかに通常型リボルバーの変種であると考えられ、古典的ペッパーボックスとは無関係である。「マイ・フレンド」「ジグザグデリンジャー」の順に古典的ペッパーボックスに近い性格を併せ持つが、やはり総合的に見て古典的ペッパーボックスが進化して生じたものとは思えない。

 逆に、定義上はペッパーボックスに含まれないが、古典的ペッパーボックスから生じたと思われるのは「TRANSITIONAL REVOLVER」と呼ばれるものだ。「TRANSITIONAL」とは「過渡期の」といった意味だが、筆者はこの名称は「ペッパーボックスはリボルバーより古い」「ペッパーボックスがリボルバーに進化した」という誤解を助長する、やや不適切な呼称だと思う。

「トランディショナルリボルバー」

 典型的なトランディショナルリボルバーはこういうものだ。ペッパーボックスの基本レイアウトはそのままに、バレルグループをぶった切って、その先に無理矢理バレルをひっつけたようなスタイルだ。メカが全て終わったその先にシリンダーがあり、バレルは中心軸だけで保持されている。このタイプの銃は主にイギリスで作られたが、コルトリボルバーの影響を受けてペッパーボックスを最小の改造でリボルバー化したものだ。まともなリボルバーよりは安かったが、バレル固定の強度が弱く、軍用には使えなかったという。民間人の自衛用としては一時結構人気があり、世紀の変わり目頃まで生産されたというが、言うまでもなくこういうものが主流になることはありえない。銃器発達の初期段階から存在し、リボルバーとライバル関係にあった古典的ペッパーボックスはかろうじてここまで進化し、ペッパーボックスであること自体を放棄して生き延びようとしたが、ここで力尽きて絶滅したと見るのが正しいと思う。

参考資料 
A 「HANDGUNS OF THE WORLD」 Edward C.Ezell著(アメリカ)
B 「PISTOLS & REVOLVERS」 Major Frederick Myatt M.C.著(イギリス)
C 「FLAYDERMAN’S GUIDE」 Norm Flayderman著(アメリカ)
D 「FIREARMS ASSEMBLY」 NRA(全米ライフル協会)編 
E 「WAFFEN REVUE」10号 この項目はE.Brunnthaler執筆(ドイツ)
F 「FAUSTFEUERWAFFEN」 BRUNO BRUNKNER著(ドイツ)  
G 「COLT FIREARMS」 James E.Serven著(アメリカ)

 






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