1.12 リボルバーの完璧化(頑住吉注:「Perfectionierung der Revolver」。「Perfectionierung」は「パーフェクトにすること」で、要するに初期のリボルバーの不完全、不満足な構造がいかに現在のようなほとんど発展の余地のないものになったかを語っていくわけで、いくつかの部分に分かれた、これまでとは比較にならないくらい長い章になります)

 モダンなリボルバーの開発は3つの国に集中している。すなわちアメリカ、イギリス、ベルギーである。それ(頑住吉注:モダンなリボルバーの開発)は精力的なアメリカ人Samuel Coltによるハンマー上に関節結合されたシリンダーハンドの再発明とともに始まり、本質的には最初の信頼性の高いセルフローディングピストルであるモーゼルのモデルC96およびブローニングのモデル1900の出現によって終わった。北アメリカとイギリスでは、開発は大きな国内市場によって可能になった。それは前世紀(頑住吉注:19世紀)半ば頃、アメリカでは西部および南部への拡張と独立戦争によって、イギリスでは世界帝国の拡張と強化によって生じた。ベルギーは事情が違っていた。ベルギーでは銃器メーカーは彼らの製品を国外の大きなマーケット向けに製造しなくてはならなかった。その際当然価格に関しても競争がなされた。このことはしばしば、ターゲット国内において製品のクオリティが十把ひとからげで疑念を抱かれるという結果を招いた。今日ベルギー製銃器の品質は全般的に評価されている。

 他諸国でも同様に開発への貢献がなされた。これに関しては特にフランスが挙げられる。そこでは興味深い構造が生じた。

 今日リボルバーはその初期における軍用銃としての重要性を完全に失った。アメリカではリボルバーはまだかなりの程度まで警察の装備に属している。ここでもセルフローディングピストルがゆっくりと地盤を固めているにしてもである(頑住吉注:これはこの本が書かれた1983年における認識であり、ご存知の通りその後オートピストルはアメリカ警察においても急速に浸透しました)。そういうわけで本当の意味での実用リボルバーのための新構造は稀である。(頑住吉注:スターム)ルガーはこれにおける例外である。こうした事情に反して、スポーツ射撃のいろいろな種類向けのリボルバーマーケットは繁栄している。この結果チェコスロバキアやロシアにおいてさえもユニークなスポーツ銃が設計され、作られた。アメリカでは、こうした開発がいろいろなマグナム弾薬の導入、そしてシングルアクションリボルバーのルネッサンスに向けた開発を導いている。

 以下リボルバーの発展を、最も重要な諸段階に関して追究していく。

1.12.1 コルトの貢献とシングルアクションリボルバー
 
 コルトの名はリボルバーと密接に結びついているので、その名は長年来リボルバーの同義語になっている。サミュエル コルトは1814年コネチカット州ハートフォードで生まれた。彼は1862年、波乱に富んだ人生の後に同じ地で死んだ。本人の言によれば、彼はすでに20代の初めにはリボルバー用のシリンダー回転装置を発明していた。我々がすでに知っているように、コルトはこの発明をなした最初の人物ではなかった。彼はその発明に関し、1835年にはイギリスの、1836年および1839年にはアメリカのパテントを得た。コルトはエネルギッシュに彼のアイデアの利用を進め、1836年ニュージャージー州パターソンに銃器工場を設立した。そこではコレクターから切望されるパターソンリボルバーが製造された。そのパターソンにおける製造場所は1843年にはすでに閉鎖されなければならなかったが、コルトは1847年に大規模な政府による注文を得た。彼はWhitneyvilleにおけるEli Whitney設立による機械工場でそれに応えた。Eli Whitney(当時すでに生存していなかった)は機械による精密量産を施設に導入しており、これによって交換可能な部品の製造が可能になった(頑住吉注:それまで銃の部品は職人が手作業でフィットさせており、同じ部品でも他の銃と交換できなかったが、これを可能にしたということで、英語では「インターチェンジブルパーツプリンシプル」と呼ばれるようです。)。

 コルトの成功は確実に一部はこの進歩に原因が求められ、それはWhitneyの技術だった。同時に、彼によって使用されたパーカッション点火方式の当時における優越、コックの際のシリンダーの自動回転、成功を求める彼の行動力が決定的だった。1848年にはすでに彼は生産をハートフォードにおける自分の企業内において開始することができた。1856年にはハンマーの動きと連動するシリンダー回転のアメリカにおけるパテント保護が終了し、アメリカにおけるリボルバー開発への道がフリーになった。

 図1-29はコルトのネービーリボルバー(モデル1851)の断面図を示している(頑住吉注:ネット上にパーツ展開図があったんでこちらを見てください http://www.coltparts.com/pt_51navy.html )。(1)(頑住吉注:ネット上の展開図では15)はチャンバー内に後方からねじ込まれた点火円錐、(2)(頑住吉注:12)はレバー、(3)(頑住吉注:17)は弾丸セッターである。初期のコルトリボルバーに特徴的なのは、シリンダー上のブリッジの欠如である(頑住吉注:フレームがシリンダー上をカバーしていないことを指しています)。バレルはフレーム(頑住吉注:7)内にねじ込まれた太いシリンダー軸(頑住吉注:31)上に1本のクサビ(頑住吉注:3)によって保持されている。この銃は.36口径=9.1mmで製造された。ハンマー上に関節結合されたシリンダーハンドは1本のスプリングによって前方に押され、その端部でシリンダーに固定された歯車の歯の1つをつかんでいる。シリンダーストップは下から、フレームのスリットを通ってシリンダーにある切り欠きをグリップしている。この銃はハンマーのコックによって発射準備ができる。ハンマーの運動の始めに際し、まずシリンダーストップが外れ、これによってシリンダーは回転がフリーになる。その後シリンダーハンドはシリンダーを60度(6連発銃の場合)回転させる。回転運動の終わりはシリンダーストップのかみ合いによって行われる。コルトのパテントは、切り替えレバー装置として形成され、シリンダーハンド、歯車、シリンダーストップからなるシリンダー回転メカニズム、そして「間ブリッジ」(頑住吉注:パーティション)を持つ点火円錐の水平配置を保護していた。この点火円錐の間のブリッジは、ハンマーに打撃されたプライマーの火による隣接したプライマーの点火の伝導(頑住吉注:連鎖反応的発火)を妨げ、そしてこれによって銃の安全性と信頼性を本質的に改善する意味において重要だった。

 1851年、コルトは彼の銃をロンドンにおける大博覧会(頑住吉注:第1回万国博覧会のことです。 http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/hakurankai/banpaku.html )に出品した。この博覧会は彼にとって大きな成功であり、彼の銃は抜群の評価を下された。同時に彼はロンドンにおける後の生産のための適したスペースを探した。そして彼は1853年にはすでにロンドンのPimlicoにあるThames Bankにおいてリボルバーの製造を始めた。コルトがいかにこのシチュエーションを重要視していたかは、1854年から1857年までの時期にイギリス国防省に40,000挺のネービーリボルバーを供給したことが示している。それにもかかわらずコルトが1857年にロンドンにおける彼の工場を閉鎖したことに関しては2つの理由が決定的だったと思われる。コネチカット州ハートフォードにおける彼の生産場所はそうこうするうちに拡張され、その結果外国からのより大きな注文にも対応できるようになっていた。その上彼のイギリスにおけるパテントは1851年に失効し、ライバルの銃が良好だったため、.44口径のアダムスリボルバーがイギリス国防省からオフィシャルに全ての兵器部門に採用されたのである(1856年のことらしい)。

 ロンドンにおけるコルトの活動は、大きな関心から来るリボルバーの発達と普及とのつながりでのみではなく、この地ですでに当時、より精度の高いクオリティ製品製造のためのモダンなアメリカの手法が、イギリスのライフルギルドの旧式化した方法と出会ったということでも注目される。イギリスではコルトに対する、彼の製品と手法が誤っているという事実に即さない攻撃に事欠かなかった。事実、イギリスのライフル工たち(彼らの手作業は長年の修行の中で培われたものだった)の言い分は受容できないものだったに違いないと思われる。コルトはアメリカ製の機械と、ハートフォードで養成されたアメリカ人の職長たち、そして教育を受けたイギリス人の労働者たちを使って品質の高い銃を作った(我々は技術的教育を受けていない人々の間における、機械加工に対するこうした偏見に今日なお遭遇する。イギリスに限らずである。銃器に関して言えば、手作業の重要性は価値が低いとされる機械加工と違ってしばしば高いものに仕立て上げられている。だがしかし、能力の高い人が機械を操れば、そのときその製品はよいものになるに違いないのである。しかしもし人が手作業に割り当てられれば、そのより正確なはめあいの製造を行うためには不良品率が高くなり、その結果それでなくても高い銃器の価格はずっと高くなるはずである)。

 ともあれコルトの製品は比較できるイギリス製銃器よりも、安価でベターであることを証明した。そしてコルトの工場における労働条件と賃金は平均以上だった(頑住吉注:この根拠となる当時のレポートに関する記述らしいものがまだ少し続いていますが、意味がよく分からず、あまり重要とも思えないので飛ばします)。

 1873年、コルト社は同社初の金属弾薬用に作られたシングルアクションリボルバーをマーケットに持ち込んだ。まず初めにはニューモデルアーミー メタリックカートリッジ リボルビングピストルと呼ばれたこの銃は、「シングルアクションアーミーリボルバー」、「フロンティアシックスシューター」、モデル「P」、そしていくらかアイロニカルな「ピースメーカー」(平和をもたらすもの)の名の下に有名になることになる。この銃はおそらく全てのハンドガンの中でもっとも長く、ほとんど変更されずに製造された。まずは1873年から1941年までであり、これは少ない需要と戦争の勃発がさらなる生産を妨げたときである。1955年には製造が再開され、1981年まで継続された。この銃はシリアルナンバー165000まではブラックパウダー用に作られ、その後はニトロパウダー(頑住吉注:無煙火薬)がロードされた弾薬用となった。

 シングルアクションアーミーリボルバーは、その長い生産の経過の中で、多くの異なる弾薬用に作られた。口径.22ショートに始まり、口径.476エレーに至るまでである。口径.45仕様リボルバーは1875年から1892年までアメリカ陸軍における公用銃だった。

 図1-30ではこの銃が断面図で表現されている(頑住吉注:この銃の構造は周知だと思いますが、必要ならここを見てください http://www.coltparts.com/pt_saa1.html )。コルトネービーリボルバーモデル1851との比較は、これらの銃の近い親類関係を示す。発火機構およびシリンダー回転メカニズムは似ている。シングルアクションアーミーリボルバーのフレームは、弾丸セッターの廃止のため決定的により単純になっている。図1-31では発火メカニズムが図式で表現されている。ハンマー(1)のコック時、シリンダーストップは「連れて行くカム」(5 頑住吉注:ハンマー上にある、シリンダーストップを動かす突起のことです)によって(図示されていない)シリンダーの切り込みから外される。この結果シリンダーはフリーになる。その後シリンダーハンド(3)はシリンダーを回転させる。その間に「連れて行くカム」から離脱したシリンダーストップによって再び固定保持されるまでである。ハンマー上にあてがわれたシリンダーストップのサイドは上部に傾斜がつけられ、この結果このスプリングのテンションがかけられたパーツはハンマーが落ちる際に「連れて行くカム」をかわすことができる。ハンマーはセーフティノッチ、装填ノッチ、コッキングノッチを装備している。ハンマーを装填ノッチに置くと、シリンダーストップはシリンダーをフリーにする。

 スミス&ウェッソンはコルトより前の1870年に大口径シングルアクションリボルバーを登場させていた。すなわちモデルNo.3である。この傾斜バレル(頑住吉注:中折れ式)銃はいろいろな型で1910年まで作られた。たぶん最も有名なのはモデルNo.3ロシアンとニューモデルNo.3ターゲットだろう。前者は.44ロシアン弾薬用に作られ、1872年頃から1898年までロシア陸軍が公用銃として使用した。ターゲットモデルは世紀の変わり目頃ターゲットシューターに大いに好まれた。その中には有名な名シューターIra PaineとWalther Winansがいた。1875〜1878年、モデルNo.3リボルバーは同様にアメリカ陸軍にも購入された。ただし.45口径の8250挺である。この銃はSchofield大佐の言い分に従っていくつかの点がノーマルなモデルNo.3から変更されていた。そういうわけで、この銃はスコーフィールドリボルバーと呼ばれる。

 図1-32はこの銃を一部断面で示している(頑住吉注:これはウベルティのレプリカのパーツ展開図ですが、大差はないはずです。 http://www.ubertireplicas.com/parts/partSearch.pl-model=SchofieldRevolver.htm )。この銃の場合、シリンダーストップはコルトと違ってハンマー上にあるカムによっては動かされなかった。そうではなく、中間レバーの役目を果すトリガー上のシリンダーストップの動きは、「あやつるカーブ」を形成するハンマーの腹によって引き起こされた(頑住吉注:ハンマーのカーブがカムの役割を果たしてトリガーを動かし、この動きがこれに連動するシリンダーストップに伝達される、ということです)。倒れたハンマーがわずかに起こされると、トリガーはセーフティノッチの突出から落下する(頑住吉注:要するにトリガーの引きとは反対、前方に動くということです)。これによりシリンダーストップの後端は上に動き、(頑住吉注:軸をはさんだ)シリンダーストップ本体は下降してシリンダーをフリーにする。コッキングノッチとハンマー軸の距離は、セーフティノッチと軸の距離よりも大きい。これによりハンマーのコックされた位置ではシリンダーストップはシリンダー回転が終わったとき再びシリンダー周囲の阻止ノッチとかみ合う。

(頑住吉注:本ではもっと広範囲にイラスト化しているんですが、私の力ではかえって分かりにくくなると思うので、核心部分のみ示しました)

 ドイツのアーミーリボルバー、79型(「Reichsrevolver」、口径10.6mm 頑住吉注:「帝国リボルバー」)および83型(それぞれ1879年、1883年以後陸軍に導入)は、原理上ここで記述したS&W モデルNo.3と似た発火機構を持っていた(頑住吉注: http://www.simpsonltd.com/product_info.php?products_id=3137  http://www.horstheld.com/0-Reichsrevolver.htm 第二次大戦終戦まで補助的に使われた、日本で言えば二十六年式拳銃に相当するドイツのリボルバーです。どうでもいいですけど個人的にはスマートなデザインとは言いがたい二十六年式拳銃よりさらにカッコ悪いデザインだと思います。ちょっと作ってみたい気もしますが絶対売れないでしょうね)。

 世紀の変わり目の前、一般に、できるだけ少ないパーツおよびスプリングを持つ単純な発火機構の、その上簡単にクリーニングできるミリタリーリボルバーが非常に尊重された。

 図1-33はナガンリボルバーモデル1883の断面図を示している。この銃は天才的に単純なシングルアクションアクション発火機構を持つ。この発火機構は4つのパーツからなる。すなわち、ハンマー、シリンダーハンド、トリガー本体、メインスプリングである。トリガー本体は上部に突起を備えている。この突起はハンマーをセーフティレスト位置に非常に確実にホールドする。このセーフティレストの形式はメカニズム上、非常に薄いくちばし部を要求し、セーフティレスト同様簡単に壊れる可能性があるコルト シングルアクションアーミーリボルバーのそれより決定的にベターである。メインスプリングの1本の脚はハンマーに作用し、下の脚は同時にシリンダーハンドとトリガーに作用する。シリンダーの拘束はトリガー本体にある阻止ノーズによって引き起こされる。

(頑住吉注:詳しい説明がないのでよく分からないのですが、このリボルバーはDAやガスシールが導入される前のシンプルなSAモデルらしいです。これはトリガーを引いていない携帯状態で、トリガーの上方への突起がハンマーの前進を阻んでいるのでハンマーノーズがプライマーに触れることはありません。図が小さすぎてノッチがはっきりしないんですが、SAのコックは現代のDAリボルバーのSAのような形で行われるようです。トリガーを引くとトリガーとハンマーのかみ合いは外れ、ハンマーは倒れますが、トリガーを引いた状態ではトリガーの上方への突起はハンマーの前進を邪魔せず、ハンマーノーズはプライマーを突いて発射となります。この後トリガーを放すとスプリングの力関係でトリガーの上方への突起がハンマーを押し戻してこの状態に戻るわけです。)


 これまでこの人の書く内容を読んできて、ドイツ人の作ったものをことさらに持ち上げるような傾向は比較的薄いという気がしています。この文中でもドイツはリボルバーの発達にさほど大きな貢献はしておらず、ドイツ製ミリタリーリボルバーの代表機種であるライヒスリボルバーのシステムがアメリカ製品の亜流であることも認めています。

 しかしドイツ人は一般にアメリカ人やその作ったものに対する評価が辛い傾向にあり、この人のコルトに関する記述にも、「コルトの業績は言われているほどたいしたものではない」というトーンがそこはかとなく感じられます。例えばハンマーと連動するシリンダーハンドはコルトが初めて発明したものではないとか、インターチェンジブルパーツプリンシプルはすでに新技術を導入していた他人の施設で一時生産を行ったときに会得されたものだとか、イギリスでアダムスリボルバーに負け、SAシステムの安全性では初期ナガンリボルバーの方が決定的にベターであったとか、婉曲に彼の手法が強引だったことが成功の要因だったと言っているかのような記述ですね。まあ嘘を書いているわけではないんでしょうけど、ややバイアスかかっているかなという感じです。

 とは言うものの、我々は銃器に関してどうしても主にアメリカからの情報に接する機会が多く、アメリカ人にもドイツ人や日本人同様自国の製品や偉人を持ち上げすぎる傾向はあるはずですから、ちょっと逆方向のバイアスがかかってるっぽいこうした評価も一種の中和剤として有効かもしれません。ちなみに、アメリカ人に点が辛いと言ってもブローニングだけは例外のようで、さすがにブローニングはたいしたことないといった記述にはお目にかかったことがありません。それほど偉大な人物だということなんでしょうが、あるいはヨーロッパメーカーと密接に結びついた人物だからという要因も一部あるのかも知れません。

 途中で入ってきた、「職人技による手作業を必要以上に有難がってはいかんよ」というお説教みたいな部分も、やや唐突な感じはしますが、なかなか興味深い論でした。







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