ショーシャ機関銃 その1

 第一次大戦中の悪名高い機関銃、ショーシャ1915に関するページの内容を紹介します。原ページが2つに分かれており、全体では非常に長いので紹介も2つに分けます。全体的に「ショーシャ再評価」と言えるようなちょっと意外なトーンであり、後篇の終わり頃には思いがけない新説が紹介されています。

http://www.360doc.com/content/11/0217/23/160778_93929291.shtml


CHAUCHAT Mle 1915

「ああした自動小銃(第一次大戦期、多くの人はショーシャのような自動火器を「自動小銃」と呼んだ)分隊は機関銃同様に自分のショーシャを使用した。距離が私に最も近かったのはChas H Luckenbaugh伍長が指揮する第5分隊で、この分隊の射手Parsonsは塹壕内にすでに敵の姿が見えないのに気付き、ショーシャを抱いて塹壕の上の胸の高さの壁に這い上がり、敵に対し肩付け射撃を実施した。そこには叫び声も苦痛に泣き叫ぶ声もなく、各人は皆黙々とParsonsらに続いた。勇敢にして断固たる態度であり、彼らの共同の目標は敵の撃滅に他ならなかった。全ての者が沈着に応戦し、彼らはすでに自分の身の安否を完全に忘れていた。我々とドイツ人はいずれも似たような武器を持ち、我々の側は小銃とショーシャ、ドイツ人側は小銃と機関銃だった。」

アメリカ軍第3歩兵師団第30/38歩兵連隊のC.W.Ryan大尉の回想部分。「The Keypoint of the Marne」より。1930年、Edmund L. Butts著

フランスのショーシャ自動小銃(ここで言う自動小銃と、今日の小火器専門用語の中の自動小銃は異なる)は有史以来不当な批判意見に遭うことが最も多い自動火器である。過去において技術関係の書籍や戦後の歴史資料の中にはしばしば「疑いもなく最悪のもの」、「歴史上最も馬鹿げた、かさばって重い代物」、「問題が最も多かった物」、「まずいこと極まりなし」等の言葉でショーシャは形容されてきた。だが他方では、逆に多くの公文書資料はショーシャ射手たちがかつてこの武器を使ってドイツ人の波状攻撃を撃退し、戦場の形勢を逆転させたことを示している。最近、軍事歴史学界ではどんどん多くの人が次第に認識するに至っているところである。このような辛辣で手厳しい批判が実はどのくらいオーバーで実際とかけ離れているのかを。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「フランスの教官がアメリカ軍兵士のためにショーシャ機関銃の使用要領を解説しているところ。」)

ショーシャ大尉の創造

ホチキスM1900とM1914は実践の中でいずれも信頼性が高く有効な重機関銃であると証明された。だがフランス軍はずっとより軽く精巧で、より廉価で、しかも大量生産できて歩兵に大量装備するのに用いる自動火器を探し求めていた。当時の軍事関係の出版物にはすでにいくつかの、フランスの戦術研究者たちの言う「行進火力」(Walking Fire)について詳しく述べた論文が掲載されていた。すなわち前進中の兵士がスタンディングで射撃する自動火器であり、塹壕の中の敵守備隊を制圧し、有効な抵抗を行えなくさせるものである。

フランス人はこの種の軽量型自動火器に対し探求を行ったことがあった。その中の1つの試みこそベネット・メルシェM1909式自動小銃で、あるいは「軽量型ホチキス」と呼ばれた。もう1つの有益な試みはBerthier M1908式である(頑住吉注:検索してもそれらしい情報に行き当たりません)。維持メンテナンスが正確に行われれば、この2種の自動火器はいずれも比較的良好な精度と信頼性を持っていた。ただしそれらの製造価格は非常に高く、かつ操作が煩雑だった。当時液圧プレス機等の工業技術が急速に発展しているところで、厚くて重い金属板の切断と成型が容易に実現されるようになった。過去の小火器は大部分塊状のソリッドなスチール材を利用し、フライスによる切削やボール盤による加工などの機械加工による方法で製造されていた。だがもしプレスによる打ち抜きや成型が採用できれば、低コストの大量生産が完全に実現できる。

1903年から1910年、フランス陸軍大尉Louis Chauchatと軍兵器技術者Charles SutterはPuteauxの兵器製造工場で協力して数種の半自動および全自動の小銃を開発した。この一連の成果の中で最も優れたものは、構造が簡単で人を驚かせる自動火器に他ならなかった。この鋼管と鋼板をリベット留めして作られた武器はテスト中その場にいたあらゆる人を感動させ、研究開発が続けられることになった。1913年になり、このショーシャ・サッター自動小銃(Chauchat/Sutter Fusil Mitrailleur)と呼ばれる武器はすでに成熟しており、ほどなくSt.EtieneのMAS工場で生産が開始された(初期型はショーシャ1913式と呼ばれた)。最初の100挺のショーシャは本来地上火器として予定されていたが、後に航空火器方面の競争の形勢が日増しに厳しくなったため、これらのショーシャは緊急に航空機に搭載され、偵察員の使用する自衛火器として供された。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「フランス陸軍第53植民地歩兵連隊のあるカーキ色の布製の制服を着たショーシャ射手。1916年9月。彼の左手のショーシャにはフラッシュハイダーが装備されておらず、初期タイプに属するに違いないと判断できる。彼が右手に持っているのもあまり見ない物、Ruby半自動拳銃である。ショーシャを除き、この射手が身に着けている最も目立つ装備は、2つの非常に大きな半円形の革バッグに違いない。この革バッグにはそれぞれ2つのマガジンが携帯できる。ただし実際には射手が素早く伏せて戦闘準備する時、このような革バッグは往々にして造形が少しまずいマガジンをぶつけて壊すことから保護することが難しく、その結果はしょっちゅう起こる給弾の故障だった。」)

戦時の急儒

1914年末になると、戦前のフランスの、攻撃以外のあらゆる戦術に対する蔑視はすでにフランス軍を悲惨で重大な死傷に遭遇させており、このことはフランスに止むを得ず改めてこの全く新しい戦争の苦痛な現実を詳しく直視させた。交戦する双方の非常に長い塹壕による防衛線の間では、火砲と機関銃が中間無人地帯における絶対の支配者だった。取り得る限られた突破と進撃の中では、火力はすでに極度に重要な要素になっていた。普通のボルトアクション式ライフルではすでに戦術的突破の要求を満足させられなかった。フランス軍は機関銃を必要とした。機関銃は多ければ多いほどよかった。しかも最速での部隊装備が必要だった。この要求に直面し、ショーシャ(この時すでに大佐に昇進)の設計は疑いなく合理的解決方案だった。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「バイポッドを開いた1915式ショーシャ機関銃。この銃はスチール製のパイプ材やプレス部品を大量に採用し、機械加工部品は比較的少なく、このことはショーシャに大きなメリットをもたらした。すなわちコストの低廉と迅速な生産である。」 続いて2枚目。「これはアメリカの軍事史画家による第一次大戦期のマルヌ川戦役を題材にした作品、「The Rock of the Marne」である。作品中ではアメリカ軍第3歩兵師団の兵士たちがMezyを頑強に守備する作戦中であり、これは1917年7月のことである。画面全体の主要な位置を占める武器こそフランス製8mmショーシャ機関銃である。」 この会戦ではフランスが勝利し、その後双方が塹壕にこもって膠着状態になっていきます)

情勢は緊迫し、フランス軍総参謀長Joffre将軍は1915年に緊急の注文書にサインした。これは50,000挺のショーシャ・サッター自動小銃の購入を要求するものだった。この注文書はパリに所在するGladiator自転車/自動車製造会社に交付され、要求に基づき同社はフランス軍のために木製ストックとバイポッドを装備した陸軍型ショーシャを製造した。大量生産型のショーシャ機関銃は実際にはそれ以前のショーシャ1913式の改良型で、この銃の最も顕著な改良個所は、新たに調整されたレシーバー下方の半円型マガジンの装着位置だった。非常に大きな半円形マガジン自体は変更されず、マガジンがこのような形状になったのは、やはりテーパーが非常にきつい8mmレベル小銃弾薬のせいだった。量産型ショーシャは正式にショーシャ・サッター1915式自動小銃(Fusil Mitrailleur 1915 CSRG)と命名された。Fusil Mitrailleur は自動小銃を表し、CSRGは設計者ChauchatとSutter、生産請負人Paul Ribeyrolles、そしてGladiator社という4者の名前の略である。生産の過程で、ショーシャ大佐は全体の加工製造の流れの監督を担当した。

ショーシャ1915の製造は元々批判される点がすこぶる多く、この銃の部品が多くの能力的に比較的劣った下請け企業由来だったことを指摘している資料もある。だが歴史資料によれば、バレル(Chatellerault社が製造)およびバレルジャケット(Peugeot社が製造)を除き、その他の全ての部品はGladiator社で製造された。しかも個性に満ちたショーシャ大佐も低い基準を用いた品質の劣る部品で自分の名をつけた機関銃を製造することを許すことはありそうにない。当然これはショーシャに欠点がなかったと言っているのではない。この銃のまずいマガジンはまさに1つの固有の欠陥である。人をして不可解にさせるのは、ショーシャ1913式においてフランス人はすでに早くもはっきりとこの問題を認識していたにもかかわらず、ずっと良好に解決することができなかったことである。

Gladiator社はショーシャ機関銃の量産始動作業において多くの深刻な問題に遭遇し、生産の進度は遅れに遅れ、1916年秋になってフランス軍はやっと本当に合格点の出せるショーシャを大量に受領し始めたと言える。初期の作戦使用中、多くの戦地の報告は申し合わせたかのようにショーシャ機関銃を批判していた。材料の品質が悪い、あるいは熱処理が不良のため、容易にボルトとエキストラクターの断裂が起きるというのである。ショーシャ機関銃の外観が醜くまずいものであり、露出する金属部品や木製部品も細かい処理を経ておらず、明らかに非常に粗雑だったことは否定できない。ショーシャ機関銃を受領したばかりのフランス軍兵士に対し、このようなただまっすぐのストック、単に四角いだけのグリップ、工具のグリップのようなフォアグリップ、パイプ状のレシーバー、そして粗末なプレス部品による機関銃は、間違いなく一定の期間好感と信頼を獲得することはできなかった。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「これは1918年9〜10月のMeuse‐Argonne戦役の情景を再現した写真である。写真の中で1人のアメリカの遠征軍の兵士が手に1915式ショーシャ・サッター軽機関銃を持ち、隠れて戦機を待ち、いつでもドイツ軍の機関銃チームを狩り殺そうとしているところである。ショーシャ機関銃の下部に寸法が比較的大きい半円形のマガジンが装着されているのを見ることができるが、戦闘中の携行は明らかに非常に不便だった。欠点に関して言うなら、これはショーシャの正真正銘の欠点と言える。ショーシャ機関銃のグリップ前方の離れていない場所には造形が奇怪で、何らかの種類の工具のグリップにすこぶる似たところのあるフォアグリップが装備されている。このグリップは容易に人をしてキリや工業設備のハンドルを連想させる。このフォアグリップはプローンでの射撃時にのみ本当に有用で、この時射手は両肘を接地させ、右手でグリップを握り、左手でフォアグリップを握り、比較的快適な射撃姿勢を獲得した。」 続いて2枚目。「ショーシャ機関銃の左側面の特写。この銃の製造中、液圧プレス打ち抜き機、溶接、リベット留め等の技術が使用されたことが見て取れる。これは疑いなく大量生産のために有利な条件を創造した。ショーシャ機関銃のスリングリングの配置は合理的で、この銃はレシーバー左側に突出物がなく、射手の行軍過程における携行は比較的快適だった。銃本体側面の星型のマークおよびSIDARMEの文字は、このシリアルナンバー18774のショーシャがSt. Chamondに所在するFAMH社が製造した20,000挺余りのショーシャの中の1挺であることを示している。当時Gladiator社の生産速度はすでにフランス軍の需要を満足させられなかった。銃本体下方の外形が比較的大きなマガジンキャッチに注意されたし。この部品も1つの部品で2つの役割を持ち、突出した両端は折りたたんだ状態のバイポッドの支えとして使える。」 続いて3枚目。「ショーシャM1915機関銃の構造図。その中の主要な部品には全てフランス語で表示がある。この図は1917年9月に印刷されたショーシャM1915式機関銃のマニュアルからのものである。」)

フランス式戦術運用

将兵たちにショーシャを熟知させるため、フランス軍は専門にパリ郊外に自動小銃訓練養成学校を建設した。ここでは主にフランス軍の教官が訓練養成され、その後さらに彼らによって各野戦部隊の2人による機関銃チームに対し訓練養成が行われた。当初2人による機関銃チームの訓練養成課程は1週間だったが、フランス軍はほどなく訓練養成期間を2週間に増加することを決定し、もって射手と弾薬手をこの多少奇妙なところのある武器に真に精通させるのに便利とした。

ショーシャの使用教程の核心的内容は、煩をいとわず「行進火力」の使用要領を訓練することだった。「行進火力」の使用時、射手と弾薬手は射撃しながら目標に向かって行進し、射手は射撃を担当し、弾薬手は装填を手伝い、火力が途切れるのを防止した。実際には手にショーシャを持って行進間射撃を実施するのは容易なことではなかった。ショーシャは全長が長すぎ、しかも重心が比較的前寄りで、マガジンのレイアウトも不便だったからである。目標から遠く離れた平原で訓練を行っても簡単ではなく、ましてや着弾による穴や鉄条網だらけで泥まみれの戦場でふらつきながら前進する困難は言うまでもなかった。行進間射撃の過程で、射手はスリングを利用して武器保持の助けとしてもよいが、それでもストックをしっかりと保持することに注意しなければならなかった。ショーシャ機関銃はロングリコイル原理の作動を採用しており、もし銃本体の固定が不安定だと作動に付随した動きが発生し、ボルトが自動作動を正常に完成させられない結果をもたらす可能性があった(頑住吉注:オートピストルでも保持が甘いとジャムしやすくなりますが、ロングリコイルの場合も同様、あるいはもっと敏感だったかも知れません)。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「1920年代に印刷された雑誌の挿絵(これは実は戦争後期のフランス軍機関銃殲滅チームの写真をトリミングして作った挿絵である)。その中にはフランス歩兵およびその使用する武器装備が表現されている。図中左から順に、ショーシャ機関銃射手、VB小銃擲弾兵、小銃/弾薬手、手に2発の手榴弾を握った投弾手、第2の小銃/弾薬手。1918年になると、フランス軍はすでにショーシャ、ライフルグレネード、手榴弾の組み合わせによる使用に相当に熟練し、多くの歩兵分隊にショーシャを用いる機関銃チームを作った。実戦において機関銃チームは日増しに増加するドイツ軍軽、重機関銃チームの脅威を有効に減少させた。彼らはしばしば、直接突撃の方式を用いてドイツ軍軽、重機関銃チームを殲滅した(実際にはこの種の行動の危険性は極めて大きかった。ドイツ軍の機関銃の有効射程は相対的により大きかったからである)。」 続いて2枚目。「これは珍しいショーシャの実戦写真である。アメリカ軍第35歩兵師団第137歩兵連隊の兵士が丹念に構築した防御陣地内でショーシャ1915を用いドイツ軍哨戒所に向け射撃しているところ。Amphersbach付近で撮影。1918年8月29日。弾薬手が正しくいつでもショーシャに新しいマガジンを装着できるよう準備していることが見て取れる。彼の肩にかかる弾薬袋のベルトに注意されたし。」)

行進間射撃以外の、ショーシャのもう1つの重要な射撃方式はバイポッドを利用して支えて行うプローンでの射撃だった。プローン射撃は射手に必ずより注意深くすることを要求した。この主な原因は、ショーシャの人間工学的設計が実際にところ人をしてあえてお世辞を言わせないものだったからである。プローンでの射撃時、射手はショーシャの後方に伏せ、ストックを自分の肩に当て、右目は照準具の後方に位置させ、頬とレシーバー外殻後端のカバーとを接触させた。このように射撃すると頬にぶつかる痛みを感じることがあった。このためフランスの兵士はショーシャに「顔を引っぱたく銃」(smack。フランス語ではla gifle)というあだ名をつけた。頬にぶつかる問題は多くの射手に、ショーシャの操作時に恐怖心を抱かせた。訓練中フランス軍は射手に体をできるだけ左に傾け、頬をレシーバー後端のカバーの前に位置させることを要求した。こうすれば頬骨にぶつかって傷つける問題は部分的に克服できた。この他、射手はさらにストックをしっかり肩に当て、ショーシャが安定して保持されることを確保し、スムーズにロングリコイルの作動を完成させることを要求された。これら全ての要求には間違いなくいくつか煩雑でしかも充分自然とは言えない部分があったが、必要性は非常に高かったのである。

興味深いのは、ショーシャの射撃教程の大部分は重点をこの銃の半自動射撃方式に置き、何故ならこうした方がより有効だから、とされていることだ。このようなやり方には一定の真実性があるかもしれず(ただし全部ではない)、弾薬も節約できるが、このやり方は明らかにこの自動火器(その本質はまさに軽機関銃)開発当初の初志と矛盾する。当時行われた詳細な射撃テストの結果報告から、我々はフランス人がやはりショーシャの発射速度を非常に重視していたことを見て取ることができ、この報告はショーシャのテスト中における発射速度不足を指摘している。もし銃がクリーンで良好に潤滑されている状況下でも、ショーシャは全自動発射300発の後ではやはり頻繁に加熱により作動停止した。射手たちの報告は、彼らが止むを得ず数分間以上待ってバレルおよびそのジャケットの温度を低下させ、もってバレルが新たに前方にスライドして閉鎖を完成させやすくした、としている。もし銃のクリーン度が悪く、あるいは汚れの堆積が深刻だと、ショーシャはすぐに作動停止することがあり、その後射手は直ちに最も口汚ない言葉で罵りながら可愛らしい拳銃を抜いて自衛することになるのだった。

フランス軍が頻繁に接した報告は、少なからぬショーシャが戦闘が原因でない損傷で止むを得ず工場に送り返されて修理されたとしている。その原因も別に不思議ではなく、始末の悪い故障を排除するため、目を血走らせた射手が何でもいいから手元にあるものでこのかさばって重いショーシャを乱打したのである。ある時にはもっとはっきりと落胆のためだった。このようにショーシャを「虐待」した兵士はひとたび見つかれば厳しい罰を受けることになったが、依然戦場における兵士たちのこうした無意識の行動を阻止することはできなかった。これに比べると、フランス軍部はショーシャの設計者や製造者に対してはずっと「寛容」だったと言え、彼らは設計者や製造者に同様の厳しい罰を与えることはなかった。だがまさに設計者や製造者こそフランス軍のためにこのようなシステム設計に問題の存在する武器を提供したのである。

ショーシャ使用の問題に関し、フランス軍は以前から近距離射撃を強調していた。これはこの銃の正確度が低いという問題を部分的に埋め合わせることができた。こうした結果になる主な原因は、この銃が採用したロングリコイルシステム、バイポッドの安定効果不良、照準具の位置不適当などのせいだった。フランス軍は単体目標に対する射撃距離100〜200mを要求したが、ドイツ軍の軽機関銃チームがこうした少数の群がった敵を射撃する時の最大距離は400mとされていた。

ショーシャ機関銃チームの2名のメンバーは通常大量の弾薬を身に付けて携帯していた。射手は腰のベルト上で2つの特製の半円形革製マガジンバッグを携帯し、それぞれのマガジンバッグには2つの20連マガジンが収納できた。この他、特製のキャンバス製背負い袋内にも定数を超えたマガジンを携帯できた。初期型の背負い袋は12個のマガジンが収納でき、一方後期型の背負い袋は8つのマガジンと、その他に64発の箱入り弾薬を収納できた。射手の標準個人自衛武器はスペイン製の.32インチ口径ルビー半自動拳銃で、通常拳銃は腰のベルト後方のホルスター内に収納された。

弾薬手は通常特製のキャンバス製背負い袋を背負い、同時に4つのマガジンが入ったマガジンバッグを携帯した。弾薬手の武器はボルトアクション式の8mm小銃あるいはカービン銃だった。ただしその任務の属性から、小銃は多くの場合常に背負っているだけで、頻繁に使用されはしなかった。

(頑住吉注:原ページのここにある1枚目の画像のキャプションです。「フランス製の改造型ショーシャ1918式機関銃はアメリカの.30-06弾薬を発射できた。その外観上の最もはっきりした特徴は強化リブのついた湾曲したショートマガジンで、この他フォアグリップもマガジン前方に移動していた。画像のショーシャ1918には対空サイトが装着されている。テーパーのきつい8mmレベル小銃弾薬からほとんどテーパーのかかっていない.30-06小銃弾薬に変更されているため、この不当な改造方法は実施過程で多くの製造方面の問題を起こし、その結果生産された18,000挺のショーシャ1918の大多数はチャンバーの長さが不正確でしかも工程的に低劣だった。アメリカの標準弾薬を発射するまずいショーシャ1918の異常に高い故障率もショーシャが悪名を背負うことになった主要な原因の1つである。」 続いて2枚目。「機関銃の機能は相当程度その機関部部品の設計が使用弾薬に適合するか否かによって決まる。フランスのショーシャはレベル小銃弾薬には適合できたが、アメリカ式弾薬に改造すると少なからぬ問題が発生した。画像はテーパーのきつい8mmレベル小銃弾薬である。」 続いて3枚目。「ショーシャM1918の構造図」 続いて4枚目。「ショーシャ1918のレシーバー右側の特写。マガジン、マガジン装着口、新たに配置されたフォアグリップに注意されたし。」)

最大の敵 ぬかるみの泥

ショーシャが初めて戦場に大量に投入、使用されたのは1916年夏、秋のソンム川戦役である。作戦中ショーシャ機関銃は一部から称賛されたが、2つの深刻な問題も暴露した。1つはこの銃が戦場の至る所にあるドロドロの泥に適応できないことで、もう1つはショーシャのマガジンが脆弱すぎることだった。銃本体やマガジンのたくさんの大きな開口部は、外部の砂や土、地面にたまった水を容易に内部に進入させ、こうしたものが銃本体の内部で混合して糊のようにねばねばになり、ショーシャの正常な作動に対し致命的な影響を与えた。ショーシャにキャンバス製の保護ジャケットをかぶせれば、ある程度この悪い影響を減少できたが、保護ジャケットはマガジンを覆うことはできず(マガジンは頻繁に交換する必要があるため)、外界の悪い影響を完全に消し去ることはできなかった。

ショーシャの射手たちは憤懣やるかたない様子で、支給される革製マガジンバッグはマガジンを有効に保護することが全くできないと恨み事を言った。彼らがつまづいて転ぶとマガジンはしょっちゅう圧迫されて壊れた。だが戦場ではつまづいて転ぶ、あるいは素早く伏せることは日常茶飯事だった。‥‥もし彼らがドイツ軍の弾の前に自分の命を失いたくなければの話である。しかもマガジンのZ字型折りたたみスプリングの強度も良好ではなく、フル装填状態では短時間で充分なテンションを喪失した。しかしこれらの問題はフランス軍上層部の充分な重視を引き起こさなかったようで、1918年初めになってフランス人はやっと真により信頼性の高いマガジン開発の対策を講じ始めた。だが終戦時になってもこうしたマガジンは完成できなかった。

ショーシャの面倒事はこれらいくつかに留まるには程遠く、この銃の設計はいくつかの故障が容易に発生することを決定付けた。破損したマガジンは給弾の故障をもたらし、環境の中で汚れた弾薬は正確にチャンバーに入れなくなり、ボルトも完全閉鎖できなくなった。銃の加熱、汚れ、火薬による汚れの堆積が深刻などの状況下では、バレルユニットのスチール製パイプ状保護ジャケット内での運動が影響を受け、自動作動を完成させられなくなった。

以上のこうした問題は、歴史上の1つの奇怪な現象を、ちょっと理解できるものにさせる。すなわちアメリカ軍部隊が実際に使用したショーシャの数量は当初装備が計画された数量のほとんど2倍だったという。よく言われる原因はアメリカの兵士たちがショーシャに故障が発生した時、あっさりとこれを投げ捨てたから、というものである。この表面的には簡単に見える解釈は、実は深い啓示をはらんでいる。想像して欲しい。弾片が飛び交い、爆発が絶えず、至る所がぬかるみという西部戦線の戦場において、完全武装の兵士たちはしばしば敵の火力に直面して各種の戦術的回避作業を行わねばならなかった。しかも彼らはさらに重量21ポンド(9.5kg)、製造コスト低廉なショーシャ機関銃を背負わねばならなかった。この時もしこの銃が突然射撃不能になり、分解して故障排除さえできなくなったら、最もよい選択はやはりこれを投げ捨てることである。大多数のアメリカ軍兵士が、自分の命は役に立たないフランスのがらくたよりずっと価値が高いと自分なりの判断をしたことは少しも不思議ではない。

最も説得力ある証拠はドイツ人から得られるかもしれない。彼らは鹵獲された戦利品のショーシャにほとんど一顧だにしなかった。ドイツ軍のマキシム機関銃手の訓練養成過程では、通常いつもイギリス軍のルイス機関銃の使用要領が含まれていたが、ドイツ軍がかつてショーシャ機関銃を組織的に使用したことがあるとのいかなる充分な証拠もない(頑住吉注:ドイツ軍は鹵獲兵器を広く使うことで有名であり、イギリス軍の菱形戦車も塗り替えて使っていました)。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「ソンム川戦役でイギリス軍インド騎兵部隊が携帯しやすいタイプのホチキス式機関銃を使用しているところ。1916年。当時インド騎兵部隊は中隊ごとに1挺のこのタイプのホチキス機関銃を装備していた。連隊ごとに12挺の装備だった。アメリカ軍はこの機関銃をベネット・メルシェM1909機関銃と呼んだ。」 同時期の軽機関銃ですが、直接関係ないですね)

機関銃分隊の組織

戦闘中の実践はすぐに、2人によるショーシャ機関銃チームは武器および弾薬を携帯している状況下では歩兵の進攻する足並みについて行き難いことを示した。フランス軍はこの問題を容認することはできなかった。進攻中に行進火力を提供することはまさに本来のこの銃の主要な使命だったからである。人手不足の問題を解決するため、フランス軍はまず1916年7月にショーシャ機関銃チームに1人弾薬手を増やし、さらに1917年10月には機関銃チームに1人の独立した指揮官を配備した。

1917年秋、フランス軍は基本歩兵単位に対し改組を行った。改組後、各歩兵中隊には12挺のショーシャが配備され、ショーシャの射手や弾薬手はライフルグレネード兵、手榴弾投擲手、小銃兵の支援が受けられるようになった。この編成が半個小隊規模に近い作戦小チームの主要な任務は、急速に浸透してきたドイツ軍MG08/15軽機関銃チームの殲滅だった(頑住吉注:軽機関銃と言っても水冷式ですし、重量もショーシャの2倍くらいで、後の基準ではちょっと軽機関銃とは言いにくいんですが)。この任務の執行時、ショーシャの4人による機関銃チームは密集した火力を用いて敵を制圧し、組織的、有効な抵抗を不能にさせた。また彼らを粉砕する任務は、射程がより長く、射角がより大きい3人によるライフルグレネードを装備したチームにも与えられた。必要な時、さらに機関銃チームは手榴弾や小銃を携帯した支援チームを配備され、彼らは同時により多くの弾薬の携帯を担当した。1918年の停戦時には、それぞれの標準的フランス軍歩兵小隊は3個戦闘小チームから構成され、各小チームは1個ショーシャ/小銃混合編成チームと1個グレネード/小銃混合編成チームから構成されていた。この歩兵戦術の進歩はすでにドイツおよびイギリスのレベルに相当していた。

初期生産型のショーシャの多くの問題、および基本的に不完全な設計が引き起こした深刻な批判と非難にもかかわらず、フランス人はこの銃に対し根本的な改良措置を取らなかった。フランス軍界には当時官僚的なやり方が横行していた。「これは我々が現在持っている最も良い軽機関銃である。もしより良いものを装備しなければならないとなると、ずっと多くの予算と時間を費やさねばならない。」というわけである。Gladiator社が手にした注文の数量はすでに155,000挺にまで増加していた。Gladiator社はすでに全力を出していたが、フランス軍の需要を満足させることは依然できなかった。彼らは戦闘中に損失したショーシャと、驚くべき数のマガジンを補う必要があっただけでなく、より多くのショーシャを装備してドイツ軍の軽機関銃チームに対抗する必要もあった。そこでフランスは他の1メーカーを生産に加入させることを決定した。1916年12月、フランス軍はSt.Chamondに所在する重火器工場であるForges et Acieries de la Marine a Homecourt社に別口で25,000挺のショーシャ1915を発注した。同社が製造したショーシャ1915はレシーバー左側に目立つ六角形のマークとSIDARMEの文字があった。結果として同社の出荷した初の生産型ショーシャ1915は認可テスト中、全自動持続射撃の性能が明らかにGladiator社の製品である比較サンプルより優れていた。1917年、フランスの軽、重機関銃の生産に対する需要はさらに激増した。何故ならフランス人は参戦のためフランスに到着したアメリカの遠征軍にこの種の武器が非常に欠乏していることを知っていたからである。

(頑住吉注:原ページのここにある画像のキャプションです。「北京革命軍事博物館に収蔵されているフランス製ショーシャM1915機関銃。この銃の右側のバイポッドがたたまれ、グリップ上方の柱状突起にひっかけられているのが分かる。」 で、これマガジンキャッチなんですよね)


 コメントは後篇でまとめて行いますが、もうかなりヒントが出ているので、「思いがけない新説」とは一体何か考えてみてください。













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